外伝 曹孟徳引狼入室 高孝父迎刃而上 一段
許昌の空は曇っていた。
驃騎将軍・高順が并州から十万の兵を率いて許昌へ向かっている。その報がもたらされた時、丞相府の書斎で曹操はしばらく黙って窓の外を見つめていた。傍らには荀彧と程昱が控えている。冬の寒さが窓の外に満ち、室内の炉の火だけがかすかな温もりを保っていた。
「十万、か」
曹操は呟いた。十万の兵を率いて許昌に入る。それはつまり、いつでも許昌を占拠できる兵力を率いて来るということだ。高順がその気になれば、天子も丞相も、ひとたまりもあるまい。曹操はそのことを十分に承知していた。
「丞相、驃騎将軍がなぜこの申し出を受けたのか、いまだに腑に落ちませぬ」
程昱が口を開いた。
「奴は并州に籠もっていれば安全だ。わざわざ危険な許昌に来る理由がない。何か企みがあるのでは?」
「フッ、企みはあるだろうな…」
曹操は窓から離れ、椅子に腰を下ろした。
「だが、高順が企むのはいつものことだ。問題は、奴が何を企んでいるかではない。奴がここに来ることで、我々にどんな利があるかだ」
「利、でございますか」
「ああ。高順が許昌にいる間、并州は動かせない。十万の精鋭も、高順がここにいる限りは我々を攻めることはできぬ。なぜなら高順自身が人質だからだ。奴はそれを承知で、あえて来た。自分の身を差し出して、我々との衝突を避けるつもりなのだろう」
「しかし、十万の兵を許昌に入れれば、それだけで朝廷は高順の威圧下に置かれます」
荀彧が静かに指摘した。
「天子は、高順が曹陽で李傕の追撃から救い出した恩義を感じておられる。伏完や董承らは高順を利用して丞相を排斥しようと考えるかもしれぬ。高順を許昌に留めることは、丞相にとっても両刃の剣です」
「わかっている。だが高順とは、曹陽で天子を救出し、洛陽の廃墟で共に酒を酌み交わした仲だ。あの時、奴は三万の軍勢で李傕を粉砕し、自ら殿を務めて天子を守り抜いた。驃騎将軍と執金吾の官職は、天子が自ら奴に授けたものだ。奴が洛陽に着いた時には、私は既に高順は天子のそばにいた。私の援軍など、あの男には必要なかったのだ。それに、今回は天子の勅命という形を取った。高順も勅命を無視することはできまい」
「勅命とはいえ、高順が素直に応じるとは思えませぬが」
「応じるさ。高順は天子を守ることを自らの大義としている。表向きはな。勅命を拒めば、その大義が揺らぐ。奴はその程度の計算は当然やってくる」
曹操は立ち上がり、佩剣を手に取った。
「明日、高順が許昌に着く。手筈は整えてあるな」
并州・晋陽。驃騎将軍府の私室に、高順は董昭を招き入れた。
董昭は高順が最も信頼する腹心の一人であり、并州の行政と外交の要として長年、高順を支えてきた男である。曹操の幕下にあって荀彧が政務を総覧するように、董昭は高順の下で戸籍から外交まで、あらゆる政務を取り仕切っていた。冷静沈着で先見の明に優れ、時に高順すら舌を巻くほど先々を見通すことから、并州の官僚たちからは「先知」の異名を取るほどだった。
その董昭が、天子の勅命を携えて私室を訪れたのである。勅命の内容はすでに知らされていた。驃騎将軍・高順に許昌への参内を命じ、しばらくの間、朝廷にあって職務を果たせというものだ。名目上の発令者は天子だが、実質的には曹操の意向であることは誰の目にも明らかだった。
高順は董昭に席を勧め、自ら茶を点てた。董昭は茶碗を受け取りながら、静かに口を開いた。
「勅命の内容はご確認いただけましたか。曹操はあなたを許昌に縛り付けたいのです。幽州を手に入れた我々の力を、曹操は恐れている。そこで天子の勅命という大義名分を用い、あなたを召喚した」
「だろうな。曹操らしいやり方だ。天子の権威を最大限に利用しつつ、裏では自分の足場を固める。俺を許昌に留めている間に、奴は自分の敵を討つつもりだろう」
「はい。間者の報告でも、曹操はすでに宛城への出陣準備を進めています。あなたが許昌に到着次第、曹操は出陣する手筈です。表向きは驃騎将軍として朝廷の職務を果たせという名目ですが、裏の狙いは明白。あなたを人質として許昌に留め、并州の動きを封じること。そしてその間に、曹操は自らの地盤を固める」
高順は茶を一口啜り、静かに卓の上を見つめた。
「俺が勅命を拒めば、曹操は『高順は天子の命に背く逆臣』と喧伝するだろう。そうなれば、洛陽で天子を守った大義が揺らぐ。并州に集まった名士や官僚たちも動揺する。曹操はそれを狙っている。俺に拒否権はない」
「しかし、あなたが許昌に行けば、并州は頭を失います。十万の兵を連れて行くとはいえ、あなた自身が人質となれば、こちらの動きは大きく制限される。長期間、并州を空けることの危険性は計り知れません」
「その危険を承知で、俺は行く。曹操は俺と袁紹を互いに牽制させたいのだろう。ならば、こちらも曹操を利用する。俺が許昌にいる間、曹操は并州に手を出せない。俺という人質を殺せば、并州は全面戦争に突入するからな。それは曹操にとっても避けたい事態だ。つまり、俺が許昌にいることは、并州の安全を保障することでもある」
董昭はしばらく考え込み、それから深く頷いた。
「理屈はわかります。しかし、あなたが留守の間、并州の政務と軍務をどうされますか」
「それをお前に頼みたい」
高順は真っ直ぐに董昭の目を見つめた。
「俺が許昌にいる間、并州の政務全般をお前に託す。州牧令の発令権、屯田の管理、工房の運営、商会の監督、学堂の運営。これらすべての決裁権を、一時的にお前に委譲する。袁遺と繆尚にはお前の補佐を命じる。民政の細部はあの二人に任せれば問題ない」
「軍務は」
「軍務は徐栄に託す。将軍令の発令権と全軍の指揮権は徐栄が代行しろ。張遼には引き続き北境の防衛を任せる。郝萌には幽州方面の備えを強化させろ。お前は徐栄と緊密に連携し、軍政と民政の調整を怠るな」
「承知いたしました。ですが、公が許昌に行けば、曹操の監視下に置かれることになります。十万の兵を連れて行くとはいえ、曹操の本拠地では我々の武力も限定的です。曹操が本気であなたを殺そうとすれば、防ぎきれない可能性もある」
「曹操に俺を殺せんよ。奴にとって俺は、袁紹を抑えるための楔だからだ。俺を殺せば、并州が袁紹と手を結ぶ可能性がある。それは曹操にとって最悪の事態だ。だから奴は俺を客人として遇し、表面上は友好的に振る舞う。実際、洛陽で共に天子を救った縁もある。奴とは奇妙な信頼関係が成立している」
「信頼、ですか。曹操とあなたの間に」
「信頼というより、互いの利害を正確に理解し合っているという意味だ。奴は俺を利用し、俺は奴を利用する。その関係は、裏切りより安定している」
董昭は少しだけ口元を緩めた。それは董昭が稀に見せる、安堵の表情だった。
「わかりました。公がそう判断されたのであれば、私は并州を守り抜きます。どうかご無事で」
「ああ。お前に并州を託せば安心だ。それと、もう一つ頼みがある」
「何でございましょう」
「公孫鍛に密命を与える。彼を先行して宛城に派遣し、ある工作を行わせる。詳細は公孫鍛に直接伝えるが、お前は彼が必要とする物資と人員を手配してほしい。これは極秘任務だ。記録には一切残すな」
董昭は一瞬だけ眉を動かしたが、それ以上は詮索しなかった。彼は主君が何か重大な布石を打とうとしていることを察しつつも、それを口にすることはなかった。
「承知いたしました。公孫鍛には、必要なものをすべて与えましょう。して、公はいつ晋陽を発たれますか」
「明日の朝だ。十万の軍勢を率いての行軍だから、許昌までは十日はかかる。曹操はすでに出迎えの準備を整えているだろう。奴のことだ、物々しい将達をずらりと並べて、俺を威圧するつもりだろうな」
「威圧だけで済めばいいのですが」
董昭は茶を飲み干し、立ち上がった。
「公。公は并州の要です。どうか、軽挙はなさらぬよう」
「わかっている。俺は死にたくないからな。そのために、あらゆる手を打つ」
高順も立ち上がり、佩剣を手に取った。黒鉄の重槍はすでに荷造りを終え、驍風の鞍には旅支度が整えられている。
翌朝、高順は十万の陥陣営を率いて晋陽を発った。
許昌の城門に、黒い軍団が現れたのは、それから十日後の午後のことだった。
陥陣営十万の兵は、すべてが黒鉄の甲冑に身を包み、整然と隊列を組んで行進してくる。先頭には高順直属の六将、呉資、章誑、汎嶷、趙庶、高雅、張弘が騎馬で進み、その中央に高順自身が黒馬に跨がっていた。傍らには近衛隊長の張五が控え、常に高順の三歩後方を歩む。
十万の兵が一糸乱れぬ足並みで城門をくぐる光景は、許昌の民にとって恐怖と驚嘆の的だった。彼らが足を踏み出すたびに地面が微かに震え、黒鉄の甲冑が陽光を反射して鈍く輝く。その威容に、沿道の民は息を呑み、ある者は畏れ、ある者はひそかに手を合わせた。この軍勢が敵でなくてよかった、と思う者も少なくなかった。
城門の内側では、曹操が自ら出迎えていた。傍らには荀彧と程昱、後方には夏侯惇と曹仁が武装したまま立っている。曹操は黒馬に跨がる高順を見上げると、軽く手を挙げて声をかけた。
「久しいな、高兄。相変わらず物々しい行列だ。曹陽で三万を率いて李傕を蹴散らした時から、貴公の軍はまるで黒い涛波
だ。今回は十万か。ずいぶんと数を増やしたものだ」
「曹公も相変わらずだな。洛陽の廃墟で酒を飲んだ時と、ちっとも変わらん顔だ。曹陽の戦いの後、遅れて洛陽に着いた時は、天子のそばに公がいた。あの時、公は悔しそうな顔をしていたな」
高順は馬から降り、曹操の前に立った。二人の視線が交差する。かつて曹陽で天子を救出し、洛陽の廃墟で酒を酌み交わした二人は、今は天下を二分する勢力の主として再会した。
「ああ、悔しかったとも。天子の涙も信頼も、すべてお前に持っていかれたからな。あれは俺の完敗だった。だが、あの夜お前は言ったな。『政治は曹公に任せる』と。あの言葉があったから、俺は今こうして丞相をやっている」
「その丞相が、よりによって俺を驃騎将軍として許昌に縛り付けようとはな。人質にするつもりか」
曹操は笑みを浮かべながら高順の肩を軽く叩いた。
「人質とは人聞きが悪い。客人だ。せっかく来たんだ、ゆっくりしていけ」
「客人にしては、随分と物々しい出迎えだな。配下の将達まで控えているではないか」
「十万の軍勢を連れて来る客人に、手ぶらで出迎える訳にもいくまい?」
曹操と高順は顔を見合わせ、同時に声を上げて笑った。そのやり取りを、荀彧と程昱は驚きの表情で見守っている。曹操がここまで砕けた態度を見せる相手は、夏侯惇や曹仁といった親族か、荀彧のような長年の腹心だけだった。しかも高順の言葉には敬語の欠片もない。曹操に対してここまで対等に振る舞う男を、彼らは見たことがなかった。
「して、天子はお元気か。洛陽でお会いした時は、まだあどけなさの残る少年だった。今はさぞかし立派になられただろう」
「それがな、最近は俺に象棋を教えろとうるさくてな。長安でお前に仕込まれたそうだな、あの遊び。おかげで俺は毎度毎度、天子に駒を全部取られる始末だ。俺の顔を見るたびに『丞相、今日は象棋を』と来る」
「それはお気の毒に。陛下は聡い。長安では俺もよく負かされた。象棋を教えたのは俺だが、陛下が強くなりすぎて手がつけられなくなったのも事実だ」
「ならば今度、お前が直々に相手をしてやれ。俺はもう懲りた」
二人は再び笑みを交わし、城門をくぐって皇居への道を歩き始めた。その後ろ姿を見ながら、荀彧は程昱に小声で囁いた。
「丞相があれほど心を許す相手は、私が知る限り他にいない」
「ああ。高順という男、ただの武将ではない。天子も丞相も、あの男の前では素の顔を見せる。それは武器にもなれば、弱点にもなる」
程昱の目が、細く鋭く光った。




