第九回 高孝父整軍粛武 曹孟徳征戦四方 四段
夕闇が晋陽の街を包み込む頃、高順は政庁へと戻った。
門をくぐると、董媛が待っていた。彼女はいつものように腕を組んで高順を出迎えたが、今日はどこか誇らしげな、それでいて少し寂しげな微笑みを浮かべている。彼女の背後では、侍女たちが晩餐の準備に追われていた。厨からは粟の粥と塩漬けの肉を煮込んだ鍋の匂いが漂ってくる。
「おかえりなさい。今日は朝からずっと外だったのね。閲兵に屯田に工房に学堂、全部回ったんですって?」
「ああ。やるべきことは多い」
高順は佩剣を外し、張五に手渡した。張五は無言で一礼し、近衛の控え室へと下がっていく。
「そう。でも、あなたがそうやって走り回っているから、并州は少しずつ良くなっているのね。市場に行けばみんなが将軍様のおかげだって言ってるわ。商人も農民も、昔は賊だった人たちも、みんなあなたに感謝してる」
董媛は高順の甲冑に手を伸ばし、冷たい鉄の表面をそっと撫でた。歩人甲の小札は冬の寒さで冷え切っており、指先に氷のような感触が伝わる。彼女の父は董卓。天下の大悪人と呼ばれ、洛陽を焼き、帝を廃し、最後は養子の呂布に裏切られて殺された。その娘である董媛は、父の罪を知りながら、今は高順の妻として并州に生きている。彼女が晋陽に来たばかりの頃は、董卓の娘というだけで石を投げる者もいた。しかし今は違う。彼女は并州の民から「将軍の妻」として受け入れられている。
「媛。寒いだろう。中に入れ」
「ええ。でも、あなたこそ冷え切ってるじゃない。甲冑なんか着て、一日中外を歩き回って。体を壊したらどうするの」
董媛は高順の手を取った。彼女の手は温かかった。高順はその温もりに、少しだけ肩の力を抜いた。
「私は、昔から寒さには強い」
「強がりね。さあ、夕餉の準備ができてるわ。今日は昭姫も一緒よ。珍しく三人で食べられるんだから」
董媛は高順の手を引いて、私室へと向かった。高順はされるがままに彼女に従う。政庁の廊下には、夜警の兵士たちが松明を掲げて歩いている。その松明の灯りが、二人の影を壁に長く伸ばしていた。
私室には、すでに蔡昭姫が控えていた。彼女は卓の上に料理を並べ終えたところで、高順の姿を見ると静かに微笑んだ。卓の上には粟の粥、塩漬けの豚肉を薄切りにしたもの、冬野菜の漬物、そして湯気を立てる湯が並んでいる。決して贅沢な献立ではない。しかし、質の良い塩で味付けされた豚肉は脂がのっており、漬物は酸味がほどよく、粥は粟の粒が立って香ばしい。
「おかえりなさいませ。今日は長い一日でございましたね。張五殿から、閲兵の後も屯田と工房と学堂と医療寮をすべて回られたと伺いました」
「ああ。報告書だけでは見えないものがある。自分の目で確かめる必要があった。昭姫、学堂の学生たちはよく学んでいる。お前の指導の賜物だ」
「もったいないお言葉です。私はただ、あなたの志を形にしているに過ぎません」
昭姫が高順の椀に粥を注ぐ。湯気が立ち上り、粟の甘い香りが室内に広がった。
董媛は自分の椀を手に取り、粥を一口すすった。それから何かを思い出したように顔を上げ、少し改まった口調で言った。
「あなた、今日はなんだか、少しだけ表情が柔らかいわね」
「そうか」
「ええ。いつもはもっと、こう、眉間に皺を寄せて、何かと戦っているような顔をしているのに。さっき城門から入ってきた時は、少しだけ満足そうだった」
「満足そう、か」
高順は粥を口に運びながら、自分の感情を検分した。満足かどうかはわからない。しかし、屯田の水路に手を浸した時の冷たい水の感触や、工房で張伯が見せた笑顔や、医療寮で兵士が見せた涙は、確かに彼の心のどこかに小さな温もりを残していた。
「媛。お前は、今の暮らしに満足しているか」
董媛は少し驚いた顔をし、それから静かに笑った。その笑みには、かつての傲慢な董卓の娘としての面影はなく、ひとりの妻としての穏やかさがあった。
「満足よ。だって、ここには戦火がないもの。民が飢えずに暮らせて、子供たちが学堂で学べて、商人が安心して商いできる。父が夢見た世の中は、きっとこんな風だったのかもしれないわ。ただ、父はその夢を間違った方法で追いかけてしまった。武力と恐怖で天下を取ろうとして、結局は何も残せなかった。でもあなたは違う。あなたは民の心を掴もうとしている」
「私はただ、生き残りたいだけだ」
「それでいいのよ。生き残るために民を大事にする。それで民が救われるなら、動機なんてどうでもいいわ。あなたのやっていることは、誰よりも正しい」
高順は答えず、董媛の肩を軽く抱いた。彼女の言う通りかもしれない。自分の動機が利己的な生存本能に過ぎなくても、結果として民が救われるなら、それは正しいことなのかもしれない。少なくとも、董媛はそう信じている。昭姫もそう信じている。そして、それが彼女たちの救いになっているのなら、高順はその信頼を裏切るつもりはなかった。
夕餉を終えた董媛が「今日は疲れたから先に休むわね」と自室に下がると、私室には高順と昭姫が残された。
昭姫は茶を淹れながら、学堂の報告を続けた。
「将軍、今日の官吏登用試験の結果について、もう少し詳しくお伝えしたいことがございます」
「何か問題があったか」
「問題というほどのことでは。ただ、合格者四十八名のうち、女性が二名含まれております。いずれも文科の受験者で、算術と法律の成績は男性にまったく引けを取りません。しかし、役所に配属するとなると、相応の反発が予想されます」
「反発は想定内だ。能力がある者を性別で排除する理由はない。役所に配属しろ。問題が起きたら、私が直接話をつける」
昭姫は深く一礼した。その顔には、安堵と感謝が浮かんでいる。
「ありがとうございます。実は、その二人のうち一人は、かつて長安で私が教えたことのある娘でして。董卓の乱で家族を失い、ひとり并州まで流れてきたのです。学堂で学び直し、こうして官吏への道を拓いた。将軍がお作りになったこの制度がなければ、彼女の人生はまったく違うものになっていたでしょう」
「制度は器に過ぎない。器を活かすのも殺すのも、結局は人だ。昭姫、お前が彼女を教え導いたからこそ、彼女は合格した。誇りを持て」
「将軍」
昭姫はしばらく沈黙し、それから静かに口を開いた。
「将軍。私は、あなたがご自分で思っているよりも、ずっと人を救っていると思います。董媛様も、学堂の学生たちも、医療寮の兵士たちも、屯田の農民たちも。みな、あなたが作ったこの并州という国で、新たな人生を生き始めている。動機が何であれ、結果として多くの人が救われている。それが答えではないでしょうか」
高順は茶を一口啜り、しばらく考え込んだ。蝋燭の灯りが揺れ、昭姫の横顔を柔らかく照らしている。
「私は、董卓の共犯者だ」
高順は静かに言った。
「洛陽が焼けた時、私は董卓の配下として動いた。直接、手を下したわけではない。だが、董卓の威を借りてこの力を手に入れた。その罪は消えない。今、こうして并州で民を養い、法を定め、国を築いているのは、罪滅ぼしなどではない。ただ生き残りたいからだ。私は、自分のためにやっている」
「将軍」
昭姫は高順の手に、そっと自分の手を重ねた。彼女の手は、冷えた鉄に触れていた董媛の手よりも、さらに温かかった。
「罪滅ぼしかどうかは、私にはわかりません。ただ、あなたが洛陽で何をしたとしても、今、あなたが并州でしていることは確かに民を救っています。それで十分です。私は、あなたというお方にお仕えできて、本当に幸せです」
高順は答えず、窓の外を見た。夜風が白楊の葉を揺らし、月明かりが雲の切れ間から差し込んでいる。晋陽の街には、今日もかまどの煙が立ち上り、市場では明日の準備をする商人たちの声が聞こえ始めている。学堂の鐘が鳴り、工房の高炉からは煙が上がり、屯田の兵士たちが農具を手に畑へと向かう。
この街には、秩序がある。高順が心血を注いで築き上げた秩序が、確かに息づいている。
彼は昭姫の手を握り返し、それから静かに立ち上がった。
「私は、まだ執務がある。先に休んでいてくれ」
「あまり、ご無理をなさいませんよう」
昭姫は一礼し、私室を辞した。その後ろ姿を見送ってから、高順は執務室へと向かった。
執務室に戻った高順は、蝋燭に火を灯し、机の上に積み上げられた報告書と決裁待ちの文書に向き合った。州牧令の草案、将軍令の草案、太守令の草案。それぞれが別々の系統で処理され、最終的に彼の決裁を待っている。
まずは州牧令から手をつける。屯田の拡大計画、灌漑網の延伸、塩田の増設、工房の建設、学堂の分校設立、医療寮の増強。すべてが同時並行で進められねばならない。高順は時折、冷めた茶を啜りながら、淡々と決裁を続けた。
次に将軍令である。来年度の徴兵計画、予備役の冬季訓練、北境の防衛強化、陥陣営への陌刀配備の前倒し、各軍の合同演習の日程。高順は一枚一枚の文書に朱筆を入れ、必要な修正を指示していく。彼は几帳面な性格だった。一文の曖昧さも許さず、数字の誤りは即座に見抜いた。それは彼が現代で培った官僚としての習性であり、同時に、乱世を生き抜くための武器でもあった。
三つ目の文書の束は、太守令に関するものだった。代郡の劉和から届いた報告書が、他の郡からのものと一緒にまとめられている。
高順は手を止め、劉和からの報告書を手に取った。代郡の統治が始まってまだ日は浅いが、税の減免と治安の回復は着実に進んでいるという。劉虞の息子としての名望もあって、代郡の民は并州の統治を歓迎している。公孫瓚の圧政に苦しめられてきた者たちにとって、法と秩序に基づく統治は、何よりも待ち望んでいたものだった。
劉和は、こうも書いている。「代郡の民は、并州の州牧令を、まるで日照りの後の慈雨のように受け止めております。税が減り、道が整備され、市場に塩が溢れる。民の顔に笑みが戻るのを、私は毎日目の当たりにしております。どうかこの統治を、末永く続けさせてください」
高順は報告書を置き、窓の外を見た。夜空には満天の星が輝き、月が白く耀いている。彼はしばらく星を眺め、それから再び机に向かった。
その後も、高順は黙々と決裁を続けた。屯田の灌漑網をどこまで延伸するか、工房の増設に必要な資金をどの商会から調達するか、予備役の冬季訓練に必要な糧秣の計算、北境の烽火台の補修計画。彼は次々と判断を下していった。彼の頭の中では、常に複数の計画が同時進行している。優先順位をつけ、資源を配分し、期限を定める。それは彼が現代で培った行政官としての手腕だった。
窓の外が白み始めた頃、高順は最後の竹簡を置き、深く息を吐いた。
「今日も、生き延びた」
それは彼の、毎朝の決まり文句だった。一日を生き延びる。それを積み重ねて、一年を生き延び、三年を生き延びる。そうやって、彼はこの乱世を生き抜いてきた。これからも、そうやって生き抜いていくつもりだった。
高順は立ち上がり、窓を開けた。冷たい朝の空気が流れ込む。晋陽の街には、今日もかまどの煙が立ち上り、市場の準備をする商人たちの声が聞こえ始めている。学堂の鐘が鳴り、工房の高炉からは煙が上がり、屯田の兵士たちが農具を手に畑へと向かう。
この街には、秩序がある。高順が心血を注いで築き上げた秩序が、確かに息づいている。
ふと、高順は机の隅に置かれた一枚の小さな木札を手に取った。五色の木札のうち、青い札である。青は農業。彼はその札を指でなぞりながら、今日視察した屯田の光景を思い出した。水路に手を浸した時の冷たい感触。雪の下で春を待つ麦の芽。繆尚の誇らしげな報告。
高順は札を元の位置に戻し、佩剣を手に取った。今日もまた、やるべきことは山積している。彼は執務室を出て、次の現場へと向かった。
彼の胸中には、洛陽の焼け跡で聞いた民の怨嗟が、まだ消えずに残っている。董卓の威を借り、民の犠牲の上に立ってこの力を手に入れた。その共犯者としての自覚が、彼をより冷徹に、より慎重にさせていた。
「私は、董卓のように死ぬわけにはいかない。ただ死にたくない。そのために、やれることはすべてやる」
高順は呟き、廊下を歩き出した。朝日が差し込む廊下には、すでに董昭や袁遺といった官僚たちの姿がある。彼らは高順の姿を見ると、一斉に頭を下げた。高順は無言で頷き、今日の最初の執務へと向かう。




