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外伝 児郎嫁禍棄紅顔 高順大罵王司徒 四段

未央宮の長い石段を、高順は一歩ずつ踏みしめるように登っていた。彼の足音だけが、広大な宮殿の静寂を破る。董卓が倒れてから数日、長安の街は表面上の平穏を取り戻していたが、宮中にはまだ混乱の余波が残っていた。宦官たちは怯えたように廊下の隅を走り、女官たちはひそひそと噂話を交わす。誰もが次の嵐を予感しているかのようだった。


高順の胸中にも、複雑な思いが渦巻いていた。董卓を討つという大義を成し遂げた達成感は、すでに薄れている。今あるのは、これから始まるであろう新たな混乱への警戒と、そして何より、十一歳の少年皇帝に対する個人的な想いだった。


董卓の専横が最も激しかった時期、高順は幾度となく宮中に出入りしていた。表向きは董卓の女婿としての職務だったが、実際には高順は密かに献帝を守ろうとしていた。董卓が無理難題を押し付けようとした時、高順がさりげなく取りなしたことも一度や二度ではない。幼い皇帝は、そのことをよく知っていた。だからこそ、劉協にとって高順は、乱世の中でただ一人、心から信頼できる大人だったのである。


「上将軍、高順様、ご参内でございます」


宦官の声が、高い天井に反響する。未央宮の正殿は、董卓が死んだ今もなお、重苦しい空気に包まれていた。王允はすでに実権を握り、司徒として朝廷を取り仕切っていたが、その正義は時に苛烈を極めた。董卓に仕えていたというだけで処罰される者も少なくなく、宮中の空気は解放感よりも恐怖に近いものだった。


玉座の上で、劉協が小さく身じろぎした。十一歳の少年皇帝は、大人たちの都合で洛陽から長安へと連れてこられ、董卓という暴君に怯え、そして今度は王允という正義の権化に怯える日々を送っていた。その顔には、幼さと同時に、過酷な運命に揉まれた者だけが持つ諦念のようなものが浮かんでいる。


「高順、そなたに会いたかった」


劉協が言った。その声には、皇帝としての威厳よりも、一人の少年としての素直な感情が滲んでいた。高順は深く平伏し、しばし言葉を失った。この少年に、自分は何を伝えられるだろうか。守ると約束することはできない。共に行くこともできない。ただ別れを告げるために来たのだという事実が、高順の胸を締め付けた。


「陛下、ご無事で何よりにございます。このたびの変事、さぞかしお心を痛められたことと存じます」


「董卓は恐ろしい男だった。だが……王允も恐ろしい」


劉協の言葉に、高順は顔を上げた。少年の瞳には、大人に対する深い洞察と警戒が宿っていた。董卓の暴虐を間近で見てきたからこそ、人間の本質を見抜く力が、この幼い皇帝には備わってしまっているのだった。


「王司徒は漢室の忠臣にございます。しかし、陛下のお心を推し量るという点では、いささか剛直に過ぎるやもしれません」


「そうだ。王允はいつも正しい。正しすぎるのだ。正しすぎるがゆえに、誰も逆らえない」


十一歳の口から発せられるとは思えぬ深い洞察だった。高順は改めて、この少年皇帝の聡明さに胸を打たれた。そして同時に、その聡明さが彼を苦しめていることも理解した。愚かであれば、もっと楽に生きられただろうに。


「高順、行ってしまうのか」


劉協が寂しげに問いかける。十一歳の声は宮殿の高い天井に吸い込まれて消えた。玉座の上で身を乗り出し、高順の顔をじっと見つめている。その瞳には董卓という暴君から解放された安堵と、新たな孤独に怯える少年の心細さが混ざっていた。高順という存在が、この少年にとってどれほどの支えだったのか、その思いの丈がひしひしと伝わってくる。


高順は深く平伏した。床の冷たさが額に伝わる。この冷たさこそが、権力の世界の現実だった。温かい人間関係など、ここでは許されない。ましてや自分は董卓の女婿。どんなに献帝を思っていても、その立場が枷となる日が必ず来る。ならば今、潔く身を引くべきなのだ。


「はっ。臣の本分は辺境の守りにございます。并州にて力を蓄え、必ずや陛下をお守りする盾となりましょう」


「待っておるぞ。そなたが作った新しい天下を見られる日を」


劉協の声には十一歳とは思えぬ諦念と、それでも消えぬ微かな希望が混ざっていた。董卓に虐げられ、大人たちの都合で洛陽から長安に連れてこられ、今度は王允の正義に怯える日々。そんな中で高順は数少ない心を許せる存在だった。その高順が去ってしまう。劉協は口には出さずとも、深く寂しがっていた。しかし、皇帝としての立場が、それ以上の言葉を許さなかった。引き留めることも、一緒に行きたいと言うこともできない。ただ「待っている」と伝えることだけが、彼に許された精一杯の本音だった。


「御意」


高順は深く叩頭し、立ち上がった。必ず戻ってくる。そう約束したかった。しかしできなかった。乱世の中で未来の約束ほど虚しいものはない。だから高順はただ、盾となると言った。曖昧な約束だったが、高順にとっては精一杯の誠意だった。それは劉協にも通じただろうか。皇帝は何も言わず、ただ小さく頷いた。その仕草には、皇帝としての威厳を取り繕おうとする懸命さが滲んでいた。


高順は後ろ向きに数歩下がり、再び深く礼をしてから、未央宮を辞した。彼の足音が遠ざかるまで、劉協は玉座の上で身動き一つしなかったという。後に女官から聞いた話だが、高順が完全に姿を消した後、少年皇帝は玉座の肘掛けに顔を伏せて、しばらく泣いていたそうだ。それは皇帝としてではなく、ただ一人の少年としての涙だった。


宮門を出た高順の足は、自然と早まっていた。後ろ髪を引かれる思いは確かにあったが、今は感傷に浸っている時ではない。やるべきことが山積していた。彼は足を早めて自らの幕府へと向かった。


幕府への道すがら、高順は長安の街並みを眺めた。董卓の死からまだ日が浅いというのに、市井の人々の顔にはすでに日常が戻りつつあった。物を売る者、買う者、子供を追いかける母親。彼らにとって、権力者が誰であろうと、生きていくことに変わりはない。高順はその逞しさに、むしろ救われる思いがした。自分が守るべきものは、宮中の権力闘争ではなく、こうした市井の暮らしなのだと再確認する。


幕府の広間に足を踏み入れると、すでに四つの影が待っていた。左将軍に任じられた徐栄は、壁に掛けられた地図を静かに見つめている。遼東出身のこの将は、董卓麾下では数少ない実戦派の指揮官であり、かつて曹操を汴水で破った実績を持つ。その落ち着いた佇まいには、歴戦の将だけが持つ風格があった。


偏将軍の樊稠は、卓の上に出された茶には手をつけず、腕を組んで目を閉じている。涼州出身のこの将は、董卓の死後、難しい立場に立たされていた。同じ涼州の将兵たちをどう納得させるか、その重責が彼の肩にのしかかっていた。


司隷校尉の段煨は、几帳面な性格を反映してか、手元の文書に何度も目を通している。彼は董卓の一族を郿城で滅ぼした後、長安の治安を預かることになった男である。その冷静沈着な性格は、この混乱期において貴重な存在だった。


そして最後に、不機嫌そうに壁にもたれかかる呂布。彼はこの日、王允から右将軍の位を授けられていたが、その心は晴れていなかった。高順が去ることへの不満は、顔を見れば明らかだった。彼の周りだけ空気が重く、誰も近づこうとしない。その孤立した姿に、高順は複雑な思いを抱いた。


「待たせたな」


高順が広間に入ると、全員が居住まいを正した。呂布だけは相変わらず壁にもたれたままだったが、その目だけは高順をじっと見つめている。


「集まってもらったのは他でもない。涼州の抑えについてだ」


高順は卓上に地図を広げた。それは彼が自ら作成した詳細な地図で、長安を中心に、西に郿塢、北に并州、東に洛陽が記されている。さらに細かく川の流れや山の位置、街道の分岐点まで書き込まれており、高順の几帳面な性格がよく表れていた。


「大赦は出た。だが、李傕、郭汜、牛輔が素直に従うとは限らん。もし彼らが牙を剥けば、長安は三日も持たずに陥落する」


高順の言葉に、徐栄が深く頷いた。彼は董卓の下で数々の戦いを経験しており、涼州兵の強さを誰よりもよく知っていた。


「確かに、涼州兵は精強です。董卓が死んだとはいえ、その数と質は依然として脅威です。長安の守備だけでは、正面から当たるのは難しいでしょう」


「だからこそ、だ。俺たちは正面から当たるのではなく、抑止力として機能しなければならない」


高順は地図の上で長安を中心に円を描いた。


「長安を中心に、三重の防衛線を構築する。外周を徐将軍、内側を段校尉、そして中央に呂将軍。これで涼州の動きを封じる」


「だから俺にそれを防げと」


呂布が不機嫌そうに言った。彼はこの日、王允から右将軍の位を授けられていたが、その心は晴れていなかった。高順が去ることへの不満は、顔を見れば明らかだった。張遼も魏越も成廉も、みな高順に従って并州に居る。自分だけが長安に残される。それは高順の指示だったが、呂布にとっては置き去りにされたも同然だった。戦場で共に駆けた仲間たちが、自分を置いて遠くへ行ってしまう。その寂しさと怒りが、呂布の胸の中で渦巻いていた。


「左様。呂将軍、将軍の武力こそが最大の抑止力だ。天下の飛将軍がこの長安にいる限り、涼州の連中も軽々しくは動けまい」


高順は真っ直ぐに呂布を見た。この男の気性の激しさはよく知っている。だからこそ、単なる命令ではなく、彼の誇りに訴えかける必要があった。


「奉先、お前は天下無双の将だ。それは誰もが認めている。だが、本当の強さとは、戦場で敵を倒すことだけではない。ここに留まり、動かずに敵を抑え込むこと。それもまた、お前にしかできない戦いなのだ」


呂布はしばらく黙っていた。その顔には様々な感情が去来しているのが見て取れた。怒り、寂しさ、誇り、そして高順に対する複雑な思い。やがて彼は鼻を鳴らしたが、その響きには先ほどまでの不機嫌さは薄れていた。


「わかったよ。ここに残ればいいんだろう。だがな、高順。お前は必ず生きて并州に行け。そして強くなれ。いつかまた、共に戦う日のために」


「約束しよう」


高順は静かに頷いた。それは彼がこの日、初めて口にした約束だった。献帝にはできなかった約束を、呂布にはできた。なぜなら呂布は、乱世を共に生き抜く戦友だからだ。約束が果たせないかもしれないという不安よりも、約束を交わすことで生まれる絆の方が、彼らにとっては重要だった。


「では、わしも動こうかのぅ」


徐栄が地図を指さしながら言った。彼の指は長安の西側、郿塢に通じる街道を示している。


「特にこの街道沿いに防塁を築く。涼州兵が長安に向かうなら、必ずこの道を通る。ここで時間を稼げば、城内の準備も整えられようぞ」


「それがいい。将軍の防衛戦の手腕は、汴水の戦いで証明されている。曹操を破った時のような堅陣を、もう一度見せてくれ」


高順の言葉に、徐栄は力強く頷いた。彼は董卓麾下では数少ない、防衛戦を得意とする将だった。攻めの呂布、守りの徐栄。この二人が長安にいることが、高順の戦略の核心だった。


「樊将軍、貴殿はどうする」


樊稠は涼州出身の将だが、董卓の死後は王允に従っていた。高順はその立場を利用しようと考えていた。涼州兵をまとめるには、同じ涼州出身者が必要だ。しかしそれは、樊稠にとって危険な役割でもあった。涼州兵の中には、董卓に忠誠を誓う者も少なくない。裏切り者として命を狙われる可能性もあった。


「私は郿塢に残る涼州兵をまとめます。同じ涼州出身の私が間に入れば、彼らも多少は落ち着くでしょう」


樊稠の声には決意が滲んでいた。彼は自分の危険を承知で、この役割を引き受けようとしていた。


「助かる。だが、深入りはするな。賈詡という男が牛輔の下にいる。あの男は頭が切れる。変に探りを入れれば、逆にこちらの手の内を読まれる」


賈詡という名前に、徐栄が反応した。


「賈詡……あの武威の賈文和か。確かに油断ならぬ男じゃ。董太師の下ではさほど目立っておらなんだが、その策謀の才は本物じゃ」


「そうだ。だからこそ、正面から当たるのではなく、こちらの意図を悟られずに懐柔する必要がある。樊稠、お前の役目は間者ではない。あくまで仲介者として、涼州兵の不安を取り除くことだ。決して敵愾心を煽ってはならん」


高順は最後に段煨を見た。段煨は董卓の一族を郿城で滅ぼした後、司隷校尉として長安の治安を預かることになった男である。その役割は、この計画の中で最も地味だが、最も重要だった。


「段校尉。兄の役目は一番地味だが、一番重要だ。長安の中だ。王允が暴走しないように目を光らせろ。あの男は正義に取り憑かれている。いつか必ずやらかす。その時に備えて、皇甫嵩や朱儁と連携を密にしておけ」


「承知しました。王司徒には、穏やかに、しかし確実に、諫言を続けましょう」


段煨は几帳面な性格そのままに、すでに具体的な計画を練っているようだった。彼は文書を取り出し、高順に見せる。


「皇甫嵩将軍にはすでに内諾を得ています。老将軍も、王司徒の苛烈な処断には懸念を持っておられます。朱儁将軍も同様です。この二人が味方につけば、王司徒も無茶はできません」


「いいだろう。しかし、皇甫嵩は董卓に処刑されかけた過去がある。その恨みが、かえって王允の強硬策に同調する可能性もある。その点は注意しろ」


高順は全員の顔を見渡し、静かに言った。広間の空気が、一瞬で引き締まる。


「俺はこれから単身で牛輔の陣営に乗り込む。大赦の勅命を直接伝える。それで奴らがどう出るかを見極める。もし俺が戻らなければ、あとは頼む」


その言葉に、広間の空気が凍りついた。


「待て、それは危険すぎる」


呂布が身を乗り出した。その顔から不機嫌さが消え、代わりに本気の懸念が浮かんでいる。彼の手は無意識に、腰の剣に伸びていた。


「牛輔の陣営には数万の涼州兵がいる。その中に単身で乗り込むなど、自殺行為だ。使者を送れば済む話ではないか」


「使者を送るだけでは信用されない。上将軍たる俺が直に出向けば、誠意は伝わる。それに、俺は董卓の女婿だ。涼州兵も簡単には手を出せまい」


高順の声は平静だったが、その目は決意に満ちていた。誰もが黙った。危険な賭けであることは誰の目にも明らかだった。牛輔の陣営には数万の涼州兵がいる。高順を憎む者も少なくない。董卓の女婿でありながら董卓を裏切った男、涼州の将兵の間では、高順はそう見られている。その高順が単身で乗り込めば、何が起きてもおかしくはなかった。しかし高順の決意を覆せる者もいなかった。誰もが、高順の覚悟の深さを知っていたからだ。


「……わかった。だが、一つだけ約束しろ」


呂布が重い口を開いた。


「もし危険を感じたら、すぐに退け。面子や大義など気にするな。お前が死んだら、元も子もない」


「心得た」


高順は短く答え、幕府を後にした。その背中を、四人の将は無言で見送った。誰もが、これが最後の別れになるかもしれないという思いを胸に秘めていた。


高順は幕府の外で待っていた馬丁から手綱を受け取り、愛馬の首を軽く叩いた。馬は主人の緊張を感じ取ったのか、小さく嘶く。


「すまんな、これから危ない場所に行く。付き合ってくれるか」


馬は答えない。しかし、その大きな瞳は、どこまでも主人を信頼しているように見えた。高順は軽く笑みを浮かべ、鐙に足をかけた。


供も連れずに一騎で長安の西門を出ると、景色は一変した。城壁の内側の喧騒が嘘のように、外は静寂に包まれている。見渡す限りの荒野が広がり、遠くに郿塢の城壁が微かに見えた。その手前には、無数の天幕が立ち並んでいる。牛輔の軍営だった。


高順は馬を歩かせながら、自分の置かれた立場を改めて考えた。董卓の女婿。王允から見れば、本来ならば真っ先に粛清されるべき存在。しかし、董卓を討った功績によって、上将軍という地位を得た。それは高順にとって、望んだものではなかった。彼が望んだのは、ただ乱世を終わらせること。それだけだった。しかし、乱世を終わらせるためには、時として汚れ役も引き受けなければならない。董卓を討ったことも、今こうして涼州兵と対峙していることも、全てはそのためだった。


軍営が近づくにつれ、警戒した兵士たちの姿が見え始めた。彼らは遠くから高順の姿を認めると、慌ただしく動き出した。弓を手にする者、槍を構える者、伝令を走らせる者。軍営全体が、一気に臨戦態勢に入っていくのがわかった。


高順は馬を止め、ゆっくりと手綱を地面に置いた。武器を捨てる仕草だ。そして両手を広げ、敵意がないことを示す。


「上将軍・晋陽侯、高順である。牛輔将軍に取り次げ」


その声は、広大な荒野に吸い込まれるように消えた。しばらくの沈黙の後、軍営の門が開き、武装した兵士たちが高順を囲んだ。憎悪と恐怖の入り混じった目が、四方から高順に突き刺さる。


その中の一人、おそらくは隊長格の男が、高順の顔をじっと見た。彼は董卓の近衛兵だったのか、高順の顔に見覚えがあるようだった。


「……高順様。なぜ、こんなことを」


男の声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。董卓の女婿として敬愛されていた高順が、なぜ董卓を裏切ったのか。涼州の兵士たちは、誰もがその疑問を抱えていた。


「話は牛輔将軍の前でする。案内しろ」


高順は短く答えた。余計な説明は、かえって疑念を招く。ただ堂々と振る舞うことこそが、今は最も重要だった。


幕舎までの道のりは、異様な静けさに包まれていた。兵士たちは道を開けながらも、その目は高順から離れない。中には歯ぎしりをする者もいれば、泣きそうな顔で見つめる者もいる。彼らにとって董卓は、単なる主君以上の存在だった。恩賞を惜しまず、涼州の貧しい出身者たちに出世の道を与えた。その恩義を忘れられない者たちにとって、高順は恩を仇で返した裏切り者だった。


幕舎に入ると、中には三人の男がいた。中央に座る牛輔。董卓の娘婿であり、高順にとっては相婿の間柄である。その右に李傕、左に郭汜。二人とも董卓配下でも屈指の猛将で、それぞれ数万の兵を擁している。三人の目には、警戒と敵意がありありと浮かんでいた。


「よく来たな、高順」


牛輔が皮肉な口調で言った。彼は董卓の死を最も深く憎んでいる男だった。妻の父を殺され、自分も殺されるかもしれないという恐怖。その二つが牛輔の心を黒く染めていた。高順に対しても、同じ女婿でありながら董卓を裏切った裏切り者という目を向けている。しかしその奥には、かつて共に董卓を支えた義兄弟としての複雑な感情も、微かに残っているようだった。


「単刀直入に言う。天子より大赦の勅命が下った。お前たち涼州の将兵は、罪を問わない。ただし条件がある。兵権の一部を返上し、郿塢にて謹慎することだ」


高順の言葉に、幕舎の空気が張り詰めた。李傕がゆっくりと立ち上がる。大柄な男で、その形相は鬼のようだった。彼の手は卓の上で拳を作り、血管が浮き出ている。


「ふざけるな。俺たちは董太師の命令で動いていただけだ。なぜ兵権を返上せねばならん」


「今、長安には大義と正当性がある。お前たちにはない。ただそれだけの話だ」


高順の声はあくまで平静だった。その冷静さが、かえって李傕の怒りを煽る。李傕が卓を回り込んで高順に詰め寄った。幕舎の中に緊張が走る。


「我々がこのまま引き下がると思うか。数万の兵がいるんだぞ」


「やるか」


高順は低く言った。その一言に、李傕の動きが止まる。高順の目には、かつて董卓の側近として数々の修羅場をくぐり抜けてきた男の凄みがあった。李傕とてただの乱暴者ではない。高順の実力を知っているからこそ、その言葉の重みが理解できた。


「やるなら相手になる。ただし、その結果はわかっているな。お前たちが長安に攻め込めば、防衛戦になる。時間を稼いでいる間に関東から曹操や袁紹の援軍が来る。お前たちは挟み撃ちだ」


高順は畳み掛けるように続けた。これは交渉術であると同時に、心理戦でもあった。相手に選択肢があると思わせながら、実際には降伏以外の道がないことを理解させる。それは董卓の下で培った、高順なりの人心掌握術だった。


「曹操や袁紹が動く保証はない」


今度は郭汜が口を開いた。彼は三人の中で最も冷静で、状況を客観的に見られる男だった。


「確かに保証はない。だが、動く可能性は十分にある。特に関東の諸侯は、董卓の残党を討つことで大義名分を得られる。それを逃すと思うか」


幕舎が静まり返った。李傕の額に汗が浮かぶ。彼は自分が短慮であることを自覚していた。だからこそ、高順の冷静な分析が、かえって恐ろしかった。郭汜は腕を組み、目を閉じていた。彼の頭の中では、あらゆる可能性が計算されているのだろう。牛輔は卓を握りしめ、何かを必死に堪えている。その震える手が、彼の心の動揺を物語っていた。


高順は続けた。ここで畳みかけなければならない。


「だが、降伏して朝廷に従えば、お前たちは郿塢の守将として地位を保てる。長安に攻め込めば待っているのは全滅だ。どちらを選ぶかはお前たち次第だ」


長い沈黙が流れた。幕舎の中には、四人の呼吸音だけが響いている。外では風が強くなり、天幕の布がはためく音が聞こえた。まるで天が、この決断の重さを知っているかのようだった。


郭汜がようやく口を開く。


「……証拠はあるのか。その勅命が本物だという証拠が」


高順は黙って懐から天子の詔書を取り出し、三人の前に広げた。そこには確かに、涼州将兵への大赦を命じる文言と、皇帝の璽印が捺されていた。それは王允が渋々ながらも発行を認めたものだった。王允は本当なら涼州兵を皆殺しにしたかったが、高順の説得と、何より現実的な軍事バランスを考慮して、この大赦を認めざるを得なかったのだ。


三人は顔を見合わせた。李傕の顔にはまだ不満が残っている。郭汜は冷静に詔書の文言を読んでいる。牛輔はしばらく詔書を見つめ、それから高順の顔を見た。その目には、憎しみと、敬意と、そして諦めが混ざっていた。


ゆっくりと、牛輔が膝をついた。それに続いて李傕も、郭汜も、それぞれに膝を折った。三人の巨漢が平伏する様は、さながら山が崩れるかのようだった。


「勅命を拝受いたします」


牛輔の声は震えていた。それは怒りか、安堵か、それとも別の感情か。高順にはわからなかった。しかし、確かなことは一つだけ。彼らは今、この瞬間、朝廷に従うことを選んだのだ。


高順は詔書を牛輔に手渡した。牛輔の手が震えていた。その手を、高順はそっと押さえた。


「牛輔。俺たちは確かに董卓を裏切った。その咎は、いつか必ず受けなければならないと思っている。だが、今はそれよりも大切なことがある。涼州の将兵たちの命を守ることだ。お前も、董卓の女婿なら、そのくらいはわかるだろう」


牛輔は何も答えなかった。ただ、その目から一筋の涙が流れた。それが何に対する涙なのか、高順には推し量ることしかできなかった。


「俺はこれから并州へ向かう。お前たちはお前たちで、郿塢を守れ。それが董卓の遺志でもあるはずだ」


それだけ言うと、高順は背を向けて幕舎を出た。背後で李傕が何かを言いかけた気配があったが、高順は振り返らなかった。振り返ることは、弱さを見せることになる。高順はあくまで上将軍として、堂々と軍営を後にした。


軍営の門を出る時、先ほどの隊長格の男がまだそこにいた。彼は高順に近づき、小さな声で言った。


「高将軍……ありがとうございます。これで、俺たちは故郷に帰れます」


高順は男の顔を見た。まだ若い。おそらく二十歳になるかならないかだろう。涼州の貧しい村から兵士として駆り出され、董卓に従って長安まで来た。彼にとっては、董卓への忠誠よりも、故郷に生きて帰ることの方が、ずっと大切なのだ。


「名前は」


「欧州と申します」


「欧州か。いい名だ。生きて故郷に帰れ。そして家族を大切にしろ。それが、俺たちが戦ってきた意味だからな」


張横は深く頭を下げた。その目には、涙が光っていた。高順はそれ以上何も言わず、馬に跨った。


軍営を出てしばらく行ったところで、高順はようやく深い息を吐いた。単身で敵陣に乗り込むという賭けは、かろうじて成功した。しかしそれは今日一日の猶予に過ぎない。大赦は出たが、涼州兵たちの不信感は完全には消えていない。王允がまた何かを仕出かせば、いつ決起してもおかしくはなかった。特に王允は、董卓の残党に対しては異常なまでの憎しみを抱いている。その憎しみが、いつ暴走しても不思議ではなかった。


高順は馬を止め、長安の方向を振り返った。遠くに見える城壁は、夕日に赤く染まっている。その美しさとは裏腹に、城の中では権力闘争という名の病が、今も進行しているのだろう。自分はその病から逃げるように并州へ向かう。それは賢明な選択だと、頭では理解していた。しかし、心のどこかで、逃げているのではないかという自責の念もあった。


「違う。逃げるのではない。戦うための準備だ」


高順は自分に言い聞かせるように呟き、再び馬を北へと向けた。


長安の門に戻ると、すでに出発の準備は整っていた。精強を誇る陥陣営の兵士たちが、整然と隊列を組んでいる。彼らは高順が自ら鍛え上げた精鋭部隊で、八百人という少数でありながら、その戦闘力は数千の兵に匹敵すると言われていた。統一された装備、規律正しい動き、そして何より高順への絶対的な忠誠心。この部隊こそが、高順の最大の武器だった。


馬車の方からは、蔡邕の姿が見えた。当代一の学者であり、董卓に仕えたことで王允から目の敵にされている老儒者は、高順の説得で并州へ同行することになった。彼の知識と教養は、これから高順が作ろうとしている新たな勢力にとって、必要不可欠なものだった。蔡邕の周りには、彼の娘である蔡琰と、数人の弟子たちが控えている。蔡琰はまだ若いが、父譲りの学識を持ち、後に「胡笳十八拍」を詠む才女として知られるようになる人物である。


さらにその後方には、高順の妻たちを乗せた馬車があった。董卓の娘として生まれ、父の死後は高順に引き取られた妻。彼女は董卓の暴虐を知りながらも、父として愛さざるを得なかった複雑な心境を抱えている。高順は彼女を守ることが、董卓に対する贖罪の一部だと考えていた。


「行くぞ。目指すは晋陽」


高順の号令が響き渡る。その声には、これから始まる長い旅への覚悟が滲んでいた。


長安の門を出ると、夕日が彼らの行く手を赤く染めていた。空は雲一つなく澄み渡り、遠くの山々が紫色に煙っている。董卓という魔王が倒され、新たな時代が始まろうとしている。しかし誰も知らなかった。董卓の死は終わりではなく、より大きな乱世の始まりに過ぎないことを。


そして高順もまた、その乱世に深く関わっていくことを。彼が今、向かっている并州の地で、やがて一つの勢力が生まれる。それは三国鼎立の歴史の中で語られることのない、もう一つの可能性だった。高順という男が、乱世の中で何を成し遂げるのか。それはまだ、誰にもわからなかった。


だが今は、ただ前を向くだけである。高順の目は、すでに并州の大地を見据えていた。彼の脳裏には、これから始まる新たな戦いの構想が、すでに描かれ始めていた。それは単なる軍事的な拠点作りではない。高順が目指すのは、乱世の中にあってなお、人々が安心して暮らせる土地を作ること。董卓の下で見てきた暴虐の数々が、彼にそう決意させていた。


夕日が沈み、あたりが闇に包まれ始めても、隊列は止まることなく進み続けた。高順は最後尾につき、何度も長安の方向を振り返った。そこには、自分が守ろうとしたものが確かにある。戻ってくる保証はなかった。しかし、戻ってこられなくても、自分が残したものが確かにここにある。その思いだけが、高順の心を支えていた。


夜が更ける頃、高順は馬を止め、隊列全体を見渡した。兵士たちは疲れた様子も見せず、黙々と歩き続けている。彼らの足音だけが、静かな夜の草原に響いていた。この兵士たちこそが、高順の全てだった。地位でも名誉でもない。信頼できる仲間と、守るべき人々。それさえあれば、どんな困難も乗り越えられる。


「必ず、生きて戻る」


高順は小さく呟いた。それは自分への誓いであり、長安に残してきた者たちへの約束であり、そしてこれから出会うであろう新たな仲間たちへの宣言でもあった。月明かりが彼の顔を照らし、その瞳には強い意志の光が宿っていた。乱世はまだ始まったばかりである。そして高順の戦いもまた、始まったばかりだった。

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