外伝 児郎嫁禍棄紅顔 高順大罵王司徒 三段
董卓誅殺から数刻。長安は歓喜と混乱の坩堝にあった。
王允が放った兵士たちが董卓の一族を次々と捕縛し、市場に引き立てていく。董卓の血を引く者は、生後間もない赤子であっても例外ではなかった。老若男女、使用人、食客、董卓に仕えた文官、董卓に娘を献じた豪族、果ては董卓の兵に酒を売った商人までもが、次々と捕らえられていった。
街角では民衆が「魔王が死んだ」と叫びながら踊り狂っている。酒が無料で振る舞われ、路上で男女が抱き合って泣き、老人たちは天を仰いで漢室の復興を祈った。二十年に及ぶ桓帝・霊帝の乱政、そして董卓の暴政。漢帝国の腐臭に塗れた時代が、ついに終わろうとしている。少なくとも民衆は、そう信じていた。
しかしその歓声の裏で、新たな血の粛清が始まろうとしていた。
呂布と王允が主導する掃討戦が続く中、高順は密かに城外へと通じる裏路地にいた。
高順という男について、ここで少し語らねばならない。彼は并州出身の武人で、呂布とは同郷の間柄だった。董卓が洛陽を掌握した後、呂布に従って董卓の麾下に入り、七百の精鋭からなる「陥陣営」を率いて、数々の戦場で功を挙げた。しかし彼は呂布のような華やかさとは無縁の男だった。酒も女も博打も嗜まず、ひたすら兵を鍛え、規律を守り、命令を実行する。その質実剛健さは、董卓軍の中でも異彩を放っていた。
さらに彼は、董卓の娘である董媛を妻としていた。これは董卓が高順の武力を買って強引に縁組したもので、高順自身に拒否権はなかった。しかし高順は董媛を粗略に扱うことなく、一人の妻として敬い、守ってきた。董媛もまた、最初は政略結婚に反抗的だったが、高順の誠実さに触れるうちに、次第に心を開いていった。
その高順が今、長安の裏路地で、一人の男と向き合っている。
粗末な旅装束に身を包んだ男。李儒である。
李儒は董卓の娘婿であり、董卓の参謀として数々の策を練った毒士だった。洛陽遷都、廃立、呂布の寝返りの阻止、袁紹との同盟工作その一つ一つに、李儒の暗い知恵が込められていた。王允は彼を市場で斬首するよう命じていたが、それは李儒の家奴が差し出した偽物であり、本物の李儒はこの場にいる。
彼の両脇には、まだ幼い二人の子供が怯えたようにしがみついていた。董卓の孫と孫娘である。年の頃は六つか七つ。董卓の面影をわずかに残した大きな目が、涙で潤んでいる。少女は震えながら、李儒の衣の裾を握りしめていた。少年は必死に泣くまいと唇を噛みしめている。二人とも、何が起きているのかを完全には理解していなかった。ただ、祖父が死に、自分たちが追われる身になったことだけはわかっていた。
李儒は高順の顔を見ると、薄く笑った。かつて将軍府で三妻四妾の話を持ちかけた時と同じ、爬虫類のような笑みだ。しかし今は、その奥に疲れ切った男の顔があった。
「高将軍。まさか、貴殿が我らを見逃すとはな」
「勘違いするな」
高順は懐から一通の手形と、重さのある革袋を投げ渡した。革袋は李儒の足元に落ち、中から金の重みが鈍い音を立てた。李儒が受け取るより早く、幼い少女がよろけて高順の足にぶつかる。
高順は無言で彼女を支え、その小さな肩をそっと李儒の方へ押し戻した。少女は怯えた目で高順を見上げた。大きな目が、さらに大きく見開かれる。高順は一瞬だけその目を見つめたが、すぐに視線を李儒に戻した。
「并州の北部、五原郡の隠れ里へ向かえ。そこで静かに暮らすなら、命までは取らん。だが、再び世に出て悪事を働けば、俺が斬る」
「フッ」
李儒は革袋を一瞥し、手形を衣の奥にしまった。かつて董卓に「高順を油断するな」と進言した男とは思えぬ、抜け殻のような姿だった。彼は長い間、董卓の知恵袋として暗躍してきた。人を陥れ、政敵を排除し、董卓のために数え切れないほどの悪事を重ねてきた。しかし今、董卓は死に、自分は幼い子供二人を抱えて逃げ惑う身となった。その落差が、李儒の顔からかつての毒気を完全に消し去っていた。
「甘い男だ。だが、その甘さに救われたか」
李儒は深く一礼した。その瞳からは、かつての毒気は消え、守るべき者を背負った男の覚悟だけが見えた。彼はもはや董卓の参謀でも、毒士でもなかった。ただ、二人の子供を守らねばならぬ一人の父親だった。
「なぜだ、高将軍。なぜここまでする。董卓の娘を娶ったからか。それだけの理由で、逆賊の一族を逃がすのか」
高順はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「妻がな。董媛が言ったのだ。『父の血を絶やしたくない』と。俺はあいつに、董卓を討つことを事前に知らせなかった。知らせていれば、あいつは父を救おうとしただろう。あるいは、俺を殺そうとしたかもしれない。どちらにせよ、俺はあいつを巻き込むわけにはいかなかった。だからせめて、残された家族を守ることで、少しでも償いたい」
「償い、か」
李儒は小さく笑った。
「奇妙なことを言う。董卓を殺したのは呂布と王允だ。お前ではない。なぜお前が償う」
「俺は、董卓を討つことを知っていた。王允から聞かされていた。止めることもできたが、止めなかった。それで董卓が死に、董媛は父を失った。それが俺の罪だ」
「それは罪ではない。董卓は倒されるべき男だった。お前が止めなかったのは、それが正しいとわかっていたからだ」
「理屈はそうだ。だがな、李儒」
高順は李儒の目をまっすぐに見つめた。
「家族を失う悲しみに、理屈など通用しない。董媛が泣くのを見て、俺は初めて、自分が何をしたのかを知った。正しいことをしたと思いながら、同時に、取り返しのつかないことをしたとも思った。その矛盾に、俺は今も苦しんでいる」
李儒は何も言わなかった。ただ、高順の目を見つめ返した。
そこには、戦場で幾多の敵を屠ってきた武人の冷徹さと、同時に、妻を想う一人の男の苦悩が同居していた。高順は強い男だった。しかしその強さは、冷たさではなかった。彼は誰よりも深く傷つき、誰よりも深く悩みながら、それでも前に進むことを選ぶ男だった。
「行け。子供たちが怯えている」
高順が促すと、李儒は再び深く一礼し、子供たちの手を引いて闇へと消えていった。
少年が一度だけ振り返り、高順を見た。その目には、恐怖と感謝と、そして理解できない何かが入り混じっていた。高順は小さく頷き、それだけで応えた。
董卓の血脈は、これでかろうじて保たれた。妻となった董媛も、少しは救われるだろう。しかし高順の胸の中には、重い石が沈んだままだった。
これは本当に正しいことなのか。悪を根絶するために董卓を殺し、しかしその家族まで根絶やしにする必要はない。そう信じての行動だったが、誰かにそれを理解してもらえるとは思っていなかった。
同時に、高順は別の手勢を動かしていた。王允が「董卓の穢れ」として処刑しようとしていた貂蝉を、密かに保護するために。
貂蝉は、王允の養女として育てられた美貌の娘だった。しかしそれは表向きの話で、実際には王允が董卓を滅ぼすために育てた「武器」だった。彼女は董卓の寵姫となり、同時に呂布の心を掴み、二人の間に決定的な亀裂を生み出した。連環の計それは呂布の武力と貂蝉の美貌を絡み合わせ、董卓を追い詰めるための、王允が十年かけて練り上げた策だった。
その功労者である貂蝉は、董卓誅殺の後、王允にとってはもはや用済みの駒に過ぎなかった。それどころか、彼女は董卓の「穢れ」を受けた女として、むしろ抹殺すべき存在になっていた。彼女が生きていること自体が、王允が美貌の娘を武器として使った証拠になる。清廉潔白な司徒が、そんな手段に訴えたことを、後世に残すわけにはいかない。だから王允は、貂蝉を密かに処分しようとした。
兵士たちが彼女の居室に踏み込もうとした瞬間、高順の部隊がそれを阻止した。
居室は司徒府の奥まった場所にあり、貂蝉は董卓の死を知らされた後、そこに幽閉されていた。彼女は董卓の死を告げられた時、涙も見せず、ただ黙って俯いていたという。喜びも、悲しみも、安堵も、何も表に出さなかった。彼女はあまりにも長く、感情を偽り続けてきた。その結果、本当の感情の出し方を忘れてしまったのかもしれない。
高順の部隊が現れた時、貂蝉は部屋の隅で小さく縮こまっていた。彼女は何かを悟ったように、顔を上げた。
「その女を離せ。天子からの勅命なく、連環の計の功労者を殺す権利がどこにある」
高順の声は低く、しかし有無を言わさぬ迫力があった。兵士たちは顔を見合わせた。彼らは王允の命令で動いていたが、高順の率いる陷陣営を前にしては、太刀打ちできるはずがなかった。兵士たちは散り散りに逃げ去った。
貂蝉は信じられないものを見るように高順を見上げた。彼女は将軍府で何度か言葉を交わしたことはあるが、こんな形で命を救われるとは思ってもみなかったのだろう。彼女は震える手で、乱れた衣を押さえた。
「なぜ……私を助けるのですか。私は董卓の寵姫でした。王司徒の言う通り、穢れた女です」
高順は貂蝉の顔を見た。彼女は確かに美しかった。しかしその美しさは、すでに疲れ果てていた。董卓に抱かれ、呂布に恋を演じ、王允に利用され、すべてが終わった後に殺されかける。その連続の中で、彼女の心はすり減り、美貌だけが虚ろに残っていた。
「お前は王允に利用された。董卓を倒すための道具にされた。それは事実だ。だが、お前が董卓を倒した功臣であることもまた事実だ。王允がそれを認めず、むしろ抹殺しようとするなら、それは王允の側が間違っている」
高順は淡々と言った。
「俺は正義の味方ではない。王允のような大義も持っていない。ただ、利用されて捨てられる者を見るのが我慢ならんだけだ」
貂蝉はしばらく高順の顔を見つめていた。それからゆっくりと、涙を流した。
それは演技ではなかった。彼女はこれまで、何度も泣いてきた。董卓の前で、呂布の前で、王允の前で。しかしそれらはすべて、誰かを動かすための涙だった。今流している涙だけが、誰のためでもない、自分自身のための涙だった。
「……ありがとうございます、高将軍」
高順は彼女に路銀と通行手形を与え、短く言った。
「北へ行け。并州の五原郡に、董卓の遺児たちが向かっている。お前もそこへ行くがいい。誰の道具でもない、一人の女として生きろ。お前はもう、十分に戦った」
貂蝉は深く頭を下げた。彼女の美貌が、これほど純粋な涙を見せたことは、かつてなかっただろう。彼女は何度も振り返りながら、長安の街を後にした。その先に待つものが何かは、誰にもわからなかった。しかし少なくとも、彼女は自分の足で歩き始めた。誰かに命じられた道ではなく、自分で選んだ道を。
しかし、高順の手でも救えぬものがあった。
董旻、董璜らは郿城に立て籠もっていたが、董卓の死を知った部下たちの反逆に遭い、悉く殺害された。三十年分の食糧と喩えられた莫大な財宝は略奪され、郿城は炎上した。
郿城の陥落は、董卓一族の事実上の終焉を意味していた。董旻は董卓の弟で、董璜は董卓の甥だった。彼らは董卓の威光を背景に朝廷で権勢を振るっていたが、董卓が死ねば、もはや彼らを守る者は誰もいなかった。郿城に立て籠もったのも束の間、兵士たちは董卓の死を知ると、我先に財宝を奪い合い、董旻と董璜を殺して王允に寝返った。
董卓の一族のほとんどは、この時点で根絶やしにされたのである。高順が救えたのは、李儒と二人の子供、そして貂蝉だけだった。それ以外の董卓の血を引く者は、みな王允の放った兵士たちによって殺された。こればかりは、どうしようもなかった。
郿城の炎は三日三晩燃え続け、夜空を赤く染めたという。その炎は長安からも見え、民衆はそれを「魔王の終焉」と呼んで喜んだ。しかし高順は、その炎を見ながら、何も言わなかった。彼はただ、燃え落ちる郿城を遠くから見つめていた。
夜が明けた。
未央宮の前殿にて、朝議が開かれた。
未央宮は長安の中央に位置する広大な宮殿だった。前漢の時代に建てられ、四百余年の歴史を持つこの宮殿は、董卓が洛陽から長安に遷都した後、修復されて再び朝廷の中枢となっていた。その前殿は、数百人を収容できる大広間で、高い天井には金箔を貼った龍の彫刻が輝き、玉座の背後には漢帝国の版図を描いた巨大な屏風が立てられていた。
集まったのは、王允、皇甫嵩、朱儁、楊彪、そして幽州から上奏に来ていた劉虞ら、漢室の重鎮たちだ。この他にも、士孫瑞、黄琬、馬日磾、盧植といった名臣たちが顔を揃えていた。彼らはみな、董卓政権下で屈辱に耐え、この日が来るのを待ち続けてきた者たちだった。
玉座には、幼い皇帝・劉協が一人、心細げに鎮座している。
まだ十一歳の少年は、冠の重さに首を傾げながら、周囲を取り囲む大人たちの顔色を窺っていた。彼は董卓に洛陽から連れ出され、長安に移されてから、ずっと誰かの掌中で生きてきた。董卓という暴君が死んで、これで自由になれると思ったのも束の間、今度は王允という正義の権化が自分を守ると言って、周囲を固めている。幼い皇帝にとって、それは董卓とは別の種類の恐怖だった。
周囲を取り囲む大人たちは、昨日の返り血の興奮が冷めやらぬまま、口角泡を飛ばして議論している。董卓が死んだ。この事実だけで、彼らは何か大きなことが成し遂げられたように感じていた。しかしそれは錯覚だった。董卓という悪は倒されたが、董卓が残した空白は、まだ何も埋まっていなかった。
そんな中、高順が末席に参内すると、皇帝はハッとして顔を上げた。その瞳に、微かな安堵と希望の光が宿る。高順は小さく頷き、それだけで応えた。
高順はこの幼い皇帝と、何度か言葉を交わしたことがあった。董卓の将軍として宮中に出入りしていた時、彼は偶然、一人で泣いている献帝を見つけたことがある。理由を尋ねると、董卓に叱られたからだと言う。高順はその時、何もできなかった。ただ、そばに座って、少年の肩を軽く叩いただけだった。それ以来、献帝は高順を見ると、ほんの少しだけ安心した表情を見せるようになった。高順にとってそれは、誇りであると同時に、痛みでもあった。
議論の主題は、董卓亡き後の残党処理である。
陝に駐屯する牛輔、李傕、郭汜、張済、樊稠といった涼州軍団をどうするか。彼らは董卓の腹心として数万の精兵を擁し、長安の西方に蟠踞している。董卓が死んだ今、彼らは恐怖に震え、降伏の使者を送ってきていた。
牛輔は董卓の娘婿であり、李傕、郭汜、張済、樊稠は董卓の配下として長年戦ってきた猛将たちだった。彼らは董卓の死を聞き、愕然とした。そして同時に、自分たちも同じ運命を辿るのではないかと恐怖した。彼らが送ってきた降伏の使者は、震えながら「どうか助命を」と訴えたという。
「処断すべきである」
王允が叫んだ。彼の顔は、正義の執行者という陶酔に歪んでいた。董卓を倒したという達成感が、彼の判断力を鈍らせていた。それとも、最初からこういう男だったのか。悪を憎み、悪を根絶することだけが正義だと信じて疑わない。その信念が、董卓という共通の敵がいる間は美点に見えたが、敵がいなくなった今、それはむしろ危険な刃に変わっていた。
「彼らは逆賊・董卓の手足となって悪逆非道を尽くした。天下に示しをつけるためにも、涼州の者は一兵たりとも残さず処断し、その罪を天下に晒すべきである」
広間がざわついた。
皇甫嵩は眉をひそめた。彼は董卓政権下で長安の門を守るという屈辱的な役目を負わされながらも、耐え忍んできた老将だった。彼とて董卓の残党を許す気はない。しかし数万の涼州兵を敵に回すことの危険を、老練な軍人である皇甫嵩は誰よりもよく知っていた。
朱儁は苦い顔で俯いている。彼は黄巾の乱を平定した名将であり、董卓に抗して戦ったこともある剛直な男だった。しかし今の王允の言葉には、同じ「正義」を掲げる者としても違和感を覚えていた。
劉虞は静かにため息をついた。幽州の名君として知られる彼は、異民族との融和を重んじ、無益な殺生を好まなかった。王允の言う「皆殺し」は、彼の信条とはあまりにかけ離れていた。
「王司徒」
高順は静かに声を発した。その声は低く、しかし広間に十分に響く。
「その方針は、長安を火の海にします。彼らは董卓が死に、自分たちが処刑されるかもしれないという恐怖に震えております。ここで恩赦を拒絶すれば、彼らは生き残るために結集し、決死の覚悟で長安へ襲いかかってくるでしょう」
「十万の賊徒が束になろうと、大義は我らにある。朝廷の威光の前には塵芥に等しい」
王允はそう言い放った。その声には一片の曇りもなかった。彼は本気でそう信じているのだ。正義は必ず勝つ。悪は必ず滅びる。その単純な二分法が、彼の世界のすべてだった。
しかし高順には、それが危うく見えた。正義は必ず勝つそれは戦場を知らぬ者の言葉だ。戦場で勝つのは、より多くの兵を持ち、より良い武器を持ち、より巧妙な策を練った者だ。正義の側が負けることなど、歴史上いくらでもあった。
「ならばなぜ、董卓を討つために連環の計などという回りくどい策を用いたのですか」
高順の声が一段低くなった。王允の顔から血の気が引く。
「正面から董卓と戦わなかったのは、その武力を恐れたからではありませんか。その董卓の武力の中核こそ、今、長安の西にいる涼州の兵たちです。彼らを一概に殺せと言うなら、この長安を守るために、どれだけの血が流れるかお分かりか」
これは痛烈な指摘だった。王允は董卓と正面から戦わなかった。それができなかったからこそ、連環の計という策に頼ったのだ。そして董卓の武力の中核は、今まさに王允が「皆殺しにしろ」と言っている涼州兵たちだった。その矛盾を、高順は正確に突いた。
「黙れ。悪党と妥協して何が正義か」
王允の声が震えた。悪と妥協するな。それが彼の信念であり、生き方そのものだった。十九で郡の役人となり、悪徳官吏を捕らえて処刑した。宦官の専横に抗って投獄され、それでも口を割らなかった。董卓という最大の悪を前にしても、十年耐え抜いてついに倒した。妥協しなかったからこそ、悪は滅びたのだ。それのどこが間違っているというのか。
「正義だと」
高順はそこで言葉を切り、ゆっくりと立ち上がった。その目が、真正面から王允を射抜く。末席から中央へと歩み出る足音だけが、静まり返った広間に響く。
彼はこの時、自分がこれから何を言おうとしているのか、よくわかっていた。王允を怒らせるだろう。あるいは、自分の立場を危うくするだろう。しかし言わねばならなかった。このままでは、長安は本当に火の海になる。
「正義で飯が食えるか。正義で国が守れるか。彼らを追い詰めれば、彼らは死に物狂いで反撃してくるぞ。十万の涼州兵が長安に雪崩れ込めば、今度こそこの都は灰燼に帰す。陛下を再び戦火に晒すつもりかッ!」
高順の怒号が、宮殿に轟いた。そこには、王允の正義に対する真っ向からの異議があった。机上の正義ではなく、地に足のついた情理があった。
この朝議の場にいる誰もが、董卓の死を喜んでいた。しかし、その後に何をすべきかについて、明確なビジョンを持っている者は誰もいなかった。王允は「悪を根絶する」と叫び、それが正しいと思い込んでいた。しかし高順は違った。彼は戦場で、敵を殺すことの重みを知っていた。敵にも家族がいる。敵にも守るべきものがある。敵をただ殺すだけでは、そこからは何も生まれない。むしろ、新たな憎しみが生まれるだけだ。
広間の空気が張り詰めたその時、末席で小さなため息が漏れた。
蔡邕だった。
蔡邕は当代一の学者であり、書物と歴史のために生きてきた男だった。彼は董卓に脅されて仕官したが、董卓は意外にも蔡邕を敬い、彼の学問を保護した。そのため蔡邕は、董卓に恩義を感じていた。暴君ではあったが、自分を認めてくれた恩人でもあったのだ。その董卓が死んだと聞き、彼は思わず深く息を吐いた。それは人として自然な感情だった。
だが、王允はそれを見逃さなかった。
「蔡邕」
王允の声が、刃物のように冷たく響く。
「貴様、今嘆いたな。逆賊の死を悲しむとは、貴様も同罪か。左右、蔡邕を引き立てろ。獄に繋ぎ、処刑せよ」
「お待ちください。私はただ…」
蔡邕が青ざめる。衛兵たちが彼を捕らえようと動いた。
「待たれよッ!」
高順は席を蹴って立ち上がり、大広間の中央へと進み出た。その一喝に、衛兵たちが動きを止める。高順の目は、もはや王允だけを見ていなかった。広間の全員を見渡し、そして蔡邕を見た。自分の妻の父である老学者を、恐怖で震えさせている王允という男を、改めて見据える。
「王允、王司徒。貴様のやり方に目をつぶるのもここまでだ」
「な、なにぃ」
「人の死を嘆いて何が悪い。恩義を感じて涙する、それは仁であり義ではないか。それを咎め、処刑しようなどと、貴様の学ぶ儒教とは、それほど狭量なものか」
高順の声は静かだった。しかしその静けさが、かえって怒りを際立たせていた。王允は顔を真っ赤にして震えたが、高順は言葉を止めない。
「ため息一つで処刑だと? お前はさっきまで董卓の横暴を罵っていたはずだ。それがどうだ? 今のお前のやっていることは、法手続きを無視し、己の感情だけで人を殺そうとする、董卓と同じではないか!」
「な、なにを……」
「蔡中郎は、お前のように殺すことでしか政治ができぬ男ではない。彼は、敵にも情けをかけられる、人間の心を持った学者だ。その彼が、董卓という一人の人間の死を悼む。それがなぜ悪だ。お前が憎んでいるのは董卓ではない。お前は、自分に逆らう者全てを憎んでいるだけだ。その独善こそが、新しい国賊を生むのだと、なぜ分からん」
広間が、完全に凍りついた。
王允は顔面を蒼白にし、唇をわななかせた。高順の言葉は、王允個人への非難を超えて、この場にいる全ての者の胸に突き刺さった。正義の名の下に行われる粛清が、いかに脆く、いかに危ういか。それを誰よりも明確に言語化したのが、他ならぬ高順だった。
王允はこの時、何を思っただろうか。彼は十年間、董卓という悪を倒すためだけに生きてきた。そのために貂蝉を育て、呂布を篭絡し、連環の計を完成させた。それは華麗な謀略であり、誰にも真似のできない偉業だった。しかし董卓を倒した後、彼は自分の正義がどこに向かうべきかを見失っていた。悪を倒したその先に、何を築くべきか。彼はそれを考えたことがなかった。ただ、悪を根絶すればすべてが良くなると信じていた。その結果が、貂蝉の抹殺であり、涼州兵の皆殺しであり、蔡邕の処刑だった。
高順の言葉は、その歪みを正確に突いていた。
沈黙を破ったのは、皇甫嵩だった。老将は静かに頷き、低い声で言った。
「高将軍の申す通りじゃ。窮鼠猫を噛む。涼州の兵は精強。これを追い詰めれば、長安は火の海となろう。王司徒よ、ここは高将軍の策を容れ、大赦を行うべきだ」
「うむ、私もそう思う」
朱儁が同意した。彼は董卓に抗して戦った剛直な武将だったが、それだけに、敵の強さを知っていた。涼州兵の精強さは、黄巾の乱を戦った朱儁が誰よりもよく知っていた。
劉虞も静かに、しかし確かに頷いた。
「我々は、高将軍の言う通り、恩赦を与えるべきだと考える。涼州の兵たちにも家族がある。彼らを路頭に迷わせてはならぬ。殺すよりも、生かして朝廷に従わせるほうが、長い目で見れば漢室のためになる」
楊彪も、盧植も、馬日磾も、それぞれに同意の意を示した。彼らは皆、董卓政権下で苦しみながらも、ただ耐えるしかなかった者たちだった。王允が董卓を倒したことは感謝している。しかし王允のやり方が、新たな恐怖政治になりつつあることにも、薄々気づいていた。
王允は孤立した。彼は唇を噛み締め、震える手で袖を握りしめた。広間の誰もが、彼ではなく高順の言葉に頷いている。その事実が、何よりも王允のプライドを打ち砕いた。
「……良かろう。皆がそう言うなら、大赦を行おう」
天下に大赦令が出された。
涼州の諸将は、罪を問われないと知り、安堵の息を漏らした。ただし、条件がつけられた。「兵権の一部を朝廷に返上し、郿塢城に入って謹慎せよ」。これは高順が提案した妥協案だった。涼州兵を一方的に許すのではなく、一定の制約を課すことで、朝廷の威厳を保ちつつ、彼らの不満も抑える。その絶妙なバランス感覚が、高順の政治家としての資質を示していた。
賈詡はこの情報をいち早く掴むと、張済の元へと走り、牛輔、李傕、郭汜らを説得した。「今は耐える時。郿塢を守り、時を待つのです」と。賈詡は涼州軍閥の中でも異色の存在だった。武力ではなく知略で生き抜く男であり、後の世に「毒士」と呼ばれることになる彼の真骨頂は、この「待つ」という選択にあった。こうして、彼らは郿塢城の守将として生き延びることになった。史実の「長安攻め」は、かろうじて回避されたのである。
朝議は続き、新たな人事が発表された。
丞相には王允、大司馬には皇甫嵩、光禄勲には朱儁、御史大夫には劉虞、衛尉には楊彪。武官では、左将軍に徐栄、右将軍・温侯に呂布、偏将軍に樊稠、司隷校尉に段煨。
そして高順には破格の待遇が与えられた。
晋陽侯・上将軍・開府儀同三司。
この人事には、王允の複雑な思惑が込められていた。高順を長安から追い出すことで、自分の政権運営に対する障害を取り除く。しかし同時に、高順が并州で力を蓄えることを許せば、将来的な脅威になりかねない。王允はそのジレンマの中で、高順に過大な称号を与えることで、表面的には優遇しつつ、実質的には長安から遠ざけるという選択をした。
高順はその意図をよく理解していた。しかし彼にとって、それはむしろ好都合だった。長安に残って王允と政治的駆け引きを続けるよりも、并州に戻って自分の基盤を固める方が、はるかに現実的な選択だった。
さらに、高順の提案により、并州にいる黒山・白波の賊徒たちも正式な「官軍」として認められた。これで後ろ指を指されることなく、彼らを戦力として運用できる。黒山賊は張燕が率いる数十万の大軍であり、白波賊は黄巾党の残党勢力だった。彼らを公式に認めることは、朝廷の威厳を損なうという批判もあったが、高順は「今は一人でも多くの兵力が必要だ」と押し切った。




