表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/131

外伝 児郎嫁禍棄紅顔 高順大罵王司徒 二段

第二部:魔王の落日


長安の西二百五十里。


郿塢は、董卓が築かせた巨大な城塞だった。城壁の高さは長安のそれを凌ぎ、内部には三十年分の食糧が蓄えられているという。董卓はここに、天下を失っても生き延びられるだけの備えをしていた。天下人となった今も、彼は西涼の一武人だった頃の警戒心を失ってはいなかったのである。


李肅は十数騎を率いて、この郿塢へ到着した。


城門をくぐる時、李肅は無意識に手のひらを開いた。汗で濡れている。軍人としては恥ずべき反応だった。董卓の前に出れば、この汗の匂いを嗅ぎつけられるかもしれない。李肅は手を拭い、深く息を吐いた。


天子の詔があると知らされ、董卓は李肅らを呼び入れた。謁見の間は広大で、董卓は奥の高座にどっしりと腰を据えていた。脇には貂蝉が控えている。その美貌は、薄暗い室内でも異様な輝きを放っていた。


李肅は入り拝礼した。


董卓が問う。「天子から何の詔があるのだ」


その声は、天下を掌中に収めた男の余裕に満ちていた。六十を過ぎた董卓の体は肥え太り、その顔は酒と肉で赤く腫れぼったい。しかしその目だけは、かつて羌族を震え上がらせた武将の鋭さを残していた。


李肅は平然と嘘をついた。


「天子様はご病気から回復され、未央殿に文武の百官を集め、太師に帝位を禅譲することをお考えになり、ゆえにこの詔が出されたのです」


董卓の目が、わずかに細められた。彼は李肅の顔をじっと見つめる。李肅はその視線を受け止めながら、心の中で唱え続けた。私は董卓の忠臣だ。私は董卓の出世を願っている。私は董卓を裏切っていない。


この自己暗示こそが、李肅という男の特異な才能だった。彼は自分の嘘を、一時的に信じることができる。だからこそ、董卓の前でも平然としていられた。


董卓が「司徒の意向はどうなのだ」と尋ねた。


李肅は間髪入れずに答えた。「王司徒はすでに受禅台を築かせ、ただ主君の到着をお待ちしております」


この一言が、董卓の猜疑心を完全に取り除いた。


王允は董卓が最も信頼している文官だった。董卓に取り入り、董卓の意向に逆らわず、いつも董卓を立ててきた。その王允が受禅台を築いたということは、本当に禅譲が行われるのだ。董卓はそう判断した。


「私は夜、一匹の龍が身を包む夢を見たが、今日果たしてこの吉報を得た。時機を逃してはならん」


董卓は大いに喜んだ。彼はこの時、自分が長年追い求めてきた帝位が、ついに入ると信じて疑わなかった。西涼の豪族の子として生まれ、羌族と戦い、黄巾の乱を鎮め、朝廷に入り、洛陽を掌握し、皇帝を廃し、長安に遷都した。そのすべては、この日のためだった。漢の四百年の歴史が、自分の手で終わる。その陶酔が、董卓の目を完全に曇らせていた。


董卓は腹心の将である李傕、郭汜、張済、樊稠の四人に飛熊軍三千を率いて郿塢を守らせ、自身はその日のうちに車列を組んで都へ向かうことにした。


彼は李肅を振り返り、言った。


「儂が皇帝になった暁には、お前を執金吾にしてやろう」


執金吾とは、首都の治安を預かる顕職である。李肅が望んでいた中郎将より、はるかに高い地位だった。


李肅は拝礼して臣と称した。しかしその唇の端には、薄い笑みが浮かんでいた。


董卓が皇帝になることはない。董卓は長安に着く前に死ぬ。そのことを知っているのは、長安にいるわずかな者たちだけだった。


董卓は奥へ入り、母に別れを告げた。


董卓の母はその時九十余歳。西涼の荒れ地で董卓を産み、羌族の襲撃から逃げ惑いながら彼を育て、董卓が豪族から将軍へ、将軍から太師へとのし上がるまでを見守ってきた老女だった。


彼女は董卓の顔を見ると、何かを感じ取ったのか、尋ねた。


「仲穎や、どこへ行くんだぇ」


仲穎とは董卓のあざなである。母がその名を呼ぶのは、何か大切な話をする時だけだった。


董卓は言った。「母ちゃんはもうすぐ太后になるぞ。俺ァはこれから漢の帝位を譲り受けに行くんだ」


その声には、少年のような無邪気さがあった。九十の母を前にした董卓は、天下に恐れられた暴君ではなく、ただの息子だった。


母は言った。


「私は最近、肉が震え心がざわつき、吉兆ではないような気がして恐ろしい」


老いた母の直感は、時に予言の力を帯びる。彼女は董卓に何かが起ころうとしているのを感じ取っていたのだ。肉が震える——それは彼女が若い頃、戦で夫を失う前にも感じたことのある前兆だった。


董卓は笑い飛ばした。


「国母になろうってんだから、前もって驚きがあるのも当然だ。だから、母ちゃん、心配すんなよ」


彼は母に別れを告げて出発した。老母はその背中を見送りながら、長く長く息を吐いた。その目から、一滴の涙が落ちた。


出発の際、董卓は貂蝉に向かって言った。


「儂が天子になったら、お前を貴人に立ててやる」


貴人とは、皇后に次ぐ后妃の位である。董卓は本気で貂蝉を愛していた。彼がこれまでに手に入れた女は数知れないが、貂蝉ほど彼の心を捉えた女はいなかった。彼女の一挙手一投足が、董卓の心を掴んで離さなかった。


貂蝉はすでに内情を知っていた。王允から、すべての計画を聞かされていたのである。彼女は董卓がこの後どうなるかを知っていた。しかし彼女はわざと喜んだふりをして拝礼し感謝した。


その顔には、一点の曇りもなかった。


貂蝉という女は、自分が利用されていることを知りながら、それでもなお、この芝居を演じ続けた。彼女が何を思い、何を願ってそうしたのか、それは誰にもわからない。もしかすると、彼女自身にもわかっていなかったのかもしれない。


董卓は郿塢を出て車に乗り、前後に護衛を従えて長安へ向かった。


長安までは二百五十里。通常なら二日の行程である。董卓は帝位を目前に、一日でも早く都に着きたかった。


三十里も行かないうちに、異変が起きた。乗っていた車の車輪が、突然折れたのである。


車輪は真っ二つに割れ、車体が大きく傾いた。董卓は危うく放り出されそうになり、慌てて車を降りて馬に乗り換えた。側近たちは不吉な顔をしたが、董卓は意に介さなかった。


さらに十里も行かないうちに、今度は馬が咆哮して嘶き、手綱を噛みちぎってしまった。董卓の馬は西涼産の駿馬で、これまで何度も戦場を駆けてきた名馬だった。その馬が突然暴れ出し、手綱を断ち切ったのである。


董卓が李肅に問うた。


「車の車輪が折れ、馬の手綱が切れるとは、何の兆しだ」


李肅は答えた。


「太師が漢の禅譲を受け、古いものを捨てて新しいものに換わり、玉の輿と金の鞍に乗る兆しでございます」


玉の輿とは天子の乗る車、金の鞍とは天子の馬に付ける鞍である。つまり、古い車や馬が壊れたのは、天子の乗り物に乗り換える前触れだというのだ。董卓は喜んでその言葉を信じた。彼は、自分に都合の良い解釈だけを受け入れる男だった。


翌日、道中を進んでいると、突然狂風が巻き起こり、濃霧が空を覆った。


真昼だというのに、あたりは夕闇のように暗くなった。風は砂塵を巻き上げ、兵士たちの松明を次々と消していった。馬が怯えて嘶き、兵たちは慌てふためいた。


董卓が「これは何の瑞兆だ」と問うと、李肅は答えた。


「主君が龍の位に登られるのですから、必ずや赤い光や紫の霧が立ち込め、天の威光を示すものでございます」


董卓はまた喜んで疑わなかった。


この時点で、董卓はおそらく自分が死に向かっていることに気づくべきだった。車輪が折れ、手綱が切れ、狂風が吹き荒れる。これらはすべて凶兆だった。しかし董卓はそれらを「吉兆」と解釈した。


なぜなら彼は、自分こそが天命を受けた者だと信じていたからだ。西涼の一武人から太師にまで上り詰めた男は、自分の運命に絶対の自信を持っていた。その自信こそが、彼の最大の武器であり、最大の弱点でもあった。


城外に到着すると、百官が皆出迎えていた。


長安の城門は大きく開かれ、文武の官たちがずらりと並んでいる。しかしその中に、一人だけ足りない者がいた。董卓の娘婿であり、毒士と呼ばれた参謀、李儒である。


李儒だけが病のため家に留まり、出迎えることができなかった。


董卓はそれを聞いて、少しだけ眉をひそめた。李儒は董卓軍きっての知恵袋であり、董卓が最も信頼する参謀だった。洛陽遷都も、廃立も、呂布の寝返りの阻止も、すべて李儒の献策によるものだった。その李儒が、自分が皇帝になろうという日に、病で出迎えられないとは。


しかし董卓はすぐに気を取り直した。帝位を目前に、些細なことを気にしている場合ではなかった。


李儒はこの時すでに、何かを察していたのかもしれない。あるいは本当に病だったのか。いずれにせよ、李儒が不在だったことが、後の展開に大きな影響を与えることになる。もし李儒が董卓の側にいれば、長安入りを思いとどまらせたかもしれない。しかし歴史に「もし」はない。


董卓が相府に入ると、呂布が祝いにやってきた。


呂布は甲冑を身に着け、戟を手にしていた。その顔はいつも通り無表情で、しかし目だけが異様に光っていた。


董卓は言った。「私が九五の位に就いた暁には、お前に天下の兵馬を総督させよう」


天下の兵馬総督。それは董卓が現在握っている全軍の指揮権を、呂布に与えるという意味だった。董卓は呂布を信頼していた。戟を投げつけたことは、もう過去の話だった。董卓にとって、あれは一時の怒りに過ぎず、呂布がそれで自分を恨むとは露ほども思っていなかった。


呂布は拝礼して感謝し、帳の前で夜を過ごした。


その夜、郊外で十数人の小児が歌を歌っており、風に乗ってその歌声が帳の中に聞こえてきた。


「千里の草、何ぞ青々たる。十日の卜、生を得ず」


千里の草——「董」の字を分解すると「千」と「里」と「草」になる。十日の卜——「卓」の字の上部は「卜」、下部は「十」と「日」に分解できる。つまり「董卓は生きられない」という意味だった。


これは童謡の形を借りた予言である。民衆の間で密かに囁かれていた董卓の死を、子供たちが無邪気に歌っていたのだ。


董卓が「この童謡は何の吉凶を示しているのだ」と問うと、李肅は答えた。


「劉氏が滅び、董氏が興るという意味に過ぎません」


またしても、凶兆を吉兆と言いくるめたのである。ここまでくると、もはや李肅の才能は詐欺師の域に達していた。董卓は再びその言葉を信じた。


翌朝早く、董卓は儀仗を整えて朝廷へ向かった。


この日、長安の空は雲一つない晴天だった。昨日の狂風が嘘のように、穏やかな日差しが街を包んでいる。董卓はそれを見て、天が自分を祝福していると確信した。


朝廷へ向かう道すがら、突然一人の道士が現れた。青い衣に白い頭巾をかぶり、手に長い竿を持ち、そこに一丈の布を結びつけ、その両端にそれぞれ「口」の字を書いていた。


「口」を二つ並べると「呂」になる。つまり、呂布が董卓を殺すという暗号だった。しかし董卓にはその意味がわからない。彼は不審に思って問うた。


「あの道士は何のつもりだ」


李肅は答えた。「心の病を患った者でございます」


そして将兵に命じて追い払わせた。道士は兵に追われながら、何度も振り返り、布を掲げて「口、口」と叫んだ。その叫びが風に乗って、不気味に響き渡った。


これが最後の警告だった。


董卓が朝廷に進むと、群臣はそれぞれ朝服を着て、道沿いで出迎えた。王允、士孫瑞、黄琬、皇甫嵩、朱儁、楊彪——朝廷の重鎮たちが勢揃いしていた。彼らの顔には笑みが浮かんでいたが、それは祝賀の笑みではなかった。


李肅は宝剣を手に持ち、車に付き添って進んだ。その手は汗で濡れていたが、もはや震えてはいなかった。ここまで来れば、あとはやるだけである。


北掖門に到着すると、軍兵は皆門外に留められ、御車と二十余人のみが共に入った。


北掖門は、未央宮の北側にある門で、朝廷の中枢へ通じる最後の関門だった。ここで董卓の護衛兵は締め出され、彼の側に残ったのは二十人ばかりの側近だけとなった。董卓はそれを当然のことと思った。朝廷に多数の兵を連れて入ることは、不敬にあたるからだ。


董卓は遠くに王允らがそれぞれ宝剣を手に持ち、殿門の前に立っているのを見た。


王允が剣を持っている。文官である王允が、剣を手にしている。


董卓は驚き、李肅に問うた。「剣を持っているのはどういう意図だ」


李肅は答えなかった。代わりに、車を押して真っ直ぐに進んだ。董卓の問いかけがなかったかのように、無言で車を押し続けた。


この時、董卓は初めて異変に気づいたはずである。王允は文官であり、これまで剣を持って朝廷に現れたことなど一度もなかった。それに、殿門の前に立っている群臣たちの顔は、祝賀の喜びではなく、恐怖と緊張に引き攣っていた。皇甫嵩の顔は青ざめ、朱儁の手は震え、楊彪の額には汗が浮かんでいた。


しかし、気づいた時にはもう遅かった。


王允が大声で叫んだ。


「逆賊がここに至った。羽林、虎賁たちはどこにいるか」


その声は、老臣のものとは思えぬほどの鋭さで、未央殿の壁に響き渡った。


瞬間、両脇から数百人の兵が飛び出した。戟や矛を構え、董卓の車めがけて殺到する。彼らは全員、王允が密かに用意していた伏兵だった。北掖門の柱の陰、回廊の奥、殿門の裏側——あらゆる場所から、兵士たちが湧き出てきた。


董卓は鎧を着込んでいたため刃が通らず、腕を負傷しながらも車から飛び降りた。


ここから先は、董卓という男の本質が剥き出しになる瞬間だった。


董卓はかつて羌族を震え上がらせた猛将である。弓袋を馬の両側につけて馬を馳せながら左と右の両方の手で弓を引くことができたと評された男は、この絶体絶命の窮地にあってもその武勇を失ってはいなかった。


車から投げ出されながらも即座に身を起こし、腰の剣を抜き放つ。一閃、二閃。最初に飛びかかってきた二人の兵を斬り捨てると、その返す刀で三人目を斬り伏せた。剣は兵の首を断ち切り、血が噴水のように噴き出した。


石畳に血が飛び散り、董卓の朝服が真っ赤に染まる。彼は一歩も退かず、むしろ前に出た。兵たちはあまりの剛力に怯み、包囲の輪が一瞬だけ広がった。


「我こそは董仲穎なるぞ! かかってこい!」


董卓の怒号が、北掖門に轟いた。その声には、かつて西涼の大地で羌族と戦った若き日の豪勇が蘇っていた。彼は六十を過ぎ、酒色に溺れて肥え太っていたが、ひとたび戦いとなれば、その肉体は武将の記憶を呼び覚ました。


驚くべきことに、今のいままで文官の仮面をかぶっていた李肅が、いきなり車の後ろから躍り出て、真剣を手に斬りかかってきたのである。護衛ではなく、暗殺者だった。


「李肅、貴様もか」


董卓は怒号し、斬りかかる李肅の剣を受け止めると、剛力で弾き飛ばした。李肅の体は宙に浮き、石畳に叩きつけられた。剣は手から離れ、高い金属音を立てて転がった。李肅は体制を崩し、たまらず後方に転がった。


董卓は李肅が手放した戟を拾い上げた。戟は長年の愛用の武器であり、手に馴染んでいた。彼は戟を構え直すと、殺到する兵たちを次々と薙ぎ倒していく。


戟が風を切るたびに、兵士たちの悲鳴が上がった。一人の兵が戟の穂先に腹を裂かれ、臓物を撒き散らしながら倒れた。別の兵が首を撥ねられ、その首が石畳を転がって群臣たちの足元で止まった。


かつて羌族を震え上がらせた膂力は、酒色に溺れた今もなお健在だったのである。


しかし多勢に無勢。


討ち取られる兵をものともせず、新手が次から次へと殺到する。十人斬り倒しても、二十人が代わりに押し寄せる。二十人斬り倒しても、三十人が代わりに押し寄せる。董卓の体力は急速に消耗していった。


董卓の鎧は砕け、肩から血が噴き出していた。太腿にも深い傷を受け、片膝をつきながらも戟を振り続けた。それでも彼は膝をつかず、折れた戟を杖代わりにして立ち続けた。


その姿はまさに手負いの獅子だった。


彼の周囲には、斬り伏せられた兵士たちの死体が山と積まれていた。血の海の中で、董卓は一人で戦い続けた。もはや勝てる戦いではない。それでも彼は戦った。それが西涼の武将、董仲穎の生き様だった。


「倅の奉先はどこか」


董卓が最後の力を振り絞って叫んだ。


自分の義子であり、最強の護衛である呂布ならば、この包囲を打ち破って自分を救い出せるはずだ。そう信じての言葉だった。彼は最期の瞬間まで、呂布を信じていた。あるいは、信じるしかなかった。


なぜなら呂布は、董卓が最も信頼していた男だったからだ。董卓は呂布を義子とし、衣食を与え、官位を与え、自分の側に置いた。戟を投げつけたことはあっても、それは親子喧嘩のようなものだと思っていた。まさか呂布が自分を裏切るとは、夢にも思っていなかった。


しかし、返ってきた言葉は、董卓の想像を絶するものだった。


「詔を受けて賊を討つ」


呂布は車の後ろから現れた。その手には、董卓と同じ形の戟が握られている。


董卓が折れた戟を構えるよりも早く、呂布の戟が唸りを上げて董卓の喉元を真っ直ぐに突き刺した。


あまりにも速い一撃だった。董卓は避けることも防ぐこともできなかった。戟の穂先が喉を貫き、赤い血が噴き出した。


董卓は信じられないものを見る目で呂布を見つめた。


自分の最も信頼していた義子が、自分を殺したのだ。衣食を与え、官位を与え、自分の側に置いた男が、今、自分の喉に戟を突き立てている。


裏切られた。


董卓はその事実を、死の間際に理解した。呂布の顔を見た。その顔は冷たく、一片の感情も浮かんでいなかった。かつて「義父上」と呼んでいた口が、今は固く結ばれている。


その驚愕と裏切りの表情を顔に張り付けたまま、董卓の巨体はゆっくりと崩れ落ちた。


数十の傷を全身に受け、血にまみれながらも最期まで武人として戦い抜いた魔王は、こうしてその生涯を閉じたのである。


李肅はすかさず董卓の首を切り落として手に取った。その手際は手慣れたもので、一太刀で董卓の頭と胴体を切り離した。


血が噴き出し、李肅の顔にかかったが、彼はそれを拭おうともしなかった。董卓の首を高々と掲げながら、周囲を見渡した。


呂布は左手に戟を持ち、右手で懐から詔を取り出し、大声で叫んだ。


「詔を奉じて逆臣・董卓を討ち取った。その他の者は問わぬ」


将吏たちは皆「万歳」と歓呼した。その声は、北掖門を越え、長安の街々に響き渡った。


董卓が死んだ。魔王が倒れた。漢帝国に巣食った最大の毒が、ついに摘み取られたのである。


呂布はさらに大声で叫んだ。


「董卓を助けて暴虐を尽くした者は、皆、李儒である。誰か奴を捕らえられる者はいるか」


李肅がそれに応えて自ら赴くことを願い出た。しかし突然、朝廷の門外で歓声が上がった。李儒の家奴がすでに李儒を縛り上げて献上しに来たという報告が入った。


王允は彼を市場に引き出して斬首するよう命じた。


ただし、ここで献上された李儒は偽物だった。本物の李儒は、すでにこの時、密かに姿を消していたのである。彼の家奴が捕まえたのは、李儒に似せた替え玉だった。本物の李儒は、董卓の死を察知すると同時に、幼い子供たちを連れて長安を脱出していた。後に彼が高順と邂逅することになるのだが、それはまだ誰も知らないことだった。


董卓の死体は市中の十字路に晒し首にされた。


見せしめである。董卓がいかに無惨に死んだかを民衆に見せつけ、董卓の時代が終わったことを知らしめるための措置だった。


董卓の死体は太っていたため、見張りの兵士がそのへそに火を灯して灯明にすると、脂が地面に流れ出した。人の脂が燃える独特の臭いが、あたり一面に立ち込めた。その臭いは数日間消えず、長安の街に董卓の死を刻みつけた。


通りかかる民衆で、その頭を手で投げつけ、その死体を足で踏みつけない者はなかった。老若男女が石を投げ、唾を吐きかけ、積年の恨みを晴らすように死体を踏みつけていった。ある老婆は董卓の顔に石を投げつけながら、董卓に殺された息子の名を叫んだ。ある農民は董卓の腹を蹴り飛ばしながら、董卓に奪われた土地の恨みを叫んだ。


この時、董卓の体から流れ出た脂と血は、石畳の目地に染み込み、長く黒い染みとなって残ったという。


後世の人が董卓を嘆いた詩がある。


「覇業成る時は帝王となり、成らずんば富家郎となる。誰か知らん、天意に私曲なく、郿塢まさに成らんとしてすでに滅亡せんとは」


王允はさらに呂布、皇甫嵩、李肅に五万の兵を率いさせ、郿塢へ赴いて董卓の財産や家族を没収するよう命じた。


長安は歓喜と混乱の坩堝にあった。董卓という魔王は倒された。しかし彼が遺した空白は、まだ何も埋まっていなかった。民衆はそのことをまだ知らなかった。ただ「魔王が死んだ」という事実だけで、酒を飲み、踊り狂い、新しい時代の到来を祝っていた。


北掖門の血は、やがて雨が洗い流すだろう。しかしそこで起きた出来事は、歴史に深く刻まれることになる。


董卓、字は仲穎。西涼の豪族から身を起こし、漢帝国を掌中に収めた男は、こうしてその生涯を閉じた。


彼の死によって、漢帝国はひとまず最大の毒を摘み出した。しかし、毒を摘み出した後に残った傷口は、あまりにも大きく、あまりにも深かった。その傷口から、やがて新たな混乱が噴き出そうとしていたのだが、今はまだ、誰もそのことに気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ