二段
郿城から長安へと向かう董卓の行列は、絢爛豪華を極めていた。
先頭には涼州の精鋭騎兵が隊列を組み、その後に董卓の乗る巨大な馬車が続く。馬車は金箔で飾られた天蓋を持ち、四頭の白馬に牽かれていた。車内には董卓が巨体を横たえ、傍らには貂蝉が控えている。さらにその後方には親衛隊が続き、総勢数千におよぶ大行列が、長安へと通じる街道を埋め尽くしていた。道端には物見高い民たちが跪き、その華やかさに息を呑んでいる。
「相国様、まもなく長安の城門でございます」
李儒の声に、董卓は重たげな瞼を持ち上げた。彼は昨晩も遅くまで酒を煽り、寝不足気味だった。だが今日は特別な日である。献帝が自らに譲位する「慶事の儀」これによって董卓は、名実ともに天下の支配者となるはずだった。
「うむ。長安の民は、わしのことをどう見ておるか」
「もちろんどなたも、相国様のご威光にひれ伏しております」
李儒の言葉に、董卓は満足げに頷いた。彼は馬車の窓から外を眺めた。跪く民たちの姿が見える。彼らは董卓を恐れ、敬い、そして憎んでいる。董卓はそのすべてを知っていた。しかし彼は、それでよいと思っていた。恐れも敬いも、権力の前では同じことだ。彼が信じた「力こそが正義」という辺境の論理は、今や洛陽と長安を支配する現実となっていたのである。
行列が長安の城門をくぐると、街は静まり返っていた。いつもならば市場の喧騒が聞こえる時刻だが、今日は「慶事の儀」のために一般の通行が制限されている。街路には衛兵が立ち並び、その間を董卓の行列がゆっくりと進んでいく。
宮殿の北掖門が見えてきた。この門をくぐれば、そこは未央宮の前殿である。献帝が待ち、百官が集い、そして董卓が天子の位を譲り受けるそのはずだった。
北掖門の前には、李肅が待ち構えていた。
李肅は呂布と同郷の武将で、かつて董卓に呂布を引き合わせた男である。彼は今日、宮門の守備兵を指揮する任に就いていた。表向きは董卓を出迎えるためだが、その目は笑っていなかった。彼の手には汗が滲み、胸の内では激しい動悸が鳴り響いている。これから自分が行おうとしていること董卓暗殺の手引きを思うと、いくら戦場慣れした武人でも平静ではいられなかった。
「相国様、ようこそお越しくださいました。どうぞ、こちらへ」
李肅は深く拱手し、董卓を門の内側へと導いた。董卓は何の疑いもなく馬車を降り、供回りの者たちに手を振って門をくぐった。その後ろ姿を、李肅はまぶたの裏に焼き付けながら、震える手で衛兵に合図を送る。
董卓が門をくぐり抜けた瞬間、李肅は素早く衛兵たちに目配せした。あらかじめ手配していた衛兵たちが、重い門扉を閉ざし始める。董卓の親衛隊は門の外で待機するよう命じられていたため、董卓の周りにはわずかな供回りだけが残された。李肅は董卓の護衛と側近たちを門の内側で足止めし、董卓だけが先に進むよう巧妙に誘導したのである。
「なにをしておる。早く門を開けよ」
門の外では、董卓の親衛隊長が異変を察して叫んだ。しかし時すでに遅かった。分厚い門扉は完全に閉ざされ、内側から閂が下ろされる。親衛隊は門を破ろうと試みたが、李肅があらかじめ配置していた伏兵たちが立ちはだかったのである。
董卓はまだ気づいていなかった。彼は広い宮殿の前庭を、悠然とした足取りで進んでいく。
その時だった。
門の陰から飛び出した一人の巨漢が、方戟を振りかざして董卓に襲いかかった。呂布である。人中の呂布、馬中の赤兎と称される天下無双の飛将軍。その顔は憤怒と決意に歪み、戟を握る両手には殺意がみなぎっていた。
「董卓! 覚悟せよ!」
呂布の絶叫が宮殿の前庭に轟いた。董卓は驚愕の表情を浮かべ、とっさに身をかわそうとした。彼の巨体が意外なほど素早く動いたのは、長年の戦場で培われた本能だったのかもしれない。しかし呂布の戟は董卓の肩を深く斬り裂いた。鮮血が飛び散り、董卓の礼服が一瞬で赤く染まる。
「呂布! 貴様、裏切ったな!」
董卓は倒れ込みながら、信じられないものを見る目で呂布を睨み上げた。呂布は彼の養子である。董卓は呂布を我が子のように遇し、赤兎馬を与え、中郎将に取り立て、都亭侯に封じた。その呂布が、今、自分に刃を向けている。
「裏切りではない。俺は漢の臣として、逆賊を討つだけだ!」
呂布は無言で第二撃を放った。戟が唸りを上げ、董卓の胸を貫いた。戟の穂先は鎧を砕き、肉を裂き、背中まで突き抜けた。魔王と呼ばれた巨漢は、口から血の泡を吹きながら、その場に崩れ落ちた。
董卓の目が大きく見開かれた。その目には、怒りか、悲しみか、あるいは深い諦念か何が映っていたのか、誰にもわからない。ただ、彼の口が最期に動いた。
「孝……父……」
それが、董卓の最期の言葉だった。
享年、数えで五十四。涼州の片田舎から身を起こし、天下の頂点にまで上り詰めた男は、養子の手によってその生涯を閉じたのである。
宮門の外では、董卓の親衛隊が必死に門を破ろうとしていた。分厚い木板が斧で砕かれ、悲鳴と怒号が入り混じる。しかし李肅が配置した伏兵たちがそれを阻み、親衛隊は容易に門を突破できない。中では董卓の護衛と側近たちが、呂布の手勢によって次々と斬り倒されていた。
その時、李肅は門の上から叫んだ。
「董卓は既に誅された! 詔勅は董卓だけを討つものであり、他の者は問わないとお達しである! 武器を捨て、速やかに降伏せよ!」
詔勅その言葉に、親衛隊の動きが一瞬止まった。詔勅とは天子の命令である。自分たちが董卓に従うのも、詔勅に従うのも、結局は同じことだった。天子の名において董卓が討たれた以上、これ以上の抵抗は反逆となる。彼らは主君を失い、武器を捨て、次々と降伏していった。
ある者は泣きながら剣を置き、ある者は呆然と立ち尽くし、またある者は董卓の名を叫びながら斬りかかって返り討ちにあった。主君を守れなかった護衛たちの慟哭が、宮殿の前庭に谺した。
董卓の死はまさに「権力者の孤独な最期」であった。彼は天下を掌握しながら、最期に彼を守ろうとした者はわずかな親衛隊だけだった。呂布に貫かれた胸からは血が流れ続け、董卓の巨体は冷たい石畳の上に横たわる。その傍らには、彼が佩いていた項羽の刀はなかった。すでに高順に託した後だったのである。
王允はただちに宮中に駆けつけ、献帝の前で董卓の罪を列挙した。
「董卓は逆賊なり。洛陽を焼き、天子を廃し、無辜の民を虐げた。その罪、天に達す。ここに詔勅を奉じ、董卓を誅す。これより漢室は再び正しき道に戻る。諸侯よ、安心されよ!」
王允の声は震えていた。老いた司徒は、長年の忍従の末にようやく訪れたこの瞬間に、言葉を詰まらせた。彼は泣いていた。友を殺され、天子を辱められ、娘を犠牲にしてまで耐え抜いてきた日々が、今報われたのである。
「よくぞやった、奉先。よくぞ漢室のために」
王允は呂布の肩を抱き、涙ながらに感謝の言葉を述べた。呂布は無言で頷いたが、その目は笑っていなかった。彼にとって董卓を殺したことは、漢室のためでもなければ、天下のためでもない。自分を裏切った男への復讐であり、何より貂蝉を取り戻すための行為だった。
貂蝉は北掖門の陰で、すべてを見ていた。董卓が倒れ、呂布が戟を収めるまで、彼女は一歩も動かなかった。その美しい顔には、涙の跡はなかった。彼女は自らの役割を果たしただけである。董卓と呂布の間を引き裂き、董卓を孤立させ、呂布を決起させる。それが王允から与えられた使命だった。そしてそれは達成された。しかし彼女の胸にも、重いものが沈んでいた。董卓は確かに暴君だった。しかし彼女に優しかったことも事実だった。その優しさを利用して彼を死に追いやったという罪悪感は、生涯消えることはないだろう。
この瞬間はまさに「連環の計」の完成であり、一人の女性の犠牲によって天下が動いた瞬間だった。貂蝉は十六歳の若さで、天下の命運を握る役割を背負わされた。それはあまりにも重い役目だったが、彼女は決して弱音を吐かなかった。彼女の美しさが董卓を惑わせ、呂布を狂わせ、そして天下を動かしたそれは彼女自身が望んだことではない。しかし彼女は、与えられた役割を全うしたのである。
董卓の死は、瞬く間に長安全土に広がった。
王允はすぐさま董卓の罪を列挙した布告を出し、長安の全市場に貼り出させた。布告には董卓が洛陽を焼いたこと、天子を廃したこと、無辜の民を虐げたことが列挙されている。その知らせを聞いた民たちは、最初は半信半疑だった。あの魔王が、本当に死んだのか。何かの罠ではないのか。彼らは恐る恐る街に出て、互いの顔を見合わせた。
しかし董卓の首が市場に晒されたのを目の当たりにすると、彼らは堰を切ったように歓喜の声を上げた。あの巨体、あのぎょろりとした目、何度も見てきた恐怖の象徴が、今は木の檻の中で無言のまま晒されている。
「董卓が死んだぞ!」
「魔王が倒れた!」
「これで俺たちも、ようやく安心して暮らせるってもんだ!」
街中で爆竹が鳴らされ、人々は酒を酌み交わし、踊り狂った。董卓の死は、長安の民にとってまさに「解放」だった。ある者は董卓の首に石を投げ、ある者は唾を吐きかけ、ある者は泣きながら亡き家族の名を叫んだ。董卓の圧政によって家族を失った者たちにとって、この日は長年待ち望んだ復讐の日でもあったのだ。
この日ばかりは老いも若きも、男も女も、みな路上に飛び出して喜びを分かち合った。長年の恐怖からの解放は、人々の心に溜まっていた鬱屈を一気に爆発させたのである。干し肉の食堂の店主は、高順から聞いた言葉を思い出していた。「あまり俺の名前を出しすぎるな」と言われたあの将軍が、今日という日をどこかで知っていたのかどうか店主にはわからなかったが、とにかく今日は祝いの酒を振る舞おうと決めた。
しかし歓喜の裏で、董卓一族への苛烈な粛清が始まっていた。
王允の命令により、郿城に残された董卓の一族は皆殺しにされた。老母も、幼い子供たちも、一族郎党すべてである。董卓の弟・董旻は斬首され、甥の董璜も処刑された。九十歳を超えていたという董卓の老母は、処刑場に引き出される際、縋るように叫んだという。
「私は九十を過ぎて何の罪があるというのか! どうか命だけは」
しかしその願いが聞き入れられることはなかった。彼女は一族の中で最も早く斬首された。董卓が作り上げた「恐怖政治」の最期の姿だった。恐怖によって支配した者は、恐怖によって滅ぼされる。董卓の一族は、董卓自身が長年かけて積み上げてきた怨恨の生贄となったのである。
郿城に蓄えられた莫大な財宝は没収され、三十年分の食糧も全て接収された。董卓が生涯をかけて築き上げたすべてが、一日のうちに瓦解した。その速度と徹底ぶりは、王允がどれほど周到に計画を練っていたかを物語っている。
鎮北将軍府の執務室で、私はこの一連の報せを静かに聞いていた。
董卓が死んだ。王允と呂布の陰謀は成功し、歴史は史実通りに動いた。私は董卓の最期の言葉を聞いた。「孝父」なぜ董卓は死に際に私の名を呼んだのか。助けを求めたのか。それとも、娘を託した私に、最後の別れを告げたのか。今となっては確かめようもない。
しかし私は、董卓の死をただ傍観していたわけではない。私は王允に約束させていた。「事が成った後、長安の街で略奪や暴行を一切許さぬこと。もしその約束が守れぬなら、その時は私がお前たちを敵と見なす」と。そして今、六人の将がそれぞれの持ち場で民を守っている。董卓が死んでも、長安の静寂だけは守り抜く。それが私の戦いだった。
(董卓は死んだ。俺は何もできなかった。いや、何もしなかった。それが正しかったのかどうか、俺にはわからない。しかし俺はこれからも生き延びねばならない。守るべき民がいる。育てるべき国がある。董卓の理想は俺が引き継ぐ。董卓の過ちは俺が繰り返さない。そのために、今は目の前の混乱を収めねばならない)
窓の外では、董卓の死を祝う民たちの歓声が聞こえていた。その歓声は、かつて洛陽を焼き、天子を廃した暴君への葬送曲だった。しかし私の耳には、それが一人の人間の悲劇を覆い隠す、空疎な騒音にしか聞こえなかった。




