一段
初平三年、四月。長安の朝は冷え込んだ。
空は朝から重く垂れ込め、今にも泣き出しそうな雲が都の上に低くかかっていた。夜明け前の静寂の中で、私は将軍府の中庭に立ち、一人、槍の素振りをしていた。吐く息が白く凍るような冷え込みの中、百回の突きを正確に繰り返す。槍の穂先が空を切り裂くたびに、ひゅっという鋭い音が静かな中庭に響いた。
身体が温まるにつれ、昨夜からの緊張がわずかにほぐれていくのを感じた。しかし胃のあたりは相変わらずキリキリと痛む。これは前世から持ってきた持病のようなものだ。ストレスがかかると必ず胃が痛む。今日は特に酷い。無理もない。今日、歴史が動くのだ。
素振りを終え、鎧を身に着ける。いつもの黒甲ではない。今日は董卓から下賜された武衛将軍の正装である。胸当てには董卓直々に鋳させたという銀の飾りが刻まれ、肩当てには涼州様式の重厚な鉄板が使われている。董卓はこれを私に与える時、「これでお前も我が一族だ」と言った。その言葉が、今は妙に重く胸に響く。
(これから董卓が死ぬ。俺はそれを知りながら、何もしない。いや、正確には、治安維持という名目で動くが、董卓を救うこともしなければ、積極的に討つこともしない。俺はただ、歴史の傍観者に徹する。それが俺の生存戦略だ。しかしそれでいいのか。董卓は俺に娘を託し、項羽の刀を託した。その信頼に、俺は応えられないのか。いや、応える術がないのだ)
「大将、朝餉の用意ができました」
張五が声をかけてきた。彼は昨夜、私が司徒府から戻った時のただならぬ様子を察し、何も聞かずに朝餉の準備を整えていたのである。机の上には粥と漬物、それに薬草の香りがする汁物が並んでいる。昭姫が并州で覚えた味を再現したものだ。私は彼女の気遣いに感謝しながら、箸を手に取った。
だが、粥を口に運んでも味はよくわからなかった。緊張のせいか、胃がキリキリと痛む。それでも食べねばならない。今日は長い一日になる。いつ戦いが起きても対応できるよう、体力を蓄えておく必要があった。
「張五、今日は何があっても俺の指示を待て。決して独断で動くな」
「承知しました。大将、何かあるんですか」
張五の声には不安が滲んでいた。彼は若いが、戦場の勘は鋭い。今日の長安の空気がただならぬことを、彼もすでに感じ取っているのだろう。
「ある。だが今はまだ言えぬ。ただ、長安の街が混乱に陥ることは間違いない。我々陷陣営の任務は、その混乱から民を守ることだ」
「民を、でございますか」
「そうだ。誰が上に立とうと、民の暮らしは変わらぬ。いや、政変のたびに民は苦しむ。略奪があり、暴行があり、放火がある。それを防ぐのが我々の仕事だ」
張五は深く頷いた。彼の目には、不安と同時に強い決意の色が浮かんでいる。彼はすでに一人前の将だった。并州で捕虜となり、死線を越えた経験が、彼を大きく成長させたのである。あの時、彼は自分の驕りを恥じ、そして「生きて借りを返す」と誓った。今の張五には、その誓いを果たそうとする覚悟があった。
朝餉を終えた私は、将軍府の門を出る前に、昭姫と董媛に別れを告げた。
昭姫はすでに起きており、私が今日ただならぬ一日になることを察しているようだった。彼女は何も聞かず、ただ「お気をつけて」とだけ言って、私の手を握った。その手の温もりが、冷え切った私の心を少しだけ解かした。
「昭姫、今日は屋敷から出るな。何があってもだ」
「はい。将軍も、どうかご無事で」
彼女の目はまっすぐに私を見つめていた。その瞳には、不安と同時に強い信頼が宿っている。私は彼女の手を握り返し、それから振り返らずに門を出た。
董媛はまだ眠っていた。昨夜、遅くまで短剣の手入れをしていたらしい。彼女は董卓の娘である。今日、父がどのような運命を辿るか、私は彼女に伝えていない。伝えられない。もし伝えれば、彼女は真っ先に郿城へ駆けつけ、父を救おうとするだろう。それは彼女の死を意味する。私は彼女を守ると約束した。だからこそ、真実を隠すしかなかった。
「媛様は、私が後でお伝えしておきます。どのようにお伝えすればよいかは、将軍のお考えのままに」
「ああ、頼む。辛い役目を押し付けてすまない」
「いいえ。これが私の役目ですから」
昭姫の声は静かだったが、そこには揺るぎない決意が込められていた。彼女は「文」として将軍府に潜入した時から、この日が来ることを覚悟していたのかもしれない。
私は驍風に跨った。蹄が石畳を叩く音が、静かな朝の街に響く。
将軍府を出た私は、まず北門に向かった。
長安の街はまだ眠りから覚めきっておらず、大通りには人通りもまばらだった。市場の露店もまだ開いておらず、城壁の上に立つ衛兵たちだけが、静かに朝の見張りについている。しかし空気は張り詰めていた。まるで嵐の前の静けさのように、都全体が息を潜めているかのようだった。
北門にはすでに呉資が配置についており、門の周辺を厳重に警戒している。彼は私の姿を認めると、静かに拱手した。
「呉資、どうだ」
「異常はありません。ただ、宮中からの使者が数度、王司徒の屋敷に出入りしているのを確認しました。夜明け前にも、呂布将軍と思しき人物が司徒府の裏門から入るのを見たと、見張りの者が申しております」
「そうか。そのまま監視を続けよ。決して動くな。何があっても、だ」
「承知しました。将軍、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「我々は、何のためにここにいるのでございましょうか。董相国をお守りするためでは、ないのですか」
呉資の声には、わずかな戸惑いが混じっていた。彼は董卓軍の一員として、長年戦ってきた。その彼が、董卓の危機を知りながら動かないことへの違和感を覚えるのは当然だった。
「俺たちの任務は、董相国を守ることではない。長安の民を守ることだ。誰が上に立とうと、民の暮らしは変わらん。いや、政変のたびに民は苦しむ。略奪があり、暴行があり、放火がある。それを防ぐのが我々の仕事だ」
「しかし、董相国は……」
「相国には相国の道がある。我々には我々の道がある。それでいい」
呉資はしばらく私の顔を見つめていたが、やがて深く頷いた。彼は私を信じていた。その信頼に、私は報いなければならない。
次に東門の章誑を訪ねた。章誼は鷹のような鋭い眼光で周囲を睨みながら、すでに完全な戦闘態勢を整えていた。
「章誑、どうだ」
「東の空に不穏な気配を感じます。風向きが変わりました。何かが起こる」
章誼は戦場の勘が特に優れた男だった。彼は理屈ではなく、肌で危険を感じ取ることができる。彼が「風向きが変わる」と言う時は、必ず何かが起きる。
「ああ、その通りだ。今日は何かが起こる。だが動くな。俺の指示があるまでは、決して動くな」
「将軍がそうおっしゃるなら。しかし、もし将軍に万一のことがあれば、私は勝手に動きます」
「その時は、お前の判断に任せる。だが今はまだ、その時ではない」
南門の汎凝は、熊のような巨躯を門の前に据え、無言で私を待っていた。
「汎凝、変わりはないか」
「ありません。静かなものです」
汎凝は寡黙な男だった。彼は言葉少なに、しかし確実に任務を遂行する。彼の静けさが、かえって頼もしかった。
西門の張弘にも同じ指示を与え、趙庶には城内の巡回を継続させた。高雅には宮殿周辺の警戒を厳重にするよう命じ、特に天子の身に万一のことがあれば、全ての責任を負う覚悟で臨むように伝えた。六人は皆、私のただならぬ様子を察しながらも、黙って命令に従った。彼らは高順という将を信じていた。その信頼に、私は報いなければならない。
時刻は刻一刻と過ぎていく。私は長安の城壁の上に立ち、西の方角を見つめていた。郿城から董卓の行列が動き出す時刻は近い。
城壁の上からは、長安の街が一望できた。かつて前漢の都として栄えたこの街は、今や董卓の恐怖政治の下で息を潜めている。しかし民の暮らしは続いていた。井戸端で水を汲む女たち、市場の開店準備をする商人たち、城門の外で検問を受ける旅人たち。彼らはまだ知らない。今日、この都で歴史が動くことを。
(董卓は知っているのだろうか。自分がこれから死地に向かおうとしていることを。いや、おそらく知るまい。彼は「慶事の儀」を自分の権力の頂点を飾るものと信じている。呂布が自分を裏切るなど、夢にも思っていまい。彼は「自分の正義は必ず報われる」と信じていた男だ。その信念が、最期には彼を盲目にしたのだろうか。それとも、すべてを諦めた上で、なお運命に身を委ねようとしているのだろうか)
董卓は昨日、私に言った。「媛を頼んだぞ」と。あれは父としての言葉だったのだろうか。それとも、自分の死を予感しての言葉だったのか。今となっては確かめようもない。しかし彼が私に項羽の刀を託したことは、確かな事実だった。力で天下を取ろうとした項羽の刀。董卓はその刀を佩き続けた。そして最後に、私に託した。その意味を、私は生涯考え続けるだろう。
歴史書は董卓を「暴君」と断じている。洛陽を焼き、天子を廃し、名門を殺した逆賊。それが歴史に刻まれた董卓の姿だ。しかし私が見た董卓は、羌族と酒を酌み交わした侠気の若者であり、九千匹の絹を全て部下に分け与えた将軍であり、国を正そうと志しながら裏切られていった一人の男だった。彼は確かに多くの罪を犯した。洛陽を焼き、民を苦しめ、無実の者を殺した。それらの罪は決して消えない。しかし彼は、最初から暴君だったわけではない。
(私は董卓のようにはならない。彼の理想は私が引き継ぐ。彼の過ちは私が繰り返さない。法と秩序で国を治め、恐怖ではなく公正さで民を守る。それが董卓という男の生涯から私が引き出した教訓だった)
驍風の背で、私は静かに目を閉じた。
郿城から董卓の行列が動き出したという報せが入った。行列は絢爛豪華を極め、数千の親衛隊が周囲を固めているという。董卓は馬車の中で貂蝉を傍らに従え、自らの権力の絶頂を楽しんでいるだろう。しかしその道中には、呂布の戟が待ち受けている。董卓の親衛隊は門の外で待機させられ、董卓が門をくぐった瞬間に李肅が門を閉ざす。護衛を分断された董卓は、為す術もなく呂布の戟に貫かれるだろう。
それが歴史の筋書きだった。私はそれを変える力を持たない。いや、持っていたとしても、変えるべきかどうかは別の問題だった。董卓を救えば、王允と呂布が死ぬ。歴史はさらに大きな混乱に陥るかもしれない。私は歴史の修正力を恐れていた。私一人の判断で、何万人もの運命を変えていいのか。
(俺はただ、生き延びたいだけだ。董卓を救うことも、討つことも、俺にはできない。俺にできるのは、民を守ることだけだ。それが俺の限界であり、俺の責務だ)
私は手綱を握り直し、長安の街を見渡した。この都で、今日、歴史が動く。そして私は、その中で生き延びなければならない。守るべき民がいる。育てるべき国がある。だから俺は、今日も戦う。
遠く宮殿の方角から、銅鑼の音が聞こえてきた。「慶事の儀」の始まりを告げる音だった。重く、低いその響きが、長安の街全体に静かに広がっていく。それは同時に、董卓の最期を告げる鐘の音でもあった。
私は馬首を巡らせ、ゆっくりと城壁を降りた。これから、歴史の目撃者になるために。驍風の蹄が石畳を叩く音だけが、静かな朝の街に響いていた。




