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四段

郿城から鎮北将軍府に戻った私は、董卓から託された項羽の刀を文机の上に置き、長い夜を一人で過ごした。


刀身を鞘から抜き、月光に透かしてみる。楚の覇王が佩いたという伝説の刀は、几帳面に手入れが行き届いており、刃こぼれ一つなかった。董卓はこの刀をどれほど大切にしていたのか、その手入れの丁寧さが物語っている。


董卓は死ぬ。それは歴史の必然であり、私にはどうすることもできない。王允と呂布の陰謀はすでに動き出しており、私が警告したところで董卓は信じまい。それに、天下の趨勢から見れば、董卓の死は避けられない区切りだった。むしろ、問題はその後にある。董卓が死ねば長安は混乱に陥り、并州にもその波が押し寄せる。私は生き延びねばならない。守るべき民がいる。育てるべき国がある。


項羽の刀を鞘に戻しながら、私は董卓の言葉を思い出していた。酒池肉林の宴の後、私だけを呼び止めて語ったあの夜のことを。董卓は自分の人生を「末の子」と称して語り、羌族との友情や洛陽での挫折を包み隠さず話した。あの時、董卓はすでに自分の最期を予感していたのかもしれない。だからこそ、私に刀を託したのだろう。


翌朝、私は幕僚の董昭を執務室に呼んだ。董昭は私が河内から連れてきた有能な文官で、并州との連絡役も務めている。


「公仁、これから長安は大きく動く。王允殿が何かを企てている気配がある。もし長安に異変があれば、我々は即座に并州へ戻る。その準備を進めておけ」


董昭は私の只ならぬ様子を察し、深く頷いた。


「将軍、長安に異変とは、どのような」


「今はまだ言えぬ。しかし備えだけは怠るな。それから、并州の張遼と郝萌に書簡を送れ。『長安に異変あれば、決して軽挙妄動せず、并州の守りを固めよ。民の安全を第一とせよ』とな」


「承知いたしました」


董昭は一礼して退室しようとしたが、扉の前で足を止め、振り返った。


「将軍、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「なんだ」


「将軍は董相国をどう見ておられますか。長安では董相国を『暴君』と呼ぶ者も少なくありませぬ。しかし将軍は相国から深く信頼され、今また刀を託された。将軍のお考えをお聞きしたい」


私はしばらく考え込んだ。董昭は私の側近であり、これから并州で国を作る上で欠かせない人物だ。彼にだけは、私の本心を伝えておくべきだろう。


「董相国は確かに多くの罪を犯した。洛陽を焼き、民を苦しめ、無実の者を殺した。しかし最初から暴君だったわけではない。相国は国を正そうとした。腐敗した朝廷を一掃し、民が苦しまずに済む世を作ろうとした。その手段が過激すぎただけだ」


「手段が過激、でございますか」


「ああ。相国は自分が正しいと思ったことを、周囲の反対を押し切って実行するお方だった。妥協も根回しも知らなかった。羌族の頭領たちと酒を酌み交わし、誠実に接すれば必ず報われると信じていた。しかし洛陽の政治は、羌族の侠客たちのように単純ではなかった。相国はそれに気づかなかった。気づいた時には、すでに手遅れだったのだ」


董昭は深く考え込むように俯いた後、再び私を見た。


「将軍は、董相国のようにはならない、と」


「もちろんだ。私は法と秩序で国を治める。恐怖ではなく公正さで人を従わせる。相国の理想は引き継ぐが、相国の過ちは繰り返さない」


董昭が退室した後、私は再び項羽の刀を手に取った。刀は不思議なほど手に馴染んだ。董卓の手の温もりがまだ残っているかのようだった。私はこの刀を董媛に渡すつもりでいる。彼女は董卓の娘であり、この刀を受け継ぐ権利がある。そして彼女は、父の過ちを繰り返さないだろう。


日が落ち、将軍府に夜の帳が下りた頃、私は執務室で并州の地図を広げたまま、深い疲れに身を任せていた。


張遼と郝萌への指示はすでに送り、長安の情勢を探る密偵も放った。長安の城門の配置図、王允の屋敷への人の出入り、呂布の軍営の動き、集められる情報はすべて集めた。やるべきことはすべてやった。あとは時を待つだけである。


地図の上で、并州は広大だった。水路は五原から河内までを結び、粟畑は黄金の波を揺らし、民は耕し、兵は鍛えられている。それはまだ小さな国だったが、確かに一つの国だった。私が目指した「誰もが安心して暮らせる国」の原型が、そこにはあった。そしてこの国を守るためには、長安の混乱に巻き込まれるわけにはいかない。


まどろみの中で、かすかな足音が聞こえた。茶の香りが部屋に広がる。


「将軍、お休みになられてはいかがですか」


昭姫だった。彼女は手に茶碗を持ち、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。私は半分眠りながら、彼女の存在をどこか遠くに感じていた。執務机の上には項羽の刀があり、その横には書きかけの書簡が散らばっている。


「昭姫か……すまない、少し疲れた……」


私は目を閉じたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。それが現実の言葉なのか、夢の中の呟きなのか、自分でもわからなかった。頭の中で、歴史書の記述と目の前の現実が入り混じっていく。


「蔡琰……蔡昭姫……お前の人生は、本来ならばもっと過酷なものだった……」


史実では、蔡昭姫はもっと壮絶な運命を辿るはずだった。董卓が死に、李傕と郭汜が長安を制圧した混乱の中で、彼女は匈奴に連れ去られる。そして十二年もの間、異境の地で過ごし、二人の子を産む。後に曹操が彼女の才能を惜しみ、莫大な身代金を払って漢に呼び戻すが、匈奴に残してきた子供たちとの別れは彼女の心に深い傷を残した。彼女の『悲憤詩』『漢季権柄を失い、董卓天常を乱る』で始まるあの詩は、その時に生まれたのだ。


しかしここでは違う。昭姫は匈奴に連れ去られることはなかった。私が歴史の流れを少しだけ変えたからだ。彼女は今、こうして私の妻として、この将軍府で茶を入れている。その「当たり前」が、どれほど奇跡的なことなのか。


「しかし、ここでは違う……お前は俺の妻として、この将軍府で生きている……俺は、お前を絶対に匈奴になど渡さぬ……絶対に……お前は俺が守る……」


「将軍、何をおっしゃっているのですか。私はここにおります。どちらにも参りません」


昭姫の声は優しかった。私はその声を聞きながら、さらに言葉を紡ぎ続けた。夢うつつの状態で、私の口は止まらなかった。


「そうだ……お前はここにいる……それでいい……それでいいのだ……お前は匈奴に連れ去られることなく、こうして俺の妻でいる……それが何よりも大事なことだ……」


私はさらに言葉を続けた。それは董卓の死後、歴史がどのように動くかという予言めいた内容だった。私の口は自分の意志とは無関係に動き、歴史書の記述をそのまま語っていく。


「これから……王允の連環の計が発動する……貂蝉という女性が董卓と呂布を引き裂き、呂布は王允に抱き込まれる……董卓は呂布に殺される……蔡邕殿は董卓の死を嘆き、思わず声をあげてしまう……その嘆きの声が王允の逆鱗に触れ、蔡邕殿は投獄され、獄中で死ぬ……気をつけねばならぬ……蔡邕殿は董卓に仕えたことを後悔していない……董卓が彼に与えた学問の場を、彼は感謝していたのだ……王允はそれを理解できない……」


昭姫の手が私の肩を揺さぶった。父の名が出たからだろう。


「将軍! 父がどうかしたのですか。しっかりなさってください」


しかし私は目を開けることができなかった。あまりにも疲れていた。言葉は止まらず、とめどなく溢れ続ける。それはまるで、堰を切ったように流れ出る濁流のようだった。


「董卓が死んでも、混乱は終わらぬ……王允は董卓を倒した後、涼州軍への対応を誤る……李傕と郭汜が長安を攻め落とし、王允は城門の上で命を絶つ……呂布は長安を脱出し、各地を転々とした後、曹操に敗れて死ぬ……天下はさらに乱れる……袁紹と曹操が中原を二分して争い、孫堅の子が江東を治め、劉備が荊州から蜀へと進む……群雄割拠の時代が、これから本格的に始まるのだ……」


「将軍、お休みください。これ以上はお身体に障ります」


昭姫の声は震えていた。それは、私の言葉の内容を理解したからなのか、それとも夫のただならぬ様子を心配してのことか。おそらくその両方だったのだろう。彼女は私の肩を強く揺さぶったが、私の意識はすでに深い眠りの中に沈みつつあった。


「大丈夫だ……俺は生き延びる……必ず生き延びて、お前を守る……并州を守る……董卓の理想は俺が引き継ぐ……董卓の過ちは俺が繰り返さない……法と秩序で民を守り、恐怖ではなく公正さで人を従わせる……それが俺の国だ……俺たちの国だ……」


私の意識はそこで途切れた。昭姫が何かを言っていたが、その言葉はもう聞こえなかった。ただ、彼女の手の温もりだけが、遠くに感じられた。


昭姫は眠りについた夫の顔を見つめながら、複雑な思いに耽っていた。


高順は時折、こうして未来を見通すような言葉を口にすることがある。それは予言者のような確かさを持ち、不思議と現実になる。かつて彼が寝言で語った并州の水路計画は、今や現実のものとなって民を潤している。今回もまた、彼は何かを見通しているのかもしれない。


「匈奴に連れ去られる……私が……そんな未来があったというの……」


それは恐ろしい想像だった。異境の地で十二年もの間、漢の言葉も通じぬ異民族の中で生きる自分。二人の子を産み、そして引き裂かれる自分。しかし今、彼女はここにいる。高順の妻として、将軍府で茶を入れ、夫の帰りを待つ日々を送っている。その「当たり前」が、どれほど奇跡的なことなのかを、彼女は今、改めて感じていた。


「将軍、私はどこにも参りません。あなたの妻として、ここにいます」


昭姫はそっと夫の手を握りしめた。高順の寝息は規則正しく、その顔は深い疲れに沈みながらも、どこか安らかだった。


部屋の隅には、董卓から託された項羽の刀が静かに立てかけられている。昭姫はその刀を見つめながら、思った。この刀は董卓の遺志であると同時に、高順の決意の証でもある。董卓の理想を継ぎ、董卓の過ちを繰り返さないという決意の。そして高順はその決意を、寝言の中でも語り続けている。


昭姫はしばらく夫の寝顔を見つめていたが、やがて静かに立ち上がり、部屋を後にした。廊下に出ると、夜風が彼女の頬を冷たく撫でた。長安の夜空には星が瞬いている。一千八百年後も変わらぬ星々の下で、歴史の歯車は静かに、しかし確実に回り続けていた。


翌朝、目を覚ました高順は、机の上に新しい茶碗が置かれているのに気づいた。


湯気はもう立っていないが、まだ少し温かい。誰かが昨晩、ここに来ていたのだろうか。あたりを見回すと、項羽の刀の横に、一枚の小さな木簡が置かれていた。そこには昭姫の筆跡で、短くこう記されていた。


「何処にも参りませぬ」


高順はその文字を指でなぞりながら、昨夜のまどろみの中で自分が何を語ったのか、おぼろげに思い出そうとしていた。昭姫が茶を持ってきてくれたこと。自分が何かを話したこと。しかし具体的な内容は霧の向こう側にあるように掴めない。


ただ一つだけ、確かなことがあった。目覚めた時、自分の手に昭姫の手の温もりがまだ残っているような気がした。そして、その温もりこそが、これから戦い続けるための何よりの力になることを、高順は静かに確信していた。

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