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二段

「孝父よ、お前は皇甫嵩という男を知っているか」


董卓が不意に私に問いかけた。私は頷いた。皇甫嵩は後漢を代表する名将であり、黄巾の乱の鎮圧に多大な功績を挙げた人物である。


「知っております。名将と聞いております」


「名将か。ふん、確かに兵法には明るい男だった。だがな、あの男は俺を『辺境の野蛮人』としか見なかった」


董卓は酒杯を手に、忌々しげに昔を語り始めた。彼の声には、何年経っても癒えることのない古傷を押さえるような苦みが滲んでいた。


中平五年、漢陽郡で王国という男が挙兵し、韓遂や馬騰らが合流して大規模な反乱が起きた。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に討伐に出動した。軍議の席で、董卓は自身の考えを述べた。


「王国らは勇はあれど、計略に乏しい。ここは正面から迎え撃つのではなく、一旦後退して敵の陣形を崩すのが得策かと」


董卓は辺境での数多くの戦闘経験から、反乱軍の性質を熟知していた。反乱軍は烏合の衆であり、長期の対峙には耐えられない。一度退いて敵の進軍を促し、補給線が伸びきったところを叩く。それは合理的な戦術だった。


しかし皇甫嵩は首を振った。


「それは違う。敵は寄せ集めの軍勢に過ぎない。時間が経てば自然と瓦解する。我々はじっと待つべきだ」


皇甫嵩の作戦は、董卓の進言の逆を突くものであった。結果は皇甫嵩の読み通りとなり、功績は全て皇甫嵩に帰した。董卓の進言は「的を射ていなかった」とされ、彼の面目は丸つぶれとなった。


「皇甫嵩め……これだから頭の硬い中央の役人は……!」


董卓は唇を噛んだ。彼は朝廷での評価よりも、戦術の正しさを否定されたことが何よりも悔しかった。皇甫嵩は董卓の進言を単に退けただけではない。彼は董卓の戦術を「兵法の理をわきまえぬ粗忽者の考え」と嘲笑ったという。名門の出である皇甫嵩にとって、辺境で羌族と戦ってきた董卓のやり方は「蛮族流」に過ぎなかったのだ。


董卓と皇甫嵩の確執は単なる個人間の反目ではない。それは「辺境の実力主義」と「中央の家柄主義」の衝突だった。皇甫嵩は安定した朝廷の枠組みの中で将軍となった男であり、董卓は自らの実力だけで成り上がってきた男である。この二人が相容れないのは必然だった。


(この皇甫嵩との一件は、董卓の心に深い傷を残した。自分は中央の将軍たちから「辺境の野蛮人」としてしか見られていない。たとえ正しい進言をしても、家柄だけで否定される。その無念さが、董卓の中の「朝廷への不信感」を決定的なものにしていった。後に董卓が権力を掌握した際、真っ先に皇甫嵩を排除しようとしたのは、この時の恨みがあったからである。董卓は皇甫嵩を洛陽に呼び寄せ、逮捕投獄し、死刑にしようとした。皇甫嵩の子の皇甫堅寿が必死の哀願をしたため、董卓は命だけは助けたが、軍権は剥奪した。歴史書はこの事実を「董卓の私怨による報復」と断じている。しかし董卓の側から見れば、これは長年彼を「蛮族」と蔑んできた中央の名門に対する、遅すぎた復讐だったのだ)


中平六年、朝廷から董卓に少府への任命が下った。少府は九卿の一つであり、天子の財政を司る重要なポストである。同時に、軍を皇甫嵩に引き渡して帰還するよう命令が下された。名目上は昇進だが、実質的には董卓の力を削ぐための策である。朝廷の名門貴族たちは、辺境で独自行動を取る董卓を危険視し始めていた。


董卓はこの命令を拒否した。


「辺境は依然として不安定です。羌・胡の動きも不穏であります。ここで軍を引き払えば、民は再び賊の脅威に晒されることになります」


同年、董卓は并州牧に任命された。これもまた軍を手放すよう二度目の命令が下されたのである。董卓は再び拒否した。


「臣は、辺境の民と共にあり、彼らを守ることを使命と致しております。軍勢を率いたままで并州に赴任することをお許しください。もしそれが叶わぬならば、臣はこの地に留まり、民を守り続ける所存でございます」


これは明らかな反抗であった。朝廷は董卓の力を削ごうとしているのに、彼は逆に軍勢を保持して命令に従わない。董卓は朝廷の意図を完全に理解した上で、あえて抵抗したのである。


董卓は軍勢を率いたまま河東に駐屯し、時勢を伺った。洛陽の朝廷では、宦官と外戚の争いがますます激化していた。何進と十常侍の対立は頂点に達し、洛陽は内戦寸前の状態だった。董卓はその動きを注視しながら、自らの進むべき道を模索していた。


(歴史書は董卓のこの行動を「命令違反」「野心の表れ」と断じている。しかし董卓自身の言葉を聞いた私は、別の見方もできると思う。董卓には譲れないものがあった。自分が率いる兵士たちを、朝廷の都合で切り捨てるわけにはいかない。彼らは董卓にとって、単なる兵力ではなく、共に戦ってきた家族同然の存在だったのだ。この「兵士への愛情」は董卓の美点であると同時に弱点でもあった。彼は兵士たちを守るためなら朝廷に逆らうことも厭わなかった。そして後に、兵士たちをつなぎとめるために略奪を許すことにもなる。董卓の行動原理は常に一貫している。彼は自分が「正しい」と思ったこと、自分が「守るべき」と決めたものを、どんな手段を使ってでも守ろうとする。その純粋さが、時に彼を暴走させるのだ)


中平六年八月、大将軍・何進が宦官に暗殺された。


この知らせを河東で聞いた董卓は、ただちに軍を率いて洛陽へと向かった。彼が率いていた兵力はわずか三千に過ぎなかったが、洛陽は混乱の極みにあった。宦官たちは少帝と陳留王を連れて宮中から逃亡し、洛陽の街は無法地帯と化している。


董卓は即座に軍を分け、消火活動と治安維持に当たらせた。そして自ら騎兵を率いて、少帝の行方を追った。北芒坂の麓で、わずかな従者だけを連れた少帝と陳留王を発見した時、少帝は恐怖で青ざめ、泣きはらした目をしていた。対して陳留王、後の献帝・劉協は、わずか九歳ながらも、落ち着き払って周囲を見渡していた。


「孝父よ。あの時、俺は確信したのだ。この聡明な少年こそが天子にふさわしいと」


董卓は洛陽で軍権を掌握すると、何進と何苗の旧部を自軍に取り込み、さらに呂布を調略して丁原を殺害させた。これにより洛陽には董卓に対抗できる軍事力を持つ者は一人もいなくなった。後世の歴史書はこの過程を「董卓が武力で朝廷を乗っ取った」と描くが、実際には董卓は混乱を収めるために行動したのであり、何進・何苗の旧部は自ら進んで董卓の軍門に下ったのだ。


軍権を掌握した董卓が次に行ったのは、天子の廃立だった。


彼は袁紹を呼び寄せ、こう打ち明けた。


「少帝は暗愚であり、天子に相応しくない。陳留王こそ、天下を治めるにふさわしい」


袁紹は顔色を変え、「事は重大なことなので、叔父の太傅・袁隗に相談します」と言ってその場を退出すると、そのまま冀州に逃亡した。董卓は名門袁家の反発を恐れ、袁紹を勃海太守に任命して懐柔する方針をとった。この時点では、董卓はまだ名門貴族との対決を避け、融和を図ろうとしていたのである。


董卓は百官を集めて宣言した。


「伊尹、霍光の故事に倣い、天下のために廃立を行う。少帝は昏愚にして、天子の器にあらず。陳留王こそ、聡明仁愛、天子に相応しい」


この時、尚書の盧植が進み出て、声を震わせながら諫言した。


「少帝には何の過失もございません。伊尹、霍光の時代と今とでは、事情が全く異なります。どうか、そのお考えをお止めください!」


董卓の顔に怒りが走った。彼は剣の柄に手をかけ、盧植を睨みつけた。


「盧植、貴様、私の決定に逆らうというのか!」


盧植は一歩も引かなかった。その清廉さと正義感は、洛陽中に知られるところである。董卓は激怒し、盧植を処刑しようとした。その時、蔡邕が進み出て必死に取りなした。


「相国、どうかお許しを。盧植は天下の名士でございます。彼を殺せば、天下の人心は相国から離れまする」


董卓はしばし考えた末、盧植の罷免に留めた。盧植はそのまま洛陽を去り、董卓は密かに刺客を放って追わせたが、盧植は辛うじて逃れ、幽州・上谷郡で潜伏生活を送ることになった。


その後、太傅・袁隗が董卓の天子廃立に同意したため、ついに少帝は廃位されて弘農王とされ、陳留王が献帝として即位した。


(董卓の少帝廃位の真意は、宦官を重用した最高権力者・何太后を失脚させることにあった。董卓にとって何太后は宦官の専横を許した張本人であり、彼女がいる限り朝廷の腐敗は正せない。だからこそ董卓は、何よりも早く少帝を廃位し、何太后を失脚させる必要があったのだ。これは後世の歴史書が伝える「暴虐」ではなく、明確な政治計算に基づく行動だった。『後漢書』董卓伝には、董卓は「天下が乱れているのは、宦官たちが忠義心のある善良な官僚を誅殺したためであると思っていた」とある。何進の招聘を受けた董卓には、本心から宦官の誅殺に協力する意志があったのだ)


董卓はさらに何太后を永安宮に幽閉し、まもなく毒殺した。何太后の母・舞陽君も殺害し、何苗の墓を暴いて遺体に辱めを与えた。


ここまで徹底的に何太后一派を排除したのは、董太后の後継者として献帝を補佐する立場をとった董卓にとって、必然の措置だった。何太后が最高権力者の座にいる限り、朝廷の腐敗を正すことはできない。それどころか、彼女の存在自体が董卓の正統性を脅かす。董卓は自らの権力基盤を固めるために、何太后一派の根絶を図ったのである。


一方で董卓は、名士たちの登用も積極的に進めていた。


彼は蔡邕を幕下に招き、三日のうちに侍御史、治書御史、尚書へと昇進させた。また尚書の周毖、城門校尉の伍瓊、議郎の何顒、尚書の鄭泰らを信任し、彼らの推薦する人物を地方官に任命した。韓馥を冀州牧に、劉岱を兗州刺史に、孔伷を豫州刺史に、張邈を陳留太守に、張咨を南陽太守に。これらはみな名士たちの推挙による人事だった。さらに董卓は、元太傅・陳蕃、元大将軍・竇武らを祀り、党錮の禁を受けた党人の爵位を回復し、清流派の人材の復権を積極的に行った。


(ここに董卓の矛盾がある。彼は一方で何太后を殺し、何苗の墓を暴くという苛烈な粛清を行いながら、他方では清流派の名誉回復という「正義」を実行している。董卓は単純な悪人ではなく、自分の正義を持っていた。もし董卓が権力を握ることだけを狙っているのであれば、自分の近親者を高い官位に就けるはずだが、董卓はそれをしていない。このことからも、董卓には単なる権力欲以上のものがあったと推測できる。この矛盾こそが、董卓という男の複雑さであり、私が彼を単純に「暴君」と断じることができなくなった理由である)


一八九年八月、董卓は司空に就任した。九月には太尉に就任し、兵権の証である鈇鉞と虎賁兵を与えられた。11月には相国に就任する。相国とは前漢の蕭何・曹参以来、誰も就いていない永久欠番のような官職だった。董卓は剣履上殿、入朝不趨、謁讚不名の特権を許され、母を池陽君に取り立てた。位人臣を極めたのである。


(董卓が相国の位に就いたことは、後世の歴史家によって「権力欲の表れ」と断じられている。しかし別の見方もできる。少帝が即位した時に幼い天子の代わりに政権を担う録尚書事に任命されたのは大将軍・何進と太傅・袁隗だった。何進はすでに死んでいるが、袁隗は健在である。董卓が天子の廃立を実現できたのも、名門袁家の長者である袁隗の同意があったからだ。董卓が袁隗の上位に立つためには、どうしても相国の位に就く必要があったのではないか。董卓は自分の近親者を高い官位に就けることはしなかった。もし権力欲だけで動いていたのなら、もっと露骨な身内登用を行ったはずだ。それをしなかったということは、董卓には別の動機があった証拠である)


董卓のこれらの施策、天子の廃立、何太后一派の粛清、名士の登用、清流派の復権は、彼なりの「国を正す」ための改革だった。しかしこの改革は、決定的な誤算によって破綻する。


献帝の即位は、かつて何太后派と争って敗れた董太后派の復活を意味した。董卓は董太后の後継者として献帝を補佐する立場をとったが、このことは少帝を擁立した何太后・何進派の反発を招くことは想像に難くない。本来ならば危険分子である何太后・何進派の人材を排除するのが常道だが、董卓は彼らを排除せず、むしろ要職に就けてしまった。袁紹を勃海太守に、袁術を後将軍に、曹操を驍騎校尉に。董卓は彼らを懐柔することで朝廷の安定を図ろうとしたのである。


「俺は、やつらも分かってくれると思っていた。だが」


董卓は酒杯を握りしめ、その先を言わなかった。


(董卓は長年、朝廷の外で武官として異民族の討伐に従事してきた。そのため朝廷内での派閥闘争に疎く、たとえ何太后・何進派の人材であっても、然るべき官職を与えれば簡単に自分に従うと思っていたのかもしれない。彼の羌族との交流は「誠実に接すれば必ず報われる」という成功体験を彼に与えたが、それは辺境の侠客同士の論理であって、中央の権力闘争には通用しなかったのだ。董卓は「誠実さ」という武器だけで洛陽という権謀術数の坩堝に乗り込んだ。そしてその武器は、あっけなく折られたのである)


袁紹は洛陽を脱出して冀州で反董卓の兵を挙げた。曹操も洛陽を脱出して陳留で挙兵した。董卓が信任して送り出した者たちが、次々と反旗を翻したのである。董卓が最も信頼した周毖や伍瓊が推薦した者たちまでもが董卓に叛いた。


「儂はな、孝父。この漢の膿を全て絞り出して、天下を太平にすることが本懐じゃった。それを、皆が皆、邪魔しよってからに!」


董卓の声は震えていた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。初平元年、反董卓連合軍が結成された。袁紹を盟主とする諸侯の軍勢は、洛陽を目指して進撃を開始する。表向きの大義名分は「董卓の暴虐を討つ」ことだった。


(反董卓連合とは何だったのか。それは董卓の残忍な行いに対する反発ではなく、献帝を擁立した董卓に対する少帝派、すなわち何太后・何進派の反発だったのだ。袁紹、曹操、袁術。彼らはみな何進派として洛陽で活動していた者たちである。董卓の天子廃立は、彼らの権力基盤そのものを破壊するものだった。だから彼らは董卓に叛いた。「董卓の暴虐を討つ」という大義名分は、後からつけられたものに過ぎない。後世の歴史書は反董卓連合を「義挙」と称えるが、その実態は権力闘争の敗者による巻き返しだったのだ)


この裏切りが、董卓の心を決定的に変えた。


彼は極度の人間不信に陥った。せっかく目をかけ、抜擢してやった者たちに裏切られたのだ。自分が信じた「誠実に接すれば必ず報われる」という信念は、音を立てて崩れ去った。董卓は反乱を恐れて弘農王を殺害し、周毖と伍瓊も処刑した。かつて自分を中央に推挙してくれた恩人である袁隗をはじめ、洛陽に留まっていた袁氏一門五十余名を一族郎党皆殺しにした。さらに長安への遷都を強行する。洛陽の宮殿は焼き払われ、歴代皇帝の陵墓は暴かれた。洛陽の富は全て長安へと運び去られ、都は廃墟と化した。


(董卓が洛陽を焼いたことは、私にとっても衝撃だった。しかし董卓にとって洛陽とは、彼を裏切った者たちの巣窟だった。彼が信じて送り出した者たちが、次々と反旗を翻した場所だった。董卓は洛陽を焼くことで、自分の信じた「誠実さ」が通用しなかった世界そのものを葬り去ろうとしたのかもしれない。だとしても、その手段は決して許されるものではないが)


董卓は郿城に巨大な要塞を築き、三十年分の食糧を蓄えた。城壁を高くし、誰も近づけぬ安全地帯にこもったのである。


「これで、誰にも俺の命は奪えぬ」


董卓はそう言って満足げに笑ったという。しかし彼は気づいていなかった。自らを守るために築いた城壁が、むしろ彼を都の動きから遠ざけ、孤立させていることを。彼が最も信頼すべき養子・呂布の心が、すでに彼から離れ始めていることを。


(董卓は自らの手で「籠」を作り、その中に閉じこもった。外敵から身を守るための籠は、やがて彼自身を閉じ込める檻へと変わる。王允と呂布の陰謀は、この時すでに動き始めていた。しかしその話は、また別の機会に譲ろう。今はただ、董卓という男が「暴君」と呼ばれるようになったその過程を、私は私自身の目で確かめ、私自身の頭で理解しようと努めている)

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