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五段

婚礼の日取りが決まり、長安の街は祝賀の準備で忙しなく動き始めた。


董卓の威光を背景に、鎮北将軍の婚礼は都を挙げての一大行事として執り行われることになったのである。街の大通りには紅い布が掲げられ、市場には婚礼に必要な品々を求める人々で賑わいを見せていた。しかしその華やかさの裏で、この婚礼が純粋な祝い事ではなく、董卓による高順への「二重の鎖」であることを、朝廷の誰もが承知していた。


婚礼当日。長安の街は早朝から紅い布と灯りで彩られ、鎮北将軍府から蔡邕邸に至る大通りは見物の民で埋め尽くされていた。董卓の威光と高順の武名、そして蔡邕の文名が一つになるこの婚礼は、長安始まって以来の大行事として都中の耳目を集めている。


将軍府では、張五をはじめとする幕僚や兵士たちが夜明け前から準備に追われていた。庭には紅い絹布が張り巡らされ、賓客を迎えるための席が整然と並べられている。厨房では長安中の食材をかき集めての饗宴の支度が進み、公孫鍛率いる鍛冶師たちも今日ばかりは仕事を休んで晴れ姿を見せていた。彼らにとって高順は単なる主人ではなく、自分たちに生きる場と誇りを与えた恩人である。その婚礼を心から祝わぬ者など、将軍府には一人もいなかった。


高順は自室で正装に身を包みながら、妙に落ち着かない心持ちでいた。いつもの黒甲ではなく、董卓から贈られた深紅の礼服である。戦場では感じたことのない種類の緊張が、肩にのしかかっていた。


「大将、そろそろお時間ですぜ」


張五が声をかけてきた。彼もまた、今日は一張羅の礼服を着ている。その顔は、自分のことのように嬉しそうだった。


「ああ。ところで、昭はどうした。今朝から姿を見ていないが」


張五は呑気な大将を気の毒に思いつつも誤魔化した。


「それが……朝早くに出かけたきりで。何でも、蔡家から花嫁を迎える手伝いがあるとか」


「そうか。まあ、あいつが戻ってくる頃には、すべて終わっているだろう」


高順は軽く息を吐き、礼服の襟を正した。彼はまだ何も知らなかった。この日のために昭、蔡昭姫がどれほどの覚悟をしてきたかを。そしてこれから自分が、どんな真実を目の当たりにするかを。


羅貫中の筆法で描くならば、この婚礼はまさに「英雄と才女の邂逅」である。并州の百万の賊を討ち平らげた猛将と、天下の碩学・蔡邕が誇る才媛。その二人が政略という名の糸で結ばれ、今まさに夫婦となろうとしている。しかしその華やかさの裏には、董卓という魔王の策略が張り巡らされていた。


時刻が来た。銅鑼の音が鳴り響き、婚礼の行列が動き出す。


高順を先頭に、将軍府の幕僚や兵士たちが整然と続く。大通りに出ると、民たちの歓声が沸き起こった。


「高将軍、おめでとうございます!」


「并州の英雄がついに所帯を持たれる!」


「よいお相手だ、末永くお幸せに!」


民たちの祝福の声を聞きながら、高順は馬上で小さく手を挙げて応えた。この街に来たばかりの頃は、董卓の将というだけで恐れられ、避けられていた。それが今では、民が笑顔で祝ってくれる。昭いや、まだ彼は気づいていないが、この変化の陰には、将軍府の家政を一手に引き受けてきた彼女の存在があった。


(みんな、ありがとう! でも言わせてくれ……! 俺だけ祝福じゃなくて呪いに聞こえてるんだ! 二人の妻を同時に娶るなんて、現代日本じゃありえねぇ。しかも片方は魔王の娘だぞ。どんなホラーだよ…、もっと簡単に言えば学界の権威の娘で眉目秀麗にして才色兼備の生徒会長と業界きっての武闘派親分の愛娘で素行不良の武闘派不良少女を同時に彼女にしたくらいの修羅場だぞ?)


蔡邕邸に到着すると、門前には蔡邕自身が立っていた。老学者は今日、ひときわ正装を整え、その目は誇りと寂しさが入り混じった複雑な色を浮かべている。


「高将軍、本日は誠にめでたい。どうか、娘をよろしくお願いいたす」


「蔡邕殿。必ずや、お嬢様を幸せにしてみせます」


高順が深く頭を下げたその時、屋敷の奥から花嫁が現れた。紅い絹の衣装に身を包み、薄い紅の布で顔を覆っている。侍女たちに付き添われ、静かに歩を進めるその姿は、まさに天女のようだった。


高順は作法に従い、花嫁の手を取った。その手は細く、白く、どこか見覚えのある感触だった。毎朝、茶を運んできたあの手。書斎で詩を詠んだあの手。毒舌と共に茶碗を置いたあの手。


(この手……どこかで……? いや、気のせいか)


花嫁の蔡昭姫もまた、紅い布の下で複雑な心境だった。高順の手は、彼女が小昭として毎日見てきた手、無骨で、傷だらけで、それでいてどこか優しい手だった。彼女はその手を握り返しながら、心の中で呟いた。


(将軍いいえ、今日からは夫となる方。私はこれまで、あなたを試し、毒舌を浴びせ、時には街にまで出かけてあなたの評判を探りました。許してくださいとは申しません。ただ今は、あなたの妻として、恥じぬように生きたいと思います)


二人を乗せた馬車が、将軍府へと向かう。蔡邕は門前でいつまでも手を振り続けていた。老学者の目から、一滴の涙がこぼれ落ちる。それは悲しみではなく、娘の幸せを信じる父の涙だった。


将軍府に戻ると、すでに賓客たちが集まっていた。


広間の上座には、巨躯を揺らして董卓が座っている。彼は今日、特に上機嫌で、酒杯を手離そうとしなかった。


「高順! よくぞ戻った! さあ、今度は我が娘・媛との婚礼だ。一日に二人の妻を迎えるとは、まこと慶事よのぅ。ガハハハ!」


董卓の隣では、李儒がいつもの薄ら笑いを浮かべている。その目は、この婚礼の裏にある政治的意味を誰よりも冷徹に見抜いていた。李傕と郭汜は、すでに酒を煽りながら豪快に笑っている。彼らにとって婚礼とは、ただの酒宴の口実に過ぎなかった。


賓客席にはさらに、呂布の姿もあった。人中の呂布、馬中の赤兎と言われる天下無双の飛将軍は、今日はやけに静かだった。彼は酒杯を手にしたまま、ぼんやりと広間の飾りつけを見つめている。時折、御簾の奥に控える貂蝉の姿を目で追っているのが、高順には分かった。


(呂布……この好色脳筋クソガキゴキブリめ……テレーっと酒飲みやがって。お前は今、何を考えている。董卓の娘が嫁ぐのを、ただ黙って見ているだけか。それとも、心は別の場所にあるのか)


高順の視線の先で、呂布は一人酒杯を傾けていた。その横顔には、天下無双の武人からは想像もできぬほどの憂いが浮かんでいる。


徐栄と華雄は、賓客席の中でもひときわ大きな声で談笑していた。二人は董卓軍の中でも実直な武人として知られ、高順とは并州以来の戦友でもある。


「孝父、ついに所帯持ちか。これで少しは人間らしくなるな!」


「徐将軍、私は元から人間らしいつもりだが」


「嘘をつけ。戦場では鬼のようなくせに」


樊稠はというと、すでにかなり酒が回っているらしく、真っ赤な顔で誰彼かまわず酒杯を押し付けていた。将軍府の幕僚たち董昭、薛洪、繆尚の三人は、少し離れた席から広間の様子を見守っている。彼らはこの婚礼が高順にとってどれほどの重圧かを知っていたから、祝うと同時に、主人を護るつもりでいた。


やがて銅鑼が鳴り、二度目の婚礼の儀が始まった。今度は董卓の末娘・董媛が、赤い武袍ではなく婚礼の衣装に身を包んで現れる。彼女は先日の腕比べで高順に完敗して以来、表面上は少しだけ大人しくなっていた。とはいえ、その目は相変わらず気が強く、高順を見ると「負けたから嫁ぐのだ。好きで嫁ぐわけではない」と言わんばかりの視線を向けてくる。


高順は内心でため息をつきながらも、鄭重に彼女の手を取った。その手は先ほどの蔡昭姫の手とは違い、武芸で鍛えられた硬さがあった。


儀式が進む中、高順はふと広間の隅を見た。そこには、いつもなら茶を運んでくる侍女の「昭」がいるはずの場所だった。しかし今日、その席は空っぽだった。彼女は朝から姿を見せていない。


宴が最高潮に達した頃、董卓が突然立ち上がった。その巨躯が動くたびに、広間の空気が張り詰める。


「諸将、よく聞け! 今日は我が娘・媛と、我が片腕たる高順の婚礼である。これより高順は儂の婿となった、名実ともに董一族の一員となった!」


広間から大歓声が上がる。


「高順! お前は并州を治め、儂は娘を与え、地位を与えた! これからは我が一族として、天下を切り取るのだ! 返事は!」


「ははっ! この高順、相国様のためならば命を惜しみませぬ!」


高順の声が広間に響き渡る。董卓は満足げに頷き、再び酒杯を掲げた。しかしその時、高順の目は再び御簾の奥を捉えていた。貂蝉、彼女は静かに、すべてを見つめている。その深い瞳が、一瞬だけ高順と合った。彼女は微かに、ほんの微かに笑ったように見えた。それは同情の笑みか、それとも別の何かか。


やがて宴も終わりに近づき、賓客たちが次々と引き上げていく中、高順は一人、中庭に出た。夜風が火照った頬に心地よい。彼は大きく息を吐き、星空を見上げた。


その背中に、人の気配が近づく。


「将軍…いいえ、今日からは夫君と呼ばせていただきます」


振り返ると、そこには婚礼の衣装をまとった蔡昭姫が立っていた。彼女はもう紅い布を外し、その顔をはっきりと晒している。高順は、その顔に見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではなかった。それは毎朝、茶を運んできては毒舌を浴びせていた、あの侍女の顔だった。


「……!? 昭?」


高順の口から、震える声が漏れた。


「はい、将軍。私はあなたが街でならず者から助けた、あの嫌味な女です。あなたが雇った、毒舌の小間使いです。あなたの茶を毎朝入れ、あなたの書斎を掃除し、あなたの前で詩を詠んだ昭です。そして、蔡邕の娘、蔡昭姫でもあります」


高順は、しばらく言葉を失った。頭の中で、この数ヶ月の記憶が一気に駆け巡る。街で助けた時、彼女は「甲冑を見せびらかすなんて教養の欠片もない」と毒づいた。将軍府に乗り込んできた時、彼女は「三妻四妾など甲斐性もないくせに」と嫌味を言い、彼が并州の報告書に追われて眠っているのを見て、そっと茶を置いていった。


すべて、全てが繋がった。


「お前……ずっと、最初から…? そのために、この将軍府に…?」


「はい。あなたがどのような男か、この目で確かめるために。許してくださいとは申しません。ただ私は、あなたを見てきました。あなたが民のためにどれだけ尽くしているか、誰よりも近くで」


この瞬間はまさに「運命の皮肉」である。董卓の命令で結ばれた政略結婚。蔡昭姫は当初、高順を「野蛮な董卓の将軍」と決めつけ、自らその真偽を確かめるために将軍府に潜入した。しかし彼女は、そこで見たものに心を動かされた。高順の真面目さ、民への思い、そして何より、乱世の中で国を作ろうとする静かな情熱。それは彼女が想像していた「董卓の将軍」の姿とは、あまりにかけ離れていた。そして今、彼女は自らの意思で、この男の妻となることを受け入れている。


昭姫の目から、涙が一筋こぼれ落ちた。高順は、言葉を探した。怒りも、驚きも、そして深い納得も、すべてが混ざり合って、胸の中で渦を巻いていた。彼がようやく絞り出した言葉は、短く、しかし確かなものだった。


「昭。いや、昭姫。俺は本当に、馬鹿だったな。毎日顔を合わせていた女が、まさか俺の妻になる人だったとは毒舌のわけだ」


昭姫は涙に濡れた顔で、小さく笑った。


「将軍こそ。毎日目の前にいながら、まったく気づかないんですから。私は何度、自分から話そうと思ったか」


二人の笑い声が、静かな中庭に溶けていく。長安の夜空には、幾千もの星が瞬いていた。一千八百年後も変わらぬ星々の下で、奇妙な主従から夫婦へと変わった二人は、長いこと言葉を交わさず、ただ星空を見上げていた。


董媛がその様子を遠くから見つめ、少しだけ唇を尖らせたが、すぐに表情を緩めた。彼女は負けず嫌いだが、卑怯ではなかった。昭姫の覚悟を、彼女はそれなりに評価していたのである。


婚礼の翌朝、将軍府の空気はこれまでにないほど騒がしかった。


正室の蔡昭姫と側室の董媛が、朝餉の席で早速火花を散らし始めたのである。発端は些細なことだった。高順の隣の席をどちらが取るか、ただそれだけのことである。しかし、互いに一歩も譲らぬ二人の女にとっては、それは自らの矜恃を懸けた戦いに他ならなかった。


「私が正室です。夫君の隣は私の席。これは動かしようのない決まりですわ」


昭姫はにこやかに微笑みながら、すでに高順の右隣に座っている。


「決まり? 何ですって? 私の父は相国。その父が決めたことこそが決まり。それに、私は三戦三敗したとはいえ、夫君と真剣勝負をした仲。剣を交えた者同士の絆は、お茶を淹れただけの絆より深いと思わないのかい?」


董媛は腰に手を当て、勝気な目で昭姫を睨みつけている。


「あら、剣を交えた? 三戦三敗で泣き崩れた方が何を仰いますの。夫君は手加減なさっていただけでしたよ」


「手加減? あれが手加減ですって!? では今ここで、私と勝負なさい! どちらが相応しいか、剣で決めようじゃないか!」


董媛が腰の剣に手を伸ばした瞬間、高順は粥を啜りながら、のんびりとした声で言った。


「お前たち、本当に仲がいいんだな。朝からそんなに話が弾むなんて、微笑ましい限りだ」


その言葉に、二人の女は同時に固まった。


「今、『仲がいい』とおっしゃいました?」


「え? 違うのか?」


高順はきょとんとした顔で二人を見比べた。その目は真顔だった。まったく悪意がない。皮肉でもない。本気でそう思っている顔だった。


「違いますわ! 断じて違います! 私はこの方に負けるつもりは一つも……」


「私だって、このお転婆娘に勝ちを譲る気など毛頭……」


「ほら、息がぴったりじゃないか」


高順は満足げに頷くと、何事もなかったかのように再び粥を啜り始めた。残された二人は、もはや戦う気も失せたように顔を見合わせ、深いため息をついた。


「この方、本当にわかっていないのかしら?」


「わかっていたら、あんな暢気な顔で粥など啜れないだろう。私は昨日、それを骨の髄まで思い知った」


唐突に、董媛が小さな声で言った。


「……姉様」


「私は、剣しか能がない女だ。父に何を言われてここへ嫁いできたのか、それもよくわからない。けれど負けたくない。何に負けるのかは、自分でもよくわからないけれど」


昭姫は、その言葉に少しだけ目を見開いた。それから、彼女は静かに茶碗を置き、董媛の方を向いた。


「媛様。私も同じです。私には学問しかありません。父から教わった詩や書が、この将軍府で何の役に立つのか…それはまだわかりません。でも」


「でも?」


「私も、負けたくありません。媛様にも、この方にも。この家に来た以上、ただの飾りではいたくない」


二人の視線が、一瞬だけ交差した。そこには確かに、火花とは別の何かが生まれていた。


「ふむ。やはり仲がいいな」


「「違う/います!」」


二人の声が完璧に重なった。張五が廊下からその光景を覗き込み、噴き出しそうになるのを必死に堪えている。将軍府の朝は、今日も賑やかだった。


その夜、高順は王允の屋敷を訪れていた。


婚礼の喧騒が収まった矢先、司徒府からの密使が将軍府を訪れ、「国家の存亡に関わる大事な相談がございます」と伝えてきたのである。高順は断る理由を持たなかった。王允が何を企んでいるかは、歴史の知識として知っている。そして今、その計画の核心に、自分が招き入れられようとしていることも。


王允の屋敷は、長安の内城から少し離れた静かな場所にあった。表向きは質素だが、内部には秘密裡に集められた書物や地図が隠されている。高順が通されたのは、その奥の間、窓という窓を分厚い布で覆い、外部に一切の光を漏らさぬ密室であった。


部屋の中にはすでに二人の男がいた。一人は呂布。天下無双の飛将軍は、今日はひどく沈んだ表情で、酒杯を手にしたままじっと床を見つめている。そしてもう一人は李肅。呂布と同郷の武将で、かつて董卓に呂布を引き合わせた男である。


王允は高順を上座に案内すると、自らは深く腰を下ろし、静かに口を開いた。


「高将軍。この場にいる者は皆、漢室のために命を賭す覚悟を決めております。奉先も、李粛将軍もそしてこの王允も。ついては、将軍にもぜひお力添えを賜りたく」


高順は、部屋の空気を一瞥した。呂布の沈んだ表情、李肅の強張った肩、そして王允の異様なまでの静けさ。これが何を意味するか、彼にはすでに分かっていた。


「相国を討つおつもりか」


高順の言葉に、部屋の空気が凍りついた。王允は深く頷き、声を潜めて計画の全貌を語り始めた。


明日、董卓は長安の宮中で行われる「慶事の儀」に出席する。これは献帝が董卓に譲位するという形式を取った儀式で、董卓はそのために郿城から長安へと戻ってくる。その道中、宮殿の門をくぐった瞬間を狙って、呂布が董卓を討つ。すでに李肅は宮門の守備兵を味方につけており、董卓の護衛が反応するより早く、すべてを終わらせる手筈だった。


「董卓の一族、側近、郿城に残る兵どもは、我らが一斉に掃討する。これこそが連環の計の完成にございます」


高順は黙って話を聞き終えた。彼の胸の中には、様々な感情が渦巻いていた。董卓の涙、若き日の理想、そして積み上げられた死体の山。しかし彼は、それらを表に出すことはしなかった。


「私は関わらん」


高順の声は、静かだが揺るぎないものだった。


「董卓は曲がりなりにも私の主君だ。君に忠を尽くすか、君に叛くかそのどちらも選ばん。私は、長安の治安を守る。それだけだ」


呂布が顔を上げた。その目には、怒りとも安堵ともつかぬ複雑な色が浮かんでいる。


「邪魔はしない。董卓の護衛が動けば、私の部下がそれを止めよう。だが、王司徒、呂将軍、約束していただきたい。事が成った後、長安の街で略奪や暴行を一切許さぬこと。民を混乱に巻き込まぬこと。もしその約束が守れぬならその時は、私がお前たちを敵と見なす」


司馬遼太郎の史観で言うならば、高順のこの決断は、単なる保身ではない。それは歴史の転換点における、最も冷静で現実的な選択だった。董卓を討つことには大義がある。しかし大義の名の下に行われる暴力的な混乱は、常に最も弱き者、名もなき民たちを犠牲にする。高順はそのことを、現代の歴史知識と、この乱世での実体験の両方から学んでいた。


王允は深く頷いた。


「約束いたそう。この王允、漢室の再興を果たすまでは、決して民を苦しめぬ」


「呂布も同じく」


呂布が低い声で応じた。その声には、義父を殺すという行為への迷いは、もはや微塵も感じられなかった。


鎮北将軍府に戻ると、高順はすぐに六人の将、呉資、章誼、汎凝、張弘、趙庶、高雅を執務室に集めた。深夜の招集にもかかわらず、彼らは一分の遅れもなく集まった。長安の空気がただならぬことを、彼らもすでに感じ取っていたのである。


「明日、長安で大きな動きがある」


高順は前置きなく切り出した。


「何が起きるかは言わん。だが、いかなる事態が起ころうとも、民を守れ。略奪、暴行、放火すべてを許すな。お前たちの任務はただ一つ、長安の静寂を守ることだ」


六人の将は顔を見合わせたが、誰一人として詳細を問いただそうとはしなかった。彼らは高順を信じていた。


「呉資、お前は北門を固めろ。章誼は東門。汎凝は南門。張弘は西門。趙庶は城内の巡回を。高雅は宮殿周辺の警戒を。それぞれ手勢を率いて配置につけ。不測の事態があれば、すぐに俺に知らせよ」


「「「はっ!」」」


六人の声が重なり、彼らは迅速に退室していった。


高順は一人残された執務室で、深く息を吐いた。机の上には、并州からの報告書が積まれている。張遼、郝萌、諸葛玄彼らは今も北の大地で、高順の帰りを待ちながら懸命に働いている。


その時、廊下から静かな足音が聞こえた。振り返ると、昭姫が立っていた。彼女は夫のただならぬ様子を察し、茶を運んできたのだ。


「将軍、何か?」


「昭姫、座ってくれ」


高順は妻を隣に座らせると、今夜の司徒府での出来事を包み隠さず話した。王允の計画、呂布の決意、董卓の最期。そして自分がそれに関わらないことを選んだ理由も。


昭姫は黙って聞いていた。彼女の顔には驚きの色が浮かんでいたが、声を荒げることはなかった。彼女は「昭」として将軍府に潜り込んだ時から、この男がただの武人ではないことを知っていた。


「明日の朝、お前は董媛と共に并州へ向かえ」


「将軍……私はここに残ります」


「駄目だ。長安で何が起きるか分からん。もしもの時、お前たちだけは安全な場所にいてほしい。それに、将軍府には公孫鍛をはじめとする鍛冶師たちがいる。大工集団もいる。彼らは并州の未来を作るために必要な者たちだ。お前たちは彼らを連れて河内へ向かえ。董媛が護衛につく。あの腕前なら、道中の賊徒など物の数ではない」


昭姫はしばらく沈黙し、やがて静かに頷いた。


「分かりました。将軍の御心のままに」


「すまない。感謝する」


「いいえ。これが私の役目ですから」


当日の朝、まだ夜が明けきらぬうちに、将軍府の裏門に数台の馬車が整えられた。


公孫鍛率いる鍛冶師たち、大工集団、そして彼らの家族を合わせて百数十名が、静かに荷物を積み込んでいる。董媛が赤い武袍を翻して馬に跨った。


「夫君! しばらく留守にするが、寂しがるでないぞ!」


「ああ。媛、道中は昭姫を頼む。それと気をつけろよ」


高順の声に、董媛は一瞬きょとんとしたが、すぐに破顔した。


「夫君、私に『気をつけろ』などと。私を誰だと思っている?」


「忘れたことはない」


「ふふん。ならば安心して待っていろ」


高順は昭姫の手を握り、短く言葉を交わした。


「必ず迎えに行く」


「はい。待っております」


馬車の列が動き出す。昭姫と董媛、そして技術者たちを乗せた隊列は、長安のまだ暗い街を抜け、北へと向かっていった。高順はその後ろ姿が見えなくなるまで、門の前に立ち続けた。


空が白み始めていた。今日、長安で歴史が動く。


高順は静かに拳を握りしめ、執務室へと戻った。机の上には、昨夜書き上げた『并州の民に告ぐ』の書簡が置かれている。彼はそれを手に取り、もう一度読み返した。


『我らは、恐怖による支配を排し、法と秩序の国を築く。力ある者は報われ、弱き者は守られる。誰もが人間らしく生きられる国をここに、創る』


高順は書簡を巻き、文箱に納めた。董卓の理想は、彼が引き継ぐ。董卓の過ちは、彼が繰り返さない。それが、高順という男の、歴史への答えだった。


外では、宮中へ向かう董卓の行列が、すでに動き始めている。長安の街は、まだ何も知らない。歴史の歯車は、静かに、しかし確実に、最後の回転を始めようとしていた。

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