四段
郿城での董卓との会見から数日後、将軍府に不気味な足音を立てずに李儒が訪ねてきた。
「高将軍、いかがお過ごしかな?」
李儒は爬虫類のような冷たい笑みを浮かべ、客間の上座に腰を下ろした。高順は内心の警戒を悟られぬよう、淡々と応対する。
「李侍中。相国からの御下命とあれば、いつでも動く覚悟はできておりますが」
「いやいや、本日は軍務の話ではござらぬ。例の、蔡昭姫殿との婚姻の儀、着々と準備は進んでおりますぞ。だが」
李儒は身を乗り出し、声を潜めてさらに言葉を継いだ。その目は、高順の反応を値踏みするように鋭い。
「男たるもの、三妻四妾は気概というもの。英雄色を好むとも申します。蔡家の娘だけでは寂しかろうと、相国様がご自身の末娘も貴殿の側室にとお考えでしてな。将軍、夜の伽の好みはいかがなものか? 閨の作法など、ご要望があればこの李儒が手配いたしますが」
これを聞いた瞬間、高順は文字通り唖然とした。彼の中の現代人としての理性が悲鳴を上げている。
(ちょっと待て。なんだこの陰険野郎は。現代の企業組織に置き換えてみれば、本社の専務が、一介の支社長に向かって、プライベートな性癖や女性の好みを根掘り葉掘り聞き出し、さらには社長の親族との重婚を斡旋してきている。現代社会ならば、即座にコンプライアンス違反だ。セクシャルハラスメント、パワーハラスメント、プライバシーの侵害……人事部に報告して法的処置を取ってもお釣りがくる役満フルコースだ)
高順は顔を引きつらせながらも、なんとか不快感を押し殺した。ここで「ふざけるな」と卓をひっくり返せば、背後に控える董卓の意向に逆らうことになり、最悪の場合、并州の民ごと粛清の対象となる。
「李侍中、お心遣いは痛み入ります。ですが、私は戦場に身を置く無骨者。三妻四妾などという身分ではございません。相国様のご息女など、もったいなきお言葉。まずは蔡家のご息女を正室として迎えることのみに、全霊を注ぎたく存じます」
必死に当たり障りのない言葉を並べ、適当に誤魔化す。だが、高順がこれほどまでに冷や汗を流し、言葉を濁した理由は、単に李儒のセクハラ発言にドン引きしたからだけではない。
高順の視線の先、客間の隅で、客人に茶を淹れるために控えていた侍女の「昭」が、静かに、しかし火山のごとき熔岩を内包して、怒りを沸々と煮えたぎらせていたからである。
小昭は無表情のまま茶碗を置き、一礼して下がった。だが、その一礼には、普段の何倍もの冷気が込められていた。李儒はそれを感じ取ったのか、わずかに眉を動かしたが、すぐに薄ら笑いを浮かべて立ち上がった。
「では、ご返答、期待して待っておりますぞ。相国様も、大層楽しみにされておられる」
李儒が去った後、高順は疲労困憊で息を吐いた。
だが、地獄はそこからだった。
「将軍、お茶をお下げいたします。三妻四妾をお望みならば、私のような粗末な侍女ではお目汚しでございましょうから、どうぞお気になさらず」
氷点下を下回るような冷たい声。小昭は、茶碗を下げると、無言で部屋を出ていった。高順は大きくため息をついた。
(ん? あいつは何に怒ってるんだ? 蔡昭姫本人だったら怒るのはわかるけど……なんで他人のあいつが怒るんだろう…? 頭悪いんかな? ま、どうでもいっか!)
それから数日間、小昭の態度は明らかに冷ややかなものとなった。朝の挨拶は事務的になり、書斎に茶を持ってくる際も、以前のような小気味良い毒舌すらなくなり、ただ無言で茶碗を置くのみ。その無言が、かえって言葉以上の重い圧力を伴って高順の胃壁を削っていた。
その翌朝、将軍府の空気は張り詰めていた。
小昭——蔡昭姫は、いつものように一番に起きて、井戸から水を汲み、薪を割り、朝餉の支度をしていた。その動きはいつも通り無駄がなく、洗練されていたが、どこか機械的で、心がここにないように見えた。
「文さん、ちょっとよろしいですか?」
張五が、こっそりと声をかけた。小昭は、無表情のまま振り返る。
「何でしょう」
「大将、昨夜遅くまで并州の報告書を読んでましたよ。文さんが入れてくれた茶を、冷めても大事そうに手に持ったままで。それに、文さんが市場で見つけてきたっていう茶葉、大将は『これはいい』って言ってましたよ」
「そうですか」
小昭は無表情で答えたが、その声には微かな動揺が混じっていた。張五は続ける。
「それで文さん、何かあったんですか? いつもと違うように見えますが」
小昭は、少し躊躇した後、小声で言った。
「昨夜、李侍中が来られたのです。相国が董媛という方を、将軍の側室としてお迎えになると」
張五は、目を見開いた。
「側室ですって!?」
「はい。『男たるもの三妻四妾は誉れ』と。将軍はそれがお望みなのでしょう」
小昭の声には、明らかな棘があった。張五は、その言葉に、彼女が董媛の話に怒っているのではなく、高順が「それを望んでいる」と思い込んでいることに腹を立てているのだと理解した。彼は小さく息を吐き、優しく言った。
「文さん、それは誤解ですよ。大将は、そんなこと…」
「知っています」
小昭は、張五の言葉を遮った。彼女は俯き、その手をぎゅっと握りしめている。
「将軍は、側室など望んでいない。それは、私も分かっています。将軍が毎日どれだけ并州の民のことを考え、どれだけ眠らずに働いているか。私は、この一月で、十分に見てきました。でも董卓様の意向に逆らえば、并州の民が危険にさらされる。将軍は、それを何よりも恐れている。だから、きっと——」
「文さん」
張五は、優しく彼女の肩に手を置いた。
「大将は、そういうことに鈍い男です。董媛殿の話も、きっと『仕方なく』で終わらせるでしょう。でも、大将が心から大切に思っているのは、一人だけです。それは、蔡邕殿の娘の文さん、あなたですよ。大将は、まだ気づいていないだけで」
小昭の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「な、何をおっしゃるんです! 私はただの小間使いで蔡邕様の娘などでは……!」
「はいはい。そういうことにしておきます」
張五は、にこにこしながら立ち去った。小昭は、その背中を恨めしそうに睨んだが、すぐに笑みがこぼれた。彼女は小さく息を吐き、自分の胸に手を当てる。心臓が、いつもより速く鼓動していた。
その日、高順がいつものように張五を連れて街の視察に出ている間、小昭——蔡昭姫は将軍府を抜け出し、長安の市場へと向かっていた。
彼女は将軍府に潜り込んでからというもの、高順という男の行動を事細かに観察してきた。朝は日の出前に起きて槍の素振りをし、午前中は執務に当たり、午後は鍛冶工房で職人たちと議論を交わし、夕方には街に出て民の声を聞き、夜は書斎で遅くまで書物を読む。酒は飲むが節度をわきまえ、女中に手を出すこともない。それは彼女が想像していた「董卓の野蛮な将軍」の姿とは、あまりにかけ離れていた。
しかし、それでも彼女はまだ確信が持てなかった。将軍府での高順の振る舞いは、どこか「演じている」ようにも見えたからだ。本当に民を思っているのか、それとも董卓の目を欺くためのポーズなのか——それを確かめるために、彼女は自ら街に出て、民の声を直接聞こうと思ったのである。
ただし、侍女の「小昭」として出かければ、万が一高順と遭遇した時に面倒なことになる。だから彼女は、侍女の装いを捨て、まったく別の姿に変装することにした。
彼女が選んだのは、没落した小貴族の娘という出で立ちだった。手入れの行き届いたが少し古びた絹の衣をまとい、髪は簡素ながら品よく結い上げ、顔には薄く白粉をはたき、眉をわずかに描く。侍女の「小昭」とは別人に見えるように、細心の注意を払った。普段は結い上げている髪を下ろし、普段はつけない簪を挿すだけでも、印象は大きく変わる。ましてや衣装が違えば、よほどの知り合いでなければ気づかれまい。
変装を終えた彼女は、小さな手鏡を覗き込み、満足げに頷いた。これなら、たとえ高順とすれ違っても、「小昭」だと気づかれることはないはずだ。彼女はそっと将軍府の裏口から抜け出すと、市場へと足を向けた。
市場は相変わらずの喧騒に包まれていた。略奪品を売りさばく商人たちの威勢のいい声、それを買い求める董卓の兵士たち、そしてただ遠巻きに見つめるだけの一般の民。昭姫は、そんな市場の中を注意深く歩きながら、高順について何か知っている者はいないかと探った。
やがて彼女は、ある食堂の前で足を止めた。かつて高順が訪れた、あの干し肉の食堂である。店主は初老の男で、高順が来るたびに代金をきっちり払っていく数少ない将軍だと言う。昭姫は、その店主に近づき、柔らかな声で尋ねた。
「ご主人、少しお尋ねしたいのですが」
店主は、昭姫の品のある身なりを見て、少し緊張した様子で頭を下げた。
「へえ、どのようなご用件で」
「この街に、高順という将軍がいらっしゃると聞きました。どのような方なのでしょう。実は、私の父がその方にお仕えしたいと申しておりまして」
店主の顔が、ぱっと明るくなった。
「おお、高将軍のことを! あの方ほど立派な将軍は、長安にはおりませんよ。いつも代金をきっちり払ってくださる。威張らない。脅さない。董卓様の他の将軍たちとは、まるで違います」
「まあ。でも、それは表向きの顔かもしれませんわ」
「いいえ、お嬢様。この前など、市場で兵士に絡まれていた商人を助けてくださいました。名乗りもせず、礼も求めず、ただ『当然のことをしたまでだ』と。それに——」
店主は声を潜めて続けた。
「高将軍が来られるようになってから、このあたりの兵士たちの態度が変わりました。『高将軍がついている』と言えば、無理な要求をしなくなったんです。あの方が、この街をどれだけ守ってくださっているか」
昭姫は、その言葉を黙って聞いていた。将軍府で見てきた高順の姿と、民の口から語られる高順の姿が、確かに重なり合っていく。彼女はさらに、周囲の商人たちにも声をかけてみた。すると、皆が口を揃えて高順を褒め称えるのである。
「并州で百万の賊を救った英雄だ」
「董卓様の将軍なのに、威張らない」
「それどころか、一度など、店の前で倒れた子供を助け起こして、その母親に看病のための薬代まで渡したそうだ」
姚雪垠の民衆視点で言うならば、これらの声は単なる評判ではない。それは乱世にあって、名もなき民たちが必死に見つけた「希望」の証だった。董卓の恐怖政治の下で息を潜めて生きる彼らにとって、高順という存在は暗闇の中の灯火のようなものだった。
昭姫は市場の片隅から、遠くに見える将軍府の屋根を見つめた。彼女の心の中で、何かが静かに、しかし確実に変わっていくのを感じていた。
数日後、将軍府に一人の女性が訪れた。
門番が慌てて知らせに来ると、張五はその女性の美しさに目を奪われながらも、高順に取り次いだ。
「高将軍にお目通り願います。司徒府より参りました、貂蝉と申します」
高順は、書斎で貂蝉を迎えた。彼は机の上の竹簡を脇に寄せ、姿勢を正した。貂蝉は、優雅な所作で一礼し、小さな箱を差し出した。中には、上等な墨と筆が入っていた。
「司徒府から何用だ」
「司徒が、将軍に差し上げる品がございまして。将軍の詩才を耳にされ、ぜひこれで新たな詩をお書きいただければと」
「それはご丁寧に…痛み入る」
高順は、それを受け取りながら、貂蝉の様子を観察していた。この女——どこか、小昭に似ている。いや、小昭ほど棘はないが、何かを探るような目をしている。彼女の美しさは、もはや人智を超えた領域にあった。白玉を削り出したかのような滑らかな肌、憂いを帯びた切れ長の瞳、そして、その場にいるだけで周囲の空気を芳醇な蜜に変えてしまうような、圧倒的な「色香」。
「王允殿には、後日、礼を申し上げる。それと——」
「将軍」
貂蝉は、高順の言葉を遮り、優雅に微笑んだ。
「私、将軍の詩を拝見いたしました。『水は流れて形を変え、心は一つ変わらず在り』見事な詩でございました」
「聞いたのか」
「はい。司徒が、大変感銘を受けておられました。将軍は、武人だけでなく、詩人としても優れていらっしゃるのですね。私も、将軍のような方にお会いできて、光栄に存じます」
その時、書斎の入り口から、茶碗を運んだ小昭が入ってきた。小昭は、貂蝉の姿を見て、一瞬、目を見開いた。貂蝉もまた、小昭を見て、微かに眉を動かした。二人の女の視線が、一瞬交錯した。
「お茶をお持ちしました」
小昭は、無表情のまま茶碗を置いた。貂蝉は、その様子を値踏みするように見つめている。
「失礼ですが、あなたは?」
「将軍の小間使いです。小昭と申します」
「小昭ですか。美しいお名前です」
「お褒めに預かり、光栄です」
小昭の声は、表面は平静を装っていたが、その言葉の一つ一つが刃物のように鋭い。特に「お褒めに預かり」の部分に、通常の三倍ほどの冷気が込められていた。貂蝉は、その棘のある言葉に、微かに笑みを浮かべた。
「将軍、私はこれで失礼いたします。また、お伺いさせていただきます」
「わかった。張五、門までお送りせよ」
「へい!」
貂蝉は、優雅に一礼し、将軍府を後にした。小昭は、その後ろ姿を冷たい目で見送っていた。茶碗を握る彼女の指が、わずかに白くなっている。
高順は、そんな小昭の様子に首を傾げた。
「小昭、どうした。顔色が優れないようだが」
「いいえ、何でもありません。ただあの女性、美しゅうございましたね。将軍も、お気に召したのでは?」
「何だ、それは?」
「いいえ、何でもありません。お茶を下げます」
小昭は、茶碗を下げると、すぐに部屋を出ていった。その背中には、先ほどまでとは違う、冷たい空気が漂っていた。
高順は、一人残された書斎で首を捻った。
「何に怒っているんだ、あの女は」
「大将、それはですね……」
廊下から顔を出した張五が、何か言いかけたが、高順の困った顔を見て、言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもないです。大将は、それでいいと思います」
「何がだ」
「何でもないですってば」
張五は、逃げるように廊下を走り去っていった。高順は深くため息をつき、再び机に向かった。
その夜、小昭は自室で筆を執った。李儒の提案に対する怒り、董媛という側室が来ることへの苛立ち、そして高順という男に対する複雑な感情を、全て詩に込めた。
彼女が書き連ねたのは、漢末の頽廃と、涼州兵に蹂躙される都の惨状、そして理不尽な運命に翻弄される自らの絶望を詠み込んだ、血を吐くような長編の五言詩であった。
『漢季権柄を失い、董卓天常を乱る
逼迫して旧邦に遷し、主を擁して以て自ら強む
平土の人脆弱に、来たる兵は皆胡羌
馬の辺には男頭を懸け、馬の後には婦女を載す』
彼女の筆致は、怨念を込めた刀のように研ぎ澄まされていた。悲しみ、怒り、諦念、そして決して奪い去ることのできない才女としての誇り。何枚もの木簡に書き連ねられたその詩は、もはや単なる嫌がらせの域を遥かに超え、一つの時代を呪う巨大な文学的モニュメントと化していた。
「できましたわ」
小昭は、墨の匂いが立ち込める木簡を抱え、高順の書斎へと向かった。これを見せつけ、彼がどのような反応を示すか。理解できずに苛立つか、あるいは自分を愚弄したと激怒するか。どちらにせよ、あの常に冷静ぶっている男の顔を歪ませてやりたかった。
だが、そっと書斎の戸を開けた彼女が目にしたのは、予想だにしない光景であった。
「将軍?」
部屋を照らす蝋燭の火は、すでに短く溶け落ちようとしている。その淡い光の中、高順は机の上に山積みされた并州の治水計画書や兵糧の計算束を広げたまま、その上に突っ伏すようにして眠りこけていたのである。
規則正しい、しかし深い疲労を伴った寝息が聞こえてくる。長安の陰謀と、并州の百万の命の重圧を一人で背負い、神経をすり減らした男の、あまりにも無防備な背中であった。
「なによ、これ」
小昭は、拍子抜けしたように立ち尽くした。文句を言ってやろうと、教養で打ちのめしてやろうと、これほど熱を込めて詩を書いたというのに——肝心の相手は、悪鬼のような顔ではなく、疲れ果てた男の顔で泥のように眠っているのだ。
彼女は、そっと高順に近づいた。寝顔を見ると、彼の目元には深い隈が刻まれており、武人特有の分厚い掌には、幾つもの傷跡と共に、筆を握りすぎたことによる墨の汚れがこびりついていた。机の上には、書きかけの書簡が広げられている。それは并州の張遼に宛てたもので、冬を越すための馬の飼料について細かな指示が書かれていた。
「三妻四妾ですって。そんな甲斐性もないくせに。それに、昼間はあんなに詩を詠んで、夜はこんなになるまで仕事をしている。どちらが本当の将軍なのか、見当もつかない」
小昭は、小さな声で毒づいた。だが、その声色から先程までの刺々しい怒りは消え失せ、代わりに、どこか微かな「安堵」のようなものが混じっていた。この男は、女の尻を追いかけるよりも、民を食わせるための計算で命を削っている。それは紛れもない事実だったからだ。
小昭は、自らが書き上げた『悲憤詩』の束を、高順の顔のすぐ傍ら、邪魔にならない場所にそっと置いた。
「目覚めたら、読ませていただきますわよ。貴方の『教養』とやらを。あと、今日の変装のこと、もし気づいていたとしても、まだ言わないでください。私が、自分から話すまでは」
彼女は最後に一瞥を投げると、足音も立てずに書斎を後にし、自身の寝所へと帰っていった。
数刻後。冷え込んだ書斎の空気で、高順はハッと目を覚ました。
「いかん、寝落ちしたか。竹簡がよだれで……」
首をさすりながら身を起こした高順の目に、机の上に置かれた見慣れぬ木簡の束が飛び込んできた。流麗にして力強い、女性の筆跡。
「なんだこれ? 小昭が置いていったのか?」
高順は寝ぼけ眼で、その木簡を手に取った。
『漢季権柄を失い、董卓天常を乱る』
一行目を読んだ瞬間、高順の脳裏に電流が走った。現代日本の教育課程において、漢文を大の得意としていた元・サラリーマンの記憶が、その詩の正体を即座に弾き出したのだ。
「おいおい、マジかよ! これ、蔡文姫の『悲憤詩』じゃねえか。史実じゃ匈奴に連れ去られた後に書くはずの超大作が、なんで俺の机の上に置いてあるんだよ!?」
しかも、内容をよく見れば、涼州兵の暴虐だけでなく、「辺荒の地へ売り飛ばされる女の恨み節」のようなニュアンスがビンビンに伝わってくる。流麗な筆致のそこかしこに、高順への痛烈な皮肉が散りばめられているのが分かった。
「嫌がらせか。いや、これは——待てよ」
高順は、詩の内容と、筆跡と、そしてここ数日の小昭の態度を照らし合わせた。すべてが一つに繋がった。小昭が持つ異様に高い教養。時折見せる、侍女とは思えぬ鋭い洞察。そして、李儒が董媛の話を持ち出した時の、あの激しい怒り。
(小昭——いや、小昭という名は偽名か。彼女は洛陽から避難してきた商家の娘だと言っていた。しかしこの詩を書けるだけの教養は、商家の娘が身につけられるものではない。それに、この詩に込められた董卓への怒りと、理不尽な運命への嘆き——これは、蔡邕の娘、蔡昭姫その人の作品だ)
高順は、しばらく木簡を見つめていた。そして、静かに笑みを浮かべた。
(なるほど。蔡昭姫は俺を試していたのか。自分の夫となる男が、どのような人物かを、侍女として潜り込んで観察していた。そして、この詩を置いていったのは、俺への挑戦状だ。「これが私の覚悟だ。貴方はこれに応えられるか」と)
塚本青史の冷徹な筆致で描くならば、この瞬間はまさに「二人の知性が火花を散らす場」だった。高順は歴史上の人物の詩を借りて返歌するか、それとも——。
高順は真新しい木簡を引き寄せ、筆にたっぷりと墨を含ませた。歴史上、蔡昭姫が書き残した『悲憤詩』には、五言詩と楚辞体の二つのバージョンが存在する。彼女が置いていったのは五言詩。ならば、彼女がまだ書いていない楚辞体の『悲憤詩』で返すのが、最も鮮やかな返答になるだろう。
『嗟秋木之摧頽兮』
ああ、秋の木々の砕け散ることよ
『零葉委於寒風』
落ち葉は寒風に身を任せる
『託内命於新人兮』
命を新しい人に託し
『黾勉勉以自強』
努め励んで自らを強くせん
書き終えた高順は、その木簡を小昭の書いた五言詩の横に並べて置いた。
(これを読んだら、どんな顔をするだろうな。自分が書こうとしていた、いや、自分でもまだ思いついていない別バージョンの傑作を、野蛮な将軍がスラスラと書いて置いていったんだ。プライドが粉微塵に砕け散るか、それとも——)
高順は窓の外を見た。長安の空は、まだ白みすら見せない漆黒の闇に沈んでいた。
その翌日の夜、相国府から急使が来た。
「将軍! 相国府からの急使です! 董卓様が、将軍を今すぐお呼びとのこと!」
高順の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「こんな時間に? まさか、俺の首を刎ねる気か」
高順は急ぎ重装の黒甲を身に纏い、愛剣を腰に帯びた。出立の際、侍女部屋の奥で小昭が息を潜めている気配を感じたが、構っている暇はない。
「張五、留守を頼む。何かあればすぐに知らせろ」
「承知しました。大将、どうかお気をつけて」
高順は冷え切った闇の中、馬を飛ばして相国府へと向かった。
煌々と松明が焚かれた相国府の奥殿。血生臭い粛清の場か、はたまた緊急の軍議かと身構えて足を踏み入れた高順であったが、そこを満たしていたのは、予想とは全く異なる「奇妙な空気」であった。
「遅いぞ、高順」
上座には、豪華な寝巻きの上に打ち掛けを羽織っただけの董卓が、不機嫌そうに座っている。彼は大きな欠伸を噛み殺し、酒杯を傾けていた。
そして、その傍らには燃えるような赤い武袍を纏い、腰に短剣を帯びた若い女が一人、仁王立ちで佇んでいた。女の目は、入ってきた高順を頭の先から足の先まで値踏みするように睨みつけ、明確な「敵意」と「侮蔑」を放っていた。
「お父様! なんですか、この男は!」
突然、女が金切り声を上げた。その声はあまりに甲高く、広間の空気が震えた。
「并州を平らげた英雄だと聞いて楽しみに待っていれば、愛想の一つもなく、木石のように突っ立っているだけのむさ苦しい男ではありませんか! 私、こんなつまらない男の妻になるなんて絶対に嫌です!」
地団駄を踏んで喚き散らす女——これが董卓の末娘、董媛。その暴虐無人な態度は、まさに魔王の血を引く我儘娘そのものであった。
「まあ待て、娘よ。高順は口下手だが、武勇も知略も天下に並ぶ者がいない逸材なのだ。お前の婿としてこれ以上の男はおらん」
「嫌です! 私より弱い男になんて、絶対に嫁ぎません!」
「困った奴だ。これ、機嫌を直せ。お前には後で西域から届いた宝石をくれてやるから」
人を殺すことを虫を潰す程度にしか思っていない残虐無比な董卓が、オロオロと娘を宥めすかし、稀に見る「甘い父親の顔」を見せているのである。
(歴史に名を残す暴君というものは、往々にして身内——とりわけ幼い娘に対しては、常軌を逸した溺愛を示すことがある。この光景もまた、独裁者の歪んだ人間性の一端か)
高順が冷めた目でその様子を観察していると、董卓の背後、薄暗い御簾の陰に、一人の女性が静かに控えているのに気づいた。貂蝉である。彼女は何の感情も映さない瞳で、この騒動を見つめていた。
「高順よ。済まんが、娘の我儘に付き合ってやってくれ。適当に手合わせをして、娘の気が済むようにあしらってやってはくれぬか」
(腕比べ、だと? 好都合だ。ここで俺がわざと負ければ、「娘さんより弱い私には、身分不相応でございます」と言って、この厄介な結婚を合法的に免れることができる)
「御意にございます」
高順は恭しく頭を下げ、木剣を手にした。
だが、高順が立ち上がろうとしたその瞬間。董卓の目が、父親のそれから、底知れぬ残虐さを秘めた「暴君の目」へとスッと切り替わった。
「高順。手加減は許さんぞ。もし、うら若き女子に遅れをとるようなことがあれば——貴様の武勇は虚飾であったと見なす。その時は、俺を騙した罪で貴様の首を撥ね、河内に駐屯している貴様の部下どもを、一人残らず生き埋めにしてくれるわ」
(は? 勝てば魔王の娘を娶り、負ければ処刑だと? 究極のダブルバインドじゃねえか!)
完全なるダブルバインドの罠に嵌められた高順は、相国府の広大な中庭で、手渡された木剣をぶらりと下げて立っていた。数歩先には、真っ赤な武袍に身を包んだ董媛が、木剣を正眼に構えて殺気を放っている。
「いくぞ! 腰抜け!」
董媛が甲高い裂帛の気合いと共に、踏み込んできた。流れるような連続攻撃。
(ここだ!)
高順は踏み込みと同時に、全身のバネを乗せた一太刀を唐竹割りに振り下ろした。
パァァァンッ!!
破裂音にも似た激しい木の衝突音。董媛の木剣が根元から弾き飛ばされ、高順の木剣は彼女の額のわずか一寸手前でピタリと静止した。
「勝負あり、にございます」
「な、なんなのよ今の! 卑怯よ! 剣術の型にもなっていない!」
「お父様! 今のは数に入りません! 三番勝負で、二勝した方の勝ちにしてください!」
董卓は面白そうに腹を揺らして笑った。
「ガハハハ! 良いだろう高順、もう二戦、付き合ってやれ」
(ふざけんな、この親バカクソ親父)
第二回戦。董媛は両手に木剣を持つ「双剣」の構えをとった。対する高順は、棍を両手に構え、華麗に操って董媛の連撃をことごとく受け流す。三合目、ガラ空きになった董媛の胸元に、高順の両の棍がピタリと突きつけられた。
「二勝目、にございます」
「殺してやる……!」
董媛の瞳に、ついに魔王の血脈特有の「狂気」が宿った。彼女は中庭の端にある武器掛けへ走ると、そこにあった巨大な斬馬刀を両手で引き抜いたのである。四尺の柄に、刃渡り三尺。合わせて七尺にも及ぶ狂気の長柄武器。
「死ねェエエエッ!」
もはや遊戯ではない。完全なる真剣勝負である。
「チッ!」
高順は舌打ちをすると、立てかけてあった自身の鉄の長槍を手に取った。斬馬刀の破壊的な一撃を、槍の柄を斜めにして受け流す。力で正面から受け止めれば、槍の柄が折れるか、手が痺れて隙ができる。高順は槍の柔軟性と絶妙な足捌きを用い、董媛の斬撃の威力を次々と空へと逃がしていった。
「おい、孝父。そろそろ決着をつけよ。俺は欠伸が出そうだぞ」
董卓の催促の声が響く。
「御意!」
高順は、踏み込みの速度を一段上げた。振り下ろされる七尺の斬馬刀——その懐へと、流れるような身のこなしで滑り込む。そして、槍の石突を下から撥ね上げ、董媛の小手を正確に打ち据えた。
「きゃあっ!」
董媛の手から斬馬刀がすっぽ抜け、重い鋼の刃が石畳に突き刺さる。同時に、高順の槍の穂先が、董媛の白く細い喉仏のわずか一分手前で、微塵のブレもなく静止していた。
羅貫中の筆法で描くならば、まさに「一撃必殺の制圧」である。三戦三勝。高順は完璧な勝利を収めた。
「三戦、三勝。勝負ありましたな、お嬢様」
高順が槍を引くと、董媛はついに膝から崩れ落ち、悔し涙をぼろぼろとこぼして泣き崩れた。
「ガハハハハハ!! 見事だ高順! 媛も、これで目が覚めただろう! これほど強き男が、お前の夫となるのだ! よし、決まりだ! 鎮北将軍・高順と、我が娘・媛との婚姻、ここに決定とする!!」
高順は、床に平伏しながら、その決定の言葉を絶望的な思いで聞いていた。
(嘘だろ……蔡昭姫との政略結婚の裏で、さらに魔王の末娘との政略結婚だと? 気に食わないことがあれば斬馬刀を振り回す、魔王の血を引く暴れん坊のじゃじゃ馬・董媛。長安の陰謀渦巻く政界で綱渡りをしながら、家庭内ではこのモンスターを相手にしなければならないのか)
千八百年前の長安の夜空に向かって、高順の中の現代人スピリッツが、血を吐くような思いで絶叫していた。




