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三段

数日後、高順は張五を連れて長安の郊外へと足を延ばした。目的は狩りだった。并州では常に戦いに追われ、身体を鍛える時間も限られていたが、長安では狩りを通じて騎乗と弓射の腕を維持できる。


「大将、今日はいい獲物がいるといいですね」


「ああ。だがな張五、狩りは獲物だけが目的じゃない。馬を駆り、弓を引き、風を読む。それ自体が良い訓練だ。戦場では、風向き一つで矢の命中が変わる。それを体で覚えるんだ」


「なるほど。大将は狩りさえも戦の訓練にしちまうんですね」


「遊びと訓練の区別をつけるな。楽しみながら学ぶのが一番だ」


二人は馬を駆り、郊外の草原へと出た。冬の名残でまだ空気は冷たく、吐く息が白い。草原のあちこちには、雪解け水でできた小さな湖が点在し、渡り鳥たちが羽を休めていた。


「大将、あそこに鹿がいます!」


「声が大きい。それで何度目だ。鹿は耳がいいんだぞ」


「す、すみません。つい」


「まあいい。見ていろ」


高順は静かに弓を構え、矢をつがえた。驍風の背の上で簡易鐙を踏み締め、ぐっと腰を落とす。風の向き、獲物の動き、距離。すべてを一瞬で計算し、矢を放つ。矢は寸分の狂いもなく鹿の急所を射抜いた。


「大将、相変わらず弓もうまいですね。まるで呂布(飛将軍)みたいだ」


「呂布(飛将軍)は言い過ぎだ。俺の弓など、まだまだだ。だが、訓練の賜物ではある。お前も練習しろよ」


「へい、肝に銘じます」


この狩りの場面は単なる戦闘訓練ではない。それは高順と張五という主従の、静かな絆の時間だった。獲物を追い、弓を引き、風を読む。そのすべてが、言葉を交わさずとも互いの存在を確かめ合う行為だった。并州の戦場で生死を共にした二人にとって、こうして狩りに興じる時間こそが、何よりも深い安らぎを与えていた。


獲物を仕留めた二人が、さらに草原を進んでいくと、前方に小さな湖が広がっていた。冬の名残で岸辺には薄氷が張っている。その湖畔に、一騎の馬が立っているのが見えた。馬の背には、一人の女人がいた。赤い戦袍を身にまとい、手には華麗な弓を構えている。戦袍は風を受けてはためき、その赤は冬枯れの草原の中でひときわ鮮やかだった。


「大将、あれ」


「ああ。見ろ」


その女性は、空を舞う雁の群れに向かって矢を放った。弓弦が唸りを上げ、矢は一直線に空を貫く。次の瞬間、雁が一羽、もがくことなく空から落ちてきた。矢は雁の頸を正確に射抜いていた。彼女の手元には、すでに数羽の雁が射落とされている。


「すげえ」


張五が息を呑んだ。


「大将、あの人、雁を一発で射落としましたよ。それも、あの強さの弓で、飛んでる雁ですよ」


「ああ。それに、見ろ。あの馬の乗りこなし方。鐙もないのに、まるで馬と一体になっている。弓を引く時も、馬の揺れに合わせて上半身だけが完全に固定されている」


「どういうことですか」


「普通の騎射は、馬を止めて撃つか、せいぜい速度を緩める。だが、あの女人は全速で駆けながら、上半身だけを完全に固定して撃っている。あれができる者は、并州でも数えるほどしかいない」


赤い戦袍を翻し、馬上から正確無比の矢を放つその姿は、まさに戦場の女神のようだった。しかし高順の目は、単なる武芸の美しさ以上のものを捉えていた。あの騎乗技術と弓の腕前は、一朝一夕に身につくものではない。幼い頃から厳しい訓練を積み、実戦を潜り抜けてきた者だけが持ちうる技量だった。


突然、近くで小動物の立てた物音がした。その瞬間、赤い戦袍の女人はさっと馬首を巡らせた。顔は赤い布で半分ほど覆われており、その容貌をはっきりと窺うことはできなかったが、布の上から覗く瞳は驚くほど澄んでいて、強い意志を宿していた。


彼女は高順たちの存在を認識すると、一瞬だけその場に留まった。値踏みするように二人を見つめ、すぐに興味を失ったかのように馬を反転させた。赤い戦袍を風に翻しながら、彼女は草原を駆け去っていく。その速さは尋常ではなく、あっという間に小さな点となって消えた。


「大将、あの人、誰ですかね。すげぇ腕前だった。まるで李広(飛将軍)みたいだ」


「さあな。長安には、あれほどの腕を持つ女武人がいるとは聞いたことがない」


「もしかして、どこかの将軍の娘さんとか」


「かもな。だが、あれだけの腕があれば、ただの娘ではあるまい。顔を隠していたのも、何か事情があるのかもしれん」


「それにしても、顔を隠していたのは残念でしたね。どんな顔だったのか、見てみたかった」


「まあ、顔はどうでもいい。それより、もしまた会えるなら、一度じっくり弓の話をしてみたいものだ。あの騎乗技術、どうやって馬と一体になっているのか、聞いてみたい」


二人はしばらく、その女性のことを話しながら馬を進めた。高順は何度か彼女が消えた方角を振り返った。あの騎乗技術と弓の腕前。並の武将でもあれほどの技量を持つ者は多くない。顔を隠していたことから、身分のある者の娘であることは間違いなかった。


(長安は広いな。まだ知らない人材が、どこに潜んでいるか分からん)


高順は密かに感心しながら、それ以上は深く考えなかった。あの赤い戦袍の女人が何者なのか、知る日はまだ遠いそう思っていた。


ある夕刻、呂布が突然将軍府を訪れた。


広間の椅子にどっかりと腰を下ろすと、侍女に酒を持ってくるよう命じた。その顔には、かつての傲然とした威圧感はなく、どこか沈んだ影が差している。


「孝父、相変わらずだな。この屋敷に来ると、妙に落ち着く」


「それは何よりです。相国様のご機嫌はいかがですか」


「最悪だ。最近は些細なことですぐに怒り狂う。見ておれん」


呂布は杯を重ねるうちに、徐々に本音を漏らし始めた。彼は今、董卓の寵愛を失いつつあった。きっかけは貂蝉という一人の女性だった。董卓の侍女である彼女に呂布は心を奪われたが、董卓はそれを許さなかった。むしろ、呂布の想いを知りながら、貂蝉を自らの側に置き続けている。


「孝父、お前は知っているか。義父上がこないだ、俺の屋敷に来てな。俺の妻に見とれていやがったんだ」


「それは」


「みなまで言うな。分かっている。俺のことなど所詮は飼い犬程度にしか思っていないのだろう。いつか邪魔になったら……」


呂布は杯を握りしめたまま沈黙した。その指が杯を握り潰さんばかりに白くなっている。


「だから言っておく。長安はこれから、どうなるか分からんぞ。王允という男がいるだろう。奴はいつも笑っている。心の中では何を考えているか分からん。奴が動けば、この都は変わる。その時、お前がどう動くか。俺は見ているぞ」


孤独な英雄の姿が、そこにあった。『人中の呂布、馬中の赤兎』天下無双の飛将軍は、権力の頂点に立ちながら、誰よりも孤独だった。董卓の養子として遇されながら、董卓からは完全には信頼されず、董卓の将軍たちからは「并州の成り上がり」と蔑まれ、愛した女は義父に奪われた。彼の誇りは深く傷つけられていた。そして今、その誇りの傷が、彼を危険な決断へと導こうとしている。


「将軍、私は」


「分かっている。お前は賢い。俺のように感情で動かず、常に冷静に先を読む。だからこそ、お前は生き延びるだろう。だがな、孝父。信じられる者は少ないぞ。この長安では、いや、この乱世では、誰もが誰かを裏切る。俺も、お前も、義父上も、いつか裏切る時が来る。それが乱世だ」


呂布は空になった杯を卓に置き、立ち上がった。


「今日はこれで帰る。余計なことを言ったが、気にするな。ただの酔っ払いの戯言だ」


「将軍、お気をつけて。いつでも、この将軍府の門は開いております」


「ありがとうよ。お前のその真面目さが、たまに妬ましい」


呂布が去った後、高順は窓の外を見つめた。歴史が動く時は、近い。王允の連環の計が着々と進行し、董卓と呂布の亀裂は日増しに深まっている。そしてその亀裂は、やがてこの都全体を飲み込む巨大な亀裂となるだろう。


(呂布は追い詰められている。天下無双の武人であるがゆえに、その孤独は誰よりも深い。王允はその隙を突くだろう。そして、その時が来れば…)


初平二年冬。


長安の空は、泣き出しそうなほど重く、低い雲に覆われていた。都の中の城、内城の巨大な城壁は、この曇天の下で一層その威容を陰鬱にしていた。


高順は伝令に促されるまま、郿城へと向かった。董卓の召喚である。馬を駆りながら、彼の思考は巡る。董卓が何を求めているのか。前回の謁見では十万の兵を献上し、董卓から「武衛将軍」の称号を与えられた。今回は何を命じられるのか。


内城の城門をくぐると、案内役の宦官が待っていた。いつものように、彼は高順を奥へ奥へと案内する。しかし、今回は政務を行う大広間ではなく、さらに奥深く董卓が自らの欲望を満たすためだけに造り上げた、広大な後宮の庭園へと向かっていることに、高順は気づいた。


(酒池肉林か。噂には聞いていたが、実際にこの目で見ることになるとは)


高順がその門をくぐった瞬間、強烈な酒の匂いと、むせ返るような脂の臭い、そして無数の女たちの嬌声が波のように押し寄せてきた。


「……なんだ、これは」


高順は絶句した。そこは、文字通りの「酒池肉林」であった。庭の池には並々と極上の酒が注がれ、木々の枝には炙られた肉の塊が吊るされている。半裸の女たちが狂ったように舞い踊り、涼州の将軍たちが獣のように酒を浴びては哄笑している。


そして、その乱痴気騒ぎの頂点、巨大な玉座に身を横たえる魔王・董卓の傍らには、あの傾国の美女・貂蝉が、冷たい瞳で酒を注いでいた。


「おお、来たか俺の婿殿! さあ、飲め! 今日は無礼講だ!」


董卓の濁った声が響く。高順は重厚な甲冑に身を固めたまま、その狂乱の中を進んでいった。肌色の波の中で、黒い鉄の塊のように微動だにしない高順の姿は、異様を通り越して滑稽ですらあった。


「恐れながら、相国。某は只今、長安の警備の任にありますゆえ、酒は謹ませていただきます」


高順がそう断ると、董卓は面白くなさそうに顔を歪めた。


「堅物だな、お前は。まあいい、好きにしろ。……ところで、孝父よ」


董卓の目が、ぎらりと光った。彼は周囲の者たちを手で制し、庭園から下がらせた。貂蝉もまた、静かに席を立ち、奥へと消える。庭園には、董卓と高順だけが残された。


「孝父、長安はどうじゃ?」


董卓は無邪気に問いかける。高順は内心で身構えた。答え方によっては命取りになりかねない。


「良き場所かと存じます」


「民の暮らしは?」


董卓の眼光が、無邪気な瞳から一転、凶光を宿す。高順は察した。この男は、真実を求めている。そして、嘘をつけばそれを見抜く。


高順は一言も発せず、沈黙した。


董卓は鼻で嗤うと、優しい声色に変えてなだめてきた。


「ふっ、正直に申せ。罪には問わぬ」


高順は覚悟を決めた。


「頗る悪いかと存じます」


「ふん! 生かしてやっておると言うのに、どこにそんな不満が湧くと言うのだ!」


董卓は机を叩く。


「某にも分かりませぬ」


これ以上は危険だ。


「ふん! 貴様に分かってたまるか!」


董卓は怒鳴るが、すぐに収まる。その豹変ぶりこそが、この男の本質だった。


「申し訳ございません」


「ん? お主に怒っておらぬぞ? 良い気にするな、好きに飲み食いせよ!」


「はっ!」


高順は安堵した。どうやら助かったらしい。しかし次の瞬間、董卓の口調が一変した。


「ここで一つ、昔話をしてやろう」


その口調は、高順の記憶にある董卓とは全く違っていた。まるで、年老いた父親が、幼い子に語り聞かせるような、懐かしさと哀しさを帯びた声音だった。


「とある国境に、一家五人の農家があった。父、母、兄、弟、そして末の子……その者がいた」


董卓は語り始める。その声は低く、時に途切れ途切れになりながら。


「国境の辺鄙な地ではあったが、慎ましく暮らし、夫婦仲睦まじく、兄弟三人はよく喧嘩したものだが、それはごく普通の兄弟喧嘩だった。畑は痩せていたが、家族揃って働けば、何とか飢えを凌ぐことはできた」


高順は黙って聞いていた。この話が、董卓自身の幼少期を語っていることは明らかだった。涼州隴西郡臨洮県。漢と羌の狭間にある貧しい辺境の地。董卓はそこで生まれ育った。貧しい農家の次男として、母を助けて畑を耕し、時に羌族と交流し、その豪胆さで名を知られるようになった。


(この男は、かつて侠気の将軍と呼ばれていた。それを俺は歴史書で知っている。だが歴史書の知識と、今、目の前で語られる人生とは、あまりにかけ離れている)


「ある日、羌の騎馬集団が村に来た。村人たちは皆、逃げ惑った。野蛮人が来た、と。だが、末の子は逃げなかった。母が後ろにいるのに、逃げられるものか。鍬を握りしめて、一人で立ちはだかった」


董卓の口元が、わずかに緩む。


「『畑を荒らすな! ここは俺たちの土地だ!』と叫んだ。羌の頭領は、その度胸に驚いた。そして、その日以来、末の子は羌の者たちと交わるようになった。彼らは『野蛮人』などではなかった。この厳しい土地で必死に生きる、同じ人間だった。むしろ、都から来る役人たちの方が、よほど『野蛮』に見えた」


この董卓の語りには、彼の人生を貫く一本の線が浮かび上がっている。それは「中央への反発」と「辺境の民への共感」だった。後に董卓が洛陽で暴虐の限りを尽くしたのは、単なる権力欲からではない。辺境で蔑まれてきた男が、中央の腐敗を目の当たりにし、それを「正す」という使命感に駆られた結果だった。しかし、その使命感は裏切りによって歪められ、恐怖政治へと変質していった。


董卓は語り続けた。羌族の頭領が家を訪れた時、農耕用の牛を屠ってもてなしたこと。その厚意に感動した頭領たちが、千頭もの牛を連れて恩返しに来たこと。郡の役人となり、胡の侵入を討伐して千を超える首級を挙げたこと。并州刺史の段熲に認められ、中央に推挙されたこと。司徒の袁隗に召聘され、羽林郎として都での生活を始めたこと。


「都は華やかだった。宮殿は黄金に輝き、貴族たちは錦の衣を纏い、日々酒宴に興じている。だが、末の子の目には、その華やかさの裏側にある空虚さが映っていた。役人たちは賄賂を貪り、民衆は重税に喘いでいる。彼らの口から出るのは、常に『家柄』と『利権』の話ばかりだった」


董卓の声に、誇らしげな色が混じる。それは、かつて「侠気の将軍」と呼ばれた男の記憶だった。


「末の子は思った。『これが、天下を治める者の姿か』と。彼の心には、羌族の友と酒を酌み交わしたあの日々が甦る。彼らは貧しくとも、誠実に生きていた。都の貴族たちよりも、よほど『人間らしい』と」


しかし物語は次第に暗転していく。張奐の征伐軍に従軍し、一万余りの敵を討ち取った武功。朝廷から九千匹の絹織物を賜り、それを全て部下たちに分配したことその時の董卓は、確かに「侠気の将軍」だった。


しかし皇甫嵩との確執、朝廷からの兵力削減命令、そして何進の招聘に応じて洛陽へ向かったこと。すべてはそこで狂い始めた。


「末の子は思った。『朝廷が乱れている。このままでは、天下は再び戦乱の世となる。私はそれを止めに行く。宦官どもを一掃し、国を正すのだ。この腐りきった国を、俺の手で』と」


董卓の声が、苦しげになる。


「だが、末の子の計算は狂った。末の子は、危険分子である彼らを排除せず、むしろ要職に就けてしまった。袁紹、盧植、曹操、袁術……彼らはこぞって離反し、反旗を翻した。末の子が信任した周毖や伍瓊が推薦した者たちまでもが!」


董卓の目に、涙が浮かんだ。


「末の子は裏切られた。自分がせっかく目をかけ、抜擢してやった者たちに、四方八方から刃を向けられた。彼は極度の『人間不信』に陥った。反乱を恐れて弘農王を殺害し、長安への遷都を強行する。郿城の城壁を高くし、三十年分の穀物を蓄える。反りの合わない者らに罪を着せ、笞で打ち殺す」


董卓の声が、震える。


「裏切りと絶望の果てに、人間不信に陥った末の子には、もはや『恐怖政治』によって人を従わせるしか方法が残されていなかった」


董卓は、高順を見た。その目には、もはや「魔王」の影はない。そこにあるのは、一人の男の苦悩と、誰にも理解されなかった理想への執念だけだった。


「儂はな、この漢の膿を全て絞り出して、天下を太平にすることが本懐じゃった。それを、皆が皆、邪魔しよってからに!」


その声は、もはや「魔王」のものではなかった。そこにあったのは、理想に破れた一人の男の慟哭だった。


「孝父よ。お前は、儂のことをどう思う? 儂は、本当に『魔王』なのか? 儂のやってきたことは、全て『悪』だったのか?」


高順は、言葉を失った。


董卓は、確かに暴君だった。何万もの民が彼の圧政に苦しめられた。洛陽は灰燼に帰し、陵墓は暴かれ、弘農王は毒殺された。それらの事実は、決して変えられない。


しかし彼は、かつて侠気の将軍だった。羌族の友と酒を酌み交わし、褒美を全て部下に分け与えた。国を正すという理想に燃え、都へ乗り込んだ。彼の目に映っていたのは、腐敗した朝廷を正すという使命だった。袁紹たちに裏切られ、理想を踏みにじられ、彼は狂った。誰も信じられなくなった男が、最後に頼るのは恐怖だけだ。


高順は、静かに口を開いた。


「相国……」


言葉が出てこなかった。何と言えばいいのか。この男の苦悩を理解しつつも、その手で積み上げられた死体の山を無視することはできない。理想と現実の間で、高順自身も引き裂かれる思いだった。


「のぅ? 孝父」


「はっ!」


高順は慌てて姿勢を正した。危なかった。半分寝かけていた。


「天下は……誠に忠義の士が多いのぅ!」


董卓は感慨深げに言う。


「はっ、我々が思っていたより多いかと」


「なぜじゃ?」


「口にする者が多く、その行いで示す者が少ないからです」


高順は本心の一部を込めて答えた。それは董卓への慰めでもあり、同時に自分自身への戒めでもあった。


「ふっははは! その答え気に入ったぞ!」


董卓は大笑いした。そして杯を傾け、一気に煽った。


「行け、孝父。媛を頼んだぞ。あやつはじゃじゃ馬だが、根は寂しがり屋だ。お前なら、彼女を幸せにできるだろう」


それが、董卓の最後の言葉だった。


高順は深く頭を下げ、静かにその場を辞した。庭園を出る時、振り返ると、董卓は玉座に巨体を沈め、天井を見上げていた。その横顔は、どこか安らかで、しかし深い哀しみを帯びていた。


内城を出て、屋敷への道を馬で疾走しながら、高順は胸の奥に熱いものを感じていた。


董卓は、確かに暴君だった。洛陽を焼き、民を苦しめ、多くの罪を重ねた。それらの事実は、決して変えられない。しかし彼は、かつて理想を抱いた男だった。国を正し、民を救おうとした。それが、裏切りと絶望によって歪められ、暴政へと堕ちていった。彼の罪は決して許されるものではないが、彼の苦悩を無視して、ただ「極悪人」と断罪するのは、あまりに安易ではないか?


高順は、馬の手綱を握りしめた。


(俺は、彼のようにはならない。理想を抱きながらも、その手段を誤らない。力に溺れず、恐怖で人を従わせたりしない。并州で、俺は新しい国を作る。民が安らかに暮らせ、力ある者が報われ、誰もが人間らしく生きられる国を)


董卓が見た理想の果てにあったのは、血と灰燼だけだった。ならば、俺はその先を見せてみせる。


長安の城壁が、遠くに見えてきた。高順は馬を進めながら、静かに呟いた。


「さらばだ、董卓。お前の理想は、俺が引き継ぐ。お前の過ちは、俺が繰り返さない。これが、俺の……いや高順の、決意だ」

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