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二段

高順は長安での日々を、驚くほど楽しんでいた。


将軍府の広間には、連日のように幕僚や兵士たちが集まり、高順が発明した「象棋」と「麻将」に興じている。象棋は二人で戦う戦略遊戯、麻将は四人で打つ運と駆け引きの遊戯である。どちらも高順が現代の記憶を基にこの時代向けに改良したものだった。


「象棋は二人で戦う戦略遊戯だ。盤の上で兵を動かし、相手の『将』を討ち取れば勝ち。麻将は四人で打つ遊戯で、運と読みと駆け引きがものを言う」


董昭が興味深そうに盤を覗き込んだ。


「将軍、これは面白い。一手ご指南願えますか」


「ああ。まずは駒の動かし方から説明しよう。車は縦横無尽に動ける。砲は普段は車と同じだが、敵を取る時だけは間に山が必要だ。馬は八方に跳ぶが、脚を塞がれると動けぬ。士と相は帥を守る親兵で、そして互いの将帥。これが最も弱く、最も重要な駒だ。これが討たれるか向かいあったら負け。戦場における総大将と同じだ」


「なるほど。一つ一つの駒に役割があるのですな。まさに軍団の縮図……しかし、何故向かい合ったら負けなのですか?」


高順は答えに困った。象棋のルールの由来など、現代人である彼にも正確には分からない。しかし、ここで「知らん」と答えるわけにはいかない。彼は即興で講談を始めた。


「アレだアレ! ほら、かつて高祖皇帝と西楚の覇王が鴻溝にて対陣した時の話だ!」


高順は語り始めた。漢楚両軍が長く対峙し、項羽が劉太公を煮殺そうとしたこと。劉邦が「煮汁をくれ」とやり返したこと。項羽が一騎討ちを申し込んだが劉邦は笑って受けず、項羽の伏兵に胸を射抜かれそうになったこと。劉邦がとっさに「奴め、俺の指に当ておった」と叫んで兵士の動揺を収めたこと。


「これより盤上の戦でも将帥互いを相見ずと言われるようになったとさ! ま、お前達にやって欲しいのはこの盤上で戦略を練ることは、そのまま実戦の訓練になる。将軍府の兵士たちにも広めてほしい」


日常の中の温かな交流の場面である。盤を囲んで駒を指す音、牌を打つ音、そして時折上がる歓声や嘆きの声。それらが将軍府の広間に満ち、かつては殺伐としていた空間が、今は一つの「家族」のような温もりを持ち始めていた。


象棋と麻将は単なる遊戯ではない。それは高順という男の哲学が形になったものだった。象棋は戦略と論理の世界。限られた駒を最大限に活かし、相手の裏をかき、時に犠牲を払いながら最終目標を達成する。それはまさに高順の生き方そのものだった。麻将は運と実力が半々の世界。どんなに強い者でも運には勝てず、どんなに弱い者でも一手で局面を変えられる。それは乱世を生きる民の姿に重なる。


昭姫もこの新しい遊戯に興味を持った。父から教わった学問で培った分析力を活かし、わずか数日で駒の動かし方を覚えた。彼女が特に興味を持ったのは象棋だった。盤上で兵を動かし、相手の将を追い詰める。それはまるで、この乱世そのものの縮図のように思えたからだ。


「昭、お前は飲み込みが早いな。まるで子供の頃から学んでいたかのようだ」


「そ、そんなことは。ただ、将軍の教え方が丁寧だからです」


昭姫は慌てて取り繕ったが、内心では冷や汗をかいていた。彼女は高順の教え方のうまさに舌を巻いていた。複雑な戦略を、初心者にも分かるように噛み砕いて説明する。しかも、ただ理屈を教えるだけでなく、実際に盤を動かしながら体感させる。それは単なる遊びの指南ではなく、本物の「教育」だった。


(この人は、教えることにも長けている。将軍として兵を率いるだけでなく、人を育てる才能もある。董卓の他の将軍たちとは、やはり決定的に違う)


麻将の方は、趙庶と高雅が特に熱中した。趙庶は持ち前の毒舌で「その牌、いるのかよ」「また振り込んだなお前」と周囲を煽り、高雅は純粋な負けず嫌いで何度も挑戦しては「もう一回!」と駄々をこねた。やがて将軍府の兵士たちにも広まり、夜になるとあちこちで牌を打つ音が聞こえるようになった。その音は、戦場の恐怖を知る者たちにとって、何よりの安らぎだった。


長安に初雪が舞い始めた頃、将軍府に来客を告げる声が響いた。


「将軍、蔡邕様がお見えです」


高順は筆を置き、立ち上がった。彼はこの時を待っていた。蔡邕は後漢随一の碩学であり、その学識は天下に知られている。董卓に仕えることを余儀なくされてはいるが、内心では董卓の暴政を苦々しく思っている高順はそう聞いていた。


「お通ししろ」


現れたのは、白髪混じりの髪を丁寧に結い上げた老人だった。皺の刻まれた顔には長年の学問が滲み出ている。歩き方はゆっくりとしているが、背筋は伸びていた。その目は、長年の読書によって培われた深い知性を宿している。


「私は蔡邕と申す。突然の訪問、失礼いたした」


「高順と申します。ようこそお越しくださいました。後漢随一の碩学であられる蔡先生が、このような武辺者の屋敷に足を運んでくださるとは、光栄の至りです」


高順は蔡邕を書斎に案内した。蔡邕はその光景に目を見張った。書棚には古今の書物が所狭しと並び、机の上には書きかけの竹簡が積まれている。その量と質は、大学の書庫と言われても違和感がないほどだった。


「高順殿。この書物は。武人の書斎とは思えませんな。大学の書庫と言われても違和感がない」


「私は学問も好きでして。并州でも、暇を見つけては読んでおりました」


「戦利品として書物を接収することもあったとか。普通の武将は金銀財宝を奪うものだが」


「書物は金銀よりも価値があります。金銀は使えばなくなるが、書物の知識は使うほどに増える。私はそう考えております」


蔡邕は書棚から一冊の竹簡を手に取った。そこには高順が并州で書き記した「水論」があった。彼はそれを開き、読み始めた。その内容は、彼の想像を遥かに超えていた。


『水は形を変え、誰もが嫌がる低い場所へ流れ、万物を潤す。だがその力は岩をも砕く。用兵は水の如し。金銭を用いることも水の如し。流れる水は腐らず。柔情は水の如し。時光もまた水の如し。臣が心、水の如くありたいと願う。一敗地に塗れようとも、心清らかにして水の如し。一廉なること、水の如し』


「これは。法家の思想に道家の思想を融合させたものか。いやそれだけではない。兵法も経済も政治も。すべてを『水』という一つの概念で統合しようとしている」


蔡邕の顔から笑みが消えた。彼の手が微かに震えている。長年の学問生活で培われた彼の知性が、この短い文章の中に途方もない思想の深さを感じ取ったのだ。


「高将軍。これは、先王の道、漢の正道を真っ向から否定するものだ」


「先王の道とは、具体的に何を指されますか」


「周の礼、孔子の仁、孟子の義。それらは天下を治めるための不変の理。それを無視し、ただ法のみを以て国を治めるなど、秦の始皇と同じ道ではないか」


高順は静かに蔡邕の目を見つめた。彼の前世の現代日本で培った知識と論理が、今、この老学者との対話の中で花開こうとしていた。


「始皇は法を以て六国を統一しました。滅んだのは、統一の後に法を変えなかったからです。民の疲弊を知りながら、厳格な法を緩めなかった。それが秦の滅びた理由です」


「では貴殿は、儒学を否定するのか」


「蔡邕殿。儒学の善悪という枠組みは、結局のところ人の主観に過ぎません。ある者にとっての善は、別の者にとっての悪となる。それを絶対視すれば、必ず派閥と排除が生まれます。党錮の禁。あれこそが、儒学の正義が招いた悲劇ではありませんか」


蔡邕の顔が強張った。党錮の禁それは彼にとっても忘れがたい記憶だった。宦官に反対した名士たちが「党人」として弾圧され、多くの者が獄に繋がれ、あるいは命を落とした。その弾圧を正当化したのは、「正義」の名の下に行われた政治的排除だった。


「では、どうすればよいと仰るのか」


「明確な規則を作り、感情を排して運用する。法には善も悪もありません。ただ機能するのみです。法の下に君主も群臣も置く。それこそが、私の考える統治の基本です」


茶が冷め、日が傾き、書斎に灯りがともされる頃まで、二人の論戦は続いた。それは単なる意見の応酬ではなかった。二つの時代、二つの世界観が激しくぶつかり合う、思想的決闘だった。


「漢王朝の失敗は、儒学に重きを置きすぎ、法治をその輔けに貶めたためです」


高順のこの一言に、蔡邕の顔色が変わった。


「儒学を軽んじるとは。将軍は礼節と仁義が国を滅ぼしたとでも仰るか。ならばかつての始皇は、李斯を重用し法を以て国を治めたが二世にして滅んだではないか」


「それは始皇と李斯の過失であり、法が間違っているとは言えません。秦が六国を横掃し、海内を統一した理由はまさに法を持って臣民を律した故にございます。国が滅ぶは始皇が法を変えなかったからです。統一の後、高祖の如く法を緩めて百廃興るを待ち、民に生息を与えんとすれば秦は滅ぶ事は無かったでしょう」


高順の瞳に、かつて組織の矛盾と闘ってきた中年ビジネスマンの冷徹な理性が宿る。


「孔子なる者、世を欺き名を盗む者故に、その教えを政治の根幹に据えること自体が間違っていると、某は考えます。そもそも儒学とは、自身の行動を絶対的な正義即ち善とし、それと道を違え志を異にする者を全て奸佞や小人という悪に定義するからです。善悪の論は、必ず腐敗と派閥争いを生みます。党錮の禁が、その最たる例でしょう」


「では何故『法』でなければならぬと言うのか」


蔡邕が声を荒げた。


「法とは、明らさまな統治です。取り繕った善よりも、遥かに優れています。明確な規則を作り、その枠組みの中で国家や物事を運営する。法には善も悪もありません。ただ機能するのみ。儒学の仁を頼りに、天子一人に文武百官を統率させようとするのは、個人の器量に頼りすぎるあまりに、かえって天下に対する暴虐となります」


「高将軍、ならば問う。貴殿自身は、何を最も重きに置いているのだ」


高順の口から出た言葉は、蔡邕の予想を完全に裏切るものだった。


「水です」


「なぜか」


「上善は水の若し。水は無形にございますれば、善も悪もございませぬ。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾し。夫れ唯だ争わず、故に尤めなし」


法家の冷徹なシステムを是としながらも、その心を支配するのは道家の水のごとき柔軟さと、万物を潤す利他の精神。


静寂が書斎を包み込んだ。蔡邕は茫然として高順を見つめていた。やがて、その深い皺に囲まれた目尻から、張り詰めていた糸が切れたように笑みがこぼれた。


「ハハ。ハハハハハ」


天下の大学者が、大声を上げて破顔一笑した。


「痛快。誠に痛快なり。儒学の髄を極めたこの蔡伯喈の前で、孔子を詐欺師と罵り、法家を説き、老子で締めくくるとは。高順、貴殿は真の豪傑だ」


この論戦は単なる学問談義ではない。蔡邕はこの対話を通じて、高順がどのような人物かを値踏みしていたのだ。そして彼は確信した。この男は董卓の単なる武将ではない。独自の思想と、それを実現する実行力を持った、稀代の為政者である、と。


蔡邕は立ち上がり、高順に向かって深く頭を下げた。


「私の負けだ。貴殿のような大洋の如き男であれば、私の娘を飲み込むこともできよう。昭姫を、よろしく頼む」


「はっ。身命を賭してお守りいたします」


「望むところだ。今度は私が、貴殿の水論に反論する番だな。また来るぞ」


政略結婚という名の泥水の中から、確かに人と人としての絆が結ばれた瞬間だった。


蔡邕が帰った後、書斎の外で昭姫は壁にもたれて深く息を吐いた。


彼女は父が来訪したと聞き、いてもたってもいられず、書斎の外で二人の論戦を盗み聞きしていたのである。使用人たちが不審に思わぬよう、手には掃除用の箒を持ち、いつでも掃除をしているふりができるように準備していた。


父があれほど熱くなって誰かと議論する姿を、彼女はこれまで見たことがなかった。蔡邕は当代随一の学者であり、朝廷での議論でも常に冷静沈着だった。その父が、声を荒げ、拳を握りしめ、そして最後には大笑したのである。


(それに、最後に父は高順に頭を下げた。儒学の大家である父が、董卓の将軍に。しかも「真の豪傑」と言って。この人は、いったい何者なの)


昭姫は自分の心が激しく揺れ動くのを感じた。父が認めた男。民が慕う男。象棋と麻将を発明し、狩りで身体を鍛え、武芸を磨き、夜遅くまで書物を読む男。そして何より、乱世の中で国を作るという夢を真剣に語る男。


彼女はこの数日間、侍女「昭」として高順の日常を間近で観察してきた。高順の一日は驚くほど規則正しかった。朝は日の出前に起き、中庭で槍の素振りを行う。吐く息が白く凍るような寒さの中でも、百回の突きを正確に繰り返す。午前中は執務に当たり、午後は鍛冶工房で職人たちと議論を交わしながら炒鋼法と百錬鋼の改良に取り組む。夕方になると張五を連れて長安の街を散策し、夜は書斎で遅くまで書物を読む。


(なんて真面目な男なの。董卓の将軍というから、さぞかし酒浸りで乱暴な男かと思っていたけれど)


昭姫は密かに舌を巻いた。彼女がこれまで見てきた董卓の将軍たちは、いずれも酒と女に溺れ、民を虐げ、粗野で教養のかけらもなかった。しかし高順は違う。酒は飲むが節度をわきまえ、女中に手を出すこともなく、民には優しく、しかも知識欲が旺盛で、書斎には古今の書物が所狭しと並んでいる。


姚雪垠の民衆視点で言うならば、昭姫が街で聞いた高順の評判もまた、彼女の心を動かしていた。市場の食堂の店主は言った。「高将軍はいつも代金をきっちり払ってくださる。威張らない。脅さない。董卓様の他の将軍たちとは、まるで違います」と。また別の商人は言った。「高将軍が来られるようになってから、このあたりの兵士たちの態度が変わりました。『高将軍がついている』と言えば、無理な要求をしなくなったんです」と。


(私はこの人の何を知っていたというの。董卓の将軍というだけで、他の者たちと同じ野蛮な武人だと思い込んでいた。でも、違った。この人は——)


昭姫は胸に手を当て、深く息を吸った。彼女はそっと書斎の扉を見つめた。扉の向こうでは、高順が再び筆を執り、何かを書き始めている。彼の横顔を思い浮かべながら、昭姫は初めて自分の中に芽生えた感情に、そっと名前をつけた。


しかしそれは、まだ誰にも言えない秘密だった。何しろ彼女は「侍女の昭」なのだから。


その夜、高順は書斎で一人、兵法の基礎をまとめていた。机の上には「地形による戦術の使い分け」「兵站の重要性」「情報戦の基本」「撤退の判断基準」などが明快にまとめられた竹簡が広げられている。


昭姫が茶を運んできた。


「将軍、まだお休みになられないのですか」


「ああ、昭か。もう少しだけ、これをまとめてしまいたい。兵法の基礎をまとめている。これから并州の将たちに配るつもりだ。戦は、才能だけでは勝てない。知識と訓練が必要だ」


「これを、お一人で書かれたのですか」


「参考にした書物はあるが、自分なりに整理した。兵法はただ読むだけでは意味がない。自分の言葉で書き直して初めて、身につくものだ」


「将軍は、兵法さえも技術として扱われるのですか」


「ああ。兵法は神秘でも天才の閃きでもない。分析し、体系化し、誰にでも使える技術に落とし込む。それができれば、凡将でも名将に勝てる」


昭姫は内心で驚嘆した。この言葉こそ、高順という男の本質を表していた。彼はすべてを「技術」として捉える。政治も、軍事も、経済も、鍛冶も、そして遊戯でさえも。それは天才の直感に頼るのではなく、誰もが学び、使える「システム」を作ろうとする姿勢だった。


「将軍は、私にも兵法を教えてくださいますか」


「お前が学びたいなら、いつでも教える。ただし、兵法を学ぶなら、まずは象棋だ。盤上の戦いに勝てるようになってから、実際の戦術に進もう」


この夜から、昭姫は高順の半ば弟子として兵法の基礎を学び始めた。彼女はもともと父から教わった学問の素養があったからか、飲み込みが驚くほど早かった。


(この人といると、時間が経つのを忘れてしまう。学ぶことが楽しいと思ったのは、いつ以来だろう)


昭姫は心の中で呟いた。彼女の胸の中には、高順への疑いと、尊敬と、そしてまだ名前をつけることのできない感情が、静かに渦を巻いていた。


その夜、長安の司徒府では、王允が一人、灯りを消して座っていた。


机の上には、董卓が高順に董媛を側室として与えるという報せが置かれている。老いた司徒の目は、暗がりの中で冷たく光っていた。


(董卓は、高順を完全に取り込もうとしている。蔡邕の娘だけでは足らず、今度は自らの娘まで差し出すか。それほどまでに、高順という男の価値は大きい。ならば……)


王允は、ゆっくりと立ち上がり、庭へと出た。月明かりが、牡丹の花を白く照らしている。その陰に、一人の影が立っていた。


「貂蝉か」


「はい、義父様」


「そなたに、もう一つ頼みがある。高順という男を、探ってほしい」


貂蝉は、息を呑んだ。彼女は既に董卓の侍女として送り込まれ、呂布との関係を深めている。それに加えて、高順という并州の覇者にも近づけというのか。


「承知いたしました。高順様にも、お近づきになりましょう」


「無理はするな。高順は賢い。下手に探りを入れれば、逆に警戒される」


「はい。将軍には、学問の話を、詩の話をしてみます。将軍は、詩を詠まれる方だと聞いております」


王允は娘の手を握り、深く頭を下げた。老人の目には、月明かりが涙のように光っていた。連環の計は、着々とその網を広げつつあった。そしてその網は、高順という男をも包み込もうとしていた。

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