第四回 太行雷霆降百万 群雄瞠目覇道升 五段
百万の賊を破った報せは、太行山脈の隅々にまで轟いた。
黒山賊の壊滅から一月も経たぬうちに、山々に潜んでいた大小無数の賊徒たちが続々と投降してきたのである。まず動いたのは楊奉だった。彼は白波賊の頭目の一人であり、かつては李傕、郭汜らと並び称された男である。五千の兵を率いて河内に現れ、高順の陣営に帰順を願い出た。
「高将軍、天下各地の諸侯が我らを駒としか見ておりませなんだ。しかし将軍は違う。降伏した者に土地を与え、農民として生きる道を示された。そのお噂を聞き、我ら一同、将軍の下で人の道を歩みとうございます」
楊奉の背後には、彼と行動を共にしてきた韓暹、胡才、李樂の姿もあった。韓暹は寡黙な男で、深く拱手するのみだったが、その目には確かな決意が宿っていた。胡才は元黄巾賊の小頭であり、乱世の荒波に揉まれながら生き延びてきた老獪な男である。李樂はまだ年若く、その体格は熊のように大きかった。
「ようこそ、楊将軍。あなた方のような歴戦の将が加われば、これほど心強いことはない」
高順は彼らを温かく迎え入れた。
楊奉たちの投降を皮切りに、太行の賊徒たちは雪崩を打って投降してきた。まず現れたのは張燕の腹心だった孫輕と王當である。彼らは張燕が山の奥深くへ逃げ込んだ後も投降せず、最後まで抵抗を続けていたが、ついに食糧が尽きて山を下りてきた。
「飛燕のお頭には申し訳ねえ。だが、背に腹はかえられねぇ……」
孫輕はそう言って、高順の前に自らの大刀を差し出した。刀身には無数の傷が刻まれ、幾多の戦場を生き抜いてきた証だった。
続いて楊鳳、于毒、白繞、張白騎が降る。楊鳳は騎兵の扱いに長け、于毒はその名の通り毒矢を使うことで知られていた。白繞は白い布を旗印に掲げ、決して略奪を行わない義賊として民から慕われていた。張白騎は白馬に跨り、常に先陣を切って戦う豪傑だった。
さらに張晟、張雷公、李大目、于羝根、左髭丈八、青牛角、黃龍、左校、劉石、白爵、白雀、浮雲、大洪、苦蝤、五鹿、司隸、羅市、緣城挙げればきりがないほどの大小様々な頭目たちが、それぞれ数百から数千の配下を引き連れて投降してきた。
張雷公は雷のような大声で味方を鼓舞し、李大目はその巨眼で敵を見据えるだけで相手が震え上がったという。左髭丈八は八尺を超える長身で、左頬に長大な髭を蓄えていた。青牛角は青く塗られた牛角の兜を被り、黃龍は黄巾賊の残党を束ねる存在だった。五鹿は五つの鹿を一日で狩り尽くしたという怪力の持ち主であり、苦蝤はその名の通り苦虫を噛み潰したような表情を決して崩さない男だが、不思議と部下からの信頼は厚い。浮雲は雲のように掴みどころのない戦法を得意とし、大洪は洪水のごとき勢いで敵陣に突っ込む猪突猛進の将だった。白爵と白雀は兄弟で、白繞と共に白い旗を掲げる一派を率いていた。
彼らはみな、乱世に生まれ、生きるために戦い、奪い、そして生き延びてきた者たちである。董卓にも袁紹にも公孫瓚にも見向きもされなかった、名もなき民の成れの果てだった。しかし高順は違った。降伏すれば命を助けるだけでなく、土地を与え、種籾を支給し、農民としての尊厳を与えた。その噂が太行の隅々にまで届き、ついにはこれほどの大軍が集結するに至ったのである。
郝萌は連日、投降してくる賊徒たちの名簿作成に追われた。竹簡は瞬く間に積み上がり、執務室の床を埋め尽くしていく。諸葛玄は受け入れのための土地の割り振りを計算し、韓馥は穀倉から種籾を支給する手配に奔走した。河内の平原には無数の天幕が張られ、炊煙が無数に立ち昇る。天幕の間を子供たちが駆け回り、女たちは鍋をかき混ぜ、老人たちは日向ぼっこをしながら昔話に興じていた。戦場では決して見ることのできなかった、穏やかな日常の光景がそこにはあった。
「将軍、報告いたします。投降してきた賊徒の総数は、優に二百万を超えます。家族を含めれば、さらに数十万が加わるかと」
張五が集計結果を手に、緊張した面持ちで執務室に入ってきた。その表情は疲労で青ざめていたが、目の奥には不思議な昂揚感が宿っていた。
「二百万……そうか」
高順は窓辺に立ち、城外に広がる天幕の群れを見渡した。どこまでも続く白い天幕の海。二百万それは一つの国が動くに等しい規模だった。
(二百万の民を養うということは、二百万の命に責任を持つということだ。これを間違えれば、俺は董卓や袁紹よりも多くの人間を不幸にする。しかし、これを成し遂げれば、誰も見たことのない国が生まれるかもしれない)
「この中から、兵として使える者を選び出せ。基準は以前と同じだ。戦いたくない者は無理に徴兵するな。農民として生きたい者には土地を与えろ。それが俺の方針だ」
選抜は郝萌と張遼が中心となって行われた。かつての賊将たちも積極的に協力した。楊奉は自ら検分役を買って出て、孫輕と王當は張燕軍の残党の中から精鋭を選び出した。于毒は毒草の知識を活かして負傷者の治療に回り、白繞は天幕の群れの中で諍いが起きぬよう仲裁役を引き受けた。左髭丈八はその異様な風貌で子供たちに怖がられたが、やがて子供を肩車してやるようになり、今では一番の人気者だった。苦蝤は相変わらずの仏頂面で鍬を振るっていたが、黙々と働くその背中には、言葉にできぬ安堵の気配が滲んでいた。
かくして二百万の賊徒の中から選び抜かれた五十万の兵が、新たに高順軍に加わることとなった。
五十万。それはもはや一地方の軍閥が持つ兵力ではない。袁紹の冀州軍が精鋭十万、曹操が五万、公孫瓚が三万という時代にあって、五十万という数字は群を抜いていた。無論、その大半は訓練も行き届かぬ新兵であり、装備も統一されていない。しかし、彼らは飢えを知り、略奪の罪深さを知り、そして何より「生き延びるためには何でもする」という執念を持っている。その執念こそが、彼らを単なる烏合の衆から、強靭な戦士へと変貌させる可能性を秘めていた。
太行山脈のさらに奥、雪深い岩窟の陣所で、張燕は報告を聞き終えると長く息を吐いた。
孫輕と王當が降り、于毒や白繞までもが高順の傘下に入った。百万の軍勢は散り散りとなり、残ったのはわずか一万に満たぬ手勢だけである。食糧は尽き、雪に閉ざされた山道は退路すら塞いでいた。岩窟の中では、飢えに耐えかねた兵士たちが身を寄せ合って寒さをしのいでいる。
「……皆、生き延びたのか」
張燕は傍らに控える若い当番兵に呟いた。その声には怒りよりも、奇妙な安堵の色が滲んでいた。百万の兵を失った。しかし高順は、その百万を殺さずに生かした。農民として生きる道を与えたという。
「高順という男は、いったい何者だ。董卓の将でありながら、董卓とはまるで違う。袁紹とも曹操とも違う。百万の賊を許し、土地を与え、農民に戻すそんなことをすれば、普通は軍の糧食が尽きて自滅する。それをやってのけるだけの水路と民政を、たった一年で整えたのか」
張燕は刀を鞘に収め、岩壁にもたれかかった。百万の大軍勢を率いて太行に君臨したかつての自分。その自分が、今はこの寒々しい岩窟で飢えと寒さに震えている。誇りも、意地も、この空腹の前ではひどく虚しかった。
「高順に使いを出せ。……会ってみたい」
若い当番兵は驚いた顔で張燕を見つめたが、すぐに深く頷き、雪の降りしきる外へと走っていった。
上党では、張楊が複雑な思いで高順の動静を見守っていた。
袁紹に焚きつけられて河内に攻め込んだものの、張遼に敗れ、一万の兵を失った。逃げ帰った上党では、待っていたのは冷ややかな現実だけだった。袁紹は援軍を送らず、公孫瓚との決戦に夢中になっている。自分は結局、袁紹の捨て駒に過ぎなかったのだと、張楊は痛感していた。
「高順は百万の賊を破り、しかも殺さずに農民に戻したという。それだけではない。水路を拓き、収穫を三倍に増やし、投降した賊にまで土地と種籾を与えている。しかも今や、二百万の民と五十万の兵を抱えるまでになった」
彼は執務室で報告書を読みながら、深いため息をついた。高順はかつて丁原の下で肩を並べた同僚である。あの頃は互いに一介の校尉に過ぎなかった。しかし今や、郡を手に入れた高順とその差は歴然としていた。
「私が高順と戦うなど、最初から無理な話だったのだ」
張楊は窓の外に広がる上党の冬景色を見つめた。鉄山からは鎚音が絶え間なく響いている。この地は豊かだ。しかし、この豊かさを守り切るだけの力が自分にあるのか。袁紹はまたいつか、自分を利用しようとするだろう。その時、自分はまた負ける。次に負ければ、今度こそ全てを失う。
「高順……私は、お前にどう接すればいいのだ」
答えはまだ出なかった。しかし張楊の心の中では、すでに何かが動き始めていた。
長安の宮殿で、董卓は高順からの報告書を読んでいた。
傍らには痩せぎすの参謀・李儒が控えている。報告書には、百万の賊を破り、水路を拓き、収穫を三倍に増やしたこと、そして投降した賊徒の総数が二百万に達し、そこから五十万の兵を選抜したことが事細かに記されていた。さらに白波賊の楊奉、韓暹、胡才、李樂が帰順したこと、黒山賊の残党である孫輕、王當らも投降したこと、そして太行山脈に残る張燕が講和を求めてきていることまでが綴られている。
「ふん……高順め、いつの間にこれほどのことを」
董卓の太い声が、だだっ広い謁見の間に響いた。
「五十万の兵とは、もはやわしの全軍を優に超える数ではないか。百万の賊を破っただけでも大したものだと思っておったが、まさかその残党どもをことごとく取り込みおった。二百万の民に五十万の兵こやつ、ただの武人ではないぞ」
李儒が静かに口を開いた。
「相国、これは看過できませぬ。高順は名目上は相国の配下ですが、五十万の兵と二百万以上の民を抱え、并州と河内に独自の水路と農地を整備しつつあります。もはや一方の諸侯と言っても過言ではありませぬ。白波、黒山の両賊も、もともとは朝廷になど靡かぬ傲岸不遜な連中ばかり。それがこぞって高順の下に走ったということは、それだけ高順が彼らにとって魅力的な主君に映っている証拠でございます」
「わしの麾下の将どもと比べて、どうだ」
「牛輔、郭汜、華雄、徐栄、段煨、張済、董承、樊稠、李傕らはそれぞれ数万の兵を率いておりますが、五十万には遠く及びませぬ。ましてや民政面では比較になりません。諸葛玄、韓馥、袁遺といった人材を登用し、水路を通じた交易網まで築き上げている。高順は戦う将軍であると同時に、国を治める才も持っております」
董卓は太い指で椅子の肘掛けを叩きながら考え込んだ。
「使えるか」
「使いようによっては、これほど頼もしい将はおりませぬ。しかし逆に言えば、使い方を誤れば、相国の最も危険な敵ともなり得ます。高順が相国に忠誠を誓っているのは、今のところは事実でしょう。しかし、その忠誠は相国個人に対するものか、それとも天下の安定のためかそこが問題です」
「ならば試してやろう。長安に呼び寄せよ。高順に『慶事』の儀を言い渡す。わしの娘・董媛を娶らせ、一族に取り込むのだ。それで奴の忠誠が本物かどうか、確かめてやるわ」
李儒は微かに目を細めた。
「良いお考えかと。高順がこれを受け入れれば、相国の一族として取り込めます。しかしもし断れば、それは相国への忠誠に留保がある証拠その時は長安に留め置き、兵権を取り上げるべきでしょう。いずれにせよ、高順をこのまま并州で野放しにしておくことは危険でございます。彼がさらに力を蓄え、張燕までも完全に配下に収めてしまえば、もはや手のつけようがなくなります」
「よし、使者を出せ。高順を長安に呼ぶのだ」
かくして董卓の使者が河内へと派遣されることとなった。董卓は高順という若き将軍を値踏みし、取り込むか、それとも排除するかその判断の時が近づいていた。
謁見の間を退出した李儒は、一人廊下を歩きながら考え込んでいた。高順。かつて滎陽で曹操を破り、華雄を救った一武将に過ぎなかった男が、わずか一年余りでここまでの勢力を築くとは。しかもその手法は董卓の強引でも、袁紹の血筋でも、曹操の奸智でもない。農耕と交易によって民を養い、その民が兵となる……まったく新しい形の国造りではないか。
(もしやあの男、董相国が倒れた後のことも見越しているのではあるまいな)
李儒はその考えを振り払うように首を振ったが、一度生まれた疑念は消えなかった。




