第四回 太行雷霆降百万 群雄瞠目覇道升 四段
河内の本陣
河内の本陣、その一室で、高順は書簡を読み終えた。
張燕からの使いが持参したものである。講和を求めたい、という短い文面だった。だが、その短い文面の裏には、張燕の切実な事情が透けて見える。黒山賊と呼ばれる賊軍を率いる張燕も、そろそろ限界が近づいているのだ。袁紹の圧迫、曹操の台頭、そして何より、并州という不安定な地盤を抱えながら、四方に敵を作りすぎた。講和とは、すなわち高順に取り入り、自らの存続を図るという意味に他ならない。
高順は書簡を机の上に置き、しばらく窓の外を見ていた。夜の闇の中、水路の水面が月明かりにきらめいている。河内の地は、洛陽の北、太行山脈の南に位置し、黄河と沁水に挟まれた肥沃な土地である。かつては殷の都が置かれたとも言われるこの地は、今は戦乱の只中にありながら、どこか悠久の時の流れを感じさせる静けさを保っていた。
張燕が動いたか。ならば、次は董卓だ。いずれ、奴は俺を長安に呼ぶだろう。
その時、ふと、あの日のことが脳裏をよぎった。それは、今から一年半ほど前のことである。まだ雪が降り始めたばかりの、寒さの厳しい季節だった。
梁県の天幕。董卓の巨躯。李儒の冷たい視線。そして、自分が恐る恐る口にした遷都の進言。あれから、もう一年以上が経つ。あの日、自分は歴史を変えた。胡軫と華雄を失い、董卓を長安に閉じ込め、洛陽を灰燼に帰した。すべては、あの梁県の天幕から始まったのだ。
高順は目を閉じた。記憶が、鮮やかに蘇る。まるで、昨日のことのように。
陽人の敗報が、梁県の陣営に届いたのは、雪の降り始めた頃だった。
その報せは、最初、誰も信じなかった。胡軫が死に、華雄も死んだ。東郡太守の胡軫と、董卓麾下随一の猛将と謳われた華雄が、同じ戦場で、同じ日に、揃って討たれたのである。しかも、相手は孫堅。江東の虎の子と呼ばれる、あの孫文台である。
胡軫は華雄が討たれるはずだった場所で矢に倒れ、華雄は胡軫が逃げ延びるはずだった退路で伏兵に囲まれた。高順はその両方の最期を、遠くから見ていた。いや、正確には、見ているしかなかった。自分が歴史を変えたのだという確信と、その重さに、しばらく声も出せなかった。
胡軫は、元々董卓の部下ではなかった。何進の命令で董卓の軍に加わった、いわば寄せ集めの将である。しかし、その死は董卓にとって大きな打撃だった。胡軫は東郡の太守であり、その地の豪族たちを統率する立場にあった。彼が死ねば、東郡の豪族たちは誰に従えばいいのか分からなくなる。事実、胡軫の死後、東郡の豪族たちはこぞって孫堅に靡いたのである。
華雄は、言うまでもない。董卓軍最強の将軍であった。その武勇は、関東の諸侯たちを震え上がらせた。華雄が討たれたという報せは、董卓軍全体に大きな衝撃を与えた。特に、華雄と親しかった者たちの動揺は激しかった。中には、華雄の仇を討つと叫ぶ者もいたが、孫堅の軍勢の前に、誰も実際に動こうとはしなかった。
そして、董卓が梁県へ出張ってきた。
陽人の敗報を聞き、自ら前線へ赴いたのである。董卓はただの暴虐ではない。政治的な能力が皆無なわけでもない。だからこそ、彼は自らの目で現場を見、自らの耳で将の言葉を聞くために、わざわざ梁県まで足を運んだのだ。そして、高順は呼び出された。奉先の配下が進言したいことがある、という報せが董卓の耳に届いたからである。
高順が天幕に入る前、彼は一度、空を見上げた。雪は止み、雲の間から月が覗いていた。その月は、どこか冷たく、しかしどこか優しく、高順を見下ろしているように感じられた。彼は深く息を吸い、天幕の幕を上げた。
天幕の中は、外とはまるで違う熱気に満ちていた。外は雪の冷気が支配していたが、中は焚き火と人の熱気で、むせ返るようだった。空気には、鉄の匂いと汗の匂い、そして微かに血の匂いが混じっていた。
董卓がいた。その巨躯は椅子に収まりきらず、まるで熊が玉座に座っているかのようだった。傍らには痩せぎすの参謀・李儒が控え、さらに数名の護衛が槍を手に立っている。董卓の目は、獲物を値踏みする獣のそれである。高順はその圧に、思わず息を呑んだ。
前世では知っていた。董卓という男の残虐さも、その最期も。しかし、実際に目の前にすると、その存在感は知識とはまるで違った。空気が重く、肌が粟立つ。董卓の身体から発せられる圧力は、単なる物理的なものではなかった。それは、数多の戦場を生き抜き、数多の人間を踏みつけ、数多の血を流してきた男だけが持つ、一種の瘴気のようなものだった。
李儒の視線も、冷たかった。まるで、高順の心の内をすべて見透かそうとするかのような、鋭い視線である。高順は、この男が董卓の参謀であることを知っていた。李儒は、董卓の暴虐を支える一方で、彼の政治的な判断を補佐する、極めて有能な人物である。彼の冷たい視線の先には、常にこの男は使えるか、使えぬかという計算があった。
ほう? 奉先の配下がワシに進言? 面白い。聞いてやる。
董卓の声は、天幕の外まで響き渡った。低く、太く、腹の底に響くような声である。高順は深く頭を下げ、恐る恐る口を開いた。彼の声は、自分でも分かるほど震えていた。しかし、それは演技ではなかった。本物の恐怖であった。だが、同時に、彼の心の奥底には、冷たい計算もあった。ここで恐れてはいけない。恐れながらも、言うべきことを言わねばならない。そうしなければ、自分はこの場で殺される。いや、それ以上に、歴史を変える機会を失うことになる。
は、はっ。関東の諸侯では相国と本気で戦おうとしているのは曹操、孫堅、公孫瓚しかおりませぬ。それに奴らは烏合の衆。相国を誅して国を正すと聞こえは良いものの、実を言えば名門世家の既得権益を戻した上で再度争うようなものにございます。
声が震えた。だが、言葉だけは途切れさせなかった。ここで黙れば、自分は無能と見なされ、この場で殺される。そういう男だと、董卓はそういう男だと、知っていたからだ。
高順の言葉は、関東の諸侯たちの本質を突いていた。彼らは、董卓を討つという大義名分を掲げながら、実際には自分たちの権益を守るために戦っている。袁紹も、袁術も、韓馥も、孔伷も、皆、名門世家の出身であり、彼らにとって董卓は、自分たちの既得権益を脅かす存在に過ぎない。だからこそ、彼らは本気で戦おうとはしない。損得勘定で動いているからだ。ただし、曹操と孫堅と公孫瓚は違う。この三人だけは、本気で董卓を討とうとしている。しかし、彼らとて、所詮は烏合の衆の中の少数派に過ぎない。
董卓は黙って聞いていた。その目が、少しずつ変わっていく。面白半分だったものが、値踏みへ。値踏みが、興味へ。そして、興味が、期待へと変わっていく。
ふむ。続けよ。
董卓はこの若者の口から出る次の言葉を期待していた。有能ならば引き立て、無能ならばこの場で殺せばいい。そうすれば丁原の旧勢力を完全に掌握できる。高順の運命は、この一言にかかっていた。
董卓にとって、丁原の旧勢力の扱いは、常に頭痛の種であった。丁原を殺し、その配下を奪ったのはいいが、彼らが本当に自分に従っているのか、董卓は確信が持てなかった。特に、呂布の存在は大きい。呂布は丁原の義子であり、その武勇は天下に響いている。董卓は呂布を厚遇することで、彼を繋ぎ止めようとしていたが、呂布の心の内は、董卓にも読めなかった。だからこそ、董卓は呂布の配下である高順の進言を、興味深く聞こうとしていた。高順が有能ならば、呂布を介して丁原の旧勢力を掌握できる。無能ならば、殺せばいい。そうすれば、呂布に対する牽制にもなる。
はっ。遷都をすれば、敵に為す術がありません。相国は既に上は皇帝陛下を輔弼し、下は民を安んじておられます。逆に関東の諸侯は、相国が天子を掌握しているがために手を組み、相国を討伐しようと躍起になっているのです。
すると、天子を手放せばワシは敗れる、か。
はっ。
董卓はもはや笑うしかなかった。この若者の視野の広さ、見識、胆力。どれを取っても、今の自分に必要だったからである。だが、その笑みの裏で、董卓は考えていた。こいつは使える。しかし、ただの将では終わらぬ。この見識は、いずれ危うくなる。それでも今は、この男の言葉が必要だった。
董卓は、これまでの人生で、多くの者を見てきた。有能な者、無能な者、忠実な者、裏切り者、様々である。そして、彼の経験則から言えば、高順のような者は、最も危険な部類に入る。自らの頭で考え、自らの意志で動く。しかも、それを恐れずに口にする。こういう者は、使えるが、決して手放しでは信用できない。なぜなら、彼らは常に自分の利益を考えているからだ。しかし、董卓は思った。今は、この男の言葉が必要だ。そして、この男を上手く使えば、自分は更なる高みへと登れるかもしれない。そう考えたのである。
遷都。遷都をすれば、我らにどのような益があるのだ。
董卓の声が、少し低くなった。高順は唾を飲み込み、言葉を選びながら答えた。彼の頭の中では、様々な思考が渦巻いていた。ここで失敗すれば、自分は死ぬ。だが、成功すれば、歴史を変えられる。いや、歴史はすでに変わり始めている。胡軫と華雄の死は、その最初の兆候に過ぎない。これから、自分が何をするかによって、この乱世の行く末は大きく変わる。そう確信していた。
益。諸侯らは相争いましょう。一つ、天子の居ない京城などはただの城。二つ、民、金銀財宝と食料等全てを持ち出せば、敵軍は疲弊します。三つ、これより相国の権威はさらに高まり、朝廷で相国に逆らう者はおりません。
董卓は目を細めた。その目には、まだ疑いの色が残っている。高順は続けた。
相国、洛陽は攻め易く守り難い土地にございます。八関を抜ければ、そこはもう平地。拠るべき場所など何もありませぬ。今より百数十年後、北魏が分裂し東西に別れ、それぞれ北斉と北周がこの地を巡って争った際でも、綱引きを演じたほどでございます。つまり、洛陽とはそういう土地なのです。天下の中心でありながら、守るにはあまりに脆い。
董卓の眉が微かに動いた。百数十年後、という言葉の意味は分からぬ。しかし、洛陽の地勢については、董卓も理解している。だからこそ、彼は笑った。
ふひはははっ。良いぞ。良いぞ。その通りじゃ。しかし、ワシが遷都するとなれば。貴様は? 何をするというのじゃ?
高順は深く頭を下げた。彼の心臓は、早鐘のように打っていた。ここが正念場だ。ここで自分の役割を明確にしなければ、董卓は自分を捨てるかもしれない。いや、それ以上に、自分の計画を実行するためには、董卓から何らかの権限を与えられねばならない。そうでなければ、自分は董卓の単なる部下に過ぎなくなる。それでは、歴史を変えることなどできない。
三輔の地を守る為の藩屏を手に入れるため、并州を手に入れます。并州の地があれば、関東の諸侯も迂闊に動けませぬ。
并州を、じゃと?
董卓の声に、初めて警戒の色が混じった。并州は丁原の地である。丁原を殺し、その配下を奪った董卓にとって、并州は自らの支配地の一部だった。それを、この若造が欲しいと言う。董卓の目が、獲物を狙う獣のそれに変わった。高順は、その視線を正面から受け止めた。恐れてはいけない。ここで怯めば、すべてが終わる。
相国、并州は今、張楊が治めております。しかし張楊は優柔不断な男。袁紹に靡くか、自立するか、決断できずにいる。今のうちに手を打たねば、并州は袁紹のものとなります。袁紹が并州を手に入れれば、冀州と并州を合わせ、さらに勢力を拡大するでありましょう。それを防ぐには、私が并州を押さえるのが最も確実にございます。
ほう。ワシに従うか、袁紹に従うか、どちらが得かと申すか。
いいえ。私は相国に従います。ただし、并州を治める権限をいただきたい。相国の名の下に、并州と河内を治め、三輔の藩屏となりましょう。そうすれば、関東の諸侯が洛陽へ攻め込もうとしても、北から圧力をかけることができます。
董卓はしばらく高順を見つめていた。その目は、嬉しそうでもあり、疑わしそうでもあった。しかし、やがて大口を開けて笑った。
うむ。よくわかった。文優、準備いたせ。遷都じゃァ。
李儒が静かに拱手し、天幕を出て行く。護衛たちも動き始めた。天幕の中に、高順と董卓だけが残された。
董卓は椅子から立ち上がり、高順の前に歩み寄った。その巨躯が、高順を見下ろす。そして、低い声で言った。
高順。お前の目は、ワシを恐れておらぬな。
高順は顔を上げなかった。
恐れております。ただ。恐れながらも、申すべきことは申しました。
ふん。よい。并州をやろう。好きにせい。ただし、ワシを裏切るな。裏切れば、どこにいても必ず見つけ出して、八つ裂きにしてくれるわ。
はっ。
高順は深く頭を下げた。天幕の外では、遷都の号令が響き始めていた。兵士たちが慌ただしく動き、馬が嘶き、荷車が軋む音が聞こえる。歴史が動く音だった。そしてその音の中に、高順は確かに、自分が作り出した新しい未来の足音を聞いていた。
天幕を出た高順は、雪の降り始めた夜空を見上げた。先ほどまで覗いていた月は、いつの間にか雲の向こうに隠れていた。代わりに、細かい雪が、静かに降り始めていた。高順は、しばらくその雪を眺めていた。冷たい雪が、彼の頬に触れる。その冷たさが、現実を鮮明にした。自分は今、歴史を変えたのだ。そう思うと、高順の胸に、言いようのない感情が込み上げてきた。それは、達成感でもなく、誇りでもなく、恐怖でもなく、ただ、深い孤独であった。
あの日、梁県の天幕で、高順は董卓に遷都を進言した。
董卓は笑い、それを実行した。洛陽は灰燼に帰し、長安に朝廷が移った。そして高順は、約束通り并州へ向かった。あの瞬間から、この乱世の流れは、静かに、しかし決定的に変わり始めたのだ。
洛陽の焼失は、歴史の転換点であった。あの大都市が、炎に包まれ、灰燼に帰したのである。董卓は、洛陽の民を強制的に長安へ移住させ、富と財宝をすべて持ち出した。そして、焼け野原となった洛陽には、誰も住まなくなった。かつては天下の中心として栄えた洛陽は、こうして、歴史の表舞台から姿を消したのである。
しかし、高順の胸中には、董卓に語らなかった私見があった。
董卓よ、お前は俺の進言通りに動いた。だが、お前は気づいていない。俺が本当に欲しいのは、お前の天下ではない。俺は、お前が捨てた洛陽の灰の中から、新しい国を拾い上げるつもりだ。
高順は目を開けた。河内の執務室に、夜の闇が満ちている。窓の外では、水路の水面が月明かりにきらめいていた。
あの時の選択は、間違っていなかった。だが、これからが本当の勝負だ。
彼は机の上の地図に目を落とした。并州、河内、そして長安。それぞれの場所に、それぞれの思惑が渦巻いている。并州には張楊がおり、その背後には袁紹の影がある。河内には、張燕という不安定な要素がある。そして長安には、董卓がいる。董卓は、高順に并州を与えたが、それは決して、高順を信用したからではない。董卓は、高順を利用しているのだ。并州を安定させることで、関東の諸侯に対する防壁としようとしている。そして、いずれ、高順を長安に呼び寄せ、自分の支配下に置こうとしている。高順は、そのことを理解していた。
董卓よ。俺はお前を利用した。だが、お前も俺を利用した。それがどうした。乱世とは、そういうものだ。
高順は静かに呟き、再び目を閉じた。明日もまた、国造りの続きが待っている。
だが、その夜、高順は長く眠れなかった。彼の頭の中では、様々な考えが巡っていた。并州をどう治めるか。張燕をどう扱うか。袁紹にどう対抗するか。そして、董卓が死んだ後、どう動くか。董卓の死は、もはや避けられない。歴史は、そうなっている。董卓は、呂布によって殺される。それは、いつの日か必ず訪れる。その時、自分はどうするのか。高順は、その問いに、まだ明確な答えを持っていなかった。
夜が明け始めた頃、高順はようやく微睡み始めた。彼の夢の中では、洛陽の炎が、まだ燃え続けていた。炎の中から、新しい何かが生まれようとしていた。それは、まだ形を持たない、混沌とした何かであった。しかし、高順は、その混沌の中に、確かな希望の光を見ていた。
やがて、朝日が昇り、河内の地を照らし始めた。高順は目を覚まし、窓の外を見た。水面に映る朝日が、きらきらと輝いている。新しい一日の始まりであった。高順は、深く息を吸い、そして、静かに立ち上がった。今日もまた、乱世を生き抜くための一日が始まる。彼の目には、もはや迷いはなかった。ただ、前を見据える、強い意志の光があった。
朝の光が執務室に満ちる頃、高順はすでに装束を整え、広間へと向かっていた。今日は、諸将を集めての軍議が予定されている。張燕からの書簡の返答、并州の現状、そして今後の方針。伝えるべきことは山ほどあった。
広間に入ると、すでに何人かの将が集まっていた。彼らは高順の姿を見ると、一斉に立ち上がり、拱手する。その表情には、緊張と期待が入り混じっている。高順は静かに頷き、上座へと歩み寄った。席に着く前、彼は集まった面々をぐるりと見渡した。
そこには、并州時代から従う古参の将たちがいた。彼らは高順のことをよく知っている。高順がどのように考え、どのように戦い、どのように人を導くかを、身をもって体験してきた者たちである。だからこそ、彼らは高順を信じている。しかし、その信頼は、盲目的なものではない。高順が間違いを犯せば、彼らは容赦なく諫めるだろう。それが、高順が育ててきた軍の在り方だった。
やがて、全ての将が集まった。高順はゆっくりと口を開いた。
「皆、集まってくれたな。今日は、三つのことを伝える」
広間に、静かな緊張が走った。高順の声は、低く、しかしはっきりとしていた。
「第一に、張燕から講和の申し出があった」
この言葉に、広間がざわめいた。張燕は、河内の北、太行山脈の周辺を根拠地とする賊軍の頭領である。その勢力は決して小さくない。しかし、その立場は常に不安定であった。袁紹と曹操の間で揺れ動き、どちらにも付けずにいた。そんな張燕が、今、高順に講和を求めてきたのだ。
「張燕は、我らと手を組むことで、袁紹の圧力に対抗しようとしている。だが、奴の本心は、我らの力を利用して、自らの勢力を温存することにある。決して、我らに心服したわけではない」
高順は、集まった将たちの顔を一人一人見ながら言った。誰もが、高順の言葉を注意深く聞いている。
「だが、今は張燕を利用する価値がある。河内の北を安定させることは、并州を治める上で不可欠だ。張燕と講和し、奴を北の壁として使う。ただし、決して油断はするな。奴は、いつ裏切るか分からぬ男だ」
将たちは、一様に頷いた。高順の判断は、常に冷徹である。感情に流されることはない。それが、彼らが高順を信頼する理由の一つだった。
「第二に、并州の現状についてだ」
高順は、机の上に広げた地図を指で示しながら続けた。
「并州は、今、張楊が治めている。だが、張楊は優柔不断な男だ。袁紹に靡くか、自立するか、決断できずにいる。我らが動かねば、并州は袁紹の手に落ちる。袁紹が并州を手に入れれば、冀州と合わせ、その勢力は比類なきものとなる。そうなれば、我らは南北から挟撃されることになる」
将たちの表情が、厳しくなった。袁紹の勢力が拡大することは、彼らにとって最大の脅威である。袁紹は、名門の出であり、その求心力は計り知れない。彼の下には、常に多くの人材が集まる。もし袁紹が并州を手に入れれば、その勢いは誰にも止められなくなるだろう。
「故に、我らは并州を手に入れる。張楊を説得し、あるいは排除し、并州を我らの支配下に置く。并州は、三輔の藩屏となる。ここを抑えれば、関東の諸侯が迂闊に西へ動くことはできなくなる」
高順の言葉に、一人の将が手を挙げた。年かさの、落ち着いた表情の男である。
「并州を取ることは、董卓の許しなくして可能でしょうか」
高順は、その問いに即座に答えた。
「董卓には、すでに許しを得ている。私は、并州を治める権限を董卓から与えられた。ただし、それは董卓の名の下においてだ。董卓は、私を利用して并州を安定させようとしている。だが、それはこちらにとっても好都合だ。董卓の名を使い、并州を掌握する。そして、いずれ董卓が倒れた時、我らは自立する」
広間に、重い沈黙が流れた。董卓が倒れる、という言葉。それは、誰もが心のどこかで予感していたことではある。しかし、それを口にする者は誰もいなかった。高順は、それを平然と言ってのけた。その胆力に、将たちは息を呑んだ。
「第三に」
高順は、さらに声を低くした。
「これからの我らの在り方についてだ。我らは、誰かの部下ではない。我らは、我らのために戦う。董卓のためでも、皇帝のためでもない。我らの国を作るために戦うのだ」
この言葉は、将たちの心を強く打った。彼らは、これまで様々な主君に仕えてきた。丁原、董卓、そして高順。しかし、どの主君も、彼らにとっては他人であった。だが、高順は違う。高順は、彼らと同じ目線で物事を考え、彼らと同じ釜の飯を食い、彼らと同じ戦場を駆けてきた。高順は、彼らの仲間なのだ。
「我らの国は、まだ形を持たない。しかし、必ず作る。洛陽の灰の中から、新しい国を拾い上げる。それが、我らの使命だ」
高順の言葉に、将たちは一斉に立ち上がった。そして、深く拱手した。その表情には、もはや迷いはなかった。ただ、強い決意の光があった。
「高順様の御意のままに」
広間に、力強い声が響いた。高順は、静かに頷いた。そして、地図の上に視線を落とした。并州、河内、長安。それぞれの場所に、それぞれの思惑が渦巻いている。しかし、高順の目には、それらのすべてが、一つの絵として映っていた。彼は、その絵を完成させるために、これからも戦い続けるだろう。誰にも止められない。何があっても。彼の目には、もはや迷いはなかった。ただ、前を見据える、強い意志の光があった。
軍議が終わり、将たちが広間から退出していく。高順は、一人、地図の前に残った。彼の指は、并州の上をなぞっている。并州。そこは、彼が次に手に入れるべき土地である。しかし、それは簡単なことではない。張楊がいる。袁紹がいる。そして、董卓の影も、まだ色濃く残っている。
「并州か」
高順は、静かに呟いた。彼の脳裏には、様々な策が浮かんでは消えていく。張楊を説得するか。それとも、武力で排除するか。袁紹の動きをどう封じるか。董卓にどう報告するか。考えるべきことは、山ほどある。
だが、高順の心は、驚くほど落ち着いていた。かつて、梁県の天幕で董卓に進言した時は、あれほどの恐怖を感じた。しかし、今は違う。自分はもう、一人ではない。信頼できる将たちがいる。そして、何より、自分には明確な目的がある。それは、新しい国を作ること。洛陽の灰の中から、新しい時代を拾い上げること。その目的がある限り、高順は決して迷わない。
「董卓よ。お前は、俺を利用しているつもりだろう。だが、俺もお前を利用している。お互い様だ。乱世とは、そういうものだ」
高順は、そう呟くと、地図を巻き始めた。彼の動きは、迷いがなく、無駄がない。彼は、次に何をすべきか、すでに分かっている。張燕に返書を送ること。并州への斥候を放つこと。そして、董卓からの呼び出しに備えること。やるべきことは、山ほどある。しかし、高順の心は、驚くほど穏やかだった。
窓の外では、朝日が昇り、河内の地を照らし始めていた。水面に映る朝日が、きらきらと輝いている。新しい一日の始まりであった。高順は、深く息を吸い、そして、静かに立ち上がった。今日もまた、乱世を生き抜くための一日が始まる。
高順は、広間を出ると、外の空気を吸った。朝の空気は、冷たく、しかしどこか爽やかであった。彼は、しばらく空を見上げていた。雲一つない、青い空である。その青さは、どこまでも続いているように見えた。
「いずれ、この空の下に、俺の国ができる」
高順は、そう呟いた。それは、誰に聞かせるでもでもない、自分自身への誓いであった。彼は、静かに歩き始めた。次の戦いに向けて。次の時代に向けて。彼の足取りは、確かであった。もはや、誰にも止められない。何があっても。彼は、前だけを見て、歩き続けるだろう。それが、高順という男の第二の生き方だった。




