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第四回 太行雷霆降百万 群雄瞠目覇道升 三段

并州の東、上党郡。并州刺史・張楊の居城である。


張楊はかつて丁原の下で高順や呂布と轡を並べた男だ。并州の北部、雁門郡の出身で、武勇よりも行政手腕に優れた人物として知られていた。今、彼は複雑な表情で報告書を読み終えた。報告書には、高順が七万の兵で百万の賊を破り、郭泰を討ち取り、五十万の捕虜を郷里に帰したことが克明に記されている。


「七万で百万を破っただと。高順め、並の男ではないとは思っていたが、ここまでの器だったか」


張楊はため息をつき、窓の外に広がる上党の街を見下ろした。上党は太行山脈の西麓に位置し、古くから鉄の産地として栄えた土地である。しかし今、その上党の民たちが、続々と高順の水路の恩恵を求めて河内方面へ流出しているのだ。水路ができたことで、河内の穀物価格は上党の三分の一にまで下がった。商人たちは上党を見限り、農民たちはより豊かな土地を求めて南へ下っていく。このままでは上党は立ち行かなくなる。


「高順はかつての僚友。今さら剣を交えるのも業腹だが、さればとて降伏するわけにもいかん」


彼の本音は、もっと別のところにあった。上党の民たちが河内に流出しているのは、単に水路の恩恵だけではない。高順の統治そのものが、王匡時代の圧政に苦しめられた民にとって、新鮮な驚きだったのだ。規律ある軍勢、公平な税制、賄賂を許さぬ法治。それらはすべて、張楊には真似のできないことだった。


張楊は典型的な「中間権力者」である。強大な力を持ちながら、その力をどう使うべきか分からない。董卓に従うべきか、袁紹につくべきか、あるいは自立すべきか。彼には決断ができず、ただ周囲の情勢を眺めながら、事態が自分に有利に動くのを待っている。この優柔不断さこそが、後に彼の運命を決定づけることになる。


「しかし、高順がここまで大きくなれば、袁紹も黙ってはおるまい。冀州の袁本初が動けば、あるいは上党にも火の粉が飛んでくるかもしれんな」


張楊は「備えよ」とだけ命じ、静かに時を待つことにした。彼にはまだ、高順と敵対する決断も、味方になる決断もできなかったのである。


冀州の鄴では、袁紹がこの知らせに顔色を変えた。


「百万だと? ありえぬ。高順ごときが百万の賊を破るなど」


「されど事実でございます、本初殿」


田豊が淡々と言葉を継ぐ。彼は袁紹の参謀の中でも特に直言を好む男であり、今回も主君の不興を恐れずに事実を報告した。手には詳細な報告書が握られている。


「高順は黄河と汾河を結ぶ水路を拓き、水路の周辺に投降した賊徒を定住させております。今や并州の人口は七百万を優に超え、軍勢も十万を超えたとか。もはや無視できる勢力ではありませぬ」


袁紹は扇を握りしめたまま沈黙した。彼は冀州を得て、天下の盟主を自認している。四世三公の名門袁家の当主として、自分こそがこの乱世を収める天命を受けた者だと信じて疑わない。しかし今、その足元で想定外の怪物が育っていたのである。それも、かつては呂布の副将に過ぎなかった一武将が、である。


「公孫瓚との決戦を急ぐべきか」


袁紹はぽつりと呟いた。彼の頭の中では、北の公孫瓚と南の高順、二つの脅威が天秤にかけられている。公孫瓚は宿敵であり、白馬義従を率いる強敵だ。しかし高順もまた、もはや無視できぬ勢力に成長している。


「いえ、高順はまだ表向き董卓の配下。手を出す大義名分がございませぬ」


田豊の言葉に、袁紹は苦々しげに頷いた。


「それにこの度の戦で、黒山の張燕が生き延びました。高順と張燕、両者が争う間に我々は地盤を固めるべきかと。公孫瓚を討つのが先決でございます」


「わかった。だが田豊、高順の動きは引き続き注視しろ。あの男、次に何をしでかすか分からん」


「はっ」


田豊は拱手したが、その目には深い憂慮の色が浮かんでいた。袁紹は高順を「董卓の配下」と見なしているが、それは表面的な見方に過ぎない。高順は董卓の命令で動いているのではない。自らの意志で、自らの国を作るために動いている。袁紹がそれに気づくのは、もう少し先の話だった。


東郡では、曹操がこの報告を聞き終えると、しばし目を閉じた。


彼の手には、高順の戦いを克明に記した竹簡が握られている。曹操はこの報告を三度読み返した。一度目は驚き、二度目は分析し、三度目は笑った。


「面白い。面白いぞ、高順。七万で百万を破っただと」


夏侯惇が心配そうに声をかける。隻眼の巨漢は、主君がまた何か良からぬことを考えているのではないかと警戒していた。


「孟徳、笑い事ではございませんぞ。高順がその勢いでこちらへ向かってくるかもしれません」


「こないさ。奴はまだ北に用がある。并州を完全に掌握するまでは動けん。あの水路とやらを見ろ。奴が本当に欲しているのは土地でも名誉でもない。国だ。誰も手をつけていない土地に、独自の国を作ろうとしている」


曹操はにやりと笑った。それは獲物を見つけた鷹のような笑みだった。


曹操は高順の戦いを聞いて、その背後にある戦略の本質を一瞬で見抜いた。高順が水路を拓き、投降した賊徒に農耕を教え、法治を敷いているのは、単なる善政ではない。それは国家建設の基礎工事なのだ。そして曹操は、自分もまた同じことをしようとしている。


「だが高順にも一つの誤算があったな。張燕を殺し損ねた。あの張燕はただの賊ではない。並の将では相手にならん。奴は必ず再び立ち上がる。高順はこれから、張燕との長い戦いを強いられるだろう。その隙に、我々は東の黄巾を喰らう。青州の黄巾賊を平らげ、百万の民を手に入れるのだ。高順が北の黒山を喰らうなら、俺は東の黄巾を喰らう。急げ、元譲。時は限られている」


「御意」


夏侯惇は深く頷いた。彼は曹操の戦略眼が、この乱世で最も恐るべき武器であることを知っている。曹操は高順を恐れてはいない。むしろ、好敵手の出現に興奮しているのだ。高順という触媒が、曹操の野心をさらに大きなものへと膨らませている。


曹操は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。東郡の冬の空は低く垂れ込め、今にも雪が降り出しそうだった。


「高順よ。お前が北で国を作るなら、俺はこの中原で国を作る。そしていつの日か、どちらの国がより強く、より正しく、より長く続くかを決しようではないか」


その言葉は、誰に聞かせるでもない、曹操自身の誓いだった。


長沙への帰路、孫堅はこの知らせを聞いて馬上で哄笑した。


「ハハハハハ! やりおったわ、高順! 七万で百万! あの時、陽人の戦場で交わした言葉は嘘ではなかったか!」


孫堅の豪快な笑い声は、長沙へ向かう隊列の先頭から最後尾まで響き渡った。兵士たちは主君の突然の哄笑に驚き、何事かと顔を見合わせたが、すぐにそれが上機嫌の笑いだと分かると、彼らもまた顔をほころばせた。


黄蓋が呆れ顔で尋ねる。彼は孫堅に長年仕えてきた古参の将であり、主君の気性を誰よりもよく知っていた。


「殿、あの高順と何を約束されたのですか」


「『次に会う時は天下を分かつ大戦をしよう』とな。奴はその言葉通り、北で力を蓄え始めた。ならば我も負けてはおれん。荊州の劉表を倒し、江東に基盤を築く。高順が北から、我が南から、いずれ中央で雌雄を決する。それがこの乱世の定めだ」


黄蓋は主君の言葉に、思わず笑みをこぼした。孫堅は決して嫉妬しない。他人の成功を素直に喜び、それを自分の励みに変えることができる。それが孫堅という男の器の大きさだった。


「殿は高順を敵と見ておられるのですか、それとも友と」


「敵であり、友でもある。あの男と私は、同じ志を持っている。天下を平らげ、民を安んじる。ただそれだけだ。手段は違えど、目指す場所は同じ。だからこそ、いずれ決着をつけねばならん。だがそれは、互いに力を蓄え、天下を二分するほどの勢力になってからの話だ」


孫堅は北の空を見つめながら、言葉を続けた。


「急ぐぞ、公覆。高順が北で走っているなら、我々は南で走らねばならん。遅れを取るわけにはいかぬ」


孫堅の馬が嘶きと共に速度を上げた。江東の虎の闘志は、遠く離れた北の地で戦う一人の男によって、かつてなく燃え上がっていた。


幽州の公孫瓚は、報告書を一瞥するや、それを卓に投げ捨てた。竹簡が乾いた音を立てて卓の上を滑り、床に落ちる。


「百万の賊なぞ、烏合の衆に過ぎん。我が白馬義従にかかれば、数など何の意味もない」


彼の声には、一片の動揺もなかった。白馬義従――彼が誇る最強の騎兵隊は、烏桓や鮮卑との戦いで常に圧倒的な勝利を収めてきた。百万の賊徒が束になったところで、訓練された騎兵の敵ではない。それが公孫瓚の信念だった。


しかし彼の側近、長史・関靖は別の憂慮を口にした。彼は公孫瓚に長く仕える文官であり、軍事よりも政治的な視点から物事を見ることに長けていた。


「将軍、問題は高順そのものではなく、高順が現れたことにより冀州の袁紹の背後が脅かされたことでございます。袁紹は背後を気にしながら我々と戦わねばならなくなった。これは我々にとって有利に働くやもしれません」


公孫瓚はその言葉に眉を動かした。袁紹の背後が脅かされることの戦略的価値に、彼はすぐに気づいたのである。


「確かに、袁紹が南を気にすれば、我々との決戦に全力を投入できまい。それは好都合だ。だが、高順という男が袁紹を倒してしまえば、今度は我々が直接高順と対峙することになる。どちらが相手としてやりやすいか」


「今は袁紹を討つのが先決かと。高順はまだ董卓の配下。袁紹を討った後に、機を見て并州へ手を伸ばせばよろしい」


「ふん、まあよい。注視せよ。高順の動きに変化があれば、すぐに報告しろ。今は袁紹に集中する」


公孫瓚は再び袁紹との決戦に思考を戻したが、彼の心の片隅には、北の地で静かに育ちつつある脅威が刻まれていた。


淮南の袁術だけは違った。


彼は酒杯を握りしめ、忌々しげに一気に煽った。酒が口の端からこぼれ、高価な錦の衣を濡らすが、彼は気にも留めない。


「百万の賊を破っただと? ふん、所詮は賊だ。我が名門袁家の正規軍とは格が違う。高順ごとき董卓の走狗が、いい気になるな」


袁術の声は、広い天幕の中で虚しく響いた。彼の傍らには紀霊や張勲といった将軍たちが控えているが、誰も言葉を発しようとはしない。彼らは袁術の機嫌を損ねることを恐れ、ただ黙ってうつむいているだけだった。


袁術は空になった杯を卓に叩きつけ、さらに続けた。


「それにしても、孫堅の奴め、長沙に帰る途中で高順の噂を聞いて笑ったそうだな。あの江東の虎も、これで高順に取り込まれるかもしれん。厄介なことだ」


「公路様、孫堅殿は袁家の将。裏切ることはありますまい」


「わからんぞ。孫堅は武人だ。武人は強い者に靡く。今は高順が強く見えている。もし高順がさらに力を伸ばせば、孫堅は我々を見限るかもしれん」


袁術の読みは、半分は当たり、半分は外れていた。孫堅は確かに高順を評価している。しかしそれは「靡く」という種類のものではない。武人同士の共感であり、好敵手としての尊敬だった。だが袁術には、その違いが理解できなかった。彼にとって人間関係とは、上下関係か、利害関係のどちらかでしかないのだ。


「高順には、いつか思い知らせてやる。袁家の嫡男たるこの袁公路を侮った代償をな」


袁術の愚痴を聞く者は、誰もいなかった。


太行山脈の奥深く。


雪の降り積もる洞窟の入り口に立ち、張燕は遠く河内の方角を睨んでいた。百万を超えた黒山の大軍は、今や三万にまで減り果てた。郭泰は死に、白波は壊滅し、降伏した者たちは高順の下で農民として生きている。彼が長年かけて築き上げた「黒山王国」は、高順という一人の男によって根こそぎ奪われてしまった。


太行の冬は厳しい。山々は雪に閉ざされ、峠道は通行不能となり、食糧は日に日に減っていく。三万の兵士たちは、寒さと飢えに震えながら、洞窟の中で春を待っていた。


「総帥、これからどうなさいますか」


側近の眭固が、ためらいがちに尋ねる。その声には、かすかな絶望が滲んでいた。百万の大軍が壊滅した衝撃は、張燕の腹心である彼の心にも深い影を落としていた。


張燕は振り返らずに答えた。彼の目は、雪に覆われた太行の峰々を見据えている。


「力を蓄える」


「しかし、我々の兵力は三万。高順は十万を超えております。正面から当たっても勝ち目は」


「ゆえに力を蓄えると言っている。聞け、我々が敗れたのは高順の武勇ゆえではない。我々が一枚岩でなかったからだ。郭泰は己の功名心で動き、他の頭目たちは己の縄張りしか考えなかった。高順はその隙を突いた。水路の噂も、後退戦術も、背後の奇襲も、すべて我々の分裂を見抜いた上での策だ」


彼の声は静かだったが、そこには燃えるような決意が込められていた。張燕は決して諦めてはいない。むしろ、この敗北を糧にしようとしている。


「ならば、我々も一枚岩になるだけだ。冀州、幽州、并州、兗州。この四州にはまだ我々に同調する者が無数にいる。袁紹の圧政に苦しむ農民、公孫瓚に領地を追われた異民族、曹操に敗れて散った黄巾の残党。彼らを一人一人糾合し、鍛え上げる。烏合の衆ではない、真の軍を作る」


「しかし、それには数年はかかるかと」


「十年でも待つ。高順は水路を拓いて并州を豊かにしたが、それは同時に奴の首を絞める綱でもある。豊かになれば、必ず内部に綻びが生じる。かつて貧しかった我々が飢えて戦ったようにな。今は貧しい我々が、富める高順に戦いを挑むのだ」


張燕は拳を握りしめた。彼の指は冷え切っていたが、握りしめた拳の中には、燃えるような熱が宿っていた。


「覚えておけ。高順が我々に与えた屈辱、騙された憤り、奪われた誇りを。この張燕、必ずや高順と刺し違えてみせる。それが黒山の総帥としての、最後の意地だ」


眭固は深く頷き、洞窟の奥へと消えていった。


雪はなおも降り続いている。太行の峰々を白く覆い、すべてをなかったかのように隠してしまうかのようだった。しかし張燕は知っている。この白い静寂の下で、再び燃え上がる火の手が育っていることを。


河内の本陣では、戦勝の宴が開かれていた。


しかし高順だけは宴の喧騒から少し離れ、城外の丘の上に立っていた。彼の隣には、傷の癒えたばかりの張五が控えている。


「張五、見えるか。あの水路の向こうに広がる田畑を」


「はい、将軍。見事な粟畑でございます。これだけあれば、并州の民すべてが飢えずに済みましょう」


「そうだ。しかし、それだけでは足りない。民が飢えずに済むだけでは、まだ国とは言えぬ。法があり、秩序があり、誰もが安心して暮らせる場所。それが国だ。俺はそれを作りたい」


「将軍なら、必ずや成し遂げられましょう」


「過信するな。俺はただの臆病者だ。だからこそ、安全な場所を作りたいだけだ」


高順はそう言って、小さく笑った。その笑みが本当の意味で何を表しているのか、張五にはまだわからなかった。しかし彼は、この将軍についていけば、いつかきっと、誰も見たことのない場所に辿り着けるだろうと信じていた。


水路の水が、月明かりを反射してきらめいていた。その光は、まるで新しい時代の到来を告げる灯火のようだった。

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