第四回 太行雷霆降百万 群雄瞠目覇道升 二段
戦いは一日で決した。
高順の陷陣営が最後尾を突き崩したことで、賊軍の長蛇の列は完全に崩壊した。後方から押し寄せる恐怖の波が前方へ前方へと伝染し、百万の兵は統制を失って雪崩を打ったのである。兵士たちは武器を投げ捨て、味方を押し倒し、我先に逃げ惑った。ある者は湿地の泥濘に足を取られて転倒し、そのまま後続の兵に踏み潰された。ある者は黄河の冷たい濁流に飛び込み、流れに飲まれて消えていった。またある者は混乱の中で味方同士で斬り合い、無意味な死を重ねていった。
この光景はまさに「人間の本性が剥き出しになった瞬間」である。恐慌という名の疫病が、理性も、誇りも、仲間意識も、すべてを呑み込んでいく。つい先ほどまで「高順を討つ」と息巻いていた男たちが、今はただ生き延びることだけを考え、仲間を盾にして逃げ惑っている。黄河の岸辺に積み重なる死体の山。湿地の泥に沈んでいく無数の骸。冬の冷たい風が、血と臓物と排泄物の臭いを戦場中に撒き散らしていた。
賊軍の死者は二十万を超えた。その多くは戦闘による死ではなく、混乱の中での圧死や溺死であった。味方に踏み潰されて死んだ者、泥濘にはまって動けなくなり凍え死んだ者、黄河の濁流に呑まれて消息を絶った者。百万という巨大な数が、かえって仇となったのである。
捕虜は五十万。逃げ延びたのは張燕の軍勢を中心に、わずか二十万ほどである。白波賊の首領・郭泰は乱戦の中で命を落とし、その巨体は黄河の岸辺に打ち捨てられた。かつて百万の兵を率いて并州に覇を唱えた男の最期は、あまりにも無残だった。
夕陽が沈みかけた戦場で、高順は馬上から降り、驍風の手綱を張五に預けようとして、ふとその姿に目を留めた。
張五の全身には無数の傷が刻まれ、肩から背中にかけては特に深く裂かれた傷が幾筋も走っている。服は血と泥にまみれ、もはや元の色がわからぬほどだった。左肩の傷口はまだ塞がっておらず、動くたびに血が滲んでいる。しかし彼の目だけは、爛々と輝いていた。死線をくぐり抜け、生還した者だけが持つ、あの独特の光が宿っている。
「……張五。生きていたか」
高順の声は静かだった。だがその目には、かすかな安堵の色が浮かんでいる。彼は決して感情を表に出さない男だが、それでも忠実な腹心の生還を喜ばないはずがなかった。
張五はその場に片膝をつき、深く頭を下げた。肩の傷が開き、血が滴り落ちるが、彼は構わず拱手した。地面に垂れた血が、乾いた土に染み込んでいく。
「将軍……申し訳ございませんでした。私の驕りが、将軍に余計なご心配をおかけしました」
張五は数日前、功を焦るあまり独断で敵陣に偵察に入り、捕らえられたのである。高順は彼の救出のために兵を動かすことを拒否した。それどころか、正面からの決戦を避けて戦線を後退させた。張五は当初、そのことに絶望し、己の驕りを呪った。しかし今、黄河の岸辺で戦況が一変しつつあるのを目の当たりにして、高順の真意を理解した。
(将軍は俺を見捨てたのではない。俺一人のために七万の兵を危険に晒さず、それでいて百万の敵を破る策を立てていたのだ。戦いとは、こういうものなのか。俺は、何もわかっていなかった)
捕虜となっている間、張五は白波賊の一隊に縛られ、馬上で戦場を連れ回された。敵の兵士たちは彼を嘲弄し、辱めた。ある者は彼に唾を吐きかけ、ある者は鞭で打ち据えた。その間も、彼は遠くで戦況が動いているのを感じていた。味方の軍が後退しているのを見て、最初は絶望した。しかしその動きが、実は緻密な罠であることに気づいた時、彼の心に再び火が灯った。
高順の陷陣営が突撃を開始した時、張五はその混乱のまっただ中にあった。彼は両腕を縄で縛られ、荷馬車の荷台に放り込まれていた。しかし突撃の衝撃で見張りの賊兵が倒れた瞬間、彼は近くに落ちていた剣を蹴り飛ばし、縄を切った。そしてその剣を拾い上げ、一閃のもとに見張りを斬り伏せた。それからのことは、彼自身もよく覚えていない。ただ、死に物狂いで戦った。背中の傷も、肩の傷も、すべてその時に負ったものだ。振り返らず、ただ前だけを見て、敵の中を斬り進んだ。
「顔を上げろ」
張五が顔を上げると、高順は彼の肩の傷を見た。傷口は深く、肉がめくれ、白い骨がちらりと覗いている。このままでは腐るかもしれない。この時代の医療では、深い刀傷はしばしば死に至る。高順はそのことをよく知っていた。
「医者に診せろ。傷が深い」
「しかし将軍、私はまだ戦えます。この借りを、戦いでお返ししたい」
「借りだと?」
高順の声が、わずかに低くなった。それは怒りではない。むしろ、教えを諭す師のようだった。
「そうだ。お前は借りを返すと言ったな。ならばその借り、どう返すつもりだ」
張五は一瞬息を呑んだが、すぐに真っ直ぐに高順を見上げた。その目には、捕虜になる前の若さゆえの驕りは消え、代わりに痛みと悔恨と、それでもなお消えぬ闘志が混ざり合っている。
「命を懸けて、戦います。将軍が百万の敵を相手に戦っておられる間、私も死に物狂いで戦いました。捕虜になりながら、将軍が突撃してきたあの時だけは、この手で敵を斬ることができました。背中の傷も、肩の傷も、敵に斬られたものですが、振り返りませんでした。将軍がいつもそうなさるように、私も」
高順はしばらく無言で張五の目を見つめていた。張五の声には、捕虜になる前にはなかった何かが宿っている。それは経験による成長であり、死の恐怖を乗り越えた者だけが持つ、静かな強さだった。
男の絆とは、こういう瞬間に生まれるものだ。戦場で、死線を共にし、互いの本質を見極める。言葉は少なくとも、その沈黙の中にこそ、本当の信頼が宿る。高順と張五の間にも、今、その絆が生まれようとしていた。
高順は右手を上げ、張五の無事な方の肩を軽く叩いた。
「よし、その借りは死ぬまでに返せ。まずは傷を癒やせ。戦士は生きてこそ、次の戦いで借りを返せる」
張五は深く頭を下げた。その目には涙が滲んでいた。彼は泣くまいとしたが、涙は止まらなかった。捕虜になった屈辱も、死に物狂いで戦った恐怖も、生きて将軍と再会できた安堵も、すべてが涙となって溢れ出した。
「ありがとうございます、将軍。この命、必ずや将軍のために使い切ってみせます」
「使い切るな。大事に使え」
高順はそう言い残し、戦場の検分へと歩き去った。その背中を見送りながら、張五は初めて己が生還したことを実感した。そして、心の中で静かに誓った。この命は、高順将軍のためにある。将軍が死ねと言えば死ぬ。将軍が生きろと言えば生きる。その信頼に、必ず応えてみせると。
翌朝、高順は全軍の前に立った。彼の背後には、黄河の岸辺に広がる広大な捕虜収容所が見える。五十万の捕虜たちが、武器を取り上げられ、不安げな顔で並べられていた。彼らの多くは、昨夜のうちに高順が処刑を免じたことを聞いていたが、それでもなお、自分たちの運命を確信できずにいた。歴史上、捕虜が大量処刑された例は数え切れないほどある。彼らはそれを知っていた。
高順は捕虜たちに向かって、静かに、しかしはっきりと宣言した。
「捕虜の中から、精強な者を選び出し我が軍に加えよ。残りは武装を解かせた上で、それぞれの郷里に帰す。二度と賊に戻らぬことを誓わせ、誓いを破れば次はないと伝えよ」
郝萌が不安げに進み出た。彼は河内の生え抜きとして、賊徒の危険性を誰よりも知っている。
「将軍、五十万もの捕虜をすべて帰すのですか。中にはまた山に戻る者もいるのでは」
「戻る者もいるだろう。だが、水路があり粟がある今、わざわざ山に戻って飢えと戦う者ばかりではない。もし戻ったとしても、数は知れている。その時はまた討てばいい。肝心なのは、投降すれば命は助かるという前例を作ることだ」
冷徹な戦略眼で言うならば、高順のこの決断は、単なる寛大さではない。それは計算された政治的判断である。捕虜を処刑すれば、残った賊徒は降伏を恐れて最後まで戦うだろう。しかし、投降すれば命が助かると知れば、戦わずして降る者が続出する。戦争とは、敵を殺すことではなく、敵の戦う意志を奪うことだ。高順はその真理を理解していた。
高順の宣言に、捕虜たちは驚き、次いで安堵の表情を浮かべた。彼らは処刑か奴隷化を覚悟していたのである。それが、故郷に帰してやるという。信じられない思いで、互いの顔を見合わせる者もいた。
一人の若者が恐る恐る進み出て、深く頭を下げた。年の頃は二十歳に届くかどうか。まだあどけなさの残る顔には、戦いの疲れと、長年の飢えの色が刻まれている。
「将軍、私は郷里に戻って田を耕します。もう二度と、武器は取りません」
「よかろう。郷里で待つ家族のもとへ帰れ」
「家族は、もう誰もおりません。去年の飢饉で、皆死にました。ですが、それでも田を耕します。それが、死んだ者たちへの供養になると思います」
高順はその若者の目を見つめた。そこには、悲しみを乗り越えた決意があった。
「そうか。ならばなおのこと、田を耕せ。水路の水が、お前の田畑を潤すだろう。粟が実れば、それを食って生きていける。生きて、死んだ者たちの分まで生きろ」
若者は涙を流しながら、何度も何度も頭を下げた。
その若者を皮切りに、次々と捕虜たちが武器を置き、それぞれの村へと散っていった。中には涙を流して感謝する者もいれば、無言で頭を下げる者もいた。武器を手放すことに不安を覚える者もいたが、それでも彼らは、戦い以外の生き方があることを知ったのだ。
戦いの決着から数日後、高順は戦後処理に追われていた。五十万の捕虜のうち、約五万人が高順軍への編入を志願し、残りはそれぞれの郷里へと帰っていった。戦死者の埋葬も進められている。二十万を超える死体を葬るのは、途方もない作業だった。兵士たちは黄河の岸辺に大きな穴を掘り、死体を次々と埋めていった。
戦後処理が一段落した頃、高順は諸将を集めて今後の方針を協議した。
「張燕を逃がしたのは痛いが、致命傷ではない。奴は賢い。今回の敗北で、しばらくは大人しくするだろう」
張遼が口を開いた。
「しかし将軍、張燕の黒山軍は三万にまで減ったとはいえ、太行山脈の奥深くに拠点を持っております。奴が再び力を蓄える前に、山狩りを行うべきでは」
「太行を攻めるのは得策ではない。あの山岳地帯は奴の庭だ。我々が攻め込めば、むしろ奴の得意とする戦いに付き合うことになる。それより、我々は我々のやるべきことをやる。并州の統一と、水路の拡充だ。力をつければ、いずれ張燕も手を組まざるを得なくなる」
これは高順の統治哲学をよく表している。敵を滅ぼすのではなく、敵が自然に味方に変わるような環境を作る。それが最も確実で、最も血を流さない方法だ。戦いにおいては苛烈な策を弄する高順だが、その根底には常に「戦わずして勝つ」という理念がある。それは臆病者の発想であり、だからこそ合理的な発想でもあった。
郝萌が進み出た。
「将軍、それにつきましては、上党の張楊が気になります。張楊はかつて吕将軍や将軍と同僚だった男。先日の戦いでは静観しておりましたが、今後どう動くか」
「張楊か。奴は慎重な男だ。袁紹と手を組んだと聞くが、本気で我々と戦うつもりはないだろう。上党は并州の喉元だ。いずれ話をつけねばならんが、今はまだその時ではない。今は水路を中心とした民政に集中する」
「承知いたしました」
こうして并州の再編は着々と進んでいった。水路の完成によって農業生産力は飛躍的に向上し、投降した賊徒たちは次々と農民へと変わっていく。高順が掲げた「戦わずして勝つ」という理念は、形を変えて現実のものとなりつつあった。それは中原の群雄たちが、誰一人として成し得なかった統治の形だった。




