二段
意識の浮上は、激痛と共にあった。
頭蓋骨の内側から何千本もの針で刺されるような頭痛。全身の筋肉が悲鳴を上げ、関節という関節が錆びついた鉄器のように軋んでいる。眼球の裏側で、誰かが鎚を振るっているような鈍痛が脈打っていた。
(……生きて、いるのか?)
それが最初の思考だった。しかし、その思考はすぐに、自身の置かれた状況の異様さによって掻き消された。
背中にあるのは、コンクリートの冷たさではない。硬いが、どこか温かみのある感触。獣の皮か、あるいは粗末なフェルトのような布の重なりだ。何重にも折り重ねられたその布地からは、干し草と、獣脂と、長年使い込まれた汗の匂いが染みついていた。
臭いが違う。
路地裏の腐敗臭ではない。土埃と、乾いた草、獣の脂と微かな薬草の香りが混じり合った、独特の匂いが鼻腔をくすぐる。消毒薬の香りも、柔軟剤の残り香もない。ただ、生きていることの、生々しい証しのような匂い。文明の匂いではなく、生活の匂いだった。
男は重い瞼をこじ開けた。
視界に入ってきたのは、白い天井でも、点滴のチューブでもない。
薄暗い空間。見上げれば、太い木材が放射状に組まれ、その上に煤けた布かフェルトのようなものが張られている。中央の天窓からは、細い光の束が差し込み、舞い踊る塵を照らし出していた。光の柱が斜めに差し込み、土間の地面に丸い光点を作っている。
包だ。遊牧民の移動式住居。テレビのドキュメンタリーで見たことがある。モンゴルのゲルに似た構造だ。だが、なぜ俺がこんな場所に?
「将軍! 将軍! 気がつかれましたか!?」
耳元で、割れ鐘のような大声が響いた。鼓膜が破れそうな音量に、頭蓋骨が共振する。
(うるせえなぁ……誰が将軍だ! びっくりした……心臓に悪い……)
顔を向けると、一人の男が覗き込んでいる。年の頃は二十前後か。泥と汗にまみれた顔。粗末な布の服を着て、髪を頭頂部で雑に束ねている。その目はくりくりと大きく、心配と安堵がない交ぜになった表情でこちらを見つめていた。肌は浅黒く、頬には若さゆえの赤みが残っている。
男は掠れた声で咳いた。その瞬間、戦慄した。自分の声ではない。低く、野太く、腹の底から響く地鳴りに似た振動。喉の奥から絞り出されたその音は、自分が発したとは思えないほど重く、深い響きを持っていた。
(なんだこれ……めっちゃ怖いんだけど。俺の声じゃない……)
自分の名前は何だったか。思い出せない。いや、思い出そうとすると、頭が割れるように痛む。記憶の断片が、砕けた鏡のように脳裏に散らばっている。
商社の名刺。満員電車の光景。上司の嘲笑う顔。路地裏の冷たいアスファルト。
それらは確かに「自分」の記憶だ。だが、その上にあるいはその下にまったく別の記憶が、奔流となって脳内に雪崩れ込んでくる。
馬のいななき。跳ね上がる血飛沫。肩に食い込む重厚な鎧の重み。戟を振るう感触。視界いっぱいに広がる青空と、眼下に倒れ伏す敵兵。「高将軍」と呼ぶ兵士たちの唱和。無数の戦場の光景。
それはまるで、誰かの人生の映画を、無理やり頭の中に詰め込まれたかのような、強烈で、生々しい体験だった。自分の記憶と、他人の記憶が、境界なく混ざり合っていく。どちらが自分で、どちらが他人なのか、区別がつかなくなる。
(やばいやばいやばい……情報量多すぎて処理落ちする……)
「先生! 先生! 大将が目を覚ましたぞ! 早く来てくれ!」
若者が天幕の入り口に向かって叫んだ。すぐさま、薄汚れた着物を纏った初老の男が、小走りで入ってきた。手には木箱を抱えている。着物の裾は擦り切れ、膝には当て布が縫い付けられていた。
医者は枕元に膝をつき、慣れた手つきで手首を取り、脈を診る。その指先は、長年の薬草で黄ばみ、節くれだっていた。しばらくの間、目を閉じて脈の強さと速さを計っていたが、やがて小さく頷いた。
「……脈は浮き、かつ数。熱邪は越えたようですね」
医者は安堵のため息をつき、傍らの若者に言った。
「張五、湯薬を用意しろ。麻黄と桂枝を煎じたものだ。急げ」
「へい! 合点承知!」
張五と呼ばれた若者が、風のように天幕を飛び出していく。その背中を見送りながら、医者は再びこちらに向き直った。
男は、呆然と医者を見つめた。
服装。言葉遣い。天幕の構造。そして、脳裏に焼き付いている「高順」という響き。
(え……ちょっと待って。高順? 三国志の? 呂布軍の? あの最後曹操に捕まって斬られる……)
俺は内心で叫んだ。転生した。それはもう認める。認めるけども。
(なんで高順!? 曹操でも劉備でもなく!? よりによって死刑確定の不遇の勇将!? 神様ふざけんな! クレームもクレームだわ! 転生ガチャの確率表示して是正しろ! 財務省かてめぇは! 税金だけとってあとは内閣にぶん投げるだけの集団の一員か?)
「……先生、か」
俺は掠めた声で医者に問いかけた。喉がカラカラだ。心臓バクバクだ。声が掠れるのは、この身体がまだ病み上がりだからか、それとも恐怖のせいか。
「はい、高将軍。お加減はいかがですか。三日三晩、高熱にうなされ、一時はどうなることかと」
「三日……」
「左様。厳寒の巡回が崇り、邪風が肺に入ったのです。並の者なら命を落としておりましたぞ」
俺はゆっくりと体を起こそうとした。重い。鉛のように重い。まるで全身に砂袋を括り付けられているような感覚だ。だが、その腕を見て息を呑んだ。
太い。
(うおっ……何これムキムキじゃん……ポパイかよ……ほうれん草食っても……強くはならないな…)
丸太のように太く、岩のように硬い筋肉に覆われている。無数の古傷が、白い線となって肌に刻まれている。引っ掻き傷、切り傷、矢傷。それぞれが、この身体がくぐり抜けてきた戦場の数々を物語っていた。掌は分厚く、マメで固くなっていた。手のひらを握ったり開いたりするたびに、指の節々がパキパキと音を立てる。
これは、書類をめくり、キーボードを叩いていただけの、あの中年サラリーマンの手ではない。これは人を殺す手だ。武器を握り、敵を屠り、血を浴びてきた手だ。
(でもこれ……めっちゃ怖いんだけど。この手、何人殺したんだよ……)
「……俺は、誰だ?」
思わず口をついて出た問いに、医者が怪訝な顔をした。その目に、一瞬、疑惑の色がよぎる。
「将軍? 熱で記憶が混濁しておられるのですか? 貴方様は、高順。字は孝父。天下無双の飛将軍、呂将軍の右腕にして、勇猛果敢なる『陷陣営』を率いる司馬ではありませんか」
高順。
その名を聞いた瞬間、背筋に電流が走った。
知っている。三国志だ。かつて読み耽った歴史書や物語の記憶。呂布軍きっての勇将にして忠臣。寡黙にして清廉潔白。軍規を重んじ、酒を飲まず、賄賂を受け取らない。率いる部隊「陷陣営」は、攻めれば必ず陥とすと恐れられた精鋭部隊。そして下邳の戦いで呂布と共に曹操に捕らえられ、命乞いすることなく斬首される運命にある男。
(あと五、六年で死ぬのか……しかも斬首……首ちょんぱ……やだやだやだ……)
「……場所は?」
「ここは陽人。洛陽の南、数十里の地点にございます」
「今、何年だ」
「初平元年にございます」
初平元年。陽人。
その言葉が、俺の脳内にある歴史の知識と符合する。間違いない。反董卓連合軍との戦いの真っ只中だ。董卓討伐のために関東諸侯が挙兵した年。そして陽人といえば、あの「江東の虎」孫堅と激突する激戦地。史実では、董卓軍の都督・胡軫と呂布の不仲が原因で大敗を喫し、勇将・華雄が討たれる戦いだ。
(詰んでる……転生直後に負け戦の真っ只中。しかも相手は孫堅。味方は不仲な上に派閥争い。死ぬ。絶対死ぬんだけど!? 五、六年に処刑? なんだそれは? 今すぐ死ぬ気がするんだが? 気のせいだろうか…帰りたい。元の世界に帰して……)
心臓がバクバクいっている。胃がキリキリする。手に冷や汗をかいている。だが、不思議と顔は無表情のままだ。これは長年のサラリーマン生活で培った「ポーカーフェイス」スキルである。内心でどれほどパニクっていても、外面だけは平静を装える。それが俺の唯一の特技だった。
どんなに理不尽な罵倒を受けても、どんなに無茶な要求を突きつけられても、表情だけは変えない。そうやって生き延びてきた。その技術が、よりにもよって古代中国で役立つとは思わなかったが。
だが、待てよ。
俺は死んだはずだ。あの路地裏で、ゴミのように死んだ。なのに今、こうして息をしている。
これは「二度目の機会」ではないのか。高順の運命が「死」だとしても、それは書物に記された過去の話だ。今の俺には、未来の知識がある。現代で培った論理的な思考がある。そして何よりも
(怖い。それは怖いさ! 戦後生まれで戦争というものを経験した事がないから! それにしても死ぬのは嫌だ。痛いのも嫌いだ。当たり前だろ! 誰がマゾヒストか! だから、絶対に安全なところから、相手が何もできないように徹底的に叩き潰す。それしかない)
これが俺の生存戦略だ。臆病者の俺が、この乱世で生き残るための唯一の道。
正面から戦う? 冗談じゃない。怖すぎる。だが、逃げるだけでも死ぬ。ならば、どうするか。
知識を使う。準備をする。戦う前に勝負を決める。
それが、現代という情報社会で磨き上げた俺の武器だ。
俺は拳を握りしめた。指の関節がバキバキと鳴る。その音に自分でビビる。
(うわ、すげえ音……この手、本当に俺の手なのか……)
「張五、俺の鎧を持ってこい…それと皆を呼べ。起きるぞ」
「ええっ!? 無茶ですって! 将軍、熱はまだ下がりきっておりません!」
慌てて戻ってきた張五が、湯薬の入った碗を抱えたまま叫ぶ。その顔には、純粋な心配の色が浮かんでいた。この若者は、本気で俺の身を案じているのだ。
(無茶じゃねえよ。呑気にしてたら猛虎に噛み殺されるんだよ。怖いんだよ。だから動くんだよ)
俺は身体を起こした。全身の関節が悲鳴を上げるが、構わずに粗末な衣服を纏う。麻の質感が、現代のどんな高級スーツよりも頼もしく感じられた。その動作の一つ一つに、違和感があった。現代人の意識が、この屈強な身体に「乗っかっている」ような、奇妙な二重感覚。
手足が長い。視点が高い。筋肉の一つ一つが、自分の意志とは別の意思を持っているかのように、勝手に動こうとする。
だが、不思議と動きはぎこちなくない。身体が、戦い方を知っているのだ。手足が、武器の扱い方を覚えている。肩が、鎧の重みを覚えている。腰が、馬の揺れを覚えている。
(こわ……身体が勝手に動くの怖……でも頼むからそのまま動いて……)
俺の気迫というか、必死の形相に押され、張五は慌てて動き出した。
天幕の外へ出ると、そこは別世界だった。
冷気が肌を刺す。冬の澄んだ空気が、肺の奥まで冷たく染み入る。見上げれば、鉛色の雲の切れ間から、かすかな陽光が差している。現代では決して見ることのできない、澄み切った青空が、雲の向こうに広がっていた。
広大な陣営地。数え切れないほどの天幕が並び、炊事の煙が立ち上り、武器を研ぐ音や兵士の怒号が入り混じっている。馬の匂い。鉄の匂い。そして微かな血の匂い。
(これが千八百年前の戦場か……リアルすぎて吐きそう)
足元の土は凍てつき、あちこちに馬糞が落ちている。兵士たちは皆、粗末な防寒具に身を包み、手をこすり合わせながら忙しなく動き回っていた。ある者は矢の羽根を修繕し、ある者は鍋をかき混ぜ、ある者は大声で何かを叫びながら天幕の間を走り抜けていく。
その喧騒のすべてが、生きていることの証だった。現代のオフィスビルでは決して感じることのできない、生の熱量がそこにはあった。
(戦争なんて絶対嫌だけど……でも、ここは現実なんだよな)
張五が、一頭の巨馬を引いてきた。栗毛の「驍風」だ。筋肉が隆起し、気性の荒そうな目をしている。その馬は、高順もとい俺を見るなり、大きくいななき、前足で地面を掻いた。主人を認識したのだろうか、それとも威嚇しているのか。
(ひっ……でか……この馬、絶対俺のこと蹴れる……)
「大将、どうぞ」
張五が手綱を渡してくる。俺は馬の横に立った。馬体が壁のように高い。肩までの高さが優に一七〇センチはある。競馬場で見かける馬よりも、さらに一回り大きく見えた。
さて、乗るか。
俺は左足を上げたがそこで凍りついた。
(……ない)
あるべきものが、ない。鞍からぶら下がっているはずの、足を乗せる金具。
鐙がないのだ。
全身から冷や汗が噴き出した。そうだ、忘れていた。本格的な「馬鐙」が普及するのは、百年先の晋から五胡十六国時代以降。この後漢末期において、騎乗とは鐙なしで行う曲芸的な技術なのだ。己の太腿の力だけで馬体を挟み込み、バランスを保たなければならない。
(無理じゃん! これ絶対落ちるやつ! 死ぬ! 落馬してどこかしらの骨折るやつ! 史上最短転生記録更新!)
「……大将? どうしました?」
張五が不思議そうに見ている。その目に、徐々に疑問の色が浮かび始めていた。まずい。天下の「陷陣営」の将が、馬に乗れないことが露見すれば、偽物だと疑われて斬られるかもしれない。
(斬首か……また斬首……前世じゃ経済的な斬首……今世は物理的な斬首…ふざけんな!)
俺は覚悟を決めた。やるしかない。高順の記憶を信じろ。この体は、乗り方を知っているはずだ。知っててくれ。頼むから知っててくれ。
俺は鞍の前橋を掴んだ。息を吐く。吸う。
えいっ!
腕力で体を引き上げ、勢いよく飛び乗る。
視界が高くなる。世界が変わる。地面が遠くに見え、今まで見上げていた天幕のてっぺんが目線の高さになる。恐怖で体が強張る。落ちる! そう思った瞬間、太腿の内側の筋肉が、俺の意志とは無関係に収縮した。万力のように馬の腹を挟み込む。背筋が伸び、重心が腹に落ちる。
揺れる馬上で、体は驚くほど安定していた。
(……落ちねぇ! すご! この身体すげぇな! ありがとう俺のじゃない身体! 最の高!)
すごい。これが高順の「身体記憶」か。魂は恐怖しているのに、肉体は完璧なバランスを保っている。内腿の筋肉が、まるで独立した生き物のように、馬の体温と動きを感じ取り、瞬時に調整を加えていく。
試しに手綱を引き、少し走らせてみる。風を切る感覚。鎧がない不安感はある。だが、それを太腿の筋力とバランス感覚でねじ伏せている。まるで下半身が馬と融合したようだ。
(これならいける……か? やっぱ怖いけど……)
「さすが大将! 病み上がりとは思えねえ騎乗っぷりだ!」
張五が手を叩いて喜んでいる。俺は馬を止め、安堵のため息をつきそうになるのを堪えて、馬上から彼を見下ろした。
「……張五、矛を寄越せ」
渡されたのは、鉄製の矛。ずしりと重い。全長は優に三メートルを超えている。穂先は両刃で、陽光を受けて鈍く光っていた。
(重っ! こんなん振り回せるか! 時代劇の槍と違ってめっちゃ長いし!)
しかし、指が柄の重心を瞬時に捉えた。手首の返しだけで、切っ先が空を切る。
ヒュンッ。
鋭い風切り音が、冬の澄んだ空気を裂いた。
俺は驚愕した。自分の腕が、まるで精密機械のように動く。無意識のうちに、最適な軌道を描いている。この矛は、この身体にとって、ペンやキーボードよりも馴染み深い道具なのかもしれない。
「……悪くない」
自然と笑みがこぼれた。これだけの身体能力があれば、戦場でも生き残れるかもしれない。
(よし……生存確率、0.3%から0.5%くらいには上がったか……?)
その時だった。陣営の空気が、一変した。
ざわめきが消え、張り詰めた静寂が広がる。先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは水を打ったように静まり返った。鳥肌が立つような、強烈な威圧感。本陣の方角から、異様なプレッシャーが近づいてくる。兵士たちが慌てて道を開け、平伏していく。
(なに!? なに!? 地震!? いや違う、これ……人の気配!? やばい)
「……来たか」
俺の口が、勝手にそう呟いた。




