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一段

男は、己の人生を「摩耗」という二文字で定義していた。


それはある日突然訪れたのではなく、何年もかけて、少しずつ、確実に、彼という人間の輪郭を削り取っていったものである。


思い返せば、あの日までは違った。新卒で入社した商社の同期たちと、夜遅くまで酒を飲み交わし、いつか海外支社のトップになってやるとか、画期的なプロジェクトを立ち上げて業界に名を残すとか、そんな馬鹿げた夢を語り合ったものだ。机の引き出しには、海外赴任のための語学学校のパンフレットがしまってあった。毎朝の満員電車も、理不尽な先輩の叱責も、いつか報われる通過点だと思っていた。


だが、報われる日は来なかった。


気がつけば四十を目前にし、同期の中で最も早く管理職に昇進した男もいれば、ヘッドハンティングで去っていった者もいる。残ったのは、彼のように、特別に優秀でもなく、かといって大胆な失敗を犯す勇気もなく、ただ組織という大きな流れに身を任せて、気がつけば流されてきた者たちだけだった。


「お前、最近ミスが多いな」


三十代半ばで異動してきた新しい上司は、年の離れた弟分のような男だった。だが立場は完全に上である。彼は会議のたびに、提出資料の不備をあげつらい、さも自分が優秀であるかのように振る舞った。その声には、自分より年上の部下を従えていることへの、歪んだ優越感が滲んでいた。


(うるせぇよ……クソガキが現場の事何もわかんないクセしやがって)


心の中で毒づくだけで、実際に口に出す気力も、転職するだけの自信も、もはや彼の中には残っていなかった。


かつては読書に費やしていた深夜の時間は、翌日に備えて早く眠るために消えた。休日に出かけていた美術館や小さな旅は、疲労を回復するための睡眠に変わった。友人との付き合いは自然と途絶え、年賀状のやり取りさえ億劫になった。スマートフォンの連絡先には、いつの間にか取引先と仕事関係者だけが残り、休日に鳴る通知は業務連絡だけとなった。


彼という人間を形作っていたはずの「個性」や「情熱」は、いつの間にか削り落とされ、残ったのは、決められた時間に出社し、決められた作業をこなし、決められた賃金を受け取るだけの、社会の歯車の一部だった。


歯車に、意思は必要ない。ただ回り続ければよい。軋みながらでも、異音を立てながらでも、止まらなければそれでいい。彼はそう自分に言い聞かせて、毎朝の満員電車に乗り込んでいた。周囲の乗客たちもまた、同じような顔をしていた。疲れ切り、何かを諦め、それでも生きるために歯を食いしばっている顔だ。


(みんな、そうなんだ。俺だけじゃない)


そう思うことで、辛うじて均衡を保っていた精神は、しかし、その夜ついに限界を迎えた。


十二月の凍てつく寒さが、都会の雑踏を駆け抜けていく。街路樹の枯れ枝が風に震え、ビルの谷間からは天を焦がすようなネオンの光が、無機質に瞬いていた。駅前の繁華街には、クリスマスの飾り付けが施され、楽しげな恋人たちや家族連れが行き交っている。彼はその光景を、まるで水槽の中の魚でも見るような、隔絶した感覚で眺めていた。


街の裏路地。湿ったコンクリートの臭気が立ち込める中にある、名もなき大衆居酒屋。表通りから一本入っただけで、喧騒は遠のき、代わりに下水の臭いと、残飯置き場から漂う酸敗した匂いが鼻をつく。


その一角で、男はただ酒を煽っていた。


焼酎のきついアルコール臭が、鼻の奥にこびりつく。カウンターの上には、琥珀色や深緑の空き瓶が墓標のように乱雑に積み上げられ、男の胃袋は既に限界を超えていた。だが、脳髄を蝕む渇きは癒えない。それは喉の渇きではなく、魂の渇きだった。


もう何本空けたのか、記憶の糸はとうに擦り切れ、泥のような深みに沈んでいる。視界は油膜を張ったように歪み、天井の安っぽい蛍光灯が不快な明滅を繰り返しながら、幾重にもぶれて見えた。


店内の喧騒が遠のく。誰かが笑い、誰かが怒鳴り、食器が触れ合う音が不協和音となって鼓膜を叩く。


昨日の会議での上役の罵倒が、耳の奥で反響していた。


「お前は使えない」「代わりはいくらでもいる」


連日の深夜に及ぶ奉仕労働で削り取られた精神に、その言葉はあまりにも鋭利な刃物だった。何年もかけて少しずつ削られてきた自尊心の最後の一片が、その一言で粉々に砕け散った。


「……お客さん、もういい加減にしなよ。体が持たんって」


店主の小柄な老人が、恐る恐る近づき、タオルで手を拭いながら諭すように言った。その目には迷惑そうな色と、わずばかりの憐憫が混じっている。長年この商売をしてきて、こういう客を何人も見てきたのだろう。明日にも路地裏で野垂れ死にそうな、行き場のない中年男を。


男はゆっくりと顔を上げた。充血した眼球が、ゼリーのように揺れながら焦点を結ぼうともがく。


「ああん……? うる、せぇ……」


舌が回らない。言葉が形を成さず、唾液と共に吐き出される。呂律の回らない自分の声が、まるで他人のもののように遠くから聞こえた。


金は払っている。誰にも文句は言わせない。俺は、俺の金で、俺の人生を消費しているだけだ。ただ、ほんの少し、誰かに「お疲れ様」と言ってほしかっただけなのに。


男はふらつく手でグラスを掴もうとして、空振った。指先が瓶に当たり、緑色の硝子が床へとダイブする。


パリンッ。


乾いた破砕音が、店内の空気を凍らせた。破片が足元に飛び散り、泡がじわじわとコンクリートに染み込んでいく。一瞬の静寂の後、店内の視線が一斉に男に集中した。


「チッ、汚ねぇな」


若い男の声が聞こえた。見れば、二十代前半とおぼしき若者たちのグループが、こちらを蔑むような目で見ている。流行の服を着て、最新のスマートフォンをテーブルに置き、楽しげに酒を酌み交わしていた若者たちだ。


「ほんと迷惑。店員さん、警察呼んだら?」


グループの一人である若い女が、眉をひそめて囁いた。その声には、自分たちとは無縁の世界の人間を見下す、冷たい響きがあった。彼らにとって、酔っ払って店の物を壊す中年は、ただの滑稽な存在でしかない。自分たちがいつかそうなるかもしれないという予感も、共感も、彼らの中にはない。


罵詈雑言。侮蔑。嘲笑。それらは雨あられと降り注ぐ矢のように、男の矜持をずたずたに引き裂いた。だが、言い返す言葉も、立ち上がる気力もない。男はただ、床に散らばったガラス片を見つめた。煌めく破片の中に、醜く歪んだ自分の顔が映っている。


痩せこけた頬。生気のない目。乱れた髪。ヨレヨレのスーツ。


これが、かつて海外支社のトップを夢見た男の成れの果てか。


「……出ていくよ」


男は呻くように言い、財布から数枚の紙幣を掴み取り、カウンターに叩きつけた。釣りはいらない。これ以上、惨めな自分を晒したくない。千鳥足で立ち上がり、周囲の白い目を背中に感じながら、重い扉を押し開けた。


外気は冷たかった。


十二月の夜風が、火照った頬を容赦なく叩く。路地裏の湿ったコンクリートの臭いと、残飯の酸っぱい臭いが鼻をつく。どこかの飲食店の換気口からは、油と煙の混じった生温かい風が吹き出していた。街灯の光が届かない暗がりが、彼を飲み込もうとしている。


男は壁に手をつき、嘔吐した。胃の中身が空になっても、嗚咽は止まらない。涙が滲んだ。悔しいのか、悲しいのか、それすらも分からない。ただ、体の奥底から込み上げてくる苦しさに、彼はひとり、路地裏でうずくまっていた。


(なんで、こうなったんだ)


答えはなかった。あるいは、答えはとうに分かっていた。自分が選んだ道の結果だ。リスクを取らず、挑戦せず、ただ流されるままに生きてきた報いだ。


(もう、疲れた)


彼は壁に寄りかかり、空を見上げた。都会の空は明るすぎて、星など一つも見えない。ただ、ネオンの反射で薄明るく染まった雲が、ゆっくりと流れているだけだった。


どれだけそうしていたか。五分か、十分か、あるいは一時間か。時間の感覚が完全に麻痺した頃、不意に、低い声が降ってきた。


「おい、オッサン」


顔を上げる。街灯の切れかけた光が届かない暗がりに、数人の影が蠢いている。粗暴な若者たちだ。ニット帽を深くかぶり、手には鉄パイプのようなものが鈍く光っている。年齢は十代後半から二十代前半。目つきは濁り、口元には獲物を見つけた獣のような笑みが浮かんでいた。


「ぶつかったろ? 謝れよ」


ぶつかった覚えはない。だが、そんなことは彼らにとってどうでもいい。彼らが求めているのは、謝罪ではなく、己の全能感を満たすための獲物だ。酔っ払って無防備な中年男。これほど格好の標的はいない。


男が顔を上げた瞬間、最初の一撃が飛んだ。


乾いた音が響いた。衝撃が走ったのは腹部だ。内臓が押し上げられ、胃液が逆流する。息が詰まる。膝から崩れ落ちる。


そこからは、無慈悲な暴力の時間だった。


革靴が脇腹を抉る。鉄の棒が背骨を叩く。拳が顔面を砕く。痛みは最初の数撃で麻痺し、やがて鈍い振動へと変わっていった。鼻が折れる感触。口の中に広がる鉄の味。視界が赤く染まっていく。


アスファルトの冷たさと、鉄の錆びた匂い。自分の血の味。それが、男がこの世界で最後に感じた「質感」であった。


「ツハハハハハ! 見ろよこの無様な顔!」


笑い声。携帯電話のシャッター音。彼らは暴力を楽しんでいる。蹴るたびに笑い、倒れるたびに罵倒する。それは娯楽だった。退屈な夜を紛らわせる、ゲームのようなものだった。


声が遠のいていく。冷たいアスファルトに頬を押し付けられながら、男は薄れゆく意識の中で、夜空を見上げた。都会の空は明るすぎて、星など一つも見えない。


(ああ……俺は、このまま死ぬのか)


不思議と恐怖はなかった。ただ、深い虚無感があった。誰にも看取られず、誰にも惜しまれず、路地裏のゴミのように死んでいく。そんな人生だった。何の意味も、何の価値もない、摩耗しきった人生だった。


(嫌だ)


最後の最後に、その思いだけが浮かび上がった。


(嫌だ。こんな終わり方、嫌だ)


ああ、俺の人生は、このまま路地裏のゴミとして終わるのか。誰にも愛されず、何も成し遂げず、ただ消費され、排泄されるだけの人生。


もしも、やり直せるなら……もしも、次に目が覚める場所があるのなら。


せめて、何者かになりたかった。せめて、自分の足で立ち、自分の意志で進み、この手で何かを掴みたかった。


(もう一度、チャンスが欲しい)


意識が闇に沈む。若者たちの笑い声が、潮が引くように遠ざかっていく。体の感覚がなくなり、思考がぼやけ、それでもなお、彼の心の奥底で、ある感情が激しく燃え上がっていた。


(死にたくない)


暗転。


そして、永遠のような、一瞬のような、深淵の時が流れた。

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