第三回 北地風雲吞巨寇 群雄驚愕覇業始 三段
河内の地を吹き抜ける風は、昨日までの硝煙を吸い込み、冷徹な秋の気配を運んでいた。
王匡という太守の皮を被った禽獣が戦場に散り、その背後にいた泰山兵たちが、今や鍬や槌を握り、俺の命じるままに河内城の石垣を組み直している。槌が石を打つ規則正しい音が、城内に響いていた。かつては戦場で敵の頭蓋を砕いていた男たちが、今は城壁を築くために石を積んでいる。その光景を眺めながら、俺は楼閣の片隅で自分の掌を見つめていた。
掌には槍を振るった際の豆が硬く、岩のように盛り上がっている。あの中年サラリーマンだった頃の、キーボードを叩くだけだった柔らかい指先は、もはや記憶の彼方だ。指の腹にあったペンダコは消え、代わりに分厚い皮膚が鎧のように手のひらを覆っている。手の甲には無数の古傷が白く刻まれ、その一本一本が、この身体が経験してきた死線の数々を物語っていた。
(皮肉なものだ。前世では部下のモチベーション管理に頭を悩ませていた俺が、今では数千の兵を手足のように動かしている。人間、環境が変わればここまで変わるらしい)
河内を手中に収めた俺だったが、王匡の死が地元民の反発を招く可能性については当初、懸念していた。何しろ王匡は泰山の名門の出で、若い頃から財を惜しまず施しを好み、任侠の徒として名を馳せた男だ。当代随一の学者である蔡邕とも親交があったと聞く。そんな名士を殺せば、地元の豪族たちが黙っていないと思ったのである。
だが蓋を開けてみれば、その心配は杞憂に終わった。いや、むしろ逆だった。
王匡は河内太守として、その苛烈な統治で民衆の恨みを買っていた。彼は郡内の県々を巡り、官民の罪過を探り立て、疑わしい者を片っ端から逮捕して取り調べた。罪過があれば金や穀物を要求し、すぐに応じない者は一族ごと処刑した。その恐怖政治は、河内の民衆に深い怨嗟の種を蒔いていたのだ。
加えて、俺の陣営には河内出身の郝萌がいた。彼は河内の豪族の出で、土地の事情に精通している。郝萌は俺の命を受け、河内の有力者たちを一人ひとり訪ね、高順という新しい統治者がどのような人物かを説明して回った。
「高将軍は董卓の将ではあるが、董卓とは違う。王匡のように民を搾取したりはしない。規律を重んじ、賄賂を取らず、約束は必ず守る。そして何より、戦わずに済むなら戦わない。そういうお方だ」
郝萌の取りなしと、俺自身の清廉な統治が、河内の民衆の心を徐々に捉えていった。王匡時代の圧政に慣らされた民にとって、規律ある軍勢と公平な施政は、まさに青天の霹靂であったろう。城内の市場には徐々に活気が戻り、避難していた農民たちも村へ帰り始めた。
(統治とは不思議なものだ。恐怖で縛るよりも、公平さで繋ぐ方が、はるかに強固な支配を築ける。現代の経営学でも言われることだが、まさか千八百年前のこの時代で実証するとはな)
河内の安定を見届けた俺は、次なる一手を打つべく、六人の将を呼び寄せた。呉資、章誑、汎凝、張弘、趙庶、高雅。陷陣営の中核を成す彼らが、俺の手足となって動く。彼らは七百人の頃から高順に仕えてきた古参の百人長たちであり、俺が最も信頼する腹心たちだった。
執務室の机の上には、広げられた地図が置かれている。河内を中心に、冀州、豫章、陳留、幽州へと延びる矢印が描かれていた。
「諸君に、それぞれ密命を授ける」
俺は地図を指差しながら、一人ひとりに任務を伝えた。
「これより諸君は各地に赴き、ある者を救い、ある者を導き、ある者を保護せよ。彼らはいずれも、この乱世で消え去ろうとしている命だ。だが、彼らが持つ知識、人脈、そして未来の可能性それらは全て、我々の河内にとって貴重な財産となる」
六人の将はそれぞれの使命を帯びて河内を発った。冀州へ向かう者、豫章へ向かう者、陳留へ向かう者、幽州へ向かう者。彼らが連れ帰るであろう「人材」は、俺の知る未来の知識において、いずれもが歴史に名を刻む者たちばかりだ。
(現代の知識があるからこそ、誰に投資すべきかが分かる。これを利用しない手はない。ベンチャー投資と同じだ。将来伸びる人材に、今のうちに投資しておく。それも、彼らが最も苦しい時に手を差し伸べれば、恩義は一生忘れない)
最初に動いたのは、冀州へ向かった郝萌である。
冀州は天下の穀倉地帯。その太守・韓馥は名門の出身でありながら、臆病で優柔不断、しかも自分に仕える将軍たちからも軽んじられている。袁紹と公孫瓚の圧力に耐えかね、冀州を譲ろうとしている。そんな情報が俺の耳にも届いていた。
呉資が冀州に到着した頃、事態はすでに動いていた。袁紹は公孫瓚と結託し、韓馥に圧力をかけている。冀州の境には袁紹の軍勢が迫り、公孫瓚もまた南下の兆しを見せていた。恐慌をきたした韓馥は、袁紹の使者・荀諶と高幹の説得に応じ、冀州を譲ろうとしていたのである。
この時の韓馥はまさに「板挟み」だった。袁紹という名門の当主と、公孫瓚という北方の覇者。二人の巨人に挟まれ、冀州という穀倉地帯は格好の餌食となろうとしている。韓馥はその現実を理解しながらも、自ら戦う勇気を持てず、結局は袁紹に全てを譲る道を選ぼうとしていた。
耿武や閔純、李歴といった忠臣たちは「現時点での冀州の軍事力は袁紹を上回っている」と韓馥を諫めた。趙浮や程奐は兵を出して袁紹に抵抗したいと願い出た。しかし韓馥は聞き入れなかった。彼はすでに心が折れていた。袁紹という巨大な存在に立ち向かうよりも、全てを手放して安穏を選びたかったのである。
「私は袁本初に冀州を譲る。これで安泰だ……」
呉資が密かに接触した時の韓馥の声は、かすれていた。冀州の太守だった誇りは、もはや微塵も残っていない。彼はまるで、嵐の前の木の葉のように震えていた。その手はかすかに震え、目は落ち窪み、かつて名門の出として誇り高かった男の面影はどこにもなかった。
呉資は韓馥の屋敷に、商人に扮して忍び込んだ。袁紹の密偵が至る所に潜んでおり、韓馥の動きを監視していたからだ。呉資は夜陰に紛れて韓馥の寝室を訪れ、声を潜めて切り出した。
「韓太守。袁将軍は、貴殿が冀州を譲れば貴殿を厚遇すると約束なさっているとか。しかし、本当にそうなりますかな」
呉資の言葉に、韓馥の顔色が変わった。
「な、何を言う。本初は名門袁家の当主。そのお言葉に偽りはあるまい……」
「名門ゆえに、です。袁将軍は冀州を得れば、貴殿は『用済み』となります。その時、貴殿が冀州に留まれば、袁紹殿は『旧太守が民の心を惑わす』と恐れるでしょう。ならば、貴殿をどうなさると思いますか」
韓馥の顔から血の気が引いていった。呉資の言う通りだ。袁紹は表向きは厚遇するだろう。しかし名門袁家の当主が、冀州を譲ったとはいえ元太守を野放しにするはずがない。袁紹の性格を考えれば、韓馥が邪魔になった時点で、何らかの「事故」が起きるのは目に見えている。
「殺すか、あるいは軟禁するか」
韓馥は震える声で呟いた。自分が袁紹に冀州を譲った後の未来を、彼は初めて直視した。そこに待っているのは、感謝でも安穏でもない。ただの死か、死に等しい屈辱だけだ。
「その通りでございます。しかし貴殿には逃げ道があります。我が主・高将軍は河内で貴殿をお待ちしております。将軍は袁紹のように恩を仇で返すような真似はいたしません。冀州の穀倉地帯をどのように運営していたのか、その知恵を我々に貸していただきたいと申されております」
韓馥は信じられないという表情で呉資を見上げた。追われる身となり、誰もが彼を「用済みの元太守」としか見なかった。ところがこの若き将軍は、自らの経験を求めている。冀州の統治ノウハウを、価値あるものとして認めている。
「よろしいのですか。私は袁紹に冀州を奪われ、逃げ出しただけの腰抜けですぞ」
「腰抜けではありません」
呉資は静かに、しかし強い口調で言った。
「貴殿は民を守るために、無益な争いを避けました。それは臆病ではなく、賢明な判断です。袁紹のように血で血を洗う争いをして、冀州の民がどれだけ死んだと思います。貴殿は敢えて戦わず、民を戦火から守った。その決断を、我が主は高く評価しておられます」
韓馥ははっとした表情を浮かべた。これまで誰も、彼にそんな言葉をかけた者はなかった。彼はただの臆病者として嘲笑われ、見限られ、捨てられた。しかしこの男は、その臆病さの中に価値を見出している。
池波正太郎が描くような、人の心の機微を捉えた場面である。韓馥はこれまで、自分の臆病さを恥じてきた。しかし郝萌の言葉は、その臆病さを「民を守るための賢明さ」と再定義してみせた。それは韓馥にとって、生まれて初めて自分の決断を肯定された瞬間だったのかもしれない。
長い沈黙の後、韓馥は静かに涙を流した。名門の出身として、人前で涙を見せるなど、彼の誇りが許さなかったはずだ。しかし今、彼の目からは止めどなく涙が溢れていた。
「ありがとう……誰にも理解されなかった私の決断を、初めて認めてくれた」
やがて呉資の導きにより、彼は密かに河内へと向かった。表向きは陳留の張邈の下へ向かったことになっているが、その行先は我々の河内だ。呉資は手配した商人の隊列に韓馥を紛れさせ、袁紹の追手から巧みに逃れさせた。
(韓馥の統治ノウハウは必ず役に立つ。冀州の穀倉地帯を運営してきた経験は、これから并州を拓く上で欠かせない。彼は臆病者かもしれないが、臆病だからこそ慎重に民政を司ることができる。俺と同じだ)
同じ頃、熊のような巨躯を持つ汎凝は豫章へと向かっていた。
彼は無口な男だが、任務の遂行能力は抜群である。寡黙な巨漢は、時に雄弁な者よりも多くのことを成し遂げる。汎凝はその典型だった。彼は必要なことを必要なだけしか語らないが、与えられた任務は必ず完遂する。その信頼性こそが、俺が彼を豫章行きに選んだ理由だった。
「諸葛玄という人物を探し出せ。後に天下に名を轟かせる諸葛孔明の叔父だ。今は袁術に豫章太守に任命されているが、情勢が不安定だ。朱皓という男が彼の地位を狙っている」
汎凝は俺の言葉を胸に、豫章へと急行した。少数の護衛だけを連れ、街道をひたすら南へと駆けた。豫章は揚州の南に位置し、河内からはるか遠く離れている。しかし汎凝の騎行は速く、一ヶ月もかからずに豫章に到着した。
果たして事態は予想通りに動いていた。
朱皓は劉繇と同盟し、劉繇は袁術と対立していた。朱皓は劉繇の軍勢を借りて諸葛玄を攻め立て始めたのである。豫章城は包囲され、諸葛玄は籠城を余儀なくされていた。しかし援軍の当てはなく、食糧は日々減っていく。城内の士気は低下し、逃亡する兵士が後を絶たなかった。
追い詰められた諸葛玄は、幼い甥たち諸葛亮はまだ八歳、その兄・諸葛瑾は十三歳を連れて豫章を脱出しようと決意した。城を捨て、夜陰に紛れて逃げる。それは太守としての責任を放棄することを意味したが、幼い甥たちの命には代えられなかった。
諸葛玄は少数の家臣だけを連れ、夜の闇に乗じて城を抜け出した。しかし朱皓の兵は鋭く、すぐに追手がかかった。闇の中を必死で逃げる諸葛玄一行。幼い諸葛亮は叔父の手を握りしめ、泣き声一つ上げずに走った。その小さな足にはすでに豆ができ、血が滲んでいたが、彼は痛みを訴えなかった。
追手が迫り、もはやこれまでかと思われた時、前方の闇から現れたのが汎凝だった。
彼は一人で追手の前に立ちはだかり、熊のような巨躯で道を塞いだ。その手には長大な矛が握られ、その目には静かな殺気が宿っている。追手の兵士たちは、その異様な威圧感に足を止めた。
「諸葛殿。高将軍がよろしくと申されております。こちらへ」
「高順……? 并州の?」
「はい。袁術殿はもはや貴方を守れぬでしょう。しかし北には新たな地がございます。河内はまだ荒れておりますが、必ずや楽土とすると将軍は誓っておられます」
諸葛玄は幼い甥たちの顔を見つめた。彼らを連れて流浪の旅に出るのはあまりに危険だ。諸葛亮は八歳、諸葛瑾は十三歳。どちらもまだ少年である。このまま南へ逃げても、盗賊や追手に襲われる危険があった。
「河内か。高順という男、噂には聞いておる。董卓の下を離れ、自らの手で国を造ろうとしていると」
「将軍は董卓のようにはなりませぬ。我々が保証いたします」
長い沈黙の後、諸葛玄は静かに頷いた。こうして諸葛玄とその家族は、汎凝の護衛の下、偽装した商人の隊列に紛れ、密かに河内へと向かったのである。道中、山賊や朱皓の追手に遭遇することもあったが、そのたびに汎凝が得物を振るって彼らを追い払った。彼の武勇は、まさに頼もしい盾だった。
河内城に到着した諸葛玄一行を、俺は自ら出迎えた。城門の前で、諸葛玄は馬から降りると、深々と拱手した。その後ろには、幼い甥たちと、疲れ果てた家臣たちが控えている。
「諸葛殿、遠路はるばる、よくぞお越しくださった」
「高将軍、このたびは命を救っていただき、感謝の極みでございます」
「礼には及ばない。諸葛殿の才覚は、我が河内にこそ必要だ。ぜひ民政を手伝ってほしい」
諸葛玄が深く頭を下げる。その背後から、一人の少年がこっそりと顔を出した。八歳の諸葛亮である。彼は興味深そうに俺の甲冑や、部屋に掛けられた地図を見つめていた。その目は、好奇心に溢れて輝いている。疲れも恐れも感じさせない、純粋な知的好奇心の光だった。
(これが孔明か。後の蜀漢の丞相、天下三分の計を描いた天才が、今はまだ八つの童だ)
俺はその小さな姿を見つめながら、歴史の不思議さを思った。この少年は、本来ならばこの後、荊州で成長し、劉備に仕え、三国志の英雄となる。しかし今、彼は河内にいる。歴史はすでに変わり始めているのかもしれない。少なくとも、彼の心に刻まれた「河内」という記憶は、史実には存在しなかったものだ。
諸葛亮は俺の視線に気づくと、小さく拱手した。その仕草は八歳とは思えぬほど端正で、すでに大人びた落ち着きがあった。
「高将軍、私の名は諸葛亮と申します。叔父上をお救いいただき、ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。孔明、お前は賢い子だと聞いている。この河内で、多くのことを学ぶがいい」
「はい。ぜひ、将軍のなさることを見せてください」
その真っ直ぐな視線に、俺は思わず笑みをこぼした。臥龍の幼き日。この出会いが、未来に何をもたらすのか、それはまだ誰にもわからない。しかし、少なくとも一つの種が、この河内の地に蒔かれたことは確かだった。
こうして河内には、韓馥と諸葛玄という二人の貴重な人材が加わった。一人は冀州の穀倉地帯を運営した経験を持つ元太守。もう一人は、後に天才軍師となる少年の叔父であり、自身も優れた民政家。彼らがもたらす知識と経験は、これから并州を拓く上で、何よりも貴重な財産となるだろう。
しかし、これだけではまだ足りない。河内を訪れる人材は、さらに続いていた。




