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社畜が目覚めたら将軍!? 史実(未来予知)で成り上がり、乱世を生き抜く  作者: 八月河
十六回 黎陽会戦不分決 一旨詔書穏帝威
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十六回 黎陽会戦不分決 一旨詔書穏帝威 四段

洛陽の春が深まり、街路の柳が青々と葉を茂らせる頃、朝廷に緊急の報せが届いた。


董卓の残党である牛輔、李傕、郭汜が、長安の西に位置する郿城に立て籠もり、いまだに朝廷に服そうとしない。それどころか、周辺の村々を略奪し、民を苦しめているという。郿城は董卓が生前に築かせた塢の中でも最大のもので、高さ三丈の城壁に囲まれ、内部には数年分の兵糧と武器が蓄えられていると聞く。容易に落ちる城ではなかった。


献帝はこの報せを聞き、即座に軍議を開いた。


正殿に集まったのは、丞相・曹操、驃騎将軍・高順、太尉・楊彪、尚書・劉虞、そして禁軍を統率する大司農・段煨である。段煨はもともと董卓の配下だったが、董卓の死後、朝廷に帰順し、現在は洛陽の禁軍を任されていた。董卓軍の内情に詳しく、また軍務にも精通していることから、この征討戦の総指揮を執ることになったのである。


「郿城には牛輔、李傕、郭汜の三将が立て籠もっております。兵力はおよそ四万八千。ただし、その半数は董卓直属の精鋭、飛熊軍の生き残りです。彼らは洛陽が焼けた後も董卓の遺志を奉じると称して投降を拒否し続けております」


段煨は地図を広げながら、静かに説明した。


「三将のうち、牛輔は董卓の娘婿にあたります。李傕と郭汜はもともと董卓麾下の猛将で、かつて長安を占拠したこともある手強い相手です。正面から攻めれば、相応の犠牲は覚悟せねばなりますまい」


皇帝は難しい顔で地図を見つめていたが、やがて顔を上げ、高順に問いかけた。


「孝父、そちはどう思う」


「牛輔たちが投降を拒否しているのは、投降したところで自分たちは処刑されると思い込んでいるからでしょう。実際、董卓の残党はこれまで厳しく処断されてきました。恐れて当然です」


高順は淡々と言った。


「ですが、だからといって略奪を続けさせるわけにはまいりません。郿城は陥とすべきです。その上で、投降した将兵の処遇は寛大にすることが肝要かと。見せしめの処刑を繰り返せば、残党はますます追い詰められ、より激しく抵抗するだけです」


曹操が微かに眉を動かした。


「孝父、そなたは董卓の残党に寛容であれと言うのか」


「寛容ではなく、分別です。董卓の遺臣の中にも、有能な者は多くいます。段煨どのも、もとは董卓の配下だったではないですか。罪なき将兵まで処断する必要はない」


段煨が深く頷いた。彼は董卓の残党という立場を常に意識しており、そのことで朝廷内で肩身の狭い思いをしてきたのだろう。高順の言葉に、彼の表情がわずかに和らいだ。


「孝父の言う通りだ」


皇帝が口を開いた。


「朕は降伏した者たちを許すつもりでいる。ただし、それには彼らが武器を捨て、朝廷に忠誠を誓うことが条件だ。段煨、そちに禁軍の指揮を任せる。孝父、そちはどうする」


「私も従軍いたします。陥陣営を率いて、郿城攻めに加わります」


高順の声には迷いがなかった。献帝は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「驃騎将軍自ら出陣か。心強い。だが、洛陽の守りは」


「城の守りに不安はありませぬ。それに、丞相も洛陽におられます」


「ふん、俺を当てにするな」


曹操は苦笑したが、反対はしなかった。高順が郿城攻めに加わることで、董卓の残党に対する朝廷の寛大さを示す意味もあったのである。


軍議が終わり、高順が王府に戻ると、董媛が待っていた。


「夫君、郿城攻めに加わると伺いました」


「ああ。牛輔たちを討つ。媛、お前はどう思う」


董媛はしばらく沈黙し、それから静かに口を開いた。


「牛輔は父の娘婿です。私にとっては義理の兄にあたります。李傕と郭汜もまた、父が最も信頼していた将たちでした」


「辛いか」


「いいえ。あの者たちは父の死後、ただ保身のために戦い続け、民を苦しめてきました。父の遺志を継ぐと称しながら、実際には父が最も嫌ったことをしている。私はもう、彼らに情けをかけるつもりはありませぬ。ただ」


董媛は高順の目を真っ直ぐに見つめた。


「飛熊軍の将兵だけは、できれば助けてほしいのです。あの者たちは、父の親衛隊でした。董卓の暴虐とは関わりなく、ただ忠義のために戦ってきた者たちです。処刑されるために生まれてきたのではありません」


「わかった。俺に考えがある」


高順は董媛の手を取った。


「遼東から三千の新兵を呼び寄せる。洛陽に到着したその兵と、投降した飛熊軍の生き残りを合わせて、お前の親衛隊を作れ。飛熊の名を継ぐ部隊だ」


「夫君、それは」


「名を『飛熊衛』とする。飛熊軍の名を汚さず、これからは漢室のために戦う部隊だ。そして媛、お前がその指揮を執れ」


董媛は目を見開き、それから深く頭を下げた。


「ありがとうございます、夫君。この董媛、必ずや飛熊衛を立派な部隊に育て上げます」


高順は董媛をそっと抱き寄せ、その額に口づけした。董卓の暴虐は決して許されるものではない。しかし董卓の娘として生まれた董媛が背負ってきた重荷は、計り知れないものがあった。その重荷を少しでも軽くできるなら、高順はどんな手間も惜しまなかったのである。


三日後、段煨率いる禁軍八千と高順率いる陥陣営三万六千が、洛陽を出立した。総勢一万四千。郿城に籠る牛輔の兵力が八千であるから、倍近い数ではある。しかし城を攻める側は常に不利であり、この程度の兵力差では必ずしも十分とは言えなかった。


高順の傍らには董媛と張五がいる。遼東への伝令はすでに飛ばしてあり、三千の新兵は洛陽へ向けて出発したとの報せが届いていた。洛陽に到着するのは二十日後。郿城攻めが終わってからになるかもしれぬが、それでも手筈は整っている。


「媛、飛熊衛の編成は洛陽に戻ってからだ。まずはこの戦を片付けねばならぬ」


「はい。私も微力ながら、夫君をお守りいたします」


董媛はすでに戦装束を整え、腰には剣を佩いていた。戦場に立つ女としての覚悟が、その背筋の伸びた姿から伝わってくる。


張五はいつものように無言で馬を進めているが、その目は常に高順と董媛の周囲を警戒していた。彼は董媛を守ることもまた、自分の役目と心得ているのである。


行軍すること五日。郿城の城壁が、ようやく地平線上に姿を現した。


高さ三丈を誇る堅固な城壁は、董卓が生前に莫大な富を投じて築き上げたものだ。周囲には堀が巡らされ、城門は鉄板で補強されている。正面から攻めれば、攻城側は大きな犠牲を強いられるだろう。


「見事な城だ。董卓は戦の天才だったのだな」


段煨が馬上から城を見上げて呟いた。


「天才だからこそ、己の城で死ぬことができなかった。それが董卓の悲劇だ」


高順の言葉に、段煨は黙って頷いた。董卓は洛陽で暗殺された。この郿城に立て籠もることもなく、呂布の裏切りによってあっけなく命を落としたのである。もし董卓がこの城に立て籠もっていれば、戦いはもっと長引いていたかもしれぬ。


「驃騎将軍、どのように攻めますか」


「まずは降伏勧告だ。牛輔に使者を送り、投降すれば将兵の命は保証すると伝えよ。罪を問うのは首謀者のみで、一般の将兵は寛大に扱うとな」


「それを信じるでしょうか」


「信じまい。だが、信じない者の中にも、迷っている者は必ずいる。その者たちに聞かせることが肝要だ」


高順の言葉通り、降伏勧告に対する牛輔の返答は拒否だった。使者の前で矢を射かけ、追い返したという。


「やはりな。ならば力で開けるまでだ」


段煨が諸将に攻撃準備を命じた。禁軍の弩兵が城壁に向けて矢を放ち、歩兵が堀を埋めるために土嚢を運び始める。攻城戦の始まりだった。


戦いは五日間に及んだ。


初日、二日目は禁軍の弩兵が城壁上の敵兵を制圧しようと試みたが、郿城の城壁は高く、矢はほとんど届かない。逆に城壁上から放たれる矢や投石によって、禁軍の側に少なからぬ被害が出た。段煨は焦った。このままでは兵の士気が持たぬ。


「驃騎将軍、そちらの出番はまだか」


「もう少し待ってほしい。敵がこちらの攻撃パターンに慣れた頃が好機だ」


高順は焦らなかった。戦場では、動かざるべき時に動かぬことこそが肝心である。敵がこちらの攻め方に慣れ、警戒を緩める瞬間を待っていた。


三日目、高順はようやく動いた。陥陣営の精鋭三千を率いて、城の北側に回り込む。北壁は他の三方向に比べてやや低く、堀も浅かった。董卓が築いた城にしては珍しい弱点である。おそらくは増築の途中で放置されたのだろう。


「張五、あの堀を渡れるか」


「へい。俺が先に行きます」


張五は縄梯子を肩に担ぎ、真っ先に堀へと飛び込んだ。水深は胸のあたりまでしかない。彼は素早く堀を渡り切り、城壁の根元に縄梯子をかけた。城壁上の敵兵が張五に気づき、矢を射かける。しかし張五は身を翻して矢をかわしながら、それでも縄梯子を支え続けた。


「続け!」


高順が号令をかけると、陥陣営の兵たちが次々と堀を渡り、縄梯子を登り始めた。精鋭たちの動きは無駄がなく、統率が取れている。これこそが陥陣営の真骨頂だった。


北壁を突破されたことで、城の守備は大きく乱れた。牛輔は慌てて兵力を北側に集中させようとしたが、そこをすかさず段煨の禁軍が南門に総攻撃をかける。二方向からの同時攻撃に、郿城の守りはついに崩れた。


城門が破られ、禁軍の兵が城内に雪崩れ込む。李傕は城門の守備で討ち取られ、郭汜は逃亡を図って馬に乗ったところを弩兵に射抜かれた。牛輔は最後まで城内の天守に籠もって抵抗したが、火を放たれて逃げ場を失い、自害した。


郿城は陥ちた。


戦いが終わり、城内の掃討が始まると、高順は張五を伴って城内を歩いた。


「高将軍、飛熊軍の生き残りがこちらに」


張五が指し示した先に、三百人ほどの将兵が集められていた。董卓直属の精鋭、飛熊軍の生き残りである。彼らは皆、武装を解除され、地面に座らされている。顔には疲労と諦めの色が浮かんでいた。彼らは董卓の死後も、ただ忠義だけで戦い続けてきた者たちである。董卓の暴虐に加担した罪の意識と、それでも董卓を見捨てられなかった忠誠心。その矛盾が彼らをここまで追い詰めてきたのだろう。


高順は彼らの前に立った。


「私は驃騎将軍・高順である。飛熊軍の将兵に告ぐ。朝廷はお前たちの命を保証する。ただし、それには二つの条件がある。一つは武器を捨て、二度と漢室に弓引かぬと誓うこと。もう一つは、これからは漢の民を守る兵として生きることだ」


飛熊軍の将兵たちは互いに顔を見合わせ、ざわめき始めた。まさか命が助かるとは思っていなかったのだろう。


その中から、一人の校尉が進み出た。年は四十あまり。顔には無数の傷があり、片目は潰れている。歴戦の勇士であることは一目でわかった。


「高将軍、私は飛熊軍校尉の李蒙と申します。お言葉、ありがたく拝聴いたしました。しかし我々は、董卓どのの恩義に報いるために戦ってきました。漢室に弓引いたことは、紛れもない事実。その罪を、どう贖えと」


「罪を贖う方法はある。漢室の民を守ることだ。お前たちは董卓の遺志を継ぐと言う。ならば知っているはずだ。董卓は若い頃、羌族と戦い、漢の民を守る将軍だった。西涼の地で異民族に立ち向かい、武勇の誉れ高かった。あの頃の董卓は、民のために戦っていた。お前たちが継ぐべきは董卓の暴虐ではなく、あの頃の董卓の武勇と忠義だ。違うか」


李蒙は唇を噛みしめ、それから深く頭を下げた。


「高将軍のお言葉、胸に刻みます。我々飛熊軍の生き残りは、これより漢室の民を守る兵として生きることを誓います」


高順は李蒙の肩に手を置いた。潰れた片目から、涙が伝い落ちている。


「よし。お前たちはこれより、董媛どのの親衛隊として再編される。名を飛熊衛とする。董卓の娘が指揮する部隊だ。飛熊軍の名は、決して汚させはせぬ」


李蒙は驚いたように顔を上げた。


「太師の娘御が」


「ああ。私の妻だ。媛、来てくれ」


董媛が静かに進み出た。彼女の姿を見た飛熊軍の将兵たちは、一様に息を呑んだ。董媛の面影には、確かに董卓の面影が残っている。董卓の娘が、敵であるはずの高順の妻となり、飛熊軍の生き残りを率いる。その事実が、彼らの心を大きく揺さぶった。


「私は董媛。董卓の娘です。父が犯した罪は消えませぬ。しかし私は、父が最後まで愛した飛熊軍の名を、正義のために使いたい。どうか力を貸してください」


飛熊軍の将兵たちは、一斉に平伏した。その背中には、長い戦いで疲れ果てながらも、新たな道を見出した者たちの静かな決意が滲んでいた。


郿城の戦いが終わり、論功行賞が行われることになった。洛陽の正殿に諸将が集まり、献帝の御前でそれぞれの武功が報告される。


「此度の戦いで、最も目覚ましい活躍を見せた者の一人に、禁軍の竇輔という若い兵がおります」


段煨が報告すると、広間からはどよめきが起こった。たかが一兵卒が、論功行賞の場で名を挙げられるなど、普通はありえないことだったからである。


「竇輔、前に」


段煨の声に、竇輔が進み出た。まだ二十歳前後の若者だが、その立ち居振る舞いには奇妙な落ち着きがあった。


高順はその若者の姿を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。竇輔。見たことのない顔だった。段煨の部隊に所属する兵であれば、当然ながら高順の陥陣営とは別の指揮系統である。だが、その身のこなし、目つき、佇まい。すべてがこの時代の兵卒のものではなかった。高順は自分の中にあるもう一つの時代の記憶が、竇輔の一挙一動に反応しているのを自覚した。


「竇輔、此度の戦いでは見事な働きだったと聞く。南門の戦いで、真っ先に城壁を登ったそうだな」


段煨が賞賛の言葉をかけると、竇輔は静かに拱手した。


「ありがたき幸せに存じます。しかし、私はただ段煨将軍のご指示に従い、目の前の敵と戦っただけでございます」


その言葉を聞いた瞬間、高順の中で何かがはっきりとした確信に変わった。目の前の敵と戦っただけ。この言い回しは、この時代の兵士が普通に口にするものではない。そんな言い回しをする者は、高順が知る限り、この世界にただ一人しかいなかった。自分自身である。


竇輔。この男もまた、転生者だった。


高順はそれ以上、追及しなかった。竇輔が段煨の部隊に所属する禁軍の兵である以上、高順が直接呼び出して話を聞くことはできない。それは段煨の指揮権を侵すことになるからだ。しかし高順の胸の奥に、喜びと危惧が同時に湧き上がってくるのを止められなかった。


同じ転生者がいる。それは孤独の終わりを意味する。しかし同時に、その男がどのような志を持つかによっては、将来の敵にもなり得る。高順は竇輔の顔を記憶に刻み込みながら、静かに息を吐いた。


「よし、下がれ。ほうびは追って伝える」


段煨の言葉に、竇輔は深く一礼して下がった。その背中を見送りながら、高順は内心の動揺を押し隠して、次の議題へと意識を切り替えた。


論功行賞が進む中、高順は飛熊軍の生き残りについて、改めて献帝に奏上した。


「陛下、飛熊軍の将兵三百名はすでに投降し、漢室に忠誠を誓っております。つきましては、彼らの罪を減じ、董媛の親衛隊として再編することをお許しいただきたく存じます」


献帝はしばらく考え込んだ。朝廷の重臣たちの中には、董卓の残党を許すことに反対する者も少なくない。楊彪や劉虞は不安そうな顔をしている。


「孝父、そちの言うことはわかる。しかし、飛熊軍は董卓の親衛隊として、数々の暴虐に加担してきた。その罪を軽々しく許すわけにはいかぬ」


献帝の声には、天子としての責任感が滲んでいた。高順は深く一礼し、静かに言った。


「陛下の仰せはごもっともです。しかし、飛熊軍の将兵の多くは、ただ董卓への忠義だけで戦ってまいりました。罪を憎んで人を憎まず。どうか彼らに、贖罪の機会を与えてはいただけませぬか」


「贖罪の機会、か」


「はい。彼らを辺境の守りに就かせ、異民族との戦い朝廷のために戦わせます。それが彼らにとっての贖罪となり、また漢室にとっても有用な戦力となります」


献帝はしばらく黙って考え込んでいたが、やがてゆっくりと首を振った。


「孝父、そちの慈悲深さには感服する。しかし今回は、そちの言う通りにはできぬ。飛熊軍の将兵は、罪を償う機会を与える前に、まずその罪の重さを知らねばならぬ。朕は彼らを処刑はせぬが、しばらくの間、労役に服させることとする」


高順は一瞬息を呑んだが、それ以上は食い下がらなかった。献帝の言葉には、天子としての揺るぎない判断があった。高順は深く平伏した。


「陛下のご聖断、謹んで拝します」


曹操はその様子を、終始無言で見守っていた。


論功行賞が終わり、諸将が退出した後、曹操が高順に歩み寄った。


「孝父、お前が陛下にあれ以上食い下がらなかったのは賢明だったな」


「孟徳、お前はあの場で何も言わなかったな」


「俺が口を出せば、話がややこしくなる。陛下はお前の言葉を待っていた。そしてお前は、陛下の裁断を尊重した。それでよいではないか」


曹操は微かに笑った。


「孝父、お前は陛下を信じている。陛下もお前を信じている。その信頼の上に、これからの朝廷は成り立つのだろう」


高順は曹操の顔を見つめた。曹操の言う通りだった。高順は献帝の裁断を尊重した。それは献帝が天子として成長するために必要なことだったからだ。自分の思い通りにならぬからといって食い下がることは、かえって献帝の自立を妨げる。高順はそれを理解していた。


「それはそうと、孝父」


曹操は声を潜めた。


「先ほどの竇輔という若い兵、お前は何か知っているか」


高順は曹操の目をじっと見つめた。曹操は何かを察しているのだろうか。いや、おそらくは単なる勘だ。しかし曹操の勘は、往々にして的中する。高順は短く答えた。


「さあな。俺も今日初めて見た顔だ。段煨どのの部隊の兵だそうだ。禁軍のことは段煨どのに任せてあるからな」


「そうか」


曹操はそれ以上追及しなかった。しかし彼の目は、何かを考えているようだった。


洛陽の王府に戻ると、董媛が待っていた。


「夫君、飛熊軍のことは」


「陛下はすぐには許されなかった。しばらく労役に服させるという」


「そうですか」


董媛は少しだけ俯いたが、すぐに顔を上げた。


「でも、処刑ではないのですね」


「ああ。陛下は命を助けると仰せだ。媛、お前の願いはすぐには叶わぬが、それでも道は閉ざされてはいない」


「はい。私も陛下のお気持ちはわかります。飛熊軍の罪は重い。それをすぐに許せという方が無理な話です。ですが、いつか必ず、飛熊衛を創設する日が来ることを信じております」


「ああ。その日まで、遼東の新兵たちはお前が直接鍛え上げろ。飛熊衛の母体は、そちらで作っておけばよい」


「ありがとうございます、夫君」


董媛は深く一礼し、それから顔を上げて微笑んだ。


「ところで夫君、先ほど何か考え事をされているようでしたが」


「ああ。気になることがあってな」


高順は少しだけ迷ってから、口を開いた。


「竇輔という兵のことを知っているか」


「いいえ。段煨どのの部隊の兵だとか」


「ああ。今日の論功行賞で、あの男の立ち居振る舞いを見た。あれはただの兵卒ではない。この時代の人間ではない何かを持っている」


「この時代の人間ではない、とは」


高順は董媛の目を見つめた。彼はこれまで、自分が転生者であることを誰にも明かしたことはなかった。董媛もまた、夫が時おり見せる遠い目つきに気づきながらも、その理由を尋ねたことはなかった。しかし今、高順は初めて言葉にしようとしていた。


「媛、俺はお前に隠していたことがある。俺は、この時代に生まれ落ちる前の記憶を持っている」


董媛は静かに高順の言葉を聞いていた。驚いた様子はない。ただ、夫の告白を真摯に受け止めている。


「私はずっと、夫君には何か特別なものがあると感じておりました。年齢に似合わぬ老成したところ、誰も知らぬはずの知識、そしてこの時代の者とは思えぬ考え方。それが何かはわかりませんでしたが、今のお言葉で得心がいきました」


「驚かないのか」


「驚きはします。でも、それが夫君のすべてです。私は董卓の娘として生まれ、多くの人から疎まれながら生きてきました。そんな私を受け入れてくれたのが夫君です。夫君がどのような過去を持っていようと、私の気持ちは変わりませぬ」


高順は董媛の手を握った。


「ありがとう、媛。それでな、あの竇輔という男も、おそらく俺と同じなのだ。この時代の人間ではない。違う世界の記憶を持っている」


「竇輔も、夫君と同じく未来を知る者だと」


「そうだ。俺にはわかる。あの言葉遣い、あの身のこなし、あの落ち着き。すべてがこの時代の兵卒のものではない。俺と同じ孤独と、俺と同じ知識を持っている」


高順は窓の外を見つめた。


「俺はあの男に、一瞬、喜びを感じた。自分と同じ者がいるということが、正直、嬉しかった。しかし同時に、危惧もある」


「危惧、ですか」


「ああ。あの男がどのような志を持つかによっては、将来の敵にもなり得る。俺が民のために歴史を変えようとしているのに対し、あの男は別の目的を持っているかもしれぬ。そして、段煨どのの部隊にいるということは、俺とは別の道を歩む可能性が高い」


董媛はしばらく考えてから、静かに言った。


「夫君は竇輔をどうなさるおつもりですか」


「今はまだ何もできぬ。段煨どのの指揮下にある以上、俺が直接手を出すわけにはいかぬからな。だが、いずれ機会があれば直接話をしてみたい。それまでは静観するしかあるまい」


高順は深く息を吐いた。


喜びと危惧が、彼の胸の中でせめぎ合っている。自分と同じ転生者がいる。それは孤独の終わりを意味すると同時に、新たな火種の始まりでもあった。


それから数日が過ぎた。遼東からは三千の新兵が洛陽に到着し、董媛の指揮のもとで飛熊衛の母体としての訓練を開始した。飛熊軍の生き残りはまだ労役に服しているが、いつか彼らが解放された時、董媛の飛熊衛は名実ともに董卓の遺志を継ぐ部隊となるだろう。


洛陽の春は、もうすぐ終わろうとしていた。夏が来れば、北の異民族が動き始めるかもしれぬ。曹操は南方の孫策や劉表に備えると言い、献帝は朝廷の改革に乗り出した。


高順は洛陽に留まりながら、次なる戦いに備えていた。竇輔のことは、ひとまず胸の奥にしまい込む。いつか来るべき対決の日まで。


そんなある日の夕刻、董昭が王府を訪ねてきた。


「高将軍、例の竇輔という兵の素性について、わかる範囲で調べてみました」


「ほう」


「遼東の襄平の郊外で生まれ、侯成将軍の隊で訓練を受けた後、今回の洛陽の援軍に加えられたとのことです。ただし、その前の経歴がどうもはっきりしませぬ。まるでどこかから突然現れたかのようで」


「それでよい。董昭どの、ありがとう」


董昭が退出した後、高順は一人、窓辺に立った。


遼東の襄平。それは高順が最も力を入れて統治してきた土地である。そこから突然現れた転生者。偶然なのか、それとも何か意味があるのか。高順は遠く北の空を見つめながら、これから起こり得る未来に思いを巡らせていた。


さらに数日後、思わぬ報せが届いた。竇輔が論功行賞の後、段煨の部隊を辞し、洛陽を去ったというのである。行き先はわからぬ。しかし高順の耳には、彼が曹操の陣営に現れたという噂が届いていた。


曹操。それはつまり、いずれ高順と敵対する可能性がある道だった。高順はこの報せを聞き、長く息を吐いた。


「やはりな」


竇輔は曹操の下を選んだ。曹操は才能ある者を身分に関わらず登用する。転生者としての知識と技能を持つ竇輔が、曹操の目に留まらぬはずがなかったのである。


ある夕暮れ、曹操が王府を訪ねてきた。


「孝父、妙な若者が俺のところに来たぞ。名を竇輔という。元禁軍の兵だそうだな」


「ああ。郿城の戦いで武功を挙げた男だ」


「お前はあの男を知っているのか」


「直接話したことはない。だが、段煨どのの論功行賞の場で一目見た。ただの兵卒ではないと思った」


「ほう。お前がそう言うとは、よほどの曲者か」


曹操は興味深げに笑った。


「で、孟徳。あの男をどうするつもりだ」


「俺の幕下に加える。あの男には、底知れぬ何かがある。それが何かはまだわからぬが、使いようによっては面白い」


「気をつけろ、孟徳。あの男は、俺たちが知らぬ何かを持っている」


「お前がそこまで言うとはな。よほど気になる存在らしい」


曹操は高順の目をじっと見つめた。それ以上は何も聞かず、ただ静かに頷いた。


「わかった。だが、もしあの男が俺の役に立つなら、俺は遠慮なく使うぞ」


「ああ。それでよい」


曹操が去った後、高順は一人、洛陽の空を見上げた。


竇輔。元特殊部隊の軍人。転生者。そしてこれから、曹操の下で頭角を現すであろう男。高順とは直接の関わりを持たぬまま、彼は自分の道を歩み始めていた。同じ転生者でありながら、高順の幕下に入ることもなく、曹操の陣営へと去っていった。彼がこの先、歴史の奔流の中でどのような役割を果たすのか、高順にも正確にはわからなかった。ただ一つだけ言えるのは、竇輔はこの時代において、高順にとって最も手強い敵になるかもしれないということだった。


「それでも構わぬさ」


高順は小さく呟いた。


「敵でも味方でも、民を守るという一点で通じ合えるなら、それで十分だ」


春の終わりの風が、洛陽の街を優しく吹き抜けていった。

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