十六回 黎陽会戦不分決 一旨詔書穏帝威 二段
和睦が成り、天子の勅も下った以上、もはや黎陽に留まる理由はない。曹操と高順は、それぞれの陣に戻り、洛陽への参内準備を整えることになった。
「孝父、洛陽で会おう」
曹操はそう言って、許褚に命じて舟の準備をさせた。曹植が高順に向かって深く一礼する。その若々しい顔には、これから洛陽へ向かうことへの期待と、歴史的な場に立ち会えたことへの昂揚が浮かんでいた。
「孟徳、洛陽では互いに剣を抜くことのなきようにな」
「無論だ。陛下の御前で争うほど、俺も愚かではない。だが孝父、洛陽に着く前に聞いておきたいことがある」
「何だ」
「お前は洛陽で、陛下に何を奏上するつもりだ」
高順は少し考えてから答えた。
「和睦が成ったこと。そして、これからの天下の在り方について、俺の考えを述べるつもりだ」
「天下の在り方、か。お前の口からそれを聞くとはな」
「お前と話して、思うところがあった。戦を終わらせるだけでは足りぬ。戦のない世をどう作るか、それを天子と共に考えねばならぬと」
曹操は高順の顔をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
「ならば洛陽で、俺もまた俺の考えを述べよう。陛下の御前で、天下の在り方を論じ合う。それもまた一興だ」
二人は再び手を握り合い、今度こそ別れの時を迎えた。曹操の舟が対岸へと漕ぎ出し、高順の舟もまた黎陽の岸へと向かう。中洲に残された趙咨は、両雄の背中を見送りながら、深く息を吐いた。
「これで天下は、少しは静まるのでしょうか」
従者が問うと、趙咨は首を振った。
「わからぬ。しかし、少なくとも今日という日は、漢室にとって吉日であった。それだけは確かだ」
高順が黎陽の岸に戻ると、そこには諸将と幕僚たちが勢揃いして待っていた。張遼、張燕、張郃、徐栄、華雄、郝萌、曹性、成廉、魏越、侯成、宋憲、魏続、孫観、尹礼、徐翕、毛暉、張白騎、昌豨、呉敦、恵衢、秦翊、張勲、萇奴、祖郎。名だたる勇将たちが、一様に安堵の表情を浮かべている。
「将軍!」
張遼が真っ先に駆け寄った。その顔には、主君が無事に戻ったことへの喜びが溢れている。
「文遠、心配をかけたな」
「いえ、ご無事で何よりです。和睦の内容は」
「并州と冀州の兵権を返上する。驃騎将軍と北域大都護の職も辞す。その代わり、北で征伐した地はすべて俺の食邑とする。これで曹操と合意した」
張遼は一瞬息を呑んだが、すぐに深く頷いた。
「承知いたしました。将軍がそう決められたなら、それが最善なのでしょう。それよりも」
「何だ」
「中洲で曹操と、どのような話を」
高順は少しだけ間を置いてから、静かに答えた。
「友になった」
「友、ですか」
「ああ。敵でありながら友。そんな関係も悪くはない」
張遼は主君の顔を見つめ、それから笑みを浮かべた。
「上将軍らしいお言葉です」
その傍らで、幕僚たちもほっと胸を撫で下ろしていた。賈詡はいつものように淡々としているが、その目には安堵の色がある。沮授と田豊は顔を見合わせて頷き合い、董昭はすでに洛陽への報告書の文案を頭の中で練り始めていた。
「諸君、これより洛陽へ向かう。張遼、張燕、張郃、徐栄、華雄の五将はそれぞれ直属部隊を率いて同行せよ。ほかの将兵は薊県と遼東へ帰還させる。六十万の大軍をいつまでも遊ばせてはおけぬ。民を田に戻し、商いを再開させねばならぬ」
高順の指示に、諸将は一斉に拱手した。
「御意」
「洛陽では、天子の御前で和睦の報告を行う。それから、今後の天下の在り方について議論することになるだろう。賈詡、沮授、田豊、董昭は洛陽に同道せよ。審配、辛毗、荀諶、逢紀は薊県へ戻り、昭姫を補佐して政務に当たれ。耿包、王修、沐並、韓珩は民の復興を。徐勲、劉献、張景明は糧秣の管理を引き続き任せる」
幕僚たちも次々と拱手する。高順は彼らの顔を見渡し、深く息を吸った。
「これよりは、戦ではなく政の時代だ。諸君の知恵と力を貸してほしい」
曹操の軍もまた、撤収を始めていた。
連合軍の諸侯たちは、曹操から和睦の成立を聞かされると、それぞれに思惑を抱きながらも撤兵の準備に入った。袁紹の代理人である袁譚は、すでに軍を引き揚げる準備を整えていた。父・袁紹の病状が思わしくないという報せが届いていたからである。孫堅は高順のもとに使いを送り、洛陽で再会することを約束した。馬騰は西涼に帰る前に洛陽に立ち寄ると言い、劉備は沈黙したまま軍をまとめ始めた。
劉備の心中は複雑だった。曹操と手を結んで高順を討とうとしたこの戦いは、彼にとって何の得にもならなかった。むしろ、曹操の力を借りて高順を討つという目論見が外れたことで、彼の立場はますます苦しくなったのである。曹操は表向き劉備を味方として扱っているが、その実、劉備を信用していない。関羽、張飛、趙雲の三将がいなければ、いつ切り捨てられてもおかしくない。劉備はそのことを誰よりもよく知っていた。
「殿、我々も洛陽へ参りますか」
関羽が静かに問うた。劉備はしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。
「ああ。陛下の御前で、我々の立場を明らかにせねばならぬ。このまま曹操の傀儡で終わるわけにはいかぬのだ」
その目には、再起を誓う炎が静かに燃えていた。
高順が洛陽へ向けて出立したのは、それから三日後のことだった。
六十万の大軍のうち、十万を率いての行軍である。張遼、張燕、張郃、徐栄、華雄の五将がそれぞれ五千から一万の兵を指揮し、賈詡、沮授、田豊、董昭の四名の幕僚がそれに同行した。董媛と張五ももちろん、高順の傍らにいる。
黎陽の城を出る時、高順は一度だけ振り返った。三月にわたる睨み合いの舞台となったこの城と、黄河の流れ。ここで多くの兵が死んだわけではない。むしろ、驚くほど死者は少なかった。それは高順にとって、何よりも誇らしいことだった。
「上将軍、洛陽までは十日ほどの道のりです」
董昭が馬を寄せて言った。
「ああ。道中、各州県の様子を見ていこう。民がどのように暮らしているか、この目で確かめたい」
「それは良いお考えです。洛陽に着く前に、将軍が実際に民の暮らしを見ておかれることは、今後の朝廷での議論にも役立ちましょう」
高順は頷き、馬腹を軽く蹴った。
洛陽への道は、春の息吹に満ちていた。道端には菜の花が咲き乱れ、農民たちは田を耕し始めている。戦が終わったことをまだ知らぬ者も多いだろう。しかしそれでも、春が来れば種を蒔き、秋を待つ。それが民の営みだった。高順はその風景を目に焼き付けながら、洛陽での会議に思いを巡らせていた。
献帝はどのような人物なのか。元の歴史では悲劇の天子として描かれた若者は、今、確かな意志を持って動き始めている。荀彧や蔡邕、楊彪といった重臣たちが、どのような思惑で動いているのか。曹操との関係は、これからどうなっていくのか。和睦は結ばれたが、それは終わりではなく始まりに過ぎない。高順はそのことを誰よりもよく知っていた。
董媛が馬を並べて歩いてくる。
「夫君、洛陽では、お義父さまにもお会いできますね」
「ああ。蔡邕どのには、昭姫のことも報告せねばならぬ。薊県で元気にしていること、遼東の学堂が順調に運営されていること、そして」
「そして?」
「いつか必ず、昭姫を洛陽に連れてくると約束したことを」
董媛は微笑んだ。
「お義姉さまは、きっと喜ばれます」
「そうだな。だが、その前にやるべきことが山ほどある。和睦を確かなものにし、朝廷を安定させ、民の暮らしを立て直す。道はまだ長い」
「私はいつでも、夫君の傍におります」
「ありがとう、媛」
二人は並んで馬を進めた。前方には洛陽への道が真っ直ぐに伸びている。春の陽射しが、その道を黄金色に染めていた。
洛陽に到着したのは、それから十日後の午後だった。
高順の軍が洛陽の東門に近づくと、すでに朝廷からの出迎えが待っていた。太師蔡邕、尚書劉虞、太尉楊彪の三名が、わざわざ城外まで出向いてきたのである。これは異例の待遇だった。本来ならば、上将軍といえども、これほどの重臣たちが総出で出迎えることはない。しかし今回の和睦は、漢室にとってまさに吉報であり、その立役者である高順を最大限の礼遇で迎えようという献帝の意向だった。
「孝父、よくぞ戦を終わらせたな」
蔡邕が歩み寄り、高順の手を握った。その手は老人のものとは思えぬほど力強く、そして温かかった。高順は深く一礼した。
「岳父、ご無沙汰しております。昭姫は薊県で元気にしております。こちらは昭姫からの手紙です」
高順が差し出した手紙を、蔡邕は震える手で受け取った。
「昭姫が無事で何よりだ。して、そちらが董媛どの」
「はい。董媛と申します」
董媛が馬上から丁寧に礼をすると、蔡邕は優しく微笑んだ。
「昭姫から手紙で何度も聞いておる。共に孝父を支えてくれる良き伴侶だと。これからも、どうか孝父を頼む」
「身に余るお言葉にございます」
劉虞と楊彪も、高順に歩み寄った。
「将軍、この度の和睦、まことに天の恵みにございます。陛下もお喜びで、今か今かと上将軍のお着きをお待ちかねです」
劉虞の声には、心からの安堵が滲んでいた。彼は漢室の宗族でありながら、常に民の側に立って政を考えてきた人物である。高順と曹操が争えば、どちらが勝っても民が苦しむ。そのことを誰よりも憂いていたのが劉虞だった。
「伯安様、まずは陛下にお目通りを願いたい」
「無論です。陛下はすでに正殿にてお待ちです」
洛陽の街並みは、高順がかつて復興に尽力した頃よりもさらに整い、活気に満ちていた。
焼け野原だった洛陽をここまで立て直すのに、どれほどの歳月と労力が必要だったか。高順は董卓の死後、洛陽に戻った時、この都のあまりの荒廃ぶりに言葉を失ったものだ。焼け落ちた宮殿、打ち捨てられた民家、路傍に転がる無数の骸。あの光景は今も高順の記憶に刻まれている。高順はまず、生き残った民を集め、住まいを整え、瓦礫を片付けるところから始めた。そして宮城の修復に着手し、市場を再建し、街道を整備し、水を引き、田畑を拓いた。十余年の歳月をかけて、洛陽はようやく都としての姿を取り戻したのである。
街には活気があった。人々が行き交い、市が立ち、子供たちが路地で遊んでいる。かつて焼け野原だったこの都が、今では確かな日常を取り戻している。それを見るたびに、高順は自分のやってきたことに意味があったのだと、心の底から思えた。
正殿に入ると、玉座には献帝が座っていた。
年は二十を過ぎたばかり。痩せた体躯に、神経質そうな細い顔。しかしその目には確かな光が宿っている。高順は玉座の前に進み出ると、深く平伏した。
「臣順、ただいま戻りました。陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
献帝はわずかに身を乗り出した。その顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
「将軍、面を上げてくれ。此度の戦は無用であったが、そちの統率と韜略を天下に知らしめた事は朕にとっても喜ばしい事である」
高順が面を上げると、献帝はじっと高順の顔を見つめた。その眼差しは、天子が臣下を見るというより、年の近い兄に対する弟のそれに近かった。
「驃騎将軍、此度の罪そちは朕にどう裁けと?」
「いえ、弁明の余地もございませぬ。陛下のご聖断次第かと」
「そうか。ならばこれより驃騎将軍として、執金吾として洛陽に身を置き軍を鍛えるように申しつける」
高順は少し驚いた。天子がこれほど軽く自分のことを裁くと思わなかったからである。しかしそれは、皇帝がそれだけ高順に心を許している証拠でもあった。
「陛下がそう仰せならば」
「うむ。そちのおかげで戦が止んだ。丞相も朕の勅に従って停戦を受け入れた。朕はただ、それが嬉しいのだ。そちがどれほど民を大切にしているか、遼東や幽州の様子を聞くたびに、朕はそちに会いたいと思っていた」
「もったいなきお言葉です」
「そしてな、驃騎将軍。朕はそちに聞きたいことが山ほどある」
高順は少し前のめりになった。その目には、抑えきれない好奇心が輝いている。
「遼東では異民族と戦い、民を守り、法を整え、学堂を建てたと聞く。そちの治める土地の民は、飢えず凍えず、戦に怯えずに暮らしているという。それはまことか」
「はい。まだ道半ばではありますが、遼東と幽州では法に基づく統治が行われ、民は耕し、子らは学び、商いは栄えております。もっとも、すべてが上手くいっているわけではありませぬ。失敗も多く、民に迷惑をかけたことも数え切れませぬ」
「失敗か。上将軍でも失敗するのだな」
「もちろんです。むしろ失敗の連続でした。遼東の冬は厳しく、最初の年は作物がほとんど穫れず、兵たちに粥を配るのが精一杯。鮮卑との戦いでも、こちらの不手際で多くの兵を失いました。ただ、そのたびに学び、改めてまいりました」
献帝はしばらく黙って高順の言葉を聞いていた。それから、少し恥ずかしそうに言った。
「将軍、朕はな、そちに教わりたいのだ。どうすれば民が安心して暮らせる世を作れるのか。朕は幼い頃から戦乱に翻弄されてばかりで、自分で何かを成したことがない。そちの話を聞くたびに、羨ましくて仕方がなかった」
「陛下、臣はもとより胸中に大きな志もなく、ただ安穏と家族と共に過ごし天寿を全うしたいだけでございます」
「朕は玉座に座っているだけの天子ではない。そうでありたいとずっと思ってきた。だがどうすればいいのかわからなかった。だから将軍、さらに力を貸してほしい」
高順は深く息を吸った。献帝の言葉には、飾りも計算もない。この若者は本気で天下を良くしたいと願っている。高順はそのことに、言い知れぬ感動を覚えた。
「陛下、私は陛下のために力を尽くします。ですが、私が教えるなどとおこがましいことはできませぬ。共に考え、共に学び、共にこの国を立て直していきましょう。私の知っていることをすべて陛下にお伝えします。それをどう活かすかは、陛下ご自身がお決めになればよろしいかと」
「共に、か」
献帝はその言葉をかみしめるように繰り返し、それから笑った。それは高順が見たことのない、年相応の無邪気な笑顔だった。
「ありがとう、将軍。そう言ってもらえると思っていた。そちは変わらぬな」
「ええ、これが生来の性分にございますれば」
「怖い顔をして、いつも怒っているが、実は誰よりも民を想っている。部下を決して見捨てず、敵さえも無駄に殺さない。そしていつも、妻に頭が上がらない」
高順は思わず董媛を振り返った。董媛は口元を押さえて笑いを堪えている。
「最後のだけは、誰が流した噂でしょうか」
「さあな。だが朕には、それが本当のことのように思える。なにせそちは、妻を戦場に連れてくるような男だ。それはつまり、妻を誰よりも信頼しているということだろう」
「まったくもって、陛下の仰せの通りです」
高順が素直に認めると、献帝は声を上げて笑った。その笑い声は正殿の高い天井に響き渡り、控えていた黄門侍郎たちも驚いた顔を見合わせた。天子がこれほど楽しそうに笑うのを、彼らはこれまでほとんど見たことがなかったのである。
「将軍、そちと話していると、朕も少しだけ強くなれた気がする。これまでは丞相に頼ってばかりだったが、朕も朕なりにできることを探してみようと思う」
「陛下がそう思われたなら、私はこの洛陽に来た甲斐がありました」
「うむ。それともう一つ、将軍に頼みがある」
献帝は声を少し潜めた。
「丞相は今、偏殿で待っておる。そちと丞相には、この後すぐにでも話し合ってくれ。朕の前で、これからの天下のことを。朕はそれを聞き、自分なりの考えをまとめたい」
「丞相はすでに」
「ああ。つい先ほど到着した。相変わらず抜け目のない男だ。そちより先に朕に拝謁して、和睦の経緯を一通り説明していった。だが朕は、丞相の言葉だけでは足りぬと思った。そちの口からも聞きたかったのだ」
「承知いたしました。ただちに丞相と協議し、陛下にご報告いたします」
「頼んだぞ。ああ、それから」
献帝は少し言いにくそうに付け加えた。
「できれば、あまり喧嘩はせぬようにな。朕は仲裁が得意ではない」
「陛下、ご安心ください。黄河の中洲で話した時、私と曹操は互いに友となると約束しました。友とならば、そう簡単に喧嘩はいたしませぬ。古の廉頗と藺相如の如く将相の和を尊びましょう。刎頸の交わりは互いに無理でしょうから」
「友か。将軍と丞相が友、か」
献帝は嬉しそうに目を細めた。
「それは良い話だ。朕もいつか、そちたちの仲間に入れてほしいものだ」
「陛下はすでに、我らの主君であられます。仲間も何も、陛下こそが我らをお導きくださるお方です」
「そうか。ならばなおのこと、朕も頑張らねばな」
献帝はそう言って、玉座から立ち上がった。その立ち姿には、これまで見たことのない決意のようなものが感じられた。
「将軍、行くがよい。丞相が待っている」
「はっ。では後ほど、必ずや良き報せをお持ちいたします」
高順は深く一礼し、偏殿へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、献帝は小さく呟いた。
「やはり変わらん。そして相変わらずだ。あれほどの男が、朕の臣下でいてくれるとは」
趙咨が静かに近づき、献帝に囁いた。
「陛下、お喜びのところ恐れ入りますが、将軍はあまりにも強大すぎるのでは」
「わかっている。だがな、趙咨。朕はあの男を信じたいと思った。あの目は嘘をついていなかった。そして何より、あの男は朕を『主君』と呼んだ。丞相ですら、朕のことを『陛下』としか呼んだことがないのに」
偏殿に入ると、曹操はすでに卓を挟んで座っていた。その傍らには荀彧が控えている。痩せた体躯に鋭い目。曹操の軍師として知られる荀彧は、高順の姿を見ると静かに一礼した。
「孝父、遅かったな」
「孟徳、お前こそ相変わらず用意がいい。陛下に先に拝謁していたとはな」
「当然だ。私は丞相だからな」
曹操は悪びれもせずに言った。高順はその向かいに腰を下ろす。董媛と張五は後ろに控え、荀彧は曹操の側に座った。
「して、孝父。陛下から何を仰せつかった」
「天下の在り方を、お前と共に話し合えとな。それと、喧嘩はするなと釘を刺された」
「ははは、陛下らしい。して孝父、何を奏上するつもりだ」
高順はしばし考えてから、口を開いた。
「三つだ。一つは、各州に学堂を設立すること。洛陽の太学だけでは足りぬ。各州に学堂を置き、身分を問わず学べる場を作る。これはすでに遼東で行っていることだ。遼東では、鮮卑や高句麗の若者も分け隔てなく学んでいる。西涼と益州以外のすべての州で、これを実施したい」
曹操は眉を上げた。
「西涼と益州を除く理由は」
「西涼は馬騰と韓遂が睨み合っており、益州は劉璋の統治が安定しておらぬ。無理に学堂を建てても機能しまい。まずは安定した州から始めるべきだ」
「なるほど。二つ目は」
「諸侯の封爵だ。今回の戦に参加した諸侯に、然るべき爵位を与える。ただし、これは単なる褒賞ではない。封爵によって朝廷の秩序を再構築する。たとえば、劉虞を燕王、劉表を楚王、劉備を梁王、孫堅を呉侯、袁紹を斉侯。これで漢室の宗族を王とし、異姓を侯とすることで、高祖以来の『異姓を王とせず』の遺訓も守れる」
曹操は目を細めた。
「劉備を王にか。孝父、お前は劉備をどう見ている」
「危険な男だ。しかし、だからこそ王に封じて朝廷の枠内に縛りつけるべきだ。野に放てば、何をしでかすかわからぬ。それに、劉備は漢室の宗族だ。劉虞や劉表と同じく、王に封じることに理屈の上では問題はない」
「理屈の上では、か。面白い言い方をする。して三つ目は」
「北辺の征伐権を俺に与えること。これは和睦の条件としてお前と合意したことだが、朝廷としても正式に認めさせる。今後、鮮卑や烏桓、高句麗を討った土地は、すべて俺の食邑となる」
曹操は腕を組んだ。
「それでお前は、北の異民族を討ち続けるつもりか」
「ああ。それが漢室の安寧につながる。北の脅威を取り除き、辺境の地に秩序をもたらす。そして得た領地で法と教育を広める。俺の役目はそれだ」
「中原には手を出さぬと」
「もとより手を出すつもりはない」
曹操は長く息を吐き、それから荀彧を振り返った。
「文若、どう思う」
荀彧は静かに答えた。
「将軍の提案は、極めて合理的です。学堂の設立は長期的な人材育成につながり、諸侯の封爵は朝廷の求心力を高め、北辺の征伐権は将軍の力を削ぐどころか、むしろ漢室全体の利益にかなう。少なくとも私には、反対する理由が見当たりませぬ」
「お前がそう言うなら、そうなのだろう」
曹操は苦笑した。
「わかった。孝父、その三つを陛下に奏上しよう。ただし、これはお前だけの提案ではない。俺もまた、朝廷の安定のために尽力する。その証として、俺からも一つ提案がある」
「何だ」
「これからの朝廷の人事は、陛下の裁可を経て行う。俺もお前も、勝手に人を任じたりはせぬ。これでどうだ」
高順は曹操の顔を見つめた。これは曹操なりの譲歩だった。これまで曹操は、朝廷の人事をほぼ独断で行ってきた。それを「陛下の裁可を経る」と言うことは、曹操自身の権力を朝廷に一部返上することを意味する。
「孟徳、本気か」
「ああ。俺もな、孝父と話して思うところがあった。天下を取るだけが全てではない。天下を治めることこそが、本当の意味での覇業だ。そのためには、俺一人の権力に頼るわけにはいかぬ」
曹操の声には、偽りのない本音が込められていた。高順は静かに頷いた。
「わかった。それでいこう」
翌日、正殿にて曹操と高順の連名による奏上が行われた。
学堂の設立、諸侯の封爵、北辺の征伐権、そして朝廷人事の陛下裁可。この四つの提案は、献帝によってすべて裁可された。さらに、献帝は高順の職務を解くことを拒否した。曹操が和睦の条件として「驃騎将軍、執金吾、北域大都護の罷免」を求めていたが、献帝は「高順は漢室にとって必要な将軍である」として、その地位をそのまま認めたのである。これは曹操への牽制でもあった。
「将軍、朕はそちを信じておる。これからも漢室のために力を貸してほしい」
献帝の言葉に、高順は深く平伏した。
「私はどこにも行きませぬ。生涯をかけて漢室と、そして陛下にお仕えいたします」
曹操は少し不満げな顔をしたが、それでも献帝の裁定を受け入れた。彼とて、朝廷を無視してまで高順の地位を剥奪するつもりはなかったのである。
こうして、洛陽での会議は恙なく終わった。しかし、これで全てが解決したわけではない。諸侯の封爵は、新たな火種を生むことにもなる。袁紹の死、劉備の独立、孫堅の野心。それらはすべて、これから起こる問題だった。
洛陽の南門の城楼。
曹操と高順は、並んで城壁の上に立っていた。眼下には洛陽の街並みが広がり、遠くには黄河の輝きが見える。春の風が二人の袍を揺らしていた。
「孝父、これからどうする」
「遼東に帰る。やるべきことが山ほどある」
「そうか。俺はしばらく洛陽に留まる。朝廷の再編と、南方の監視がある」
「孟徳、劉備には気をつけろ。あの男は虎だ」
「わかっている。だが虎といえども、牙が脆ければ大人しくする他あるまい」
高順は微かに笑った。それは曹操がかつて高順に言った言葉の、そのままの返しだった。
「俺が言ったことを覚えていたか」
「当然だ。友の言葉は忘れぬ」
二人はしばらく黙って、洛陽の街を見下ろしていた。やがて曹操が口を開く。
「孝父、お前はやはり変わらぬな。天下に興味がなく、ただ民のために生きる。俺には到底真似できぬ」
「俺もお前を真似できぬさ。天下を縦横し、詩を詠み、人を使う。それはお前の才だ」
「買い被りだ。俺はただ、自分の欲に正直なだけだ」
「それができるのが、お前の強さだ」
曹操は笑った。その笑顔は、黄河の中洲で見せたものと同じ、屈託のないものだった。
「孝父、また会おう」
「ああ、またな」
二人は互いに手を振り、別れた。敵であり、友である。その矛盾した関係は、これからも続いていくのだろう。しかしそれでよいと、高順は思った。天下に完全な平和などありえぬ。だが、争いを減らし、民が生きやすい世を作ることはできる。そのために曹操と手を結ぶことは、決して悪い選択ではなかった。
高順は城楼を下り、董媛と張五が待つ場所へと歩き出した。




