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社畜が目覚めたら将軍!? 史実(未来予知)で成り上がり、乱世を生き抜く  作者: 八月河
十六回 黎陽会戦不分決 一旨詔書穏帝威
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十六回 黎陽会戦不分決 一旨詔書穏帝威 一段

高順の小舟が中洲の岸辺に着くのと、曹操の舟が対岸を離れるのは、ほとんど同時だった。


高順は櫂を砂州の浅瀬に突き立て、舟を固定した。川底の砂は柔らかく、櫂は難なく深くまで沈む。董媛が軽やかに岸に飛び降りた。彼女の足が砂を踏む音は、ほとんど聞こえない。続いて張五が無骨な巨体を揺らしながら舟を下りる。その重みで舟が大きく傾いたが、張五は慣れたもので、難なく岸に上がった。高順もまた、漆黒の鎧に朱色のマントを纏った身をひるがえし、中洲の砂を踏みしめる。


中洲は思ったよりも広かった。十畝ほどの砂地に、丈の低い葦がところどころに生えている。春の増水で削られた岸辺には流木が打ち上げられ、乾いた川藻が絡みついていた。渡り鳥の白い羽が散らばり、水際には小さな貝殻が無数に砕けている。黄河が何百年もかけて堆積させた土砂が、この一時的な島を作り出しているに過ぎない。夏の増水期には水没するのだろう、地面には水位の跡がくっきりと刻まれていた。しかし今はまだ春。黄河は穏やかで、中洲は確かな陸地として存在している。


高順は対岸から近づく曹操の舟を見つめた。船首に立つ男の姿は、まだ遠目にはっきりとは見えない。だが、あの朱色の袍の翻り方は間違いなく曹操のものだった。かつて洛陽の焼け跡で、ぼろぼろの衣をまといながらも爛々と目を輝かせていたあの男が、今や天下の丞相として、この同じ舞台に立とうとしている。高順の胸に、奇妙な感慨が去来した。


乱世が始まって、すでに十余年。曹操は陳留で兵を挙げ、董卓を討つ檄を飛ばし、やがて献帝を奉じて天下に号令するまでに上り詰めた。高順はそのすべてを遠くから見ていた。時には敵として、時には同じ漢の臣として。洛陽が焼け落ちた時、曹操は酸棗の地で諸侯連合軍の一員として董卓と対峙していた。高順もまた并州の地で、呂布の下を去り、己の道を模索していた。それぞれの場所で、それぞれの戦いを経て、二人は今、この黄河の中洲で向き合おうとしている。


「夫君、お顔の色が優れませんが」


董媛が小声で囁いた。高順は小さく首を振る。


「平気だ。少し昔のことを思い出していただけだ」


「昔の、ですか」


「ああ。こうして曹操と向き合う日が来るとは、ずいぶん昔には想像もできなかった。時の流れとは不思議なものだな」


董媛は黙って夫の横顔を見つめた。彼女が知っている高順は、戦場において常に冷静沈着な将軍だった。だが時おり、こうして遠くを見るような目をすることがある。董媛はその理由を尋ねたことはない。尋ねる必要がなかったからだ。彼女が愛したのは、今ここにいる高順そのものだった。過去に何があろうと、それは夫の一部であり、受け入れるべきものだった。


「私も、この十余年を振り返ることがあります」


董媛は静かに言った。


「媛、お前もか」


「はい。父董卓が没してから、私はずっと自分の生きる道を探してきました。父の娘として生まれ、多くの人から恨まれ、疎まれ、それでも私自身は何もできなかった。あの時、私は誓ったのです。いつか誰かがこの国を立て直す時が来たら、私もその誰かの力になりたいと。それが、夫君だった」


高順は董媛の手をそっと握った。言葉は要らなかった。


張五は二人のやり取りを聞きながらも、一切表情を変えずに対岸の曹操の舟を注視していた。彼の役目は将軍とその妻を守ることである。感傷に浸る暇などなかった。


曹操の舟がゆっくりと岸辺に近づいてきた。


漕ぎ手は許褚。その巨躯が一掻きするたびに、小舟は水を切って進む。許褚の二の腕は丸太のように太く、肩から背中にかけての筋肉は鎧の上からでもその異様な発達ぶりがわかる。曹軍きっての猛将であり、曹操の護衛役として常に側近くに仕える男である。彼が櫂を握る手には一瞬の弛みもなく、常に周囲を警戒する目だけが忙しなく動いていた。


船首に立つ曹操は、すでに高順の姿を認めているようだった。彼は微かに笑っている。高順にはそう見えた。その後ろには若い将が控えている。まだ少年の面影を残したその姿は、曹操の子息の誰かだろう。曹昂か曹丕か、あるいは曹彰、曹植か。高順は事前の情報から、おそらく曹植であろうと見当をつけていた。


両者の距離は、およそ五十歩。両岸では合わせて百万以上の将兵が、固唾を呑んで見守っている。北岸には高順の六十万。南岸には曹操の三十五万。渡しの周辺では騎兵がいつでも出撃できるよう馬の手綱を握っている。黄河の水面に映る軍旗の数は数え切れず、春の風に棚引く旗指物が、両軍の緊張をそのまま映し出しているかのようだった。


高順はゆっくりと歩き出した。一歩、二歩。砂を踏む足音が、自分の鼓動と重なる。後ろからは董媛と張五が続く。董媛の足取りは軽く、張五の足取りは重い。その違いが、かえって高順の心を落ち着かせた。


曹操もまた、舟を下りて歩き始めた。彼の後ろには許褚と曹植が続いている。許褚はすでに全身の筋肉を緊張させ、いつでも主君を守れるよう周囲に目を配っていた。その右手は常に剣の柄の近くにあり、一瞬で抜き放てる体勢を崩さない。曹植は父の背中を見つめながら、緊張した面持ちで歩いている。まだ十八の若者には、この場の重圧は大きすぎるのかもしれない。しかし彼の目には、父と同じ好奇心の光も宿っていた。


三十歩、二十歩、十歩。


ついに二人は、互いの顔がはっきりと見える距離にまで近づいた。


曹操の顔は、十余年の歳月を経て、すっかり老練の相を呈していた。髪には白いものが混じり、額の皺は深い。しかしその目だけは、噂に聞く通り爛々と輝き、相手のすべてを見透かそうとする鋭さを湛えている。身に纏う朱色の袍は丞相の正装であり、その立ち居振る舞いには長年朝廷の中枢に座ってきた者だけが持つ威厳が備わっていた。


曹操が先に口を開く。その声は風に乗って、驚くほどよく通った。


「孝父。来たか、此度は貴様を討つ連軍の盟主としてこの場に立っておる。わかっておるな?」


形式的な挨拶だった。しかしその口調には、単なる儀礼とは異なる熱がこもっている。曹操はこの瞬間を心から楽しんでいるのだ。当代きっての英雄と称される男と、こうして直接向き合うこと。戦場ではなく、言葉を交わす場で。それは曹操にとって、何物にも代えがたい興奮だったに違いない。


高順もまた、平静を装って応じた。彼は拱手し、驃騎将軍としての格式を崩さぬまま簡潔に名乗った。


「ふん。余計な事をしよって」


「ははは、貴様が強過ぎるせいだろ。それにこうでもせねば皆が納得せぬ」


曹操は笑った。その笑顔には、敵将に対する警戒や敵意よりも、むしろ好奇心のようなものが浮かんでいる。


「孝父、六十万の大軍を預かる身でありながら、よくぞこのような場に出向かれた。その胆力、敬服に堪えぬ。普通の将ならば、敵の誘いに乗って単身出向くなど、命知らずもいいところだ」


「丞相とて同じこと。俺を誘き出すために和睦を申し出たというなら、それもまた命知らずであろう」


「手厳しいな。だが、まったくもってその通りだ」


曹操は苦笑しながらも、その目はますます輝きを増していた。彼が高順という男を「面白い」と思っていることは、誰の目にも明らかだった。


「して、そちらのお二方は」


曹操が董媛と張五に目を向けた。


「妻の董媛と、配下の張五である」


「ほう、妻を伴ってこられたか。しかも、董媛どのといえば、亡き董卓どののご息女ではないか」


曹操の声には、あからさまな興味が混じっていた。董媛は董卓の娘である。天下を騒がせた暴虐の太師の血を引きながら、今は高順の側室として戦場に立つ女。曹操が興味を持たぬはずがなかった。


「丞相は、父のことは無論ご存知でしょう。私は父の娘として生まれ、多くの誹りを受けてきました。しかし今は、驃騎将軍の妻としてこの場に立っております」


董媛は静かに、しかし凛とした声で答えた。その目には、過去のことを詮索されることへの怯えも、開き直りもなかった。ただ事実を淡々と述べたまでだ、という態度である。


「見事なまでの凜々しさだ。董卓どのには董媛どのという名玉がおられたか。孝父、そちの見る目の確かさには舌を巻く」


「丞相こそ、卞氏という賢夫人をお持ちではないか。それに、数多の側室と多くの御子息にも恵まれていると聞く」


「はは、よくご存知だ。だがな、孝父殿。私の妻たちは皆、後方で私の帰りを待つだけだ。戦場に妻を伴う。それは私にはできぬことだ。できる男が羨ましい」


曹操はそう言って、もう一度董媛を見た。董媛は微かに会釈を返したが、口は開かなかった。彼女はこういう場では余計なことを言わぬ女だった。


「して、こちらは息子の曹彰、字は子文。そしてこの巨漢は許褚、字は仲康。私の護衛役だ」


曹操が紹介すると、曹彰が静かに一礼した。その動作には育ちの良さが滲み出ている。面差しは父・曹操に似て鋭敏だが、目元にはまだ少年の面影が残っていた。許褚は無言で頭を下げたが、その眼は常に高順の一挙一動を見逃すまいと光っている。全身から発せられる武人の圧力は、百戦錬磨の張五でさえ、わずかに身構えるほどのものだった。


「子文はまだ十三だが今日は歴史的な場ゆえ、後学として連れてきた。孝父、構わぬか?」


「もちろんだ。若き才能が立ち会うことは、この場にふさわしい」


高順はそう答えながら、内心では曹操の真意を探っていた。曹植はまだ若く、武芸に秀でているとは聞かぬ。許褚は天下に名高い猛将だが、董媛と張五が二人がかりで抑えれば、少なくとも曹操に手を出させる隙は与えまい。曹操もまた、本気で話し合いをするつもりなのだ。


だが、それだけではないはずだ。曹操がこの場に息子を連れてきた意味は、単なる立会人以上のものがある。おそらくは後継者教育の一環として、天下の英雄との対話を子に見せておきたいという親心だろう。あるいは、曹植自身の希望かもしれない。詩を愛する若者が、歴史的な会見に立ち会いたいと願うのは自然なことだった。高順はそう考え、曹植に微笑みかけた。


「子文どの、この場に立ち会うことは此の先に、何かをもたらすかもしれないな」


曹植は驚いたように顔を上げた。まさか初対面の上将軍から、そんな言葉をかけられるとは思わなかったのだろう。


「上将軍は、兵法韜略をお読みになりますか」


「お父上のおかげで忙しくてなかなか読めておらぬ。だが、時があれば目を通そうとしておる」


「ありがたきお言葉、心に刻みます」


曹彰は深く一礼した。その目には、これから始まる会見への期待と緊張が渦巻いている。曹操はそんな息子の様子を横目で見ながら、満足げに小さく頷いた。


中洲の中央に、簡素な茣蓙が敷かれていた。事前に両軍の使者が用意を整えたものである。両軍の兵がそれぞれ一つずつ茣蓙を持ち寄り、並べて敷いたのだろう。少し色合いの異なる二枚の茣蓙が、ちょうど黄河の流れのように中央で接している。高順の側の茣蓙は遼東産の草で編まれており、曹操の側の茣蓙は許都周辺の蒲で編まれていた。二枚の茣蓙の継ぎ目が、あたかも両者の勢力圏の境界を示しているかのようだった。


曹操と高順は茣蓙を挟んで向かい合って座った。董媛は高順の左後方に、張五は右後方に控える。曹植は曹操の左後方に座し、許褚は右後方に立ったまま動かない。六人の男女が、この小さな砂州の上で天下の行く末を決する。両岸から見れば、豆粒のような六つの人影が、黄河の真ん中で向き合っているだけに見えるだろう。しかしその豆粒が、百万の兵と数千万の民の命運を握っているのだった。


曹操がまず、持参した酒壺を取り出した。青磁の壺には、鈍い光沢があった。


「これは洛陽から取り寄せた美酒だ。毒は入っていない。念のため、私が先に飲もう」


そう言って、曹操は杯に酒を注ぎ、一気に飲み干した。その喉仏が上下する様を、高順は黙って見つめている。曹操は空になった杯を高順に差し出した。


「さぁ、孝父飲め」


高順は杯を受け取り、まずは鼻に近づけて香りを嗅いだ。甘い穀物の香りと、かすかな薬草の匂い。枸杞か何かが混ぜられているのだろうか。毒が混ぜられていれば、鼻をつく異臭があるはずだが、それは感じられない。次に、杯の縁に残った酒の滴を指で掬い、舌の先で味わった。


「よかろう」


「当然だ。貴様を殺すためにここへ来たのではない。話をするために来たのだ。話をするのに毒は要らぬ」


曹操は少し不機嫌そうに言ったが、それは演技だった。彼とて、高順が用心深く確認するであろうことは織り込み済みだったに違いない。


高順もまた、持参した酒壺から杯に注ぎ、口をつけた。


「こちらは河北の酒だ。北の地は寒いゆえ、酒は強い。飲まれるか」


「ほう、それは楽しみだ」


互いに杯を交換し、酒を酌み交わす。曹操が高順の酒を口に含むと、その強さに目を丸くした。


「これは強い。まるで火を飲み込むようだ。北の男たちはこれを日常的に飲んでいるのか」


「冬はこれがなければ凍え死ぬ。酒は贅沢ではなく、生きるための知恵だ。薊県では、氷点下三十度を下回る夜もある。そんな夜に薄い酒を飲んでも、体は温まらぬ」


「なるほど。南の酒は水のように薄いが、北の酒は命そのものか。面白いことを聞いた」


曹操はしきりに感心しながら、二口、三口と酒を味わった。その横顔には、丞相としての仮面ではなく、純粋に知的好奇心を満たされた男の表情があった。彼はこういう男なのだ。権力者である前に、何よりも「知ることを楽しむ」人間。新しい知識、新しい人、新しい発見。それらを心から愛している。だからこそ、荀彧や郭嘉といった有能な人材を惹きつけ、活用することができるのだろう。


「孝父、この酒は薊県のどのあたりで作られている」


「薊県の北、燕山山脈の麓にある小さな村で作られている。水が良いのだ。岩清水を使い、冬の寒さを利用して熟成させる。製法は、すまぬ、秘密だ」


「惜しいな。和平が成ったら、その酒を許都にも送ってはもらえぬか」


「考えておこう」


「交渉の種にするつもりだな。食えぬ男よ」


曹操は笑った。その笑顔には、もはや敵将に対する警戒の色は薄い。高順という男の「面白さ」に、すっかり魅了されているようだった。


曹操は杯を置き、あらためて高順に向き直った。その表情が、先ほどまでの親しげなものから、次第に引き締まっていく。ここからが本題だ。高順も居住まいを正した。


「孝父、見事な采配である! 儂の命もここまでかと幾度となく思ったぞ!」


曹操の口調は一転して、戦場で鎬を削った者同士の率直な讃辞になっていた。彼の目には、先ほどまでの好奇心に加えて、明確な敬意が浮かんでいる。


「開戦以来、そちの布陣は一分の隙もなかった。黄河を挟んで三月、俺は攻めあぐねるばかりだった。張遼の騎兵は疾風の如く、華雄の歩兵は鉄壁の如く、そしてそちの本陣たる陥陣営。あれはまさに動く城塞だ。どれを取っても、俺の知る最強の軍だった」


曹操の賛辞は、単なる社交辞令ではなかった。彼は三月に及ぶ睨み合いの中で、何度も高順の陣に攻め入ろうと試みたのである。開戦直後、夏侯惇に命じて黄河上流からの渡河を試みたが、張遼の騎兵に側面を突かれて潰走した。曹仁に夜襲を命じた時は、華雄の歩兵が待ち構えており、さんざんに矢を浴びせられた。楽進には下流からの奇襲を命じたが、張燕の遊軍に行く手を阻まれ、一歩も前に進めなかった。そして何より、高順自らが率いる陥陣営。あの漆黒の重装歩兵たちが陣形を組んで進軍してくる様は、曹操自身が「これ以上の恐怖は知らぬ」と後に語ったほどだった。


「それはこちらも思ったぞ」


高順は曹操の賛辞を素直に受け止めた。彼とて、曹操の軍の強さを認めていたのである。


「孟徳、お前の軍は強かった。初日の激突で、俺はお前を討ち損じた。あの時、もう少し踏み込んでいれば」


高順は言葉を切った。初日の激突。あの日、両軍は黄河を挟んで激突し、高順自らが曹操の本陣に肉薄したのである。陥陣営の重装歩兵が曹操の親衛隊を突破し、高順の槍が曹操の喉元まであと三尺のところまで迫った。しかし夏侯惇と典韋が身を挺して曹操を守り、高順は討ち取るには至らなかった。夏侯惇は左目に矢を受け、典韋は三ヶ所の深手を負いながらも、最後まで曹操を守り抜いたのである。


「ははは、あの時は冷や汗をかいた」


曹操は笑い飛ばしたが、その目は笑っていなかった。彼もまた、あの日のことを鮮明に覚えているのだ。


「夏侯惇が片目を潰され、典韋が三ヶ所の深手を負った。そちの槍が、あと三尺届いていれば、今頃俺はこの世にいなかっただろう。あれは、本当に肝が冷えた。久しぶりに『死ぬかもしれぬ』と思った。あれほどまでに俺を追い詰めた武将は、呂布以来だ」


「呂布以来、か」


高順は小さく苦笑した。彼はかつて呂布の配下だった。天下無双の飛将軍。その武勇は確かに高順も認めるところだったが、同時にその欠点も誰よりよく知っていた。


「俺は呂布の下で戦を学んだ。将たる者は、ただ強ければよいというものではない。兵を活かし、民を守り、勝つべき時に勝ち、退くべき時に退く。それを教えてくれたのは、ある意味であの男だった」


「孝父、お前は呂布をどう思っていた」


「強かった。しかし、だからこそ韜略がなかった。あの男には武以外の何もなかった。それは悲しいことだ」


高順の声には、かつての主君に対する複雑な感情が滲んでいた。尊敬と、哀れみと、そして諦め。それらが混ざり合った声だった。


「俺も似たようなものかもしれぬな」


曹操は自嘲気味に言った。


「詩を作り、人を集め、天下を治める。それでいて結局は、武力でしか天下を取れぬ。ならば俺は呂布と同じ穴の狢か」


「違うな。孟徳、お前は人の心を知っている。それが呂布との決定的な違いだ」


「買い被りだ。俺は人の心を知らぬ。だからこうして、お前という男を直接見に来たのだ。まったく理解できぬ相手。それがお前だ、孝父」


曹操の言葉には、本音と社交辞令が入り混じっていた。しかし「お前という男を直接見に来た」という部分だけは、明らかに本心だった。


「孟徳、挨拶はここまでにして和睦の条件は何だ?」


高順が本題に切り込んだ。回りくどい前置きはもう十分だった。曹操は一瞬、面食らったような表情を見せたが、すぐに苦笑いを浮かべる。


「相変わらずだな、孝父。お前という男は、いつもそうだ。俺の調子を狂わせてくれる」


「それがどうかしたか」


「いや、むしろ心地よい。この曹孟徳を相手に、ここまで素っ気ない態度を取れる男は天下広しといえどもお前くらいだ」


曹操の言葉は本心だった。彼の周りには常に、おもねる者、恐れる者、利用しようとする者しかいない。荀彧や郭嘉のような腹心でさえ、曹操に対しては一定の距離を置き、時に諫言する時も言葉を選ぶ。天子ですら、曹操の前では常に緊張している。そんな中で高順だけは違う。この男は最初から最後まで、曹操を「曹操」として扱う。丞相としても魏公としてもなく、ただ一人の人間として。それが曹操には何よりも新鮮だった。


「孝父、お前は遼東郡王にして驃騎将軍、執金吾、更には冀幽并三州都督軍事にして北域大都護である」


曹操は居住まいを正し、本題に入った。その声は先ほどまでの親しげな口調から、次第に政治的駆け引きの色を帯び始めている。彼の目は高順の一挙一動を見逃すまいとし、言葉の一つひとつに計算が込められていた。


「この天下に於いて、袁紹が失勢した今、お前が最大にして最強の諸侯だ。遼東から冀州、并州、幽州に至るまで、その版図は俺のそれを遥かに凌ぐ。兵力は百万。しかもその軍は、そちが直々に鍛え上げた精鋭揃い。そんな貴様を、天下が放っておく訳もあるまい?」


曹操の口調には、高順の立場を正確に把握した上で、「天下が放っておく訳もあるまい」という言い回しを用いた。これは単なる脅しではない。曹操自身が「天下」の代弁者として、高順を討つ大義名分を既に手中にしているという含みだった。聞きようによっては、「俺がお前を討つのは当然のことだ」と言っているに等しい。


高順は少しも動じなかった。むしろ、口元に薄い笑みさえ浮かべている。


「ほぅ? 丞相のお前さんにも、俺が恐ろしいか」


「如何にも。それ故に手段を選ばずに仇敵である劉備と手を結び貴様を討つ事にした。それほどお前は恐ろしい敵なのだ」


曹操はさらりと言った。劉備と手を結ぶ。それは曹操にとって、どれほどの屈辱だったか。劉備はかつて曹操の客人として許都に滞在しながら、「衣帯の詔」と称して密かに董承と結び、曹操暗殺を企てた男である。その企みが露見した後、劉備は徐州に逃れて曹操に反旗を翻し、関羽、張飛と共に激しく抵抗した。曹操は徐州攻めで劉備を破ったものの、結局は取り逃がした。その劉備と手を結ぶことは、曹操の自尊心を大きく傷つける決断だったはずだ。


しかし曹操は、それだけの代償を払ってでも高順を討つ価値があると判断したのである。それほどまでに高順は、曹操にとって恐ろしい敵だった。


高順はこれを鼻で笑い、切り捨てた。


「ふん、俺の事なぞ放っておけば良いものを」


この一言に、曹操は絶句した。


彼はこれまで数多の英雄たちと渡り合ってきた。袁紹は名門の誇りを背負って天下を狙った。袁術は玉璽を手にして皇帝を称した。呂布は武勇一つで天下を取ろうとした。劉備は漢室復興の大義を掲げた。彼らはみな、天下を狙う野心家だった。だから曹操は彼らと戦うことができた。野心と野心のぶつかり合い。それが戦争というものだ。


しかし高順は違う。この男は遠く遼東の地で、鮮卑や高句麗を討ち、烏桓を従え、着々と勢力を拡大しながら、それでいて一度も中原に兵を進めようとしない。青州や徐州を手に入れたのも、他者から攻め込まれたからであり、自ら望んで攻め取ったわけではない。天下を取るためではなく、ただ自分の平穏を守るために戦っている。それが曹操にはどうしても飲み込めなかった。


「孝父、何故だ? 軍を率いれば天下を縦横し、殿上に登れば俺にも劣らぬ才を持つお前は、何故この天下に興味を示さぬ?」


曹操の問いには、本物の困惑と、そしてわずかな苛立ちが混じっていた。


「孝父、お前には欲がないのか」


「欲ならあるさ。家族と平穏に暮らしたい。民が飢えず、凍えず、戦に怯えずに生きていける世を作りたい。俺の欲はそれだけだ」


「それが欲のない証拠だ。天下を取ろうと思えば取れる力を持ちながら、それを望まぬ。それはもはや『欲がない』と呼ばずして何と呼ぶ」


曹操は杯に残った酒をぐいと飲み干し、息を吐いた。


高順は目を瞑った。曹操の問いは本心からのものだろう。だからこそ答えるのが面倒でもあった。話してもわかるまい、という諦観が胸の奥に広がる。だが、彼は答えることを選んだ。この場で言葉を濁せば、曹操は必ずその隙を突いてくる。そういう男なのだ。


「我が志は、斉桓公、周公旦の如き。天下紛争。群雄逐鹿だろうがなんだろうが俺には何の関係もないさ。この国が漢であり、天子が鎮座し、我らが天下を主宰すればそれで良い。それがこの高孝父の誓いであるからだ」


斉桓公、周公旦。春秋戦国の覇者と、周王朝を支えた聖臣の名である。斉桓公は春秋五覇の筆頭でありながら、周の天子を尊重し、自らは覇者に留まった。周公旦は幼い成王を補佐し、天下を平定しながら、成人した成王に政権を返還した。どちらも天下を取らず、天子を補佐することで乱世を治めた伝説的な存在だった。


高順がその名を口にしたことは、彼が帝位を望まず、あくまでも漢室の臣下として天下の安定を図るという意思表示に他ならない。しかし曹操は、この言葉を文字通りには受け取らなかった。彼は高順の目を見つめ、その奥に潜む複雑な光を読み取ろうとしていた。


半分は嘘、半分は本当である。


高順は転生以来、安穏とした生活を求めていた。静かに生き、衣食住に困らない程度の収入があ李争いとは無縁の日々を送ること。それが彼の偽らざる本心だった。それを乱しに来たのが曹操である。それに全力で対処したのが今回の戦いである。高順にとって、この戦争は「天下取り」のための戦いではなく、自分の平穏を守るための防衛戦だったのだ。


しかし、もう半分は嘘だった。高順にはわかっている。このままいけば、何れ国を建てねば天子にその気が無くとも自分の首を刎ねる事になるだろう。斉桓公や周公旦のように「臣下のまま天下を支える」という理想は、すでに過去のものなのだ。この乱世において、強大すぎる力を持つ者は、望むと望まざるとに関わらず、いずれ頂点に立たざるを得なくなる。それを高順は誰よりもよく知っていた。長年の戦の中で培われた勘が、歴史の必然を彼に教えているのである。


曹操はしばらく沈黙した。黄河の水音だけが、二人の間を満たしていた。


「孝父、お前は本当にそう思っているのか」


曹操の声は、先ほどまでとは打って変わって静かだった。そこには丞相としての威厳も、丞相としての傲りもない。ただ一人の男としての、純粋な問いかけがあった。


「そうだ」


「嘘ではないな」


「嘘ではない」


高順は曹操の眼を真っ直ぐに見つめ返した。曹操はしばらくその眼を覗き込み、やがて深く息を吐いた。


「そうであろうな。お前の眼は嘘をついていない。だがな、孝父。その誓いは、いずれお前自身を苦しめることになる」


曹操の言葉には、奇妙な優しさが混じっていた。彼は自分の経験から、高順の未来を予見しているのだろう。曹操自身もまた、かつては漢室を支える一柱となることを夢見た若者だった。洛陽の北部尉として法を厳格に執行し、宦官の叔父をも容赦なく打ち据えた。黄巾の乱では討伐軍に参加し、董卓の専横には反旗を翻した。若き日の曹操は、まさに漢室の忠臣だったのである。


しかし乱世が彼を変えた。諸侯たちが私利私欲で争う中で、曹操は次第に手段を選ばなくなった。徐州での虐殺、袁紹との決別、献帝の奉戴。それらはすべて、天下を平定するための手段だったが、同時に彼の「漢室の忠臣」としての純粋さを蝕んでいった。そして気がつけば、彼は漢室の忠臣ではなく、漢室を利用する権力者になっていたのである。


「天下はお前を放っておかぬ。お前が望まずとも、お前の周りがお前を王にし、お前を帝にする。それが人の世の業というものだ」


曹操は杯に残った酒を、ぐいと飲み干した。


「俺もそうだった。最初は漢室を守るつもりだった。董卓を倒し、天下を平定し、再び平和な世を作る。それだけを考えていた。だがな、気がつけば俺は丞相になり、魏公になり、いまや天子を奉じて天下に号令する身だ。俺は変わった。変わらざるを得なかった」


曹操は顔を上げ、高順を見つめた。その目には、不思議な悲しみが浮かんでいる。


「そして孝父、お前もいずれ変わる。変えられる。それが恐ろしくはないか」


高順は答えなかった。答える必要がなかったからだ。曹操の言うことは、高順自身がすでに幾度も自問してきたことだった。変わること、変えられること。その恐ろしさを知らぬわけではない。遼東から身を起こし、鮮卑を討ち、高句麗を平らげ、烏桓を従え、そのたびに領土は広がり、権力は増大した。それは高順が望んだことではなかったが、結果として彼は「天下最大の諸侯」になってしまった。このままいけば、いずれ国を建てねばならぬ時が来るだろう。天子にその気がなくとも、部下たちが黙ってはいまい。歴史の必然が、高順を帝位へと押し上げようとするだろう。


しかし、それでも高順は、曹操とは違う道があると信じたかった。いや、信じたいのだ。それがどれほど困難な道かを知りながら、それでもなお。


「孟徳、お前は優しい男だな」


高順はぽつりと言った。


「何?」


「俺にそんなことを言うのは、俺を友と思っているからだろう。敵の大将に、その先の苦しみを警告してやるなど、普通はせぬ」


曹操は面食らったような顔をし、それから声を上げて笑った。その笑い声は黄河の水面に響き渡り、遠くの水鳥が驚いて飛び立った。


「ははははは! 友か! 孝父、お前は変わらぬな!」


笑いながらも、曹操の目は笑っていなかった。彼は高順の言葉の中に、自分でも気づいていなかった真情を見出したのかもしれない。友。それは曹操が長い間、持つことのできなかったものだった。荀彧は臣下であり、袁紹はかつての盟友にして敵であり、劉備は裏切り者だった。同じ高みに立ち、互いを認め合い、本音で語り合える相手。曹操にとって高順は、まさにそういう存在になりつつあった。


「しかし孝父、友だからこそ言う。お前はこの先、必ず苦しむ。お前の志は美しい。斉桓公、周公旦。確かに立派な理想だ。だがこの乱世で、その理想を貫くことがどれほど難しいか、俺はよく知っている」


「俺も知っているつもりだ」


「ならばよい。覚悟があるなら、それでよい」


曹操は笑いを収めると、再び居住まいを正した。ここからが本題の核心である。和睦の条件。それをどう提示するかで、この会見の成否が決まる。


「孝父、和睦の条件を提示する。并州、冀州の兵権を朝廷に返上してもらう。そして驃騎将軍、執金吾、北域大都護の職も罷免だ。これがこちらの条件である」


曹操の提示した条件は、高順の軍事力を大幅に削減し、朝廷の枠組みの中に押し込めることを目的としていた。并州と冀州の兵権を返上すれば、高順が直接指揮できる兵力は遼東と幽州の自前の軍だけになる。さらに驃騎将軍と北域大都護の肩書きを失えば、形式的には曹操よりも格下となる。これは実質的な高順の弱体化案だった。


并州はもともと丁原の地盤であり、高順が引き継いだ土地である。ここには優秀な騎兵が多く、張遼をはじめとする并州出身の将たちが高順を支えていた。冀州は袁紹から奪った土地であり、河北の穀倉地帯として知られる。この二州の兵権を手放すことは、高順にとって大きな痛手となる。


しかし曹操は、もう一つ別の狙いを持っていた。この条件を高順が受け入れるかどうか。それ自体が、高順の「本気度」を測る試金石だったのである。もし高順がすんなりと受け入れれば、それは彼が本当に天下に興味がないことの証明になる。逆に、強く抵抗すれば、その「天下に興味がない」という言葉が偽りだったことになる。曹操は高順の出方を見て、この男の本心を見極めようとしていた。


高順はしばし考え込んだ。幕僚たちと事前に練り上げた対応策が頭をよぎる。賈詡は言った。「曹操は兵権の返上を求めてくるでしょう」。沮授は言った。「冀州の兵権は大きすぎる。曹操がそれを許すはずがない」。田豊は言った。「代わりに、北辺の征伐権を確保せよ」。董昭は言った。「食邑の拡大を条件にせよ。それが朝廷にも受け入れられやすい」。


幕僚たちの読みは、すべて的中していた。高順は内心で彼らに感謝しつつ、曹操の眼を真っ直ぐに見つめた。


「良いだろう。并州と冀州の兵権は返上する。驃騎将軍と北域大都護の職も辞そう。ただし」


「ただし?」


「今後、北で戦が起これば、その征伐したところまで全て俺の食邑とする。これは譲れぬ」


曹操は目を細めた。高順の言う「北での戦」とは、鮮卑や烏桓、高句麗といった異民族との戦いを指している。それらの地を征伐するたびに領土が広がるとなれば、高順の勢力はむしろ拡大し続けることになる。并州と冀州の兵権を手放しても、新たに得る領地で十分に埋め合わせができる。そういう計算だった。


「孝父、お前は欲がないように見えて、実に上手く立ち回る。なかなか食えぬ男よ」


「買い被りだ。俺はただ、民を守りたいだけだ。北の異民族を討ち、辺境の地に秩序をもたらす。それは漢室のためでもあろう」


「わかった。その条件を飲もう」


曹操が承諾したのには二つの理由があった。一つは、高順が北辺の防衛に専念するなら、曹操は中原の統一に集中できること。高順が北で異民族と戦い続ける限り、曹操の背後を突くことはできない。むしろ、その間に曹操は南方の劉表や孫策、西方の馬騰や韓遂を片付けることができるのだ。


もう一つは、この条件を飲めば和睦が成立し、少なくとも当面の間は高順と戦わずに済むことである。曹操にとって、高順との戦いはすでに割に合わないものになっていた。三月の対陣で失った兵糧と時間は莫大であり、連合軍の結束も綻び始めている。ここで和睦を結び、軍を再編する時間を稼ぐことこそが、曹操にとって最も合理的な選択だった。


「では、これで話はまとまったな」


曹操が手を差し伸べた。その手は皺が多く、指の関節は太い。詩を書き、剣を振るい、数多の戦場を生き抜いてきた手だった。高順もまた、その手を取る。高順の手もまた、槍を握り続けてきた武人の手である。二人の手はしっかりと握り合わされた。


「ああ、和睦成立だ」


二人が固い握手を交わした瞬間、中洲を吹き抜ける風がひと際強くなった。黄河の水面がきらめき、遠くで鳥が鳴く。董媛と張五は無言で主君を見守り、曹植は感動に目を潤ませていた。許褚だけは最後まで警戒を解かず、高順の一挙一動を見つめていたが、それでもその巨体から発せられる殺気は、いつの間にか薄れていた。


曹操が高順の手を握ったまま、低い声で言った。


「孝父、一つだけ聞いておきたい。お前はこの和睦が、いつまで続くと思う」


「さてな。だが、少なくとも俺が生きている間は、お前と戦うつもりはない」


「それで十分だ。俺も、お前と戦いたくはないからな」


二人は同時に手を離した。その仕草は、互いへの敬意と、そして奇妙なほどの信頼感に満ちていた。敵でありながら、友である。そんな矛盾した関係が、今この黄河の中洲で生まれようとしていた。


董媛がそっと高順の袖を引いた。


「夫君」


「ああ。どうやら、まだ終わりではないようだ」


高順は上流の方角を見つめた。黄河の水面に、一艘の官船が近づいてくるのが見える。船には朝廷の旗印が翻っていた。舳先に立つのは、黄門侍郎の衣装をまとめた使者。誰もが予想しなかった、第三の訪問者がこの場に現れようとしていたのである。


「孟徳、あれを見ろ」


曹操も上流に目をやった。彼の顔から、先ほどまでの親しげな表情が消え、丞相としての冷静な仮面が戻ってくる。


「朝廷の旗。黄門侍郎か。これはまた、妙なところで鉢合わせしたものだ」


「お前も知らぬのか」


「ああ。これは私の差し金ではない。どうやら陛下が、いや、文若あたりが動いたか」


二人は顔を見合わせ、同時に苦笑した。和睦を結ぼうとしている矢先に、天子の使者が現れる。これがどのような意味を持つのか。二人の頭脳は、すでにその先を読み始めていた。

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