第十五回 諸侯連合討遼東 高順孤軍戦黎陽 四段
開戦初日の戦いは、両軍に大きな傷跡を残した。
黎陽城の城壁の上では、高順が戦死者の名簿を手に、ただ一人夜風に当たっていた。二十名を超える将たちが一日で戦死した。李楽、杜長、王當、楊鳳、左髭丈八いずれも黒山賊や白波賊の討伐時に吸収し、自ら鍛え上げてきた将たちだった。元は賊徒と呼ばれた者たちだが、高順の法と秩序に従い、規律ある兵団へと生まれ変わり、最後は漢の将として戦場で散った。彼らの犠牲を無駄にはできぬ。高順は名簿を胸にしまい、執務室へと戻った。
執務室には賈詡、沮授、董昭の三人が待っていた。卓の上には黎陽周辺の地図が広げられ、連合軍の布陣を示す駒が置かれている。高順は地図を見つめながら、静かに口を開いた。
「正面からの戦いでは、数で勝る敵に押し切られる。何か策はないか」
賈詡が地図の一点を指さした。
「連合軍の弱点は、その結束力の脆さです。袁紹、曹操、孫堅、劉備、馬騰彼らは高順を討つという一点では一致しておりますが、それぞれの思惑は異なる。袁紹は冀州奪回、曹操は朝廷の主導権、孫堅は江南の防衛、劉備は漢室再興、馬騰は西涼の誇り。この思惑の違いを利用します。特に袁紹と曹操の間には、官渡以来の深い確執があります。両者の連携は決して磐石ではありませぬ」
沮授が続けた。彼はかつて袁紹の幕僚として、その性格を誰よりも熟知している。
「袁紹は自尊心の塊です。官渡で曹操に敗れた屈辱を、決して忘れてはおりません。曹操と共に戦うことは、袁紹にとっては耐えがたい屈辱のはず。表向きは連合軍として結束していても、内心では曹操に出し抜かれまいと必死になっている。その心理的な隙を突きます」
「具体的には」
「袁紹に対してだけ、あえて退路を開けて見せます。曹操は必ず袁紹が脱落することを警戒し、自軍の配置を変えるでしょう。その混乱に乗じて、曹操の本陣を叩くのです」
高順はしばらく考え込んでいたが、やがて静かに頷いた。
「よかろう。明朝、陥陣営の精鋭を出す。騎兵に当たらせ、敵の注意を正面に引きつける。その間に、張遼と華雄を左右から迂回させ、曹操の側面を突く。曹操は私が正面から来ると読むはずだ。その読みを逆手に取る」
同じ頃、黄河の対岸に布陣する連合軍の本営でも、曹操は眠らずにいた。彼は幕僚たちから上がってきた戦死者の集計を自ら確認し、深いため息をついた。四十万の軍勢のうち、初日だけで優に一万を超える兵が失われていた。しかも、その大半は西涼の馬騰軍と孫堅軍に集中している。曹操自身の軍勢の被害は比較的軽微だったが、それは彼が本気で攻めていなかったからに他ならない。
「孝父め、相変わらずだな。たった十万の兵で、よくもまあここまで持ちこたえる」
曹操は苦笑しながら、荀彧に言った。荀彧は静かに答える。
「高順殿は最初から、孫堅と馬騰に的を絞っていたのでしょう。西涼兵は精強ですが統制に欠け、孫堅は勇猛ですが短気です。そこを正確に突いてきました。我が軍への攻勢が限定的だったのも、丞相の本気を測りかねている証拠です」
「孝父は私のことを誰よりも知っているからな。私がいつ本気を出すか、それを探っているのだろう。ならば、こちらも黙って見ているわけにはいかぬ」
曹操は卓の上に広げられた兵站の報告書を見つめた。四十万の大軍を養う兵糧は、日を追うごとに底をつきかけている。黄河を越えての補給は思うように進まず、洛陽からの輸送隊はしばしば高順軍の遊撃に襲われた。焦燥に駆られた曹操は、許都で後方支援と行政を取り仕切る腹心・荀彧へ、婉曲な撤退を諮る書状を送った。
「兵糧は底をつきかけ、敵は動かぬ。一度許都へ退き、孫堅に備えるべきではないか」
数日後、荀彧からの返書が届いた。曹操は震える手でそれを開き、一読した。その返書は、主君の弱音を容赦なく叩き斬るものであった。
「かつて楚漢の争いにおいて、項羽と劉邦は滎陽で長く対峙し、共に兵糧に苦しみました。しかし、劉邦は決して退かなかった。退けば全軍が崩壊することを知っていたからです。丞相、今は耐える時です。高順の陣容がどれほど強固であろうと、必ず変事が起きます。その一瞬の隙に、丞相の奇策を用いる時が必ず来るのです。決して退かず、じっと機会をうかがうべきです」
曹操は荀彧の書状を握りしめ、血のにじむような思いで前線に留まることを決意した。
連合軍の陣営では、初日の戦いを終えた諸侯たちの間に、高順への畏敬の念が広がりつつあった。袁紹は自らの天幕で、幕僚たちと共に戦況を分析していた。
「高順は強い。想像以上だ。わずか十万の兵で、我々四十万を相手に互角以上に戦っておる。これはもはや武勇だけではない。戦術、兵站、士気のすべてにおいて、我々は後れを取っているのかもしれぬ」
袁紹の声には、驚きと悔しさが入り混じっていた。幕僚の一人が口を開いた。
「主公、高順はまだ本気を出していないのではありませんか。奴には匈奴の単于となった呂布がいます。もし呂布が草原から軍を率いて西から迂回し、并州を経由して南下すれば、我々の側面や退路が脅かされることになります。そうなれば、黎陽の高順と呼応して、我々は南北から挟み撃ちにされる」
袁紹は唇を噛みしめた。確かに呂布が動けば、連合軍は致命的な窮地に陥る。袁紹はすでに冀州を奪われ、青州にかろうじて拠っている身だ。これ以上の損害は、袁家の存続そのものを危うくする。
「曹操はどう動くつもりだ」
「まだ本陣を動かしておりません。様子見をしているのでしょう」
袁紹はしばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。
「わしはな、高順が憎い。冀州を奪われ、幕僚たちも奪われ、名門としての誇りも踏みにじられた。だがな、同時に思うのだ。あの男はただの簒奪者ではない。あの男は本気で天下を変えようとしている。学堂を作り、法を整え、民を富ませる。それはわしがやろうとしてできなかったことだ。だからこそ、あの男は恐ろしい。そしてだからこそ、あの男を認めざるを得ぬ。この矛盾が、わしの心を苛む」
袁紹の声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。幕僚たちは誰も言葉を発することができなかった。彼らもまた、高順という男の異様さに、言葉を失っていたのである。
袁紹の天幕を辞した使者が、曹操の本営に戦況を報告した。曹操はその報告を聞きながら、微かに笑った。
「孝父め、呂布の名を出すだけで袁紹を震え上がらせたか。だが、それも時間稼ぎに過ぎぬ。呂布は草原の統一に手一杯で、すぐには動けまい。動いたとしても、それは孝父が本当に切羽詰まった時だけだ」
荀彧が静かに問うた。
「丞相は高順殿の次の一手をどう読まれますか」
「孝父は近いうちに、陥陣営の精鋭を出すだろう。正面から騎兵をぶつけてきて、我々の注意を引きつける。そしてその隙に、張遼か華雄を迂回させ、側面を突く。おそらく狙いは私だ。私の首さえ取れば、連合軍は瓦解する」
「ならば、それに対する策は」
「決まっている。孝父が私を狙うなら、私も孝父を狙うまでだ。奴が正面から来るなら、こちらも正面から迎え撃つ。だが、それだけでは足りぬ。奴の動きを封じるために、もう一つ仕掛けを用意する。孝父め、切羽詰まっておるな。ククク……貴様が戦を求めるは強さがあるからだが、この曹孟徳にも計略がある。待っておれ、こちらにも討つ手がある。ふふふ……」
曹操の笑みには、余裕と同時に、親友に対する深い愛情のようなものが滲んでいた。彼は高順を討つと決断しながらも、心のどこかで高順との友情を捨てきれずにいたのである。
黎陽城では、高順が夜通しで戦略を練り直していた。彼の前には地図が広げられ、無数の駒が置かれている。賈詡、沮授、董昭の三人も、疲れ切った顔で高順に付き合っていた。
「将軍、曹操は我々の動きを読んでいると思われます。正面から攻めても、おそらく曹操はそれを迎え撃つ準備を整えているでしょう」
賈詡の言葉に、高順は静かに頷いた。
「わかっている。曹操は私が正面から来ると読んでいる。だからこそ、曹操が予想しない一手を打たねばならぬ」
「例えばどのような」
「呂布の援軍をチラつかせる。実際に来るかどうかは別だ。来るかもしれない、と思わせるだけで、連合軍の結束は揺らぐ。特に袁紹は、側面から呂布に襲われることを何よりも恐れている。草原から并州を経由して南下する呂布の騎兵は、黎陽に集結する連合軍の背後を完全に断つことができる。袁紹はその危険を誰よりもよく知っている。だからこそ、呂布の名を出すだけで動揺するのだ」
沮授が口を開いた。
「袁紹は自尊心の塊です。かつて自分が支配していた冀州を奪われ、その奪った相手に今また敗れようとしている。彼は高順将軍を恨みながらも、同時に認めざるを得ない。その矛盾が、袁紹の判断を鈍らせています」
高順は地図を見つめながら、静かに言った。
「明朝、陥陣営の精鋭を出す。全騎兵を正面に展開し、敵の注意を引きつける。曹操はそれを見て、私が本気で正面から来たと判断するだろう。その隙に、張遼と華雄を左右から迂回させ、曹操の側面を突く。狙いは曹操の本陣だ」
「曹操も同じことを考えているのではありませんか」
「だからこそだ。曹操は私の動きを読み、私も曹操の動きを読む。その読み合いの果てに、どちらが一手先を読めるか。それで勝負は決まる」
軍議が終わり、一人天幕に残った高順は、己の震える両手を見つめていた。
彼は歴史の知識を駆使し、近代化の概念を導入することで、漢朝において天下最強の群雄という仮面を被ることに成功した。だが、その中身は血みどろの乱世など経験したことのない、一人の現代人に過ぎない。五十万の命を背負う重圧。稀代の英雄・曹操と対峙する極限の緊張。歴史の結末を知っているがゆえの「本当にこのまま勝てるのか」という底知れぬ恐怖。夜も眠れず、食事も喉を通らない。高順は天幕の片隅で、ただ一人震えていた。誰にも見せられぬ弱さだった。上将軍として、遼東郡王として、六十万の将兵を率いる総大将が、このような姿を見せてはならぬ。彼は必死に自分を律したが、それでも恐怖は彼の心を蝕み続けた。
その主君の異変を、側近の張五は見逃さなかった。張五は長年高順の側に仕えてきた腹心であり、高順が自分に対してさえ見せない弱さを、肌で感じ取ることができたのである。高順の目は虚ろになり、その顔からは生気が失われつつあった。張五は独断で早馬を仕立て、薊県で留守を預かる高順の妻・蔡琰へと急報を送った。
数日後、黎陽の高順の陣に、土煙を上げて一隊の騎兵が飛び込んできた。先頭を駆けるのは、もう一人の妻にして西涼の猛将・董卓の血を引く董媛である。彼女は蔡琰の親衛隊である飛熊衛を率い、夫の危機に北から駆けつけたのだ。董媛の率いる飛熊衛は、かつて董卓が育て上げた精鋭を母体とし、今は蔡琰の親衛隊として再編された女騎兵隊である。彼女たちは董媛を先頭に、昼夜兼行で黎陽へと駆けつけた。
「夫君! 姉様より、言伝にございます!」
董媛は馬から飛び降りるなり、高順の天幕へ入り、一巻の竹簡を突きつけた。高順は震える手でそれを受け取り、紐を解く。そこには、蔡琰の流麗にして力強い筆致で、長文の書が記されていた。
「琰、再拝して夫君孝父の麾下に白す。秋深し。朔風凛冽、塞上の寒雲を想えば、まさに更に殺気を添うるべきか。吾が君、孤城を以てこれに当たり、夜も寐ねがたくおわすこと、琰には痛いほどに分かり申す」
高順の手が、わずかに震えた。彼は竹簡を握りしめ、読み進めた。
「思えば昔日、君は八百の陥陣営を以て河北に横行し、常山の一戦には三千の残卒で二万の精騎に当たられました。君は槊を横たえ、血に浴びてなお自ら天を仰ぎて大笑し、声は山谷を震わせました。あの時、私が懼るるかと問うた時、君は何と答えられたか。『天下、高順をして懼れしむる者なし』と」
高順はそこで一旦竹簡を置き、深く息を吐いた。天幕の外では北風が吹き荒れている。彼は震える手で茶碗を取り、一口啜った。冷えた茶が喉を通っていく感触が、現実へと彼を引き戻す。彼は再び竹簡を手に取った。
「その言葉、今も私の耳に在り、雷霆の頂を貫くが如く響いております。今、曹賊は天子の威を挟み、謀臣上将を揃えておりますが、遠道より来たりて士卒は疲敝しております。君は静を以て動を制す。何ぞ勝ちを憂えましょうや? 昔、項羽は釜を破り舟を沈め、韓信は背水の陣を布きました。皆、これを死地に置きて後生きたのです」
高順の目に、かすかに光が戻り始めた。彼は竹簡を読み続ける。
「琰は婦人と雖も、頗る詩書を読めり。大事を成す者は、勇力のみに非ず、更に志の堅きに在り。君、外に強敵有り、内に猜忌有り。これ正に英雄、心を煉るの時なり。若し君に令有らば、即ち琰自ら薊県の健児を率い、銜枚疾走し、君と黎陽の野に会いたしましょう。惟だ君の万金の身を珍重し、妾を以て念と為すことなかれ。天下をして知らしめよ、河北に高孝父有り、其の妻も亦た尋常の女子に非ずと。琰、再拝」
読み終えた竹簡から、顔を上げる。高順の眼から、現代人としての脆弱な迷いは完全に消え去っていた。そこにあるのは、深い孤独を引き受け、血の通った漢の眼差しであった。
「媛。昭姫に伝えよ。この高孝父、決して後室に恥じるような戦はせぬとな」
「はっ!」
董媛の顔に、誇り高き笑みが浮かんだ。高順は天幕を出て、黎陽の夜空を見上げた。雲間から月が顔を出し、城壁の上に立つ兵士たちの姿を青白く照らしている。
「来い、曹操。私の理と、貴様の奇。どちらがこの時代を統べるか、決着をつけよう」
その声は、北風に乗って遠く黄河の対岸まで届くかのようだった。夜明けと共に、決戦が始まる。高順の心はもはや揺るがなかった。




