第三回 北地風雲吞巨寇 群雄驚愕覇業始 一段
揚州・竜亢。夜明け前の闇が、まだ大地を冷たく包み込んでいた。
焼け跡と化した野営地の真ん中に、曹操はぽつんと立っている。焦げた天幕の残骸が風に舞い、灰となって散っていく。あちこちでまだくすぶる煙が、低く垂れ込めた曇天に吸い込まれていた。冬の冷気が、焼け焦げた木と布の臭いを運んでくる。その臭いは、鼻の奥にこびりついて離れない。
「ハハハハハ!」
曹操は声高らかに笑っていた。その笑い声は静まり返った廃墟によく響き、遠くの丘にまで届いたかと思われた。夏侯惇と夏侯淵は顔を見合わせ、傍らの衛兵たちも困惑と恐怖が入り混じった表情で、その異様な光景を見つめている。
今しがたまで、ここは四千の兵が屯営する活気ある野営地だった。天幕は整然と並び、炊事の煙が立ち昇り、見張りの兵士たちが交代で巡回していた。ところが夜半、突如蜂起した兵士たちが味方の天幕に火を放ち、味方の首を刈り、叫喚しながら闇へと消えていったのである。四千の兵は、わずか数刻のうちに五百にまで減り果てた。
それなのに曹操は笑っている。
「孟徳……大丈夫か」
夏侯惇が恐る恐る尋ねた。隻眼の巨漢の声には珍しく動揺の色が滲んでいる。彼はこれまで数多の戦場を共にしてきたが、敗北に笑う主君の姿は初めて見た。夏侯惇の知る曹操は、怒りを爆発させ、罵倒を浴びせ、しかし決して笑ったりはしない男だった。
曹操はますます声を上げて笑い、やがてぴたりと止めた。その瞳は研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、暗がりの中で爛々と輝いている。笑いが止んだ後の静けさが、かえって凄味を増した。
「元譲よ。五百も残れば上出来だ。兵は質だ。数ではない。それに、これでようやく分かった。俺が率いるべきは、こんな烏合の衆ではないと」
曹操は足元に転がる焼け焦げた旗指物を拾い上げた。そこには彼が掲げていた「曹」の字が、煤けてはいるがまだ読める。彼はその旗をじっと見つめ、それから静かにたたんだ。その動作には、奇妙なほどの丁寧さがあった。
「なら……どうする?」
夏侯淵がおずおずと口を挟んだ。この弓の名手もまた、兄同様に曹操の様子を測りかねている。彼は弓を握りしめたまま、主君の次の言葉を待った。
曹操は手綱を翻し、馬の首を北西へと向けた。一族の曹洪が兵を集めているという竜亢の地へ。
「行くぞ。子廉のところへ。奴はきっと良い兵を集めている。アイツ、金には汚いが軍才は確かだ。それに俺のために命を惜しまぬ男でもある」
曹洪は曹操の従弟であり、曹操が最も信頼する一族の一人だった。彼は私財を投じて兵を募り、曹操のために尽くしてきた。金銭には細かいが、戦場での判断力は確かで、何より決して裏切らない。曹操はそのことをよく知っていた。
その口元には微かな笑みが浮かんでいた。敗北と裏切りの連続で心身ともに擦り減っているはずなのに、その表情には確かな生気が宿っている。夏侯惇と夏侯淵は再び顔を見合わせたが、今度は安堵の色が混じっていた。この主君はまだ死んではいない。むしろ、何かに目覚めたかのようだ。
(曹操という男の本質は、この時すでに現れている。彼は敗北を敗北のままにせず、必ずその中から次の一手を見出す。滎陽の大敗も、今回の裏切りも、彼にとっては「何が悪かったか」を学ぶための授業に過ぎない。むしろ、裏切った兵たちに感謝すらしているかもしれない。おかげで本物と偽物を見分けることができた、と)
曹操のこの反応こそが、彼が凡将ではなく、歴史に名を残す傑物である証拠である。普通の指揮官なら、四千の兵が五百に減ったという事実に打ちひしがれ、酒に溺れ、あるいは自害を考える。しかし曹操は違った。彼は敗北の中から「烏合の衆ではない、本物の兵が必要だ」という教訓を引き出し、次の行動に移っている。
数日後、竜亢の地で曹操は曹洪と合流した。曹洪が集めていた兵は三千五百。逃げられた分を取り戻しただけで、結局は元と同じ程度の数だ。だが手元に集まった兵は、もはや逃げ出さぬ者たちだけだった。
曹洪は曹操の顔を見るなり、安堵の表情を浮かべた。
「孟徳、無事だったか。噂では全滅したと聞いて、心配していたぞ」
「全滅ではない。五百が残った。それに子廉、お前が三千五百を集めてくれた。合わせれば四千だ。もとに戻ったな」
「しかし、質はともかく、数だけならば」
「質こそが大事だ。逃げ出すような兵は、最初からいらぬ」
曹操は曹洪の陣営を見渡した。兵士たちの顔つきが違う。滎陽から共に這い出た五百の古参も、曹洪の旧部も、竜亢で新たに募った兵も、彼らは皆この男に賭ける覚悟を決めていた。その目には、烏合の衆にはない光が宿っている。
軍営の片隅で、曹操は一人、酒をあおっていた。杯の中の濁り酒は不味い。曹洪が用意した酒は、彼の金銭感覚を反映してか、特に安酒だった。だがそれ以上に胸にこびりつくものは、もっと不味かった。
あの日。連合軍の本営に命からがら逃げ帰ったあの日。奥の幕舎には美酒と佳肴が並べられ、血生臭い戦場とは無縁の緩んだ空気が漂っていた。
「奥の幕舎に宴の席を設けよう。孟徳の労をねぎらい、その心を鎮めてもらおうではないか。さあ諸将も、どうか気兼ねなく」
盟主・袁紹が朗らかに杯を掲げる。敗戦の将を慰労するという名目だが、命からがら生還した曹操にとって、その白々しさは反吐が出るほどだった。袁紹の目はまったく笑っていない。そこにあったのは、自分が盟主であることを誇示するための、儀礼的な「寛大さ」の演出に過ぎなかった。
「孟徳よ。そう思い詰めることはない。戦の勝ち負けは兵家の常というではないか」
鷹揚に歩み寄り、寛大な主のごとく慰めの言葉をかける袁紹。その傍らでは、逢紀や審配といった幕僚たちが口元に嘲笑を浮かべていた。彼らにとって曹操の敗北は、「やはり名門でない者の限界」という、自らの優位性を確認する材料に過ぎなかったのである。
曹操は袁紹の顔を見つめながら、心の中で冷ややかに分析していた。袁紹の笑顔の裏にあるのは、安堵だ。曹操が董卓を討って功績を立てることを恐れていたのだ。だから敗北してくれて、むしろ好都合だった。それが透けて見える。
(名門袁家の当主ともあろう者が、味方の敗北を喜んでいる。この男に天下を取れるはずがない。自分より優れた者を妬み、自分より劣った者を見下す。袁紹の人間関係は、すべてその二つでできている)
しかし、やけ酒を胃の腑に流し込む曹操の耳には、それらすべてが羽虫の羽音のごとき雑音でしかなかった。
(何が兵家の常だ。貴様らが動かぬから、我が軍は孤立したのだ。董卓が洛陽を焼き払い、天子を連れ去るのを、指をくわえて見ているだけの臆病者どもが。自分たちは安全な場所で酒を飲み、俺だけが命を懸けて戦った。その俺が負けたのを、さも当然のように笑っている)
腹の底でどす黒い泥のようなものが煮え滾る。曹操の全身が微かに震え、指先が青銅の杯を握り潰さんばかりに強く締まった。
ドンッ。
酒卓を力任せに叩きつける音が、宴席の弛緩した空気を粉々に砕いた。杯が跳ね、酒が卓にこぼれ、静まり返った幕舎にその音だけが響き渡る。
「吾は初め大義を掲げ、国の為に賊を討とうとした! そこへ十八路の諸侯が義に応じて集ってくれた時、この曹操、どれほど感激したことか! 誠に感激の至りであった!」
血走った両眼で満座を睨みつけ、曹操は吠えた。凄まじい剣幕に諸侯の顔からすっと酒の酔いが引いていく。袁術など杯を取り落としそうになっていた。彼は慌てて杯を拾い上げるが、その手は震えている。
「我が本来の策はこうだ。盟主・本初殿が河内の軍を率いて北の要衝・孟津・酸棗を押さえ、成皋・敖倉を固め、轘轅・太谷の険要を制す。諸将はそれぞれに要害を守り、進路を塞ぐ。そして公路殿が南陽の軍で丹析に駐まり、武関に入り、三輔の地を震わし都の背後を脅かす。全軍で深く堀を穿ち、砦を高くして、あえて直接には戦わず、ただ天下に我らの威容を示す。そうして正道をもって逆賊を討てば、天下はすぐさま平定できたはずなのだ!」
曹操は満座の群雄をぐるりと見渡した。誰一人として目を合わせる者はいない。袁紹は扇で口元を隠し、袁術は酒杯に視線を落とし、孔伷や張邈らは所在なげにうつむいている。彼らは皆、曹操の言うことが正しいと理解している。しかし、だからこそ直視できないのだ。
「それがどうだ! 今、諸侯はためらって一歩も進まず、天下の希望をことごとく打ち砕いた。我は、深く恥辱を感じる!」
絞り出すような声は、次第に怨嗟の響きを帯びていく。その声には、単なる怒りではない、深い悲しみが込められていた。曹操は本気で、この連合軍が董卓を討てると信じていたのだ。しかし現実は、醜い権力争いの場でしかなかった。
「我は深く恥辱を感じる……深く恥辱を感じるッ!!」
呆然とする諸侯を背に、曹操は翻るように幕舎を飛び出した。群雄の器の底が知れた今、こんな腐れ果てた連中と一秒たりとも同じ空気を吸いたくはなかった。
馬上の人となった曹操は、沈みゆく夕陽に向かって悲憤の詩を吟じながら、新たなる兵を求めて中原へと駆け去っていった。
忠臣曹操はこの時死んだと言っていい、そして奸雄曹操が目覚めたのである。
関東に義士有り、兵を興して群凶を討つ。
初期盟津に会す、乃心は咸陽に在り。
軍合へども力斉しからず、躊躇して雁行す。
勢利は人をして争わしめ、嗣いで還た自ら相戕なふ。
淮南には弟号を称し、璽を北方に刻む。
鎧甲には蟣蝨生じ、万姓以て死亡す。
白骨は野に露われ、千里鶏鳴無し。
生民百に一を遺す、之を念へば人の腸を断つ。
その詩を吟じる声は、風に乗って遠くまで響いた。諸侯たちは幕舎の中で、その声を黙って聞いていた。誰一人、反論できる者はいなかった。曹操の言葉は、彼らの心の奥底にある罪悪感を、あまりにも正確に突いていたからだ。
諸侯はそれを気にかけることもなく、数日後、解散した。ただ一人、王匡を除いて。王匡だけは曹操の志に共感し、最後まで連合軍に留まった。しかし彼もまた、この後、自らの領地である河内で高順に討たれる運命にある。
曹操は杯を置き、遠く北の空を見つめた。酒の味は相変わらず不味いが、胸の内は少しだけ晴れている。あの宴席で吐き出した言葉は、諸侯への怒りであると同時に、自分自身への誓いでもあった。二度と、こんな思いはしない。二度と、烏合の衆に頼ったりはしない。
「并州か……」
独りごちる。竜亢で兵を集めていた時、耳にした噂がある。董卓の将・高順なる者が河内を制圧したという。董卓と共に長安へ帰らず、自ら兵を率いて北へ向かったと。滎陽で己の軍を粉砕した騎兵隊、あの「鐙」という奇妙な馬具。そして今、誰もが死地と恐れる并州へ、あえて進撃を開始した。
「孟徳、まだ夜は明けきらぬ。少しでも休んでおいたほうが……」
夏侯惇が気遣わしげに声をかけるが、曹操は手を挙げて制した。
「元譲。あの高順という男、只者ではない。袁紹や袁術どもは『匹夫の蛮勇』と嘲弄しているだろうが、奴には見えている。俺たちが『害悪』としか思っていない賊徒の群れが、磨けば光る宝の山に見えているのだ」
「宝の山……?」
「そうだ。奴は『死地』に行くのではない。『選びに行く』のだ。誰も手をつけていない、誰も統治していない、誰も注目していないだからこそ全てを自らのものにできる場所へ」
曹操は立ち上がり、地平線の彼方、まだ暗闇に包まれた東の空を見据えた。
「急がねばならんな。奴が北の巨匪を飲み込み、并州という要塞に立て籠もれば、もはや容易には手出しできん。そして力を蓄えた後、奴は必ず南へ、この中原へ牙を剥く。その時、我々が今のままではひとたまりもなく食い破られるぞ」
夏侯惇は息を呑んだ。その言葉には、曹操自身の野心と焦燥が凝縮されていた。曹操は高順を恐れているのではない。高順という触媒によって、自分の中に眠る野心が激しく燃え上がっているのだ。
「兵を集めろ、元譲。東郡を平らげ、青州の黄巾賊を飲み込む。高順が北で『黒』を束ねるなら、俺は東で『黄』を束ねて対抗するまでだ」
曹操の頭の中には、すでに次の青写真が描かれていた。東郡太守としての地盤を固め、青州に跋扈する三十万の黄巾賊を吸収する。高順が黒山賊を食うように、曹操は黄巾賊を食う。食って、血肉に変えて、巨大になる。
「元譲、世の中には二種類の人間がいる。賊を恐れて逃げる者と、賊を食って太る者だ。袁紹は前者だ。高順は後者だ。そして俺も後者になる」
夏侯惇は深く頷いた。隻眼の巨漢は、主君の言葉の意味を完全に理解したわけではなかったが、その決意の深さだけは感じ取ることができた。
乱世の奸雄・曹操孟徳。彼の覇道に火をつけたのは、皮肉にも、北へ去った高順という触媒であった。曹操は高順を敵と見定めながらも、同時に、自分が進むべき道を照らす灯台としても見ていた。敵の優れたところは認め、学び、そして超える。それが曹操という男の、最も恐るべき能力だった。
冬の夜空が、ゆっくりと白み始める。曹操は立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。もう休んでいる暇はない。高順が北で動いているなら、自分も東で動かなければならない。
「夏侯淵、曹洪、全軍に通達しろ。これより我々は東郡へ向かう。そして青州の黄巾賊を喰らう」
曹操の目は、もはや敗北に打ちひしがれた将の目ではなかった。それは、天下を狙う梟雄の目だった。




