表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/10

五段

王匡を討ち取り、河内を手中に収めた高順は、すぐさま支配の基盤を固めにかかった。


河内郡は并州の南の入り口にあたる要衝である。ここを確実に掌握しなければ、北への進軍など夢物語に過ぎない。高順はまず、河内城の政庁に乗り込み、王匡の旧臣たちを一人ひとり呼び出して尋問した。王匡の圧政に加担し、民から搾取した財を私腹に収めていた者たちは、容赦なく財産を没収し、ある者は処断し、ある者は追放した。一方で、王匡に諫言したために冷遇されていた者や、民のために尽くした実績のある者は、引き続き民政に当たらせた。


この峻厳な選別は、河内の民に鮮烈な印象を与えた。董卓の将でありながら、略奪を禁じ、公平に人を評価するそれは王匡の圧政に苦しめられてきた民にとって、青天の霹靂だった。


「大将、河内の民は大喜びですぜ。王匡の取り立てがなくなっただけで、もう高将軍様は神様だと」


張五が嬉しそうに報告する。王匡を討ち取った功績で伯長に取り立てられた彼は、若さと功名心に溢れていた。彼の肩には、まだ王匡との戦いで負った傷が癒えきっていないが、その目は爛々と輝いている。


「浮かれるな。河内はまだ安定したとは言えん。王匡の残党がどこかに潜んでいるかもしれんし、何より北がある」


高順は壁に掛けた地図を見つめた。太行山脈が南北に走り、その東側には広大な并州が広がっている。そしてその山々には、百万と号される黒山賊と、西の汾水流域には白波賊が蟠踞していた。かつて黄巾の乱の残党が、この山岳地帯に逃げ込んで土着した者たちである。飢えと貧困が彼らを賊に変え、略奪以外に生きる術を持たぬまま、幾十年もこの地に根を張り続けている。


「郝萌を呼べ。それと河内の地図を広げろ」


高順のこの慎重な姿勢こそが、彼が単なる武人ではない証だった。陽人の戦いで孫堅を退け、王匡を討ち取り、華雄を救いそれだけの武功を挙げながら、彼は決して驕らない。むしろ、一つの勝利を得るたびに、次の戦いへの準備をより入念に進める。それは董卓の「力による支配」とも、呂布の「武勇による制圧」とも異なる、高順独自の「統治の哲学」だった。


集まったのは配下の張遼、郝萌、魏続、魏越、成廉、宋憲、侯成と腹心の呉資、章誑、汎凝、張弘、趙庶、高雅陷陣営の中核を成す六人の将たちである。彼らは陽人の戦いで生死を共にし、王匡討伐でも功を挙げた、高順が最も信頼する腹心たちだった。部屋の中央には河内と并州の詳細な地図が広げられ、太行山脈の峰々が墨で克明に描かれている。


「諸将、これより我々は并州を目指す」


高順の第一声に、将たちの表情が引き締まった。それぞれが無言で頷き、次の言葉を待つ。


「しかし、并州には黒山賊と白波賊がいる。黒山賊は太行山脈の全域に広がり、その数は百万と称される。総帥は張燕。奴は袁紹や公孫瓚とも互角に渡り合ってきた男だ。白波賊は汾水の流域に拠り、その数もまた百万。正面からぶつかれば、我々の兵力がいくらあっても足りぬ」


「将軍、ならばどのように」


郝萌が問う。彼は河内の生え抜きであり、この土地の地理を誰よりも熟知している。郝萌の目は真剣だった。彼は高順が無謀な戦いを挑むような男ではないことを知っている。だからこそ、その先の策を聞きたがっていた。


「まず知るべきは、彼らが『賊』になった理由だ。黒山賊も白波賊も、元をただせば黄巾の乱の残党つまり、もとは農民だ。飢えて、食えずに、仕方なく剣を取った者たちだ。ならば、彼らが飢えずに済む方法を我々が示せば、戦わずして降る者も多いはずだ」


「戦わずして勝つ、でございますか」


「ああ。ただし、戦わねばならぬ相手もいる。張燕……あの男は只者ではない。百万の賊を束ね、太行山脈という要害に拠り、袁紹や公孫瓚のような群雄と互角に渡り合ってきた。奴を従わせるには、相応の力と知略が必要だ」


高順は地図を指でなぞった。太行山脈の南端、河内から北へ延びる細い谷間が、黒山賊の本拠地への入り口だった。


「我々はまず河内を固める。水路を拓き、農地を開墾し、投降した賊を受け入れる基盤を作る。それと同時に、并州の全容を把握する。黒山賊と白波賊の勢力図、彼らの補給路、山岳地帯の地形すべてを調べ上げる」


「それには、かなりの時間がかかるのでは」


章誑が口を開いた。彼は鷹のような鋭い眼光を持つ男で、その声には常に慎重さが滲んでいる。


「かまわん。戦は急ぐものではない。勝つための準備を整えることにこそ、最も時間をかけるべきだ。章誑、お前には特に頼みたいことがある」


「なんなりと」


「お前は并州の地形を調べろ。特に太行山脈の山道と、汾水の渡河点。黒山賊と白波賊の勢力がどこで接しているか、その境界線を正確に把握したい」


「承知した」


高順は続けて、各将に指示を下した。呉資には河内の防衛と新兵の訓練。汎凝には投降してくる賊徒の受け入れと編成。張弘と趙庶には糧秣の確保と補給路の整備。高雅には河内城内の治安維持と密偵の取り締まり。それぞれが己の持ち場で最善を尽くすことそれが高順の求める「組織」だった。


軍議が終わり、将たちが退出した後、郝萌だけが残った。


「将軍、一つ気になることが」


「なんだ」


「董相国は、将軍が河内で力を蓄えることを、果たして黙って見ているでしょうか。我々は董卓の配下とはいえ、ここで独立した勢力を持てば、相国の猜疑心を煽ることになりかねません」


高順は窓辺に立ち、冬の夜空を見上げた。郝萌は河内の生え抜きであり、董卓軍の内部事情にも明るい。彼の懸念は、決して杞憂ではなかった。


「当然だ。董卓は俺を信用していない。むしろ、警戒しているはずだ」


「ならば、なぜ?」


「董卓はそういう男だ。俺の才覚を認めているからこそ、同時に警戒もする。そして、その二つを天秤にかけて、『利用する』という結論を出す。俺が并州を平定すれば、それは董卓の天下を北から守る盾になる。彼はそれがわかっているから、今は俺を自由に動かしている」


この均衡こそが高順と董卓の関係の本質だった。高順は董卓の庇護を利用して自らの地盤を築き、董卓は高順の才覚を利用して北の安全を確保する。互いに利用し合いながら、互いに警戒し合うその危うい均衡の上に、高順の并州経略は成り立っていた。


「しかし、いつまでもそうとは限りませぬ」


「ああ。だからこそ、早急に河内の地盤を固めねばならぬ。董卓が俺を切り捨てる前にあるいは、董卓が滅びる前に、俺たちは自らの力で立たねばならぬ」


郝萌は深く頷いた。彼は高順の真意を理解した。これは単なる并州征討ではない。董卓という巨大な庇護の下で、自らの国を作るそれこそが高順の目指すものだった。


数日後、洛陽から使者が訪れた。


使者は李儒だった。董卓の最も信頼する参謀であり、痩せぎすの体に爬虫類のような冷たい目を宿した男である。この男が自ら河内まで出向いてきたということは、ただごとではない。


「高将軍、相国様がお呼びです。洛陽へお越しいただきたい」


李儒の声は丁重だったが、その目は笑っていなかった。高順は即座に察した。董卓は、自分の手の届かぬところで高順が力を蓄えることを、すでに警戒し始めている。今回の呼び出しは、その「牽制」であると同時に、おそらく「懐柔」でもある。


しかし高順は、すぐには答えなかった。窓の外を見つめながら、静かに口を開く。


「李侍中、申し訳ございませぬが、今すぐ洛陽へ参るわけにはまいりませぬ」


李儒の目が細められた。


「なにゆえ」


「私はまだ、并州を平定しておりませぬ。陽人の戦いで功を挙げたとはいえ、それは相国からお預かりした四万の兵を、まだ十分に使いこなしていないということ。この状態で洛陽へ参上すれば、相国のご期待に応えられぬばかりか、他の将軍たちの手前、面目が立ちませぬ」


「相国様は、将軍の功績をすでに高く評価しておられる。それをわざわざ」


「評価は、結果の上に成り立つもの。私はまだ、結果を出しておりませぬ。どうか今しばらくのお時間を賜りたく。并州を平定し、その首級と共に洛陽へ参上するそれこそが、相国への真の忠誠を示す道かと存じます」


李儒はしばらく高順の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……承知した。相国には、そのようにお伝えしよう」


洛陽。董卓の私邸。


李儒からの報告を聞いた董卓は、酒杯を握りしめたまま、しばらく無言だった。その目には怒りが渦巻いている。


「孝父の奴、俺の召喚を断っただと……」


「左様でございます。『并州を平定せぬうちは洛陽に参れぬ』と」


「ふん。俺の目を恐れているのか。それとも本当に并州を平定するつもりか」


董卓の声には、苛立ちと同時に、奇妙な感心の色が混じっていた。高順が洛陽に来れば、董卓は彼を監視下に置き、あるいは婚姻によって一族に取り込もうとしていた。しかし高順は、その前に并州を平定するという大義名分を盾に、洛陽行きを拒否したのである。


「図に乗りおって……」


董卓は酒杯を床に叩きつけた。陶器の砕ける音が、部屋に響き渡る。


「しかし相国様、高順の申すことも一理ございます。并州を平定すれば、それだけ相国の力は増す。今は泳がせておくのも一興かと」


「ふん。まあよい。あの男が并州を平定できれば、それに越したことはないだがな」


董卓は砕けた酒杯の破片を見つめながら、低く呟いた。


「できなかった時はできなかった時を、覚えておけよ、孝父」


井上靖の無常観で描くならば、董卓のこの呟きは「魔王の予感」だった。彼は高順がただの将ではないことを見抜いている。才覚があり、野心があり、そして何より自分を超えようとしている。董卓はそのことを、恐れと共に認めていた。だからこそ、今は引き下がった。しかし彼の胸の奥底には、高順がいつか自分に牙を剥くかもしれないという、拭いがたい疑念が刻まれたのである。


河内へ戻った高順は、郝萌に洛陽でのやり取りを簡潔に伝えた。


「董卓は怒っただろう。だが、今はそれでいい。俺たちに必要なのは、董卓の機嫌を取ることではなく、并州を手中に収めることだ」


「しかし将軍、相国を怒らせれば、後々……」


「後々のことは、后々考えればいい。董卓は俺を殺せない。殺せば并州はまた賊の手に戻り、河内も失う。彼にはそれがわかっている」


高順のこの決断は「一人の将軍から、一人の国主への脱皮」だった。董卓の顔色を窺い、機嫌を取り、生かされてきた男が、初めて自らの意志で董卓に逆らった。それは小さな一歩に見えて、実は高順の生涯において決定的な転換点だった。


高順は窓辺に立ち、北の空を見据えた。


「これより我々は、誰の許しも得ず、自らの手で并州を拓く。董卓の将としてではなくいずれ、并州の主として立つために」


驍風の嘶きが、河内の空に響き渡った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ