第十四回 高順帰朝斥急政 遼東郡王開新制 四段
北伐の戦後報告と改革の議論が一段落すると、前殿の空気はそれまでの疲弊したものから、祝祭にも似た華やぎへと変わり始めた。誰もが待ち望んでいた論功行賞の刻が訪れたのである。しかし、朝廷の重臣たちが次々と意見を述べる中で、誰もが一つの難題に直面していた。高順の功績は、既存のあらゆる官職や爵位の枠を完全に超えてしまっていたのだ。丞相・曹操ですら、この難題には苦笑するしかなかった。
「陛下、臣から申し上げます」
太常・楊彪が重々しく口を開いた。
「驃騎将軍の北伐は、衛青、霍去病のそれを凌駕する不世出の功績でございます。鮮卑、匈奴、烏桓の三部族を平定し、百万の軍勢を動かして草原を統一した武功は、前漢の大将軍をも超えるものでありましょう。然るに、その功に報いる爵位が、もはや朝廷には残っておりませぬ」
尚書令・荀彧もまた、深く頷いた。
「列侯の最高位である県侯、そしてその上には国公がございます。驃騎将軍はすでに晋陽公であられ、列侯の最頂点に立たれております。この上は、もはや王しかありますまい。しかし、それは白馬の盟以来の大問題でございます」
広間がざわめいた。漢帝国において、異姓の者が王に封じられることは、高祖・劉邦が定めた「白馬の盟」——「劉氏に非ずして王たれば、天下共に之を撃て」という絶対の掟によって、かたくなに禁じられてきた。かつて呂后が呂氏の一族を王に封じようとした時、功臣たちは命を賭してこれに反対した。この掟が破られたことは、漢帝国四百年の歴史においてただの一度もない。丞相・曹操が献帝に「高祖以来の掟に反します」と進言して高順の晋王即位を阻止したのも、つい数年前の出来事である。その曹操が、今は無言で献帝と高順を見つめていた。
曹操の心中は複雑だった。彼はかつて高順の王位を阻止した。それは漢室の掟を守るためであると同時に、高順の権力が自分を超えることを恐れたからでもあった。しかし今、高順は北伐を成功させ、草原の民を平定し、遼東の公孫度を滅ぼした。その功績は、曹操自身の功績をも遥かに凌駕している。曹操とて、もはや高順の王位を阻止する大義名分を持たなかった。
「朕は決めた」
静寂を破ったのは、献帝その人だった。玉座から立ち上がった天子の声は、若々しくも凛としていた。
「高順、そなたはすでに晋陽公の爵位を持つ。列侯の最高位である。これ以上の爵位はもはや王しかあるまい。朕はそなたを王に封じようと思う」
高順は深く平伏した。
「陛下、それはなりませぬ。異姓の王を立てることは、漢室四百年の掟に反します。高祖の白馬の盟を、みだりに破るわけにはまいりませぬ」
献帝は高順の言葉を遮るように、玉座から身を乗り出した。
「高順、そなたは朕の臣下ではないのか」
「もちろん、臣は陛下の忠臣にございます」
「ならば、朕の命に従え。そなたが王を受けることが、漢室を守ることにつながるのだ」
献帝の声には、かつてのような少年の弱々しさはなかった。長安で震えていた少年は、今や自らの意志を持つ天子へと成長していた。彼は太師・蔡邕から帝王学を学び、曹操と高順という二人の巨大な存在に挟まれながら、自分が何をなすべきかを考え続けてきたのである。高順に王位を与えること。それは献帝にとって、自分の意志を示す初めての大きな決断だった。
高順は献帝の目を見つめた。その目には、頑ななまでの決意が宿っている。彼はこの少年皇帝が、これほどまでに成長していたことに、内心で驚きを禁じ得なかった。しかし同時に、王位を受けることの危険性もまた、誰よりも理解していた。
「わかりました。陛下のご厚情、臣の生涯の誇りに存じます。しかし、どうか条件をお聞き入れください」
「条件とは」
「臣が王となるならば、それは遼東郡に限定されます。遼東郡王。一郡のみを領する王です。これならば、異姓の者に広大な領地を与えることを禁じた白馬の盟の精神を大きく損なうこともなく、また臣の権力が過大になることも防げます」
この言葉に、前殿は再びざわめいた。王位を目前にしながら、自らその領地を一郡に限定するというのだ。
献帝はしばらく考え込んでいたが、やがて微かに笑って頷いた。
「公と王の間、か。遼東郡王。前代未聞の爵位だが、それでよかろう」
献帝の裁可が下りると、重臣たちが次々とこの歴史的な決定に賛同の意を表した。
まず口を開いたのは太常・楊彪だった。
「漢室四百年の伝統を守りながら、新たな時代の幕開けを象徴する爵位です。遼東郡王。この名は、後世の史書にどう記されるでしょうか。前漢の諸侯王たちは、元来広大な領地を有しながらも、推恩の令によって徐々にその力を削がれ、今や一郡の太守と変わらぬ実力しか持ちません。しかし、王国の王と、郡に封じられた王は、まったく別の存在です。白馬の盟が禁じたのは、天下を二分するような広大な王国を持つ異姓の王。たった一郡の王は、その盟約の文言には触れませぬ」
将作大匠・孔融は睡気をこすりながらも、学者としての興味を掻き立てられたように発言した。
「前代未聞、まさにその言葉がふさわしい。周の爵位制度にも、秦の二十等爵制にも、漢の王侯制度にも、『郡王』という爵位は存在しなかった。高祖の白馬の盟は、天下を騒がす異姓の王を封じることを禁じたものであり、一郡に限定された王を封じることまでは想定しておりますまい。驃騎将軍は、漢帝国四百年の歴史に、まったく新しい爵位を刻もうとしているのです。これは単なる論功行賞の枠を超えた、歴史的な出来事です」
尚書令・荀彧もまた、その知性でこの新爵位の意義を解き明かした。
「遼東郡王。一郡に限定された王。これはまさに絶妙な妥協点です。さすがは驃騎将軍、ご自身の爵位をここまで冷静に設計なさるとは。権力を求める者は多いが、自らその制限を設計できる者は稀です。遼東郡王という爵位は、まさにあなたのために生まれたものであり、あなた以外には決して与えられぬものです」
車騎将軍・董承は複雑な表情で高順を見つめていた。彼は曹操を倒すために高順を利用しようとしたこともあった。公開裁判で高順に追い詰められ、終身禁錮を言い渡されたこともあった。しかし今、高順は漢室の掟を守るために自らの爵位を制限している。その自制心こそが、高順という男の本質だった。董承の心の中で、長年にわたる高順へのわだかまりが、少しずつ溶けていくのを感じた。彼は深く息を吐き、静かに言った。
「驃騎将軍、いや遼東郡王。私はこれまで、あなたを曹操の仲間だと思っていた。しかし違った。あなたはただ、漢室を守ろうとしているだけなのだな。王位を前にしながら、自らそれを一郡に限定する。これほどの自制心を持つ者を、私は他に知らない。私はこれまで、何度もあなたを誤解し、妬み、憎んだ。許してもらおうとは思わない。ただ、あなたのその自制心こそが、漢室を救うのだと、今は理解している」
高順は董承の言葉に、小さく頷いた。
「董承殿、私はこれまでもこれからも、漢室の忠臣です。ただそれだけです」
光禄勲・伏完が感慨深げに言った。
「遼東郡王。この爵位は、驃騎将軍の功績に見合うものでありながら、驃騎将軍自身の自制によって限定されたものです。これは権力の新しい形を示している。自らを律することのできる権力者。権力の拡大を自ら望まない者。それが驃騎将軍というお方なのでしょう。私はこれまで、権力とは奪い合うものだと思ってきました。しかしあなたは違う。権力とは、自らを律するためにあるものだと、あなたは示してくれた」
安西将軍・段煨は、涙を浮かべて高順を見つめていた。彼は董卓の麾下にありながら高順に救われ、北伐にも従軍し、今回の改革にも奔走した。その彼にとって、高順の遼東郡王即位は、自分のことのように嬉しい出来事だった。
「驃騎将軍……いや、遼東郡王。私はあなたに救われた命です。あの日、長安の郊外で李傕の軍勢に包囲された私を、あなたは見捨てずに救い出してくれた。そのあなたが、今、遼東郡王となられる。私はこの日を、生涯忘れません」
高順は段煨の言葉に、静かに頷いた。
「段煨殿、あなたはよくやってくれた。遼東の地で、共に新しい国を作ろう」
この後も、長水校尉・種輯が包帯を巻いた右手を掲げて武芸の教科書編纂を約束し、太医令・吉本が医学寮の設置を進言した。議郎・吳碩、昭信将軍・吳子蘭、御史中丞・郗慮、尚弘、裴茂、王子服もそれぞれに祝意を述べ、遼東郡の未来図に自らの専門分野で貢献することを誓った。
高順は一人ひとりの顔を見渡しながら、静かに言った。
「諸卿、私はこれから遼東の地で新しい国を作る。それは小さな国かもしれない。しかし、その国で育てた法と秩序の種は、やがて天下に広がるだろう。それには十年かかる。だが必ず成し遂げる。諸卿の協力を、改めてお願いしたい」
重臣たちは一斉に深く頭を下げた。
かくして高順は遼東郡王に封じられた。それは公と王の中間という、漢帝国四百年の歴史に類を見ない爵位だった。驃騎将軍府は遼東郡王府と改められ、高順の権限は名目上、遼東郡に限定されることとなった。遼東郡は幽州の東端に位置し、人口も少なく、土地も痩せている。一見すると、それは広大な領地を持つ王というより、左遷に近い扱いにも見えた。しかし誰もが知っていた。この男の影響力は、もはや爵位の枠を遥かに超えていることを。遼東郡は、高順にとっては法と秩序の実験場であり、未来の国家の縮図だった。そして何より、遼東郡は彼が自ら望んだ土地だった。自らを律し、権力の拡大を自ら制限する。それこそが高順という男の本質であり、彼が他の群雄たちと一線を画す所以だった。
献帝は玉座から立ち上がり、自ら詔書を手に取った。彼は高順の前に歩み寄り、その手に詔書を渡した。
「遼東郡王・高順。そなたは朕の最も信頼する臣である。これからも漢室を守り、天下を安んじよ」
「御意に」
高順は深く平伏し、詔書を受け取った。彼の手には、ずっしりとした重みが伝わってきた。それは単なる絹の巻物の重さではない。これからの遼東の未来と、そして天下の未来を託された重みだった。
こうして建安六年冬、高順は遼東郡王に封じられた。それは漢帝国の歴史に新たな一頁を刻む瞬間であり、同時に高順という男の新たな旅立ちの始まりでもあった。彼はこれから遼東の地で、自らの手で法と秩序の理想を実現していく。その第一歩が、今、ここに踏み出されたのである。




