第十四回 高順帰朝斥急政 遼東郡王開新制 二段
丞相・曹操の執務室は、まるで戦場のようだった。
卓の上には未処理の書簡が山と積まれ、床には読みかけの竹簡が散乱している。壁には北伐中の高順の動きを示す地図が貼られたままだった。曹操はこの地図を見ながら、遠く草原で戦う高順を想い、少しでも自分も前に進まねばと自らを鼓舞し続けていたのである。その結果がこの有様だった。高順は散乱した書簡を拾い集めながら、静かに言った。
「明朝の御前会議で、陛下にご説明申し上げる。丞相にも同席してもらいたい」
曹操は黙って頷いた。彼はまだ自分の感情を整理しきれていなかったが、高順の提案が正しいことは理解していた。高順は執務室を辞し、賈詡と共に廊下を歩きながら、次々と彼に報告を求めてくる官吏たちに短く指示を与えていった。彼の足取りは軽く、その背中を見送る官吏たちの表情には、かすかな安堵が浮かんでいた。北伐を終えた将軍の帰還が、どれほど朝廷に安定をもたらすかを、彼らは身をもって感じていたのである。
翌朝、未央宮の前殿にて御前会議が開かれた。玉座には献帝が座し、その傍らには太師・蔡邕が控えている。丞相・曹操を筆頭に、尚書令・荀彧、太常・楊彪、将作大匠・孔融、光禄勲・伏完、車騎将軍・董承が居並び、さらに後方には長水校尉・種輯、議郎・吳碩、昭信将軍・吳子蘭、太医令・吉本、安西将軍・段煨、御史中丞・郗慮、そして尚弘、裴茂、王子服といった面々が控えていた。いずれも朝廷の中枢を担う重臣ばかりである。誰もが疲れ切った顔をしているが、高順が何を言うのか、固唾を呑んで見守っていた。
段煨は高順と不思議な縁で結ばれた男だった。かつて同じく董卓の麾下にありながら、直接の面識はほとんどなかった。しかし献帝が長安を脱出した際、段煨は華陰に駐屯しており、追撃する李傕の軍勢から逃れてきた献帝の一行を保護した。その時、彼は追撃してきた李傕軍に包囲され、危うく命を落としかけたのである。そこに現れたのが高順だった。高順は自ら軍を率いて李傕を撃退し、段煨と献帝の一行を救い出した。それ以来、段煨は高順に深い恩義を感じており、彼が提案する改革にも可能な限り協力してきた。今は安西将軍として朝廷に列していたが、彼もまた今回の改革の波に巻き込まれ、学堂の警備計画に奔走させられていた。
「驃騎将軍、北伐の報告を承る」
献帝の声が静まり返った前殿に響いた。高順は深く平伏し、北伐の戦後報告を簡潔に述べた。鮮卑、匈奴、烏桓の三部族を平定し、呂布を単于として草原の統一を成し遂げ、遼東の公孫度残党も掃討したこと。百万の軍勢は九万にまで減ったが、北方の脅威は今後数十年にわたって取り除かれたこと。それらを淡々と報告する高順の声が、静まり返った前殿に響いた。
「見事である。して、これらの国策について、そなたの助力を得たい」
献帝の声は穏やかだったが、その目には確かな期待が宿っていた。高順は静かに首を振った。
「陛下、臣は驃騎将軍、鎮北将軍、武衛将軍、北域大都護、執金吾を兼ねております。これだけの軍権を持ちながら、さらに政策にまで深く関与すれば、臣は権臣と呼ばれましょう。董卓の轍を踏むわけにはまいりません」
その言葉が終わらぬうちに、丞相・曹操が立ち上がった。彼の顔は怒りで紅潮し、その声は前殿の天井を震わせた。
「ふざけるな、高順! お前が始めたことだろうが!」
普段は冷静沈着な曹操が、これほどまでに感情を露わにするのは極めて異例のことだった。献帝も、荀彧も、楊彪も、孔融も、誰もが驚きの表情で曹操を見つめている。彼らはこれまで、曹操が高順に対してこれほど激しい怒りをぶつけるのを見たことがなかった。
曹操は拳を握りしめ、一気にまくし立てた。
「立憲君主制だの三権分立だの義務教育だの、お前が好き勝手に提案しておいて、いざ実行の段になったら『自分は軍人だから』で逃げるつもりか! お前のせいで朝廷は何ヶ月も混乱しているんだぞ! 尚書令は三晩徹夜で法案を起草し、太常は各州との折衝で倒れかけ、将作大匠は学堂の設立準備で疲れ果てている! 車騎将軍は学堂の警備計画で手が回らず、光禄勲に至っては宿衛の任務そっちのけで学堂の設計図を眺めている始末だ!」
曹操の指摘に、伏完がばつが悪そうに目を伏せた。彼は光禄勲として宮中の宿衛を預かる身でありながら、ここ数週間は学堂の警備計画に没頭していたのである。それは曹操の命令によるものだったが、伏完自身もこの改革に意義を感じていたからこそ、のめり込んでしまっていた。
曹操の怒りはさらに続いた。
「長水校尉・種輯に至っては、学堂で教える武芸の教科書を書けと言われて三昼夜ぶっ通しで執筆し、ついに過労で倒れた! 議郎・吳碩は各州の学堂設立に関する上奏文の整理で指が腫れ上がり、太医令・吉本が『これ以上筆を握ると指が壊死する』と診断したほどだ! 昭信将軍・吳子蘭は学堂建設のための労働力確保に東奔西走し、安西将軍・段煨は学堂の資材調達に駆り出され、御史中丞・郗慮はこれらすべての予算案を一晩で計算して倒れた! 尚弘、裴茂、王子服もそれぞれ学堂の教材編纂に追われ、もはや誰が本来の職務を果たしているのかわからぬ有様だ!」
曹操の言葉に、名指しされた者たちが一様にうなだれた。種輯は右手に包帯を巻き、吳碩は腫れ上がった指をさすり、吳子蘭は疲れ切った表情で天井を見上げている。段煨は苦笑いを浮かべ、郗慮はまだ顔色が青白かった。
段煨はその中で、ただ一人複雑な表情を浮かべていた。彼は高順に命を救われた恩義から、今回の改革にも積極的に協力してきた。学堂の資材調達という役目を任された時も、「驃騎将軍の理想を形にするためなら」と奔走したのである。しかし結果はこの有様だった。彼は高順に向かって、弁解するように小さく声を発した。
「驃騎将軍、私はあなたに救われた命です。あの日、長安の郊外で李傕の軍勢に包囲された私を、あなたは見捨てずに救い出してくれた。だからこそ、あなたの理想を形にしようと必死でした。しかしどうやら私も、急ぎすぎたようです」
高順は段煨の言葉に静かに頷いた。彼の脳裏に、あの日の光景が蘇る。董卓が死に、王允が死に、長安が混乱の坩堝と化したあの時代。献帝を守ろうとした忠臣たちが次々と命を落とす中で、段煨はかろうじて生き延びた。高順にとって、それは遠い過去の出来事だったが、段煨にとっては生涯忘れられぬ恩義だったのである。
高順は深く息を吐いた。彼は曹操の激情を受け止めながら、静かに言った。
「丞相、あなたの言い分はよくわかった。だが、それでも私は言わねばならぬ。あなたは無能だ」
広間が凍りついた。曹操の顔から表情が消え、次の瞬間、さらに激しい怒りが爆発した。
「なにを言うか、高順! 誰が無能だと!」
曹操は一歩前に出て、高順の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。高順は微動だにせず、冷静な声で続ける。
「無能と言っている。私は今すぐやれとは言っていない。立憲君主制も三権分立も、一朝一夕にできることではない。まずは教育政策を整え、人材を育成するところから始めるべきだと、あれほど何度も言ったはずだ。それを揃いも揃って何を急いでいるんだ」
「急ぐなだと! お前はいつもそうだ。理想を語るだけ語って、実行はすべて他人任せ。私はな、高順。お前が北で草原の民を討っている間、ずっとこの国をどう変えるか考えていたんだ。お前の理想に少しでも追いつこうと、尚書令や程昱と毎夜議論を重ねてきた。それを今になって『急ぎすぎだ』だと!」
「ならば聞くが、丞相。三権分立を行うための法を執行する官僚は、誰が育てた。立憲君主制を支えるための議会を構成する議員は、どこから選んだ。義務教育を施すための教師は、何人養成した」
曹操は口を開きかけて、言葉を詰まらせた。高順はさらに畳み掛ける。その声はあくまで平静だが、一語一語が刃のように鋭く曹操に突き刺さる。
「答えられないか。そうだ、誰も育てていない。議員もいなければ教師もいない。そんな状態で三権分立も立憲君主制も、絵に描いた餅だ。私は教育が最も重要だと、あれほど強調したはずだ。学堂を作り、教師を育て、読み書き算術から法律、歴史、医学までを体系的に教える。その卒業生が官僚となり、議員となり、教師となる。それには十年かかる。私はそう言った」
曹操の拳が震えていた。彼はしばらく高順を睨みつけていたが、やがて肩から力が抜け、その場に崩れるように座り込んだ。そして天を仰ぎ、声を上げて笑い始めた。
「ははは……ははははは! そうか、そういうことか! 私はてっきり、お前が私にすべてを押し付けて北へ逃げたのだと思っていた。だが違った。お前は最初から、十年かけてやるつもりだったんだな。私はそれを理解せず、尚書令や太常を巻き込んで一気にやろうとした。そして案の定、失敗した。まったく、お前の言う通りだ。私は無能だ。お前の理想を理解するには、まだまだ未熟すぎた」
高順は静かに曹操の前に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「丞相、あなたは無能ではない。あなたはただ、急ぎすぎただけだ。それだけ理想に共感してくれたことには感謝している。だが、国づくりは戦ではない。十倍の敵を一晩で打ち破るような真似はできぬ。ゆっくりと、着実に、一歩ずつ進めるしかないのだ」
高順はそれから周囲を見渡し、諸大臣たちに問いかけた。
「ところで、まさかとは思うが、これらを一気にやろうとしたわけではあるまいな」
尚書令・荀彧が苦しそうに頷いた。太常・楊彪が深いため息をついた。将作大匠・孔融は舟を漕ぎながら「その通りです」と寝言を言った。車騎将軍・董承は複雑な表情で俯き、光禄勲・伏完は気まずそうに目を逸らした。長水校尉・種輯は包帯を巻いた右手を掲げて「私もです」と言い、議郎・吳碩は腫れ上がった指で小さく頷いた。昭信将軍・吳子蘭は疲れ切った顔で苦笑し、太医令・吉本は深く嘆息した。安西将軍・段煨は「せっかくお役に立とうとしたのに」とぼやき、御史中丞・郗慮は青白い顔で小さく手を挙げた。尚弘、裴茂、王子服もそれぞれに頷き、あるいは力なく笑った。
高順はしばらく彼らの顔を順に見つめていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。その笑い声は前殿の天井に谺し、しばらく止まなかった。
「なるほど、そういうことか。丞相、あなただけでなく、尚書令も太常も将作大匠も光禄勲も車騎将軍も、長水校尉も議郎も昭信将軍も、安西将軍も御史中丞も、全員で一気にやろうとしたんだな。その結果がこの有様か。いやはや、これは失礼した。私はてっきり、あなただけが暴走したのかと思っていたが、まさか全員で暴走していたとは」
高順は笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、献帝に向かって深く平伏した。
「陛下、このたびは臣の説明不足により、朝廷の皆様に多大なご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます。北伐の戦後処理が長引き、参内が遅れましたことも、合わせてお詫びいたします」
献帝は少し困ったような顔で高順を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「高順、そなたはいつもそうだな。朕はもう慣れた。して、これらの改革はどうすればよいのだ」




