第2話 勝算の計算
研究棟を出た瞬間、帆奈美は深いため息をついた。
(私、とんでもないことになってない?)
手の中のスマートグラスをまじまじと見つめる。
見た目は普通の眼鏡とほとんど変わらない。
だが、これが“疑似恋人実験”の鍵らしい。
「……とりあえず、使ってみるしかないか」
つるの先のスイッチを押す。
視界が青白く発光し、AR(拡張現実)の光が空中に浮かぶ。
白い漢服姿の老人の姿を現す。
骨伝導で声が響く。
「私は“恋愛マスターAI孫子”です」
(……名前ダサ)
「あなたの恋愛をサポートします。
まずは基本情報をお答えください――性別は?」
「えっと……女子です」
「年齢は?」
「二十一歳」
帆奈美は、言われるがままに質問に答え続けた。
(まるでマッチングアプリのプロフィール登録だ)
「基本情報登録完了。これよりターゲットを捕捉します。
ターゲットを見つめ、瞬きを三回してください。
それがロックオンの合図です」
(ターゲットって……)
研究室の奥で秋一郎がキーボードを叩いている。
レンズ越しに見つめ、瞬きを三回。
「捕捉完了しました」
HUDに真っ赤な文字が浮かぶ。
「ターゲット:小川秋一郎」
「難易度:SSS」
「ステータス:無関心」
「心拍数:安定」
「現在地:算地――自陣内での攻防」
(すごっ、見ただけなのに)
「ミッションを開始します」
HUDに兵法が表示される。
「『先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん』
――敵の得意分野を奪えば、思い通りに動かせます」
「得意分野って?」
「ターゲットはプログラムを最も愛しています」
「その領域で優位に立てば、関心を得られます」
「まずは話しかけてください」
「……分かったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」
帆奈美は秋一郎の背後に立ち、勇気を振り絞る。
「こ、こんにちは……」
返事はない。
(無視!?)
「もう、どうすればいいのよ……」
小声でAI孫子に囁くと、即座に答が返ってくる。
「十三行目。
行列変換関数のマイナス処理ができていません」
「え、なんて?」
「それをターゲットに伝えてください」
「……わかった」
帆奈美が恐る恐る伝えると、秋一郎は驚愕した。
「そんなことで……三時間も悩んでいた」
プログラムを修正し、実行。
画面が正常に動き出す。
「すごい!君、どうして気づいたんだ!?」
秋一郎は帆奈美の手を掴んだ。
「え、あ、勘です。 たまたま目に入っただけで」
(なんか……評価された?)
HUDが更新される。
「難易度:SS → S」
「ステータス:やや関心」
「状態:歓喜」
「現在地:交地――お互いに交流可能」
***
AI孫子が次の指示を出す。
「ターゲットの兵站を確認します」
HUDが秋一郎のデスクをスキャンする。
「分析:栄養状態は劣悪。集中力低下の兆候あり」
(うわ……エナジードリンクとカップ麺の墓場……)
「『豊饒を掠めて、三軍食に足る』
――食糧を奪って自軍のものにする」
「カップ麺を取り上げるの?」
「敵の食糧を自軍に依存させます。
あなたの食料を提供しなさい」
「えっ、折角、並んで買ったのに……」
「早く!」
「わかったわよ」
帆奈美は、しぶしぶサンドイッチを差し出す。
「あのう……買いすぎちゃって……よかったらどうぞ」
「脳の糖分が不足していた。合理的だ」
二人は並んでパソコンに向かいながら食事をとる。
(なんか、私……普通に仲良くしてない?)
食事中もHUDは動き続ける。
「データ更新:ターゲットは“静”を好む」
「大声・過度な接触 → 士気低下」
「会話比率:2:8を推奨」
(聞き役に徹しろってことね……)
「そのアルゴリズム、もっと詳しく教えてください」
秋一郎は堰を切ったように語り始めた。
HUDには、
「好感度:微増」
「心拍数:安定」
の文字。
(……なんか、ちょっと嬉しい)
気づけば外は真っ暗だった。
秋一郎がふと帆奈美を見る。
「……君、名前は?」
「栂野帆奈美です」
「そうか、栂野。君がいるとエラーの発見が早い。
明日も来てくれるか」
秋一郎が、笑顔で問う。
帆奈美の胸が少し跳ねた。
その瞬間、スマートグラスが警告音を鳴らす。
警告:操作者の心拍数が急上昇
「観測者の感情はデータのノイズです」
「うるさい!」
***
「じゃあ、明日も頼んだよ」と言って秋一郎が先に帰った。
「疲れた~」
帆奈美が椅子に座って手足を投げ出すと、背後から声がした。
「いいデータが取れたぞ、栂野君。
初期接触でここまで好感度が動くとは」
山波教授だ。
「AI孫子も君の適応能力を高く評価している」
(……喜んでいいのか、悪いのか)
秋一郎の無邪気な喜びを思い出す。
胸に小さな罪悪感が刺さる。
HUDに非情な文字が浮かぶ。
「次の作戦:接近戦」
「勝算を高めるため、さらなる接近を推奨」
(……はぁ。不安しかない)
帆奈美は、椅子にもたれかかったまま、天井を仰いだ。




