第1話 偽装恋人
研究棟に続く薄暗い渡り廊下を帆奈美は歩いていた。
頭上の蛍光灯が、途切れながら瞬き影を揺らした。
(……ほんとに、ここで合ってるよね?)
手元の紙には大きく「山波研究室」と記されていた。
研究棟の最奥──学生の間で“変人の隔離部屋”と呼ばれる場所。
二次募集でも第一志望どころか、三つの希望研究室すべてに落ち、教務課に泣き込んだ結果、
「空きは、ここしかありません」
と宣告された最後の避難所。
栂野帆奈美は、思わず深呼吸する。
(……仕方ない。入るしかない)
ドアを押した瞬間、重い空気が流れ出た。
内部は遮光カーテンに閉ざされている。
昼間だというのに夜のように暗い。
青白いモニタの光だけが点在し、無数の影を揺らしている。
「――失礼します。今日、面談をお願いした栂野です」
返事はなかった。
代わりに、キーボードの打鍵音だけが、部屋中に響き渡る。
カチャカチャカチャ……!
凄まじい速度だ。
帆奈美は、音のする方へ恐る恐る歩み寄っていく。
ひょろ長い体を屈め、血走った目で画面を睨む男が一人。
白衣の裾が椅子に挟まれたまま、全く動かない。
「あ、あのー……」
肩を叩こうとした瞬間、男が叫んだ。
「――ダメだ! 論理が破綻している!!」
椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、乱れた黒髪を掻きむしる。
「なぜ収束しない!?
バックプロパゲーションのパラメータが狂って──いや違う!
そもそも愛情をテンソル化するなんて……
恋愛経験のない僕には無理なんだ!」
帆奈美は思わず数歩下がる。
男はようやく帆奈美に目を向けた。
鋭い視線。
一秒。
そして指先を奥の部屋へ向ける。
帆奈美が指さす方を見ると、また無言でキーボードを叩き始めた。
(うわ。絶対、関わりたくないタイプだ)
帆奈美は、奥の部屋の扉のノブをそっと引いた。
ガチャッ、ギィーッ。
白衣姿のくたびれた中年男が椅子ごと体を回転させる。
髪はもじゃもじゃ、目はギラつき、顔色は死人のように悪い。
(……これが、噂の山波教授?)
「あの、私、今日から配属になりました。
情報工学部 AIソリューション科4年 栂野帆奈美です。
よろしくお願いします。志望動機はえっと……」
帆奈美が続けようとすると、山波教授が呟く。
「写真より地味だな」
「……はい?」
隣にいた研究員が淡々と言う。
「美人だと余計なノイズが入ります」
もう一人が頷く。
「平均的な個体の方が汎用性が高いです」
(平均的な個体……え、私の話!?)
教授は立ち上がった。
「では早速だが、君には我が研究室最高傑作
──恋愛攻略AIアプリの学習を手伝ってもらう」
「……はい?」
教授の目が光る。
「孫子の兵法を恋愛に応用し、恋を必勝に導くアプリだ!
若者の恋愛離れを解決し!
少子化を改善し!
それでもって、人類の進歩に寄与する!
ノーベル賞も夢では──」
帆奈美、完全に引いた。
(あ、ヤバい人だ)
研究員が言う。
「教授、落ち着いてください」
教授は急に真顔になって、コホンと咳ばらいをする。
「さて、本題だ。栂野君、これを使う」
机上に出されたのは、黒いフレームの眼鏡。
「これは、最新型のスマートグラスだ。
ターゲットの生理現象から、感情、心理を読み取る。
そして、次の一手を指示する。
恋愛を“戦略化”するのだ」
帆奈美は固まった。
教授がさらに続ける。
「そして──君には、ある男性と疑似恋人になってもらう」
「無理です!」
即答だった。
教授は笑い、モニタへ手を伸ばす。
「そう言うと思ってね。ほら、君の成績だよ」
映し出されたのは、惨憺たる数字の羅列。
(うわ……見ないで欲しい……)
教授が囁く。
「このままでは留年だ。
だが、この恋愛実験を完遂すれば、特例でS評価を与えよう」
帆奈美の心が揺れる。
「……相手は誰ですか?」
教授は口角を上げる。
「ほら、さっき君も会っただろう。
さっきの研究員、小川秋一郎くんだ」
帆奈美は絶句。
(よりによって、あの変人!?)
教授はメガネを押し上げ、とどめを刺す。
「もちろん、秋一郎くんには内緒だよ。
知ってしまうと、変なノイズが入るからね」
帆奈美は、深く息を吐いた。
迷う。
葛藤する。
瞼を閉じる。
そして──
「分かりました」
教授がニンマリと笑って、スマートグラスを手渡す。
「かしこい選択だ」
指先が震える。
ここから逃げたら、留年。
進めば──疑似恋愛の開幕だ。
研究室を出た瞬間、帆奈美は壁にもたれた。
足から力が抜ける。
(あぁ、S評価の誘惑に負けてしまった)
――でも、やるしかない。
帆奈美は、スマートグラスを握りしめた。




