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第15話:違和感は、静かに広がる

 最初の違和感は――

 誰の目にも明らかではなかった。


「……遅いな」

 王都の商業区。

 大商会の執務室で、男が帳簿をめくりながら呟いた。


「何がですか」

 若い番頭が顔を上げる。

「入金だ」

「入金、ですか?」

「ああ」

 指で一行を叩く。


「期日は過ぎている」

「ですが、遅延は以前から――」

「違う」

 ぴたりと遮る。

「“遅れ方”が違う」

 その一言で、空気が変わった。


「……どう違うんです?」

「前はな」

 男は椅子にもたれた。

「遅れても、“理由”があった」

「理由……」

「戦だの、天候だの、輸送の問題だの」

 どれも、説明がつくものだ。


「だが今回は?」

 帳簿を閉じる。

「理由が見えない」



 別の商会でも。

「在庫が合わない?」

「はい……帳簿上では合っているのですが、実物が……」

「足りないのか」

「いえ……余っているのです」

「……は?」

 一瞬、思考が止まる。


「余っている……だと?」

「はい」

「売れているんじゃないのか?」

「売れている“はず”なのですが……」

 言葉が、どこか曖昧になる。


「……おかしいな」

 その一言が、少しずつ増えていく。


「書類が通らないんだが」

「いや、通ってるぞ?」

「いや、俺のは差し戻された」

「なんでだ?」

「知らん」

「基準は?」

「分からん」

 基準が、曖昧になっていた。


「まあいいじゃないですか!」

 若い商人が、明るく言う。

「今は自由なんですから!」

「細かいことに縛られないのが、新しいやり方ですよ!」


 その言葉に。

「……そうかもしれんな」

 頷く者もいる。


 だが――

(本当にそうか?)

 疑問は、消えない。




 やがて。

「……撤収だ」

 静かに、その言葉が出た。

 王都有数の大商会、グレイン商会。

 その当主バルド・グレインが、ぽつりと告げたのだ。


「撤収……ですか?」

「全資産を分割。流動化できるものは即座に」

「ま、待ってください!」

 若い者が声を上げる。

「今はチャンスじゃないですか!」

「規制も緩いし、競争も減ってる!」

「稼ぐなら今ですよ!」

 もっともな意見だった。

 だからこそ。


「……だからだ」

 当主は、静かに言った。

「“稼げているように見える時”が、一番危ない」

「……」

「数字は伸びている」

 帳簿を叩く。


「だがな」

 一拍。

「“意味のある数字”じゃない」

 その言葉の意味を、理解できる者は――半分もいなかった。


「では、我々はどうするのですか」

「分ける」

 当主は即答する。

「残る者と、出る者でな」

「……!」


「全員を連れては動けん」

 それが現実だった。

「だが、全員を残すこともできん」

 だから。


「選べ」

 その一言が、重く落ちる。


 別の商会でも、同じような議論が起きていた。

「まだ早い!」

「いや、遅いくらいだ!」

「未来は明るいんだぞ!」

「その根拠はなんだ!」

「雰囲気だ!」

「雰囲気で商売するな!」

 怒号が飛び交う。


 だが、結論は出ない。

「……のれん分け、か」

 年配の男が、ぽつりと呟いた。

「それしかあるまい」

 別の者が頷く。


「若い連中は残れ」

「我々は出る」

「逆だろうが!」

 すぐに反論が飛ぶ。

「今の流れについていけるのは若い方だ!」

「だが、危険を嗅ぎ分けるのは年寄りだ!」

 言い分は、どちらも正しい。

 だからこそ――決まらない。


 最終的に。

「……好きにしろ」

 当主が言った。

「残りたい者は残れ」

「出たい者は出ろ」

「責任は、それぞれが持て」

 それが、唯一の答えだった。


 こうして。

 同じ看板を掲げていた商会は――

 静かに、二つに分かれた。

 残る者。

 去る者。

 どちらが正しいのかは、まだ誰にも分からない。



 一方、街では。

「最近ちょっと変じゃない?」

「え、そう?」

「なんか、物の値段がバラバラというか……」

「気のせいじゃない?」

「そうかな……」

 違和感は、確かに存在していた。


 だが――

 まだ、小さい。

「まあいいか!」

 笑って流される程度には。


 王城でも。

「多少の混乱はある」

 レオンハルトは言う。

「だが、変革にはつきものだ!」

「その通りです!」

 誰も異を唱えない。

「すぐに安定する!」

 その言葉を、誰も疑わない。


 違和感は、確かにあった。

 だが、それはまだ――

 “無視できる範囲”に収まっている。


 だからこそ。

 止まらない。

 止められない。


 小さなズレは、誰にも止められないまま。


 ゆっくりと。


 確実に。


 積み上がっていく。

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