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第十五話 黒板

 教育センターの三階は、学校とは違う匂いがした。新しい建材と空調の匂い。廊下が広く、天井が高い。


 大会議室の扉は開いていた。中に入ると、正面に黒板があった。


 ホワイトボードではない。黒い板にチョークで書く旧式の黒板だった。会議室には壁掛けのホワイトボードもあったが、その横に、わざわざ移動式の黒板が運び込まれている。門脇か三島か、どちらかが手配したのだろう。数学を議論する場には黒板がいる。それだけは、立場が違っても同じだ。


 傍聴席は部屋の後方に椅子が十脚ほど並べてあった。前方にはロの字型にテーブルが配置されている。名札。門脇真司。三島誠一郎。校長。教育委員会の担当者が三名。テーブルの端、黒板に最も近い位置に名札のない椅子が一脚。


 芦原の席だ。


 俺は傍聴席の端に座った。鞄を膝の上に置いた。鞄の中にノートがある。七ページと白紙の八ページ目。



 出席者が揃うまでの十分間を、俺は黒板を見て過ごした。


 門脇が最初に来た。グレーのスーツに資料の束。黒板の前を通りかかったとき、盤面に指を触れた。粉の乗り具合を確かめている。それから自分の席に着いた。


 三島。紺のジャケット。穏やかな顔で入ってきて、校長と教育委員会に挨拶して着席した。門脇と三島は対角の位置にいた。目を合わせなかった。


 校長。教育委員会の三人。


 最後に芦原が来た。


 制服。鞄を持っている。入口で一瞬立ち止まった。部屋の中を見回した。黒板を見た。テーブルを見た。傍聴席を見た。俺を見つけた。視線が合った。一秒。芦原は何も言わず、名札のない椅子に座った。鞄を膝の上に置いた。


 教育委員会の担当者が開会を告げた。議題の確認。出席者の紹介。形式的な手続きが五分。


 門脇が立ち上がった。


「本日は、数学的思考力評価プログラムの運用において生じた事案について検討します。当該生徒に問題を解いてもらい、その解法と評価基準の関係を検討したいと思います」


 門脇は黒板の前に立った。チョークを取った。白い線が黒板の上を走る。大きく、角張っていて、均等な字。教室で何千回も板書してきた人間の字だった。


 「整数 n について、n² + n + 1 を 3 で割った余りを、n を 3 で割った余りが 0, 1, 2 のそれぞれの場合について求めよ。」


 門脇が芦原を見た。


「芦原さん。この問題を、黒板で解いてください」


 芦原は椅子から立ち上がった。鞄を椅子に置いた。黒板の前まで歩いた。会議室の空気が変わった。テーブルの大人たちの向こうに、制服の十六歳が立っている。


 チョーク箱に手を伸ばした。ハゴロモのチョーク。数学者が愛する、あの滑らかな白。芦原の指が箱の縁に触れた。一瞬、止まった。それからチョークを一本取った。門脇が使ったのと同じものだ。同じ道具。同じ盤面。


 問題文を見た。三秒。書き始めた。



 芦原の字は小さくて均一だった。教室で見たのと同じだ。


 最初に、三つの場合をすべて計算した。


  n ≡ 0 のとき:n² + n + 1 ≡ 0 + 0 + 1 = 1

  n ≡ 1 のとき:n² + n + 1 ≡ 1 + 1 + 1 = 3 ≡ 0

  n ≡ 2 のとき:n² + n + 1 ≡ 4 + 2 + 1 = 7 ≡ 1


 ここまでは通常の解法と変わらない。三つの場合を個別に計算して、三つの余りを出す。1, 0, 1。


 だが芦原はここで止まらなかった。次の行にこう書いた。


  n ≡ 0 と n ≡ 2 は同じ余り(1)を与える

  n を −(n + 1) に置き換えると n² + n + 1 の値は変わらない

  この置換は mod 3 で 0 と 2 を入れ替える

  ∴ n ≡ 0 ~ 2(本問において区別不能)


  答え:

  n ≡ 0 ~ 2 のとき、余り 1

  n ≡ 1 のとき、余り 0


 チョークを置いた。


 黒板の上に、通常の解法と同じ三行の計算があり、その下に四行の分析があった。三つの場合のうち二つを束ね、三つの答えを二つにまとめている。


 だが——全部を束ねたのではなかった。0 と 2 は束ねた。1 は残した。余りが違うから。


 これが芦原のチルダだった。何もかもを一つにする乱暴な道具ではない。区別できるものは区別し、区別できないものだけを束ねる。寺田がやった「全部まとめる」とは、まったく違う操作だ。


 会議室が静かになった。教育委員会の担当者が資料に目を落としている。校長は動かなかった。三島が身を乗り出していた。


 門脇が立ち上がった。黒板の横に立って、芦原の答案を見た。


「芦原さん。上の三行の計算は正しい。答えも合っている。だが、なぜ下の四行が必要なんだ」


「必要、というより、見えたので書きました」


「見えた」


「0 と 2 が同じ余りを出すのは、式に対称性があるからです。三つの場合分けをして三つの答えを出すだけだと、この対称性が見えないままです。対称性を示すことで、三つの場合のうち本当に区別が必要なのは二つだけだとわかります」


「だが問題は三つの場合について『それぞれ』求めよと言っている。対称性を示すことは問題に要求されていない」


「問題に要求されていなくても、式の中にあるものは書いていいはずです」


 門脇はチョークを取った。芦原の答案の横に書き始めた。


  標準解法:三つの場合 → 三つの答え(1, 0, 1)

  芦原解法:三つの場合 → 対称性の発見 → 二つの場合(1, 0)


「芦原さん。上の三行では、君も三つの場合を個別に計算している。場合分けを省略していない。その点では問題ない。だが下の四行で何をしている?」


「結果を見て、0 と 2 が区別不能であることを示しています」


「それは事後的な分析だ。計算した後でまとめ直している。答えが出たあとに、答えの構造を記述している。それは解法の一部なのか、それとも解法の外にある考察なのか」


 芦原の手が止まった。


 数秒の沈黙があった。芦原の視線が一瞬だけ黒板から外れた。傍聴席のほうを見た。俺のほうを。見て、戻した。門脇に向き直った。


 門脇の指摘は鋭かった。芦原の答案は二段構成になっている。上段で場合分けを行い、下段でその場合分けの冗長性を指摘している。門脇は問うている——下段は数学の解答か、それとも数学についての意見か。


「門脇先生。下の四行は、解法の一部です。余りを求めるだけなら上の三行で足ります。でも上の三行だけでは、なぜ 0 と 2 が同じ余りになるかがわからない。下の四行は、答えの理由を示しています」


「答えの理由は、上の三行の計算そのものだ。計算して 1 になった。それが理由だ」


「それは各場合の理由です。二つの場合が同じ答えになる理由ではありません。同じ答えになったことが偶然なのか必然なのか、上の三行では区別できません」


「偶然か必然かを区別する必要はない。答えが出ればいい」


「門脇先生にとっては、そうかもしれません」


 芦原の右手がチョーク箱の縁に触れた。指先が白くなっていた。声は平坦だった。教室で問題を解いているときと同じ声だった。だが会議室の空気を切っていた。


「私にとっては、答えが同じなら、なぜ同じなのかを示すことが厳密さです。あなたの厳密と私の厳密が違うんです」


 会議室が止まった。


 門脇は芦原を見ていた。芦原は門脇を見ていた。黒板には芦原の七行と門脇の二行が並んでいる。



 三島が口を開いた。


「学術的な見解を述べてもよろしいですか」


 教育委員会の担当者が頷いた。


「芦原さんの解法は、構成的数学やホモトピー型理論と接点を持つ、異なる公理的立場からの記述です。既存の数学と矛盾するものではありません」


 三島は専門用語を最小限に抑えて、教育委員会に伝わるように話した。芦原ではなく黒板を見ていた。答案の構造を目で追っている。人ではなく、体系を見ている目だった。


「この体系は理論的な整備の余地が大きく、教育現場だけで閉じるには惜しい。ただし、門脇先生のご指摘も正当です。形式的な無矛盾性が未証明です。とくに推移律の保証が不十分です。既存の体系と同じ水準の信頼性は、現時点では主張できません」


 三島は両方に点を配った。学者の均衡。


 芦原が声を上げた。


「三島先生。今の問題は私の体系全体の無矛盾性じゃなくて、この黒板の答案が正しいかどうかです。この答案に矛盾はありますか」


「ない」


「門脇先生の三つの場合分けにも矛盾はないですよね」


「ない」


「どちらも正しくて、結論が同じで、それでもどちらかが選ばれないといけないんですか」


 三島は答えなかった。


 門脇が口を開いた。


「数学としてどちらが正しいかは、今日の議題ではない。今日の議題は、評価プログラムがこの答案をどう扱うべきかだ」


 芦原は黙った。門脇が正しい場面だった。数学と教育は、この会議室では別の軸で動いている。


 芦原は数学の土俵で戦おうとした。門脇は教育の土俵に引き戻した。その土俵では門脇のほうが強い。


 芦原が黒板の前に立ったまま、何も言わなくなった。


 チョークを持っている。七行の答案が背後にある。門脇とテーブルの大人たちが前にいる。芦原の言葉は、芦原の体系の中では完結している。だが門脇の体系にいる人間には、翻訳がいる。


 芦原の言葉をそのまま受け取れる人間は、この会議室にいない。


 いない。


 ——俺以外には。


 立ち上がった。


 考える前に立っていた。膝が震えていた。椅子が鳴った。ノートの角が手の甲に食い込んだ。会議室の視線が集まった。門脇が俺を見た。三島が俺を見た。校長が俺を見た。


 芦原が俺を見た。


 鞄からノートを出した。「芦原体系・覚書」。表紙の右上に「非公開」の三文字がまだ残っている。間違いだらけの七ページ。だが芦原はきのう言った。間違った翻訳でも、ないよりましだと。


 黒板の前まで歩いた。芦原の隣に立った。


「傍聴の立場ですが、一つだけ」


 校長が小さく頷いた。


「芦原の体系を、通常の数学の言葉で書こうとしたノートがあります。不完全です。間違いもある。ですが、芦原がいま黒板に書いたことを、門脇先生に伝わる言葉に翻訳する手がかりにはなると思います」


 ノートの五ページ目を開いた。チョークを取った。芦原の答案の下に、書き始めた。


 「芦原の記号 ~ は、当該文脈において区別する手段が存在しない関係を表す」


 「本問において、n ≡ 0 と n ≡ 2 は、n² + n + 1 を 3 で割った余りに関して同一の結果を導く。芦原の体系では、結論に影響しない区別は不要とする。一方、n ≡ 1 は異なる結果を導くため、区別を保持する」


 「これは対称性による場合分けの圧縮と類似するが、同一ではない。通常は対称性を証明してから圧縮する。芦原は結果の一致を確認した上で、一致の理由(式の対称性)を直接示すことで圧縮する」


 書き終えた。字が大きくて崩れていた。芦原の均一な字の下に、俺の乱雑な字が並んでいる。夏の夜の教室と同じだった。二種類の筆跡。


 門脇がノートと黒板を見比べていた。


「瀬尾。つまりこうか。芦原さんは三つの場合を計算したうえで、結果が一致する二つの場合を束ねている。束ねる根拠として、式の対称性を示している。操作としては対称性の議論に近い。ただし、束ねるかどうかの判断を、通常の手続きとは異なる基準で行っている」


「そうです」


「なら問題は一つだ。その束ね方を、誰が検証できるのか」


 門脇は芦原を見た。


「芦原さん。この問題に限れば、0 と 2 を束ねる根拠は、君の計算と対称性の指摘で十分に示されている。だが問題を変えたらどうだ。別の式で、同じ束ね方が通用する保証があるのか。直観は証明ではない。数学が証明を要求するのは、直観が間違うことがあるからだ」


 芦原は黒板を見ていた。俺の翻訳を読んでいた。


「先生」


 芦原が俺に向かって言った。門脇にではなく。


「ここ」


 俺の書いた文の一箇所を指さした。


 「結論に影響しない区別は不要とする」


「少し違います。『不要とする』じゃなくて、『不要であることが示される』です。私が決めてるんじゃなくて、結論が同じであることから導かれるんです」


 芦原はチョークを取った。俺の文の「不要とする」を消して、横に書いた。小さくて均一な字。「不要であることが示される」。俺の乱雑な字の中に、一箇所だけ芦原の字が入った。


 黒板の上で、二つの筆跡が重なった。


 一瞬だった。芦原はチョークを置いて、椅子に戻った。だがその一瞬を、会議室の全員が見ていた。門脇の目が、修正された一語の上で止まった。唇が薄く動いた。何かを読み取ったか、読み取れなかったか。


 「不要とする」と「不要であることが示される」。能動と受動。主体が規則を定めるのか、構造から規則が導かれるのか。一語。だがその一語が、芦原の体系と俺の翻訳の断層そのものだった。


 俺は芦原のチルダを「規則の体系」として書いていた。芦原がルールを決めて従っている、と。違う。規則は芦原が作ったのではない。世界がそう見えるから、そう書いているだけだ。


 七ページかけて翻訳できなかった差を、芦原は一語で直した。


 三島ならあの一語を、最初から正確に記述していただろう。だが七ページを書いたのは俺だった。間違えたのも俺だった。



 門脇が立ち上がった。テーブルの前に出て、黒板の全体を見た。芦原の答案。俺の翻訳。芦原の一語の修正。


「最後に申し上げます」


 声は静かだった。冒頭より低く、柔らかかった。


「芦原さんの数学が成立するかどうかは、私の判断の範囲を超えます。学術的に検討の余地があることは否定しません」


 門脇は会議室を見回した。


「ですが、私が守っているのは、この学校に通う二百人の生徒です。芦原さんの体系を理解できる生徒は、たぶんいません。安全に使える生徒もいません。以前、補習クラスで芦原さんの解法を真似た生徒が大量失点しました。管理なく広めれば、理解せずに真似する生徒が出ます」


 寺田の顔が浮かんだ。


「私が評価プログラムを作ったのは、採点の不公正をなくすためです。教師によって評価が変わることを防ぐために、共通の基準を作りました。芦原さんの答案はその基準から外れている。基準を変えるべきだという意見もあるでしょう。だが基準を変えるということは、残りの百九十九人が使っているルールを変えるということです」


 門脇は芦原を見た。


「残りの百九十九人を、私は守らなければなりません」


 門脇の声には怒りがなかった。信念だった。金メダルを取った男が数学の先端ではなく教育の現場を選び、不公正を正すためにプログラムを作り、その基準を十六歳に揺るがされても手放さない。手放したら百九十九人の足元が崩れる。


 門脇が守っているものの重さを、俺は初めて正確に測った。


 芦原は門脇を見ていた。何かを言おうとした。口が少し開いた。閉じた。


 反論しなかった。百九十九人を守ることは正しい。その正しさを芦原は否定できない。否定する気もないのだろう。芦原は百九十九人を傷つけたいのではない。ただ、二百人目の席がないことを、黒板の上に示しただけだ。



 教育委員会の担当者が結論を述べた。


「本件は継続審議とします。芦原さんの体系の学術的検証と、評価プログラムの基準の見直しの可否について、引き続き協議を続けます」


 継続審議。認められたのでも否定されたのでもない。裂け目だけが残った。数学は一つではないかもしれない、という裂け目が。


 閉会。出席者が立ち上がった。門脇と三島が何か話している。校長が教育委員会と出口に向かっている。


 黒板はまだ消されていなかった。三種類の筆跡がそのまま残っている。芦原の均一な字。俺の乱雑な字。そしてその中に一箇所だけ混ざった、芦原の修正。


「先生」


 振り返ると、芦原が立っていた。鞄を肩にかけている。


「二箇所間違ってた」


「二箇所」


「一つは直しました。『不要とする』のところ。もう一つは、その上。『結論に影響しない区別は不要』のところ。『不要』じゃなくて、『不成立』です。不要は選択です。なくてもいいけどあってもいい。不成立は事実です。区別する根拠が存在しないんです」


 不要と不成立。俺はずっと芦原のチルダを「便宜的な省略」として翻訳していた。省略ではない。芦原にとっては、区別がそもそも立ち上がっていない。省く前に、ないのだ。


 七ページ分の翻訳の根幹にある間違いだった。


「直します」


「お願いします」


 芦原はそこで一拍止まった。会議室には俺と芦原しか残っていなかった。


 芦原は黒板を見ていた。三種類の筆跡を、端から端まで目で辿っていた。自分の均一な字。俺の乱雑な字。そしてその中に自分が入れた一語。


「二箇所間違ってた。でもありがとう」


 ありがとう。芦原がその言葉を使ったのは、覚えている限り初めてだった。


 芦原は鞄を肩にかけ直して、会議室を出た。廊下に消えていく紺と灰色の靴下。


 俺は黒板の前に残った。三種類の筆跡。消されていない。だが明日にはこの黒板は片づけられる。筆跡は消え、会議室はまた別の議題に使われる。


 ノートの表紙を見た。「非公開」の三文字。今日、俺はこのノートを公開の場で開いた。非公開は終わった。だが終わったあとに何が来るのか、まだ見えなかった。


 俺は今日、芦原を守ったのか。それとも翻訳という名前で、もう一度芦原の言葉を自分のものにしたのか。それでも芦原は「ありがとう」と言った。



 廊下に出ると、門脇がまだいた。壁にもたれて、端末を鞄にしまうところだった。


「瀬尾」


「はい」


「三島が芦原さんにオリンピックの問題を送ったそうだな。一九八八年の第六問」


 足が止まった。芦原が検討会の前夜に渡してきた、あの紙。


「お前、あの問題を解いたか」


「追えた。白紙からは書けなかった」


 門脇は一秒だけ俺を見た。


「そうか」


 歩き去った。革靴の規則正しい音が廊下を遠ざかる。


 追えました、白紙からは書けなかった。それが俺の天井の全部だ。門脇にはそれが見える。同じ世界にいた人間だから。

次回最終回

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