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第十四話 対等

 公開検討会の通知は、木曜に届いた。


 教育委員会の書面。開催は十月十二日、土曜、午後一時。場所は市の教育センター三階、大会議室。議題は「数学的思考力評価プログラムの運用に関する検証」。出席予定者の欄に門脇真司、三島誠一郎、校長、教育委員会の担当者三名の名前が並んでいる。芦原凪の名前はなく、「関係生徒」とだけ書いてあった。


 俺の名前もなかった。末尾に一行、「関係教職員の傍聴を認める」。


 傍聴。教室にはもういない。職員会議にも呼ばれない。通知の中の俺の居場所は、末尾の一行だけだった。


 書面を畳んで、ちゃぶ台に置いた。その上に翻訳ノートを出した。七ページ目まで。八ページ目は白い。白いまま二ヶ月が過ぎた。芦原に「持ってきてください」と言われた日から十日。白紙は白紙のままだった。


 ノートを開いた。一ページ目。「a ~ b:a と b を区別する手段が存在しないとき、a と b は同一とみなす」。俺の字で書いた定義。その下に芦原の赤ペンで「違います」。何が違うのかは、今もわからない。だが「違います」の三文字だけは正確だと思う。


 閉じて、鞄に戻した。鞄の角が手の甲に当たった。



 金曜の夕方。検討会の前日。


 出勤簿を押した帰り、昇降口で芦原とすれ違った。制服。鞄を右肩にかけて、上履きから外靴に替えているところだった。十月の西日が昇降口の床に差し込んで、靴箱の影が長く伸びていた。


「先生」


「ああ」


「明日、来ますか」


「行く。傍聴だが」


「ノートは」


「持っていく。白紙のページごと」


 芦原は外靴を履いて立ち上がった。俺を見た。西日が横から当たって、前髪の影が頬に落ちていた。


「少し話せますか。教室が空いてます」



 補習教室に入った。蛍光灯をつけると、白い光が一瞬ちらついて安定した。机と椅子と黒板。俺が担当を外されてから二ヶ月が経つ。教室は同じだった。チョーク入れの中に白と黄色が残っている。黒板は消されていたが、前の授業の筆跡が薄く残っていた。知らない教師の字だった。


 芦原は左端の席に座らなかった。黒板の前に立って、こちらを向いた。俺は教卓の横に立った。


 最初の授業では、俺が黒板の前にいて、芦原が席にいた。


 今は逆だった。


 いつ入れ替わったのかは、わからない。四月に始まって、七月に壊れて、九月に川沿いで向き合って。気づいたら、芦原が黒板の前にいた。入れ替わったのではない。芦原が前に出た。俺が下がった。その力学が今、教室の中に物理的に見えている。


「明日のこと、三島先生から聞きました」


「何を聞いた」


「門脇先生が問題を出します。私に解かせる。門脇先生の基準で正解になる解法と、私の解法の両方を並べて検討する。三島先生はオブザーバーで、学術的な見解を求められたら答える」


「芦原さんはどうする」


「解きます。私の解き方で」


「門脇の基準では通らないかもしれない」


「通らなくていいです。通るために書き方を変えたら、それは私の数学じゃない」


 声に迷いがなかった。迷いがないことが、逆に怖かった。十六歳の声で、揺るがないものがある。四月に初めてあの答案を見たとき、同じ恐さを感じた。迷いのなさは強さだが、硬さでもある。硬いものは折れる。折れたとき、誰が拾うのか。


「先生は何をしますか」


「傍聴だ。さっき言っただろう」


「傍聴席でノートを開いて、何もしないんですか」


「……何かできると思うか」


「わかりません。でも、先生のノートには七ページ分の翻訳が入ってる。不完全で、間違いだらけで、でも、誰かが私の体系を別の言葉で書こうとした記録です。私の言葉だけじゃ届かないとき、それが要るかもしれない」


「要るかもしれない。芦原さんがそんな曖昧なこと言うの、珍しいな」


「曖昧じゃないです。要るかもしれないし、要らないかもしれない。両方ありうるから、両方言ってるだけです」


 俺は少しだけ笑った。そのあとで、笑いが消えた。


「芦原さん。明日、もし必要なら、あのノートを出す。求められなくても出す。七ページ分の間違いだらけの翻訳を、俺の名前で」


 言って、自分の声を聞いた。宣言というには小さく、覚悟というには震えていた。だが引っ込める気はなかった。


 芦原は俺を見ていた。何秒か、黒板の前に立ったまま、動かなかった。


「先生。なんで来るんですか。明日」


 この一週間、ちゃぶ台の前で考え続けた問いだった。


「芦原のため——とは、」


 言いかけて、止まった。


 いつもの手癖だった。「芦原のため」を否定し、「翻訳ノートのため」を否定し、「門脇への証明」を否定し、「三島への対抗」を否定して、残ったものを差し出す。消去法。半分の正直の親戚だ。潰してから残りを見せる。見栄えのいい誠実さ。


 もうやめよう。


 手が震えた。左手で右手首を掴んだ。止められなかった。


「お前のためじゃない」


 声が出た。思ったより低かった。


「俺自身が、あのまま終わりたくないだけだ」


 教室が静かになった。蛍光灯の微かな電子音だけが鳴っている。


 あのまま。大学院を辞めて、天井を見て、逃げて、非常勤を転々として、芦原の答案を見つけて、盗んで、暴かれて、処分されて。そこで終わるのが嫌だ。嫌だという感情だけがある。理由も正当化もなく、嫌だという一語だけが残った。


 誰のためでもない。何かの理想でもない。不完全なノートしかない。門脇の前に出したら穴だらけだ。


 それでも、あの七ページは俺が書いた。俺の目で見て、俺の手で書いた。



 芦原が黒板から背中を離した。一歩、教卓のほうに近づいた。


 足音が一つだけ鳴った。


 芦原はめったに距離を詰めない。教室でも川沿いでも、つねに一定の間合いにいた。その間合いが、一歩分、縮まった。


「先生」


「何だ」


「初めてまともなこと言いましたね」


 正しいとは言わなかった。正直とも言わなかった。まとも、と言った。


「これまで先生が言ったことは、全部、半分か、混ざってるか、わからないか、でした。今のは一個です」


「一個」


「半分のものは、もう半分がどこにあるかわからない。一個のものは、全部そこにある。見えるものは信用できます」


 俺は何も返さなかった。


 返す言葉がなかったのではない。返さないほうがいいと思った。芦原の言葉を分析して、引き取って、解説する。そういうことを俺はずっとやってきた。翻訳ノートがそうだった。ブログがそうだった。芦原の言葉を受け取って、自分の言葉に変換して、自分の場所に置く。


 今は、置かない。聞いて、黙る。


 黙ることが、これほど難しいとは知らなかった。分析する衝動が喉の奥で渦を巻いている。芦原の「一個」を翻訳したい。「一個」とは何か、なぜ「半分」より信用できるのか、構造を抜き出して名前をつけたい。それは俺の手癖だ。名前をつけることで自分のものにする手癖。ブログに載せたのと同じ構造。だが渦のまま飲み込んだ。


 芦原は一歩下がった。元の間合いに戻った。鞄を持ち上げた。


「先生。明日、ノートを持ってきてください。もし私が詰まったら、先生の翻訳がないと、門脇先生に伝わらないかもしれないので」


 俺が詰まったら。


 芦原が自分の限界を口にしたのは、初めてだった。「私の数学は私のものです」と言い切ってきた人間が、「伝わらないかもしれない」と言った。翻訳が必要だと認めた。自分の体系だけでは、壁の外に声が届かない場所があると。


 区別しないことは芦原の自由だった。だがその自由は、壁の外に届かない自由でもあった。届けるには、翻訳がいる。歪んだ翻訳でも。


「先生の翻訳は間違いだらけです。でも、間違った翻訳でも、ないよりましです」


 先週、俺が川沿いで芦原に言った言葉だった。歪んだ目でも、ないよりましだ。芦原はそれを覚えていて、俺に返している。同じ構造の言葉を、立場を入れ替えて。


「わかった」


「白紙のページは明日書けばいいです。会場で何が起きるか、まだわからないから」


 芦原は鞄から紙を一枚出した。A4のコピー用紙に、小さくて均一な字で問題が書き写してあった。


「三島先生が送ってきた問題です」


 紙を受け取った。


 正の整数 a, b について、ab + 1 が a² + b² を割り切るとき、商が完全平方数であることを示せ。


 手が冷えた。


 一九八八年の第六問。知っている。大学院の演習で解説を聞いた。美しかった。あの年の最難問。ビエタの跳躍。解法は追える。一行ずつ、全部追える。だが白紙の上にあの証明を自分の手で書いたことはない。あの問題は天井の形をしている。


「先生、知ってますか」


「追える。全部」


 芦原は紙を見ていた。


「私の体系だと、途中まで見えるんです。鎖が見える。でも鎖が下がることを示す方法がわからない」


 蛍光灯の電子音だけが鳴っている。


「見えるのに示せないのは、初めてです」


 芦原が自分の体系の壁を、ここまで具体的に言葉にしたのは初めてだった。


「明日が終わったら、考えてもらえますか」


 紙を畳んだ。ノートの七ページ目の上に入れた。白紙の八ページ目の隣に。


 芦原は教室を出かけて、ドアの前で足を止めた。


「先生」


「何だ」


「私も明日、初めてです」


「何が」


「自分の数学を、知らない人の前で見せるの」


 そこで芦原の声が一瞬だけ止まった。声ではなく、呼吸だったかもしれない。一拍。蛍光灯の光の下で、芦原の指が袖口に触れた。触れて、離した。


「怖いかどうかは、まだわからないですけど」


「俺は怖い」


 言ってから気づいた。芦原の言葉を翻訳しなかった。分析しなかった。ただ、自分の状態を返しただけだった。一個。


 芦原は一瞬こちらを見て、何も言わずに教室を出た。紺と灰色の靴下が、廊下の薄暗がりに消えた。



 俺はしばらくそこに立っていた。


 教室の空気がまだ動いている。芦原が出ていった後の空気。蛍光灯の電子音がまだ鳴っている。


 芦原が黒板の前に立ち、俺が教卓の横に立った。入れ替わった場所。芦原はそこから一歩だけ近づき、一歩だけ戻った。あの一歩が何だったのか、まだわからない。信頼ではない。信頼ならもっと遠い。確認だったのだろう。この人間はまだ立っているか、という。


 黒板を見た。白と黄色のチョークが置いてある。明日、芦原はあの黒板ではなく、別の場所の黒板に向かう。知らない人間の前で、自分の数学を書く。書いたものが批判される。否定される。評価される。十六歳が。


 鞄の中のノートの角が、手の甲に当たった。


 蛍光灯を消した。教室を出た。



 アパートに帰って、翻訳ノートを開いた。


 一ページ目から七ページ目まで。四月から七月。字が変わっていた。一ページ目は几帳面で、定義を正確に写している。三ページ目あたりから走り書きが増える。五ページ目には「翻訳不可能?」という問いが欄外に出ている。六ページ目は半分が取り消し線で、七ページ目は三行しかない。


 芦原はこれを持ってこいと言っている。穴だらけで、間違いだらけで、七ページで止まっているものを。門脇の前に。三島の前に。教育委員会の前に。


 八ページ目。白い。


 ペンを持った。「芦原のチルダ体系は、区別不能性を——」。取り消し線。「区別できないものを区別しないとき——」。翻訳ですらない。ペンを置いた。八ページ目は白紙ではなくなったが、何も完成していなかった。


 明日の俺は、七ページの間違いと、この中途半端な八ページ目を持って、傍聴席に座る。


 窓の外は暗かった。十月の夜の空気が、隙間風として足元を這った。


 鞄の中には、七ページと、白紙の八ページ目がある。その下に、芦原が渡した紙が一枚。天井の形をした問題。


 明日、あの白紙は白紙のままでは済まない。


 ノートの表紙に「非公開」と書いてある。俺が書いた三文字。明日、それを公開の場に持っていく。非公開のまま、公開する。芦原ならそれを矛盾とは呼ばないだろう。


 鞄を閉じた。



 駅に着いたのは、日付が変わる少し前だった。


 部屋の空気が肺に入らなくなった。歩いた。気づいたら七月と同じ駅にいた。


 改札の手前の階段。十月の深夜。風が冷たかった。階段の下に、人影があった。


 芦原だった。


 紺のパーカー。ジーンズ。七月の夜と同じ私服だった。鞄を肩にかけて、階段の一段目に座っていた。


 目が合った。


 芦原は立ち上がらなかった。俺は階段を下りなかった。五段の距離。


「先生」


「ああ」


「眠れなかったんですか」


「眠れなかった」


「私もです」


 それだけだった。それ以上の言葉はなかった。


 俺は階段を下りた。芦原の隣に立った。隣、ではない。一段上に。芦原が一段目にいて、俺が二段目にいた。目線の高さが同じだった。


 初めてだった。いつも見上げていた顔が、同じ高さにある。教壇の上下も、教卓と席の距離も、ここにはない。階段の一段分が、すべてを揃えていた。


 芦原の横顔が、駅の蛍光灯に照らされていた。前髪の下の目が、線路の方を向いている。


 風が吹いた。十月の夜の風。冷たかった。


 何も言わなかった。何も言わないまま、しばらくそこにいた。


 やがて芦原が立ち上がった。俺も一段上がった。二人で階段を上がり始めた。


 後ろ姿だけが見える。背の高さが、同じくらいだった。

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