第十三話 自由の檻
芦原から連絡はなかった。
八月が終わり、九月に入り、学校が夏休み明けの空気に切り替わっても、何も来なかった。俺は授業のない非常勤として出勤簿だけ押しに行き、空っぽの机の前に座り、昼前に帰った。翻訳ノートは鞄の中で七ページ目のまま止まっていた。
九月の第二週の火曜に、来た。個別指導の連絡用に交換した番号だった。
「三島先生の研究室に行きました」
一行だけだった。報告でも相談でもない。事実の送信だった。
「会えるか。話がしたい」
三十分後。
「日曜の午後なら」
◇
日曜日。川沿いの遊歩道。学校からは二駅離れている。
芦原は約束の五分前に来た。私服。白いTシャツにジーンズ。前髪が夏の間に少し伸びて、目の半分を隠していた。隣に座った。鞄を膝の上に置く。教室でも川沿いでも変わらない動作だった。
「研究室、どうだった」
「広い部屋でした。壁の三面が黒板で、一面が本棚でした。知らない記号が黒板に残ってました」
「三島先生は何をした」
「最初に白い紙を五枚くれました。何でもいいから書いてと。お茶も入れてくれました」
「書いたのか」
「書きました。チルダの定義と、問題を三つ。三島先生は何も言わずに、一時間見てました」
「一時間」
「はい。それから棚に行って、本を二冊と論文を三本、持ってきました」
芦原は鞄からノートを出した。三島の研究室で取ったメモだ。小さくて均一な字が詰まっている。
「一冊目は構成的数学の教科書でした。二つのものが等しくないことを証明できなければ、等しくないとは言えない、っていう立場の数学で」
「知ってる。芦原のチルダとの関係は、俺も考えていた」
「そうですか。三島先生は、似ているけど同じじゃない、でも親戚だって」
「もう一冊は」
「ホモトピー型理論の入門書でした。三島先生が、こっちのほうが近い親戚だと」
ホモトピー型理論。名前は知っている。中身を読んだことはない。位相空間論をやっていた頃、ホモトピーという言葉には触れた。だが型理論と繋がったその先は、俺が大学院を辞めたあとに急速に広がった領域だった。
「その本に、私の考え方と近いことが書いてありました」
芦原はそこで少しだけ言葉を探した。珍しいことだった。
◇◇
本棚の背表紙は全部色が違った。
凪はそれを見て、色で区別するのかと思った。内容より速い。だが、同じ内容の本が二冊あったら、色が違っても区別は不要だ。三島の本棚に同じ本は見当たらなかった。
黒板に三つの筆跡が並んでいた。どれが誰のものか、見分けられた。太い字と細い字と角張った字。字の形は書いた人の手に属する。内容が同じでも、筆跡は区別できる。区別してしまう。
白い紙に書いている間、三島は向かいの椅子に座ってお茶を飲んでいた。口は閉じていて、目だけが紙の上を動いていた。門脇とは違う見方だった。門脇は答案を読んだ。三島は答案を観ていた。何を観ているかは、わからなかった。
書き終えて顔を上げると、三島は立ち上がって本棚の前に行った。迷わなかった。右手が二冊を抜き、左手で棚の上の箱から論文の束を取った。どこに何があるか全部知っている手の動きだった。
「これを見てほしい」
一冊目の教科書を開くと、紙とインクの乾いた匂いがした。何度も開かれた本の匂いだった。ページの端が少し丸くなっていた。
三島が指で示した箇所を読んだ。
「二重否定の除去を仮定しない体系においては、¬¬A から A を導くことはできない」
――「Aでないことはない」は、「Aである」を意味しない。
三回読んだ。近かった。自分の中にある何かに、外から初めて光が当たる感じがあった。
三島が二冊目を開いた。ホモトピー型理論の入門書。こちらは新しい本で、まだ背表紙が固かった。ページの上半分に図があり、下半分に記号が並んでいた。
三島の指が一行を示した。
「型Aの要素 a, b について、同一性の型 Id(a, b) とは、a から b への道の型である」
道。
凪はその行を五回読んだ。前髪がページに触れたが、払わなかった。払う理由がなかった。
a と b が等しいとは、a から b への道が存在すること。道は構成するものだ。a のところに立って、b のところまで歩く。歩いた軌跡が「等しさの証拠」になる。道があれば等しい。
凪は自分のチルダを思った。
a ~ b。a と b を区別する手段がない。
道ではなかった。壁だ。a と b のあいだに壁があるかどうかを探す。壁が見つからなければ、a と b は同じ場所にいる。壁がないなら道を敷く理由がない。同じ場所に道は要らない。
あの二次方程式を思い出した。x² − 5x + 6 = 0。x = 2 と x = 3。この本の言葉なら、2 から 3 への「道」があるかどうかが問われる。凪の言葉なら、2 と 3 のあいだに「壁」があるかどうかが問われる。あの式の中には壁がなかった。だから同じだった。
道を建てる数学と、壁を探す数学。
近い。向きが逆だ。
「どう思う?」
三島の声がした。凪は本から顔を上げた。
「この本は道を探しています。私は壁を探しています」
三島の目が少しだけ変わった。
「面白い。うん、それは正確だと思う。ホモトピー型理論は同一性の証拠を構成する。君は、差異の証拠の不在を確認する。アプローチが逆だ」
三島は机の引き出しからペンを出した。メモ帳に何かを書き始めた。速かった。凪はメモ帳の文字を見た。自分が「道」と言った場所に path と書いてある。「壁」と言った場所の下に、知らない記号が増えていく。凪の言葉が、三島の記号になっていた。
「文脈の保存条件を形式化できたら、接続が見える。たとえばグロタンディーク位相みたいな構造で――」
グロタンディーク位相。知らない言葉だった。三島は知っていて、凪は知らない道具で、凪のチルダを書き直そうとしている。
「三島先生」
「うん」
「それは先生の数学にとって必要ですか。私の数学にとって必要ですか」
三島のペンが止まった。
凪はメモ帳を見ていた。凪が「壁」と言ったものが、三島の手の中で数式になっている。
三島は笑った。
「いい質問だ。――両方だよ」
「両方じゃないと思います」
三島の笑顔は消えなかったが、その奥の何かが少しだけ動いた。
「先生の道具で私のチルダを書き直すのは、先生の数学のための作業です。私の数学のためには、私の道具が要ります。まだないだけです」
「……なるほどね。でも、道具を作るにも材料がいる。一人で全部作るのは、とても難しい」
「知ってます」
帰り際に、三島はホモトピー型理論の入門書を貸してくれた。
「ゆっくり読んで。返さなくていい」
凪は本を鞄に入れた。
電車の中でもう一度、あのページを開いた。道を作る数学。近い部屋に誰かがいた。初めて知った。
隣にも部屋がある。でも隣の部屋のドアは、こちら側からは開かない。
瀬尾の翻訳ノートを思った。「区別不能性」。瀬尾が書いて、凪が「違います」と返した言葉。何が違うのか、あのときは言えなかった。三島の本を読んで、少しだけ見えた。
◇◇
「――近いけど、同じ部屋じゃなかったです」
芦原が川面を見ながら言った。
「三島先生は、親戚を見つけたと思って、嬉しそうでした」
「芦原さんは」
「嬉しかったです。少しだけ。親戚がいると知ったのは初めてだったから」
少しだけ。芦原が今そう呼んでいるものが、本当はもっと複雑なものだろうことは想像がついた。芦原は自分の感情を他人に渡すとき、たぶん翻訳している。俺だけが翻訳しているわけではなかった。
「でも三島先生は、私が『壁を探す』と言ったら、すぐにメモを取りました。私の言葉を先生の記号に書き換えてた。先生の翻訳ノートより、ずっと」
事実を言っただけだろう。だが事実は、ときに悪意より正確に刺さる。
「先生の翻訳と三島先生の翻訳は、速度が違うだけです。向きは同じです」
「わかってる」
「わかってるなら――」
芦原が俺を見た。川の光が、芦原の目の奥に薄く揺れていた。
「三島先生も同じことをするって、先生が言うんですか。先生がいちばん先にやったのに」
声に棘がある。自分の声だ。手のひらが汗ばんでいた。
そこで、自分の心配の正体が見えた。
三島に芦原を取られるのが嫌だ。それはある。だがその下に、もっと醜いものがある。俺の翻訳ノートが、三島の記述で上書きされることが怖い。
だがそれを言えば、結局は俺の都合だ。
「先生が私の答案をブログに載せたのは四月です。三島先生がコメントしたのは六月です。先生が穴を開けて、三島先生がそこから覗いた。先に覗かせたのは先生です」
「その通りだ」
「その先生が、三島先生を警告するんですか」
「……矛盾してるのはわかってる」
「矛盾じゃないです」
芦原の声は平坦だった。怒っていない。記述している。
「矛盾は、同じ体系の中で起きるものです。先生は、自分の行為と自分の忠告を別の体系で動かしてる。行為するときは自分の都合で動いて、忠告するときは私のためだと言う。それは矛盾じゃなくて、使い分けです」
言葉が出なかった。
川の上を鳥が一羽、低く飛んだ。芦原はそれを目で追った。追いながら言った。
「でも、先生が見えてるものは本当だと思います。先生が穴を開けたから、先生にはその穴が見える。三島先生の穴も見える。同じ形をしてるから」
「……芦原さん」
「はい」
「誰も信じるな」
芦原は鳥を追うのをやめた。
「俺も含めてだ。門脇も三島も俺も、全員がお前の数学に用がある。善意でも悪意でも、用があることは変わらない」
「先生――」
「だけど一人でやるな」
声が少しだけ制御を外れていた。
「区別しないことがお前の自由だ。だがその自由は檻にもなる。区別しないまま、善意と利用の違いを見落とすかもしれない。体系の内側にいる人間は、自分の体系の限界が見えない。お前は門脇にそう言っただろう。自分で自分が壊れてないって、どうやって確かめるんですかって。あれはお前自身にも当てはまる」
「……知ってます」
「外の目がいる。歪んでるけど、ないよりましだ。見てもらう相手を選ぶのはお前だ。門脇でも三島でも俺でもない。お前が選べ」
芦原は五秒ほど黙った。川の音だけが鳴っていた。
「先生。半分じゃないですね」
「半分じゃない。三島に取られたくないっていう醜いものが混ざってる。混ざったまま言ってる」
「知ってます」
一拍。
「半分じゃないのは二回目です。一回目のときは、楽しいって言いました。今日のは、楽しくなさそうです」
「楽しくない。自分がやったことの形が見えるから」
芦原は少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれないし、光が変わっただけかもしれない。俺には区別できなかった。
◇
芦原はペットボトルの水を飲んだ。キャップを閉めて、鞄に戻した。鞄の中に本の背表紙が見えた。新しい本だった。三島に借りたものだろう。芦原はそれを出さなかった。
「先生。来週、教育委員会から通知が来るそうです」
「通知」
「公開検討会です。私の答案と、門脇先生のプログラムと、学校の対応について、外部の人も含めて議論する場を設けると。三島先生が教育委員会に提案したそうです」
三島が教育委員会を動かした。学術的な関心と、制度を動かす腕力が同居している。
「先生が呼ばれるかはわかりません。でも、来るなら――」
芦原は一拍止まった。川のほうを向いたまま言った。
「翻訳ノート、持ってきてください」
「あのノートは不完全だ。七ページで止まってる」
「知ってます」
「間違いだらけだ」
「知ってます。だから要るんです」
芦原は立ち上がった。鞄を肩にかけた。
「完全なものは誰も持ってないです。門脇先生の基準も、三島先生の分析も、私の体系も。不完全なもの同士で並べるしかないです」
歩き出した。三歩目で足を止めた。振り返らなかった。
「先生のノートの間違いは、私が直します。前にも言いました」
そのまま遊歩道を歩いていった。紺と灰色の靴下が、九月の夕日の中で交互に見えた。
ベンチに座ったまま、鞄を開けた。翻訳ノート。七ページ目まで。八ページ目は白い。
処分が下りた夜も、門脇がアパートに来た夜も、この鞄の中でノートの角が手の甲に当たり続けていた。手放せないまま、底に沈めていた。
今日、持ってこいと言われた。
不完全なまま。間違いだらけのまま。
それが、少しだけ救いに見えた。
だがその救いも翻訳だ。芦原の言葉を、俺の都合のいい意味に置き換えただけかもしれない。ベンチから立ち上がる力は、まだ出ていなかった。




