第十二話 それでも俺が
八月になった。学校は夏休みに入った。俺は授業がないから、夏休みも普段も変わらない。
朝は五時に起きて、駅前のコンビニで品出しをした。六時間。昼に上がって、アパートに戻って、カーテンを閉めて寝た。夕方に起きて、ちゃぶ台の前に座った。翻訳ノートが置いてある。開いた。読んだ。閉じた。書くことがない。新しい答案がないからだ。
ブログは消した。三島の名刺は財布の中にある。芦原からは連絡がない。
七月の終わりから、毎日同じことを繰り返していた。コンビニ。睡眠。ノート。ノートを開いて、七ページ目の途中で止まる。チョークの粉がついたページ。金曜の夜の教室で書いた最後の行。そこから先は白い。
白いページを見つめている時間が、日に日に長くなっていた。
◇
八月の第二週の日曜日、門脇が来た。
アパートに、だ。
インターホンが鳴った。覗き穴から見た。一瞬、誰かわからなかった。門脇はポロシャツにチノパンだった。教壇の上の門脇しか知らない。私服の門脇は、背が低く見えた。手にコンビニの袋を持っていた。
ドアを開けた。
「上がっていいか」
六畳一間。ちゃぶ台の上に翻訳ノートが開いたまま置いてある。慌てて閉じた。段ボール箱が二つ、壁際に積んである。引っ越してきたときのままだ。四年間、開けていない。
門脇はコンビニの袋から缶コーヒーを二本出して、一本を俺に渡した。俺は受け取った。冷たかった。手が汗ばんでいたことに、缶の冷たさで気づいた。
「住所は校長に聞いた。勝手に来てすまん」
門脇は部屋を見回した。六畳。ちゃぶ台。段ボール箱。壁に何も貼っていない。本棚がない。本は段ボール箱の中だ。
「瀬尾。お前、これからどうするんだ」
「契約は九月末まで残ってる。授業はないが籍はある。十月以降は未定だ」
「四年前もそうだったな。大学院の修士課程を辞めたとき、何も決めずに辞めた。俺はあのとき声をかけるべきだったと思ってる」
「声をかけて何になった」
「わからない。だが何もしなかったことは、ずっと引っかかってた」
門脇がそんなことを考えていたとは知らなかった。金メダルの男が、銀メダルの男の退場を四年間覚えていた。
缶コーヒーのプルタブを引いた。音がした。門脇も同時に開けた。二つの音が重なった。
「門脇。心配してくれてるなら、ありがたいとは思う。だが同情されたいわけじゃない」
「同情じゃない。聞きたいことがある」
門脇は缶コーヒーをちゃぶ台に置いた。ちゃぶ台の上で、翻訳ノートの表紙が見えている。「非公開」の三文字。門脇はそれを一瞬見て、何も言わなかった。
「お前の数学は、どこにあるんだ」
質問の意味がわからなかった。
「芦原さんの数学は芦原さんの中にある。俺の数学は教育課程の中にある。三島先生の数学は基礎論の研究室にある。じゃあ、お前の数学はどこにあるんだ」
答えられなかった。窓の外で蝉が鳴いていた。アパートの壁が薄いから、隣の部屋のエアコンの室外機の音も聞こえる。
「お前は大学院で位相空間論をやってた。修士の途中で辞めた。そのあと四年間、非常勤で高校数学を教えてた。その間に、お前自身の数学はあったのか」
「なかった。芦原に出会うまで、なかった」
「芦原さんに出会って、できたのか」
「……わからない」
◇
門脇が缶コーヒーを飲み干すまで、しばらく黙っていた。蝉の声だけが部屋を満たしていた。
門脇は空き缶をちゃぶ台の端に置いて、言った。
「瀬尾。お前のブログは、削除される前に全部読んだ」
「……そうか」
「あれは芦原さんの数学じゃない。少なくとも、全部がそうじゃない」
門脇の声が変わった。教壇で採点結果を読み上げるときの声ではなかった。同僚に話しかけるときの声でもなかった。もっと低く、もっと静かで、相手の顔を見ながら話す声だった。
「お前が書いてたのは、お前自身の問いだ。等号とは何か。翻訳とは何か。ある体系の記号を別の体系の記号に写すとき、何が失われるのか。あれはお前の数学だ」
俺は顔を上げた。門脇にそれを言われるとは思わなかった。処分した人間が、処分された人間の仕事を読んで、そこに本人の数学を見つけた。
「翻訳ノート、見せてくれないか」
拒否する理由がなかった。ちゃぶ台の上のノートを、門脇の前に押した。門脇は表紙の「非公開」を見て、一秒だけ目を細めた。何かを考えている顔だった。
ノートを開いた。一ページ目。二ページ目。ゆっくりページを繰っていく。門脇の指が、ページの上を滑った。三ページ目で指が止まった。欄外の走り書きを見て、門脇の肩がわずかに動いた。息を吸った音が聞こえた。
「ここ」
門脇が三ページ目の欄外を指した。俺の走り書きがある。
「A~B, B~C → A~C は成立するか? 推移律が破れるケースは?」
覚えていた。芦原の体系の中で推移律が成り立つかどうか、俺が独自に考えた問いだ。芦原に聞く前に、自分で考えた。AとBが区別できず、BとCが区別できないとき、AとCは必ず区別できないのか。「区別できない」の判定が文脈に依存するなら、文脈が変わったとき推移律は破れる。芦原のチルダはそれを保証するのか、しないのか。
「これは芦原さんの問いじゃないだろう」
「……違う。俺が書いた」
「こっちも」
門脇は五ページ目を開いた。欄外にまた走り書きがある。
「チルダ→等号への射が存在するとして、この射は関手的か?」
関手。圏論の用語だ。芦原は圏論を知らない。これは俺が、芦原の体系を圏論の枠組みで捉えようとしたときの書き込みだ。
「これも」
六ページ目。
「翻訳の失敗は、翻訳先の体系の限界か、翻訳者の限界か。両方なら、区別できるか?」
門脇はノートを閉じた。表紙の「非公開」を、もう一度見た。
「瀬尾。お前は芦原さんの数学を盗んだ。俺はそう判断した。処分した。だが、ブログに書いてあったのは、盗んだものだけじゃなかった。お前自身のものもあった。走り書き。欄外の問い。翻訳の不可能性という結論。それは全部、お前のものだ」
「だが——」
「お前はそれを区別できてない。芦原さんのものと、お前のものを。お前がやるべきだったのは、芦原さんの数学を自分の名前で出すことじゃない。自分の問いを自分の名前で出すことだ」
言葉が出なかった。
門脇は正座を崩して、あぐらに組み直した。膝が痛いのかもしれない。部屋の中に蝉の声が響いていた。
「中澤先生は、今どうしてるんだ」
その名前が出ると思わなかった。体が強張った。
「知らない。大学院を辞めてから、一度も連絡してない」
「連絡しなかったのか、できなかったのか」
「……できなかった」
中澤先生。修士課程の指導教員だ。位相空間論の専門家で、地方大学の小さな研究室で、俺を指導してくれた人だ。修士を辞めるとき、メールを一通送った。「一身上の都合で退学します」。返信は来なかった。来なかったのか、見なかったのか。もう覚えていない。
五月の学会で、中澤先生とすれ違った。「瀬尾、最近どうだ」と聞かれて、「やってます」とだけ答えた。中澤先生は俺の手元のノートを見ていた。見せていないノートを、見ていた。何か言いたそうな目だった。だが俺が何も言わなかったから、中澤先生も何も言わなかった。あの沈黙が最後だ。
「中澤先生に連絡しろとは言わない。だが、お前が大学院を辞めたとき、指導教員は何か言ったか」
「何も。何も言わなかった」
「何も言わないのは、何もないのとは違う」
門脇は俺を見た。門脇の目は採点者の目ではなかった。同じ場所で数学をやっていた人間の目だった。
「俺は教育の側にいる。お前は翻訳の側にいた。違う場所だが、同じ数学科の出身だ。お前が院を辞めたとき、俺は何もしなかった。中澤先生も、結果的に何もしなかった。それがお前を四年間、宙ぶらりんにした。俺はそう思ってる」
宙ぶらりん。その通りだった。大学院を辞めてから非常勤になるまで、数学との関係は切れていた。教壇に立って、教科書の例題を解いて、採点して、それを「数学をやっている」と呼ぶことが、俺にはできなかった。
芦原の答案を見るまで。
「門脇。俺は——」
「待て。もう一つ伝えておく」
門脇の声が少し硬くなった。
「三島先生が芦原さんに、研究室訪問を正式に提案した。夏休み中に来ないかと。保護者にも説明をしたいと言ってる。学校としては保留してるが、芦原さん本人が希望すれば止められない」
三島が動いている。俺がここで白いページを見つめている間に。
「三島先生は優秀な研究者だ。だが、あの人は芦原さんの体系を研究資源として見ている。面白い対象として。俺はそれを止めたい。だが止める権限は、教育上の配慮以外にない。お前は——お前はどうするんだ」
どうする。何ができる。処分されて、授業もなくて、芦原との接点もなくて。翻訳ノートだけが手元にある。「非公開」と書いたノート。その中に、門脇が指摘した俺自身の問いがある。
沈黙が長かった。蝉の声が遠くなった。日が傾いて、カーテンの隙間から西日が一筋入ってきた。ちゃぶ台の上の翻訳ノートの表紙を、光の線が横切った。
ちゃぶ台の上のノートに手が伸びた。開いた。三ページ目の欄外。推移律への問い。自分の字だ。指先でなぞった。インクの凹凸が、指の腹に触れた。これは俺が書いた。
「門脇」
「何だ」
「夜間の大学院を、受けようと思う」
声に出してから、驚いた。考えていたのかもしれない。考えていたことに、今気づいた。七月の終わりからずっと、白いページを見つめていた。あの時間は何もしていない時間だと思っていた。だが何かが動いていたのかもしれない。言葉になる前に、体が先に決めていた。
門脇は何も言わなかった。三秒。五秒。
「何を研究するんだ」
答えられなかった。
だが、ちゃぶ台の上のノートが目に入った。七ページで止まっているノート。欄外の走り書き。推移律への問い。翻訳の射の問題。翻訳者の限界という問い。
答えは言えなかった。だが答えがどこにあるかは、わかった。
「……まだ言えない。だが、ある」
門脇は頷いた。立ち上がった。膝をさすった。
「瀬尾。お前は芦原さんの数学を盗んだ。それは事実だ。だがお前は自分の数学も握ってた。盗んだものと握ってたものを区別しろ。区別して、握ってたほうを出せ」
門脇は玄関で靴を履いた。
「中澤先生に連絡するかどうかは、お前が決めろ。ただ、四年前に何も言わなかった人間が、今なら何か言うかもしれない。俺がそうだったように。——それと、五月の学会で、中澤先生が俺に聞いてた。『最近、瀬尾どうしてる』って」
ドアが閉まった。門脇の足音が廊下を遠ざかって、階段を降りて、消えた。
◇
一人になった。
部屋が急に広くなった気がした。六畳なのに。門脇がいたときは狭かったのに、一人になったら広い。門脇が持ち込んだ質問が、部屋の中に残っている。お前の数学はどこにあるんだ。質問が場所を占めている。
区別しろ。門脇はそう言った。半分に割るのではなく。俺はずっと半分に割ってきた。動機を。正直を。芦原のものと俺のものを。だが割ったものは混ざる。混ざった結果が、あのブログだった。芦原は割らない。境界を引く。同じものと違うものを仕分ける。「書くな」と「捨てるな」を仕分けたように。
ちゃぶ台の上の翻訳ノートを手に取った。表紙の「非公開」。三文字。
開いた。一ページ目。芦原のチルダの定義。俺の翻訳。芦原の赤ペン。「ここ、違います」。
二ページ目。俺の三度の書き直し。「同値関係」「区別不能性」「相互認識」。芦原の「違います」「違います」「違います」。
三ページ目。欄外の走り書き。推移律の問い。これは俺のものだ。
五ページ目。関手的な射の問い。これも俺のものだ。
六ページ目。翻訳の失敗の問い。これも。
七ページ目。金曜の夜の最後の行。チョークの粉。
七ページの次は白い。
白いページを、しばらく見つめた。
門脇は「お前は握り続けてた」と言った。握り続けていた。手放したつもりでいた。大学院を辞めて、教壇に立って、高校数学を機械的に教えて、自分の数学は終わったと思っていた。だが欄外の走り書きは、終わっていなかった。芦原の体系に出会って、俺の中の問いが動き始めていた。盗んだのではなく——いや、盗んだのは事実だが——盗んだものの隣で、俺自身のものも育っていた。
中澤先生の顔が浮かんだ。小さな研究室。俺のノートに赤を入れてくれた手。あの手と、芦原の赤ペンの「違います」が、重なった。あのとき何も言わずに消えたことだけは確かだ。
スマートフォンを手に取った。下書きフォルダを開いた。七月に書いて、送らなかったメッセージが残っている。寺田宛。
「寺田。お前が芦原の答案を真似したとき、俺は怒った。だが俺がやったことは、お前がやったことと何が違うのか。俺にはわからなくなった」
三行。送信していない。送る資格がなかった。削除もしなかった。
ノートの白いページに、何も書かなかった。まだ書けない。だがこの白さは、七月までの白さとは違った。七月の白は「何も残っていない」だった。今の白は「まだ書いていない」だった。
ページを閉じた。ノートを鞄に入れた。鞄の中で、翻訳ノートの角が手の甲に当たった。
西日がカーテンの隙間から消えた。部屋が暗くなった。蝉の声が止んで、夜の虫の声に変わった。
暗い部屋の中で、鞄の角を手の甲に感じたまま、しばらく動かなかった。




