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第十一話「聞かない、誰も」

 処分は月曜の朝に通達された。


 校長室に呼ばれたのは始業の十分前だった。校長と事務長が机の向こうに座っていた。椅子を勧められたが、座る前に話が始まった。補習クラスの担当を解任。非常勤の契約は今学期いっぱい残るが、授業の割り当てはない。ブログの記事は全削除。再発があれば契約を即時解除する。


 校長が話している間、壁の時計の秒針が動く音だけが妙にはっきり聞こえた。事務長がクリアファイルから書類を一枚出して、机の上に置いた。「確認印をお願いします」。朱肉の蓋を開ける音。指先に朱肉が残った。拭くものがなかった。


 校長室を出ると、廊下が長かった。足が重いわけではなかった。むしろ軽かった。何もつながっていない軽さだった。


 すれ違う教師がいた。宮野先生だ。目が合って、逸らされた。知っているのだ。職員室の全員が、もう知っている。


 非常勤用の机に戻った。引き出しを開けた。赤ペンが一本と、出席簿のコピーが入っていた。芦原の名前が六回分、丸で囲んである。出席していた証拠だ。今となっては、それだけのものだ。


 時間割のホワイトボードを見た。俺の名前があった場所に、すでに別の教師の名前が貼られていた。磁石の色が変わっているだけだ。それだけのことだ。



 ノートパソコンを開いて、ブログの管理画面に入った。記事が四本並んでいる。


 一本目。「等号の変種について(1)」。削除ボタン。確認ダイアログ。「この記事を削除しますか?」。はい。画面から消えた。


 二本目。三本目。同じ手順を繰り返した。


 四本目。「等号の変種について(4)——文脈保存と推移律の限界」。


 指が止まった。金曜の夜に書いた記事だ。芦原が俺にだけ見せたノートの中身を、そのまま記述した記事。「体系の考案者自身がこの問題を認識しており、証明を試みたが成功していない」。あの一文。芦原の横線だらけのページを、俺の言葉に変えたもの。


 削除ボタン。確認ダイアログ。「この記事を削除しますか?」。


 はい。


 四本とも消えた。ブログには何も残っていない。だが読んだ人間の記憶は消えない。削除ボタンでは消せない。



 四本目を消した直後、ブログのダイレクトメッセージに通知が入った。あの匿名アカウントからだった。


 「記事が消えたことに気づきました。何かありましたか。体系の研究を継続されるなら、ぜひお話しさせてください。私は三島誠一郎と申します。S大学で数学基礎論を専門にしています」


 実名を名乗ってきた。プロフィール画像から辿って知っていた名前が、本人の口から届いた。


 画面を見つめた。返信の入力欄が白く光っている。指がキーボードの上で止まっていた。何を書けばいい。「実は高校の生徒の体系を無断で公開していました」とでも書くのか。


 四本の記事は、この画面のためだったかもしれない。


 返信しなかった。ノートパソコンを閉じた。閉じた画面に、蛍光灯の光が反射していた。



 三島が学校に来たのは、その週の木曜だった。


 あとで知った。三島はブログの書き手を辿っていた。俺がプロフィール画像の数式から三島を特定したように、三島もブログの記述から俺を特定した。「ある生徒」「考案者自身」。手がかりはいくらでもあった。


 俺に連絡してきたのではない。大学の正式な書面で、校長宛に面談を申し入れていた。「貴校の生徒の中に、数学基礎論に関わる独自の体系を構築している生徒がいるとの情報を得ました。学術的な観点から面談の機会をいただきたく存じます」。


 面談の日程が設定された。校長室で。出席者は校長、門脇、三島、芦原。


 俺は出席していない。処分中だ。だが事務書類の提出のために、その日も学校に来ていた。来る必要がなかったかもしれない。書類は翌日でもよかった。


 事務室に向かう廊下で、芦原とすれ違った。


 芦原がこちらを見た。一秒。目が合った。足は止まらなかった。視線だけが一秒、俺の上にあって、通過した。通過するための一秒だった。鞄を肩にかけて、校長室の方向に歩いていった。


 校長室のドアが閉まるのを、廊下から見た。


 ドアの向こうで、芦原の体系が語られている。芦原自身の言葉で。門脇が聞いている。三島が聞いている。校長が聞いている。そして俺だけが廊下にいる。


 壁に背を預けた。足元を見た。リノリウムの床に、上履きの跡が何本も交差していた。生徒たちの足跡だ。この中のどれかが芦原のものかもしれない。そんなことを考えている自分が惨めだった。


 壁に耳を寄せることはしなかった。芦原の声を、もう一度盗む気にはなれなかった。


 事務室に移動した。書類を提出した。判子を押した。また朱肉が指についた。今度はハンカチで拭いた。薄い赤が布に移った。



 面談は四十分で終わった。


 事務室の窓から、校長室のドアが開くのが見えた。三島が最初に出てきた。背が高く、細身で、スーツではなくジャケットにチノパンだった。大学の研究者という雰囲気がそのまま歩いていた。門脇が続いた。校長が続いた。芦原が最後に出てきた。


 芦原は鞄を肩にかけて、廊下をこちらに歩いてきた。事務室の前を通るルートだった。俺を見つけた。


 足が止まった。


 さっきは止まらなかった。面談の前、同じ廊下で目が合ったとき、芦原は一秒で通過した。今は、止まっている。


「先生。まだ学校にいたんですか」


「書類があった」


「そうですか」


 芦原は俺の前で立ち止まった。廊下の窓から西日が入っている。芦原の肩の片方だけが光っていた。


 沈黙があった。五秒。十秒。芦原が鞄のストラップを右手で握り直した。


「面談、どうだった」


「三島先生に会いました」


 報告の口調だ。いつもの芦原の声だ。だが、いつもより少しだけ早口だった。


「どういう人だった」


「面白い人でした。私の体系を知ってて、名前をつけようとしてました」


「名前」


「構成的数学って言ってました。私がやってることに、もう名前があるって。全部じゃないけど、似たものが」


 名前がある。芦原の体系が孤立していないことを、三島が芦原に伝えた。俺にはできなかったことだ。俺は名前をつける代わりに、ブログに書いた。


「三島先生は、ブログを読んで来たんですよね」


 報告の調子。非難でも感謝でもない。因果関係の確認だった。


「先生が書いたものを読んで、私の数学に名前がつけられると思って来た」


「……ああ」


「三島先生は、研究室に来ないかって。私の数学を、私の速度で続けられる場所がある、って」


「……そうか」


「門脇先生は、最後まで同じことを言ってました。全員が同じルールで解けるようにすることが大事だ、って」


 三つの立場が、芦原の口を通じて並んだ。三島の場所。門脇の秩序。そして俺の——。


「先生」


 芦原は俺を見た。いつもの固定された目だ。何かを測定しているような目。だが今日は、その目の奥に、疲労に似たものがあった。測定しても答えが出ない問いに、長時間向き合ったあとの目だった。


「三島先生に、一つだけ嫌なことを言われました」


「何を」


「『学校なんかに矯正されるべきじゃない』って」


「それは——」


「嫌だったんです」


 芦原の声が、少しだけ硬くなった。


「門脇先生の矯正は嫌です。でも、三島先生に『学校なんか』と言われるのも嫌でした。学校に何もなかったわけじゃないから」


 学校に何もなかったわけじゃない。その「何か」の中に俺が含まれているのかどうか、聞けなかった。聞く資格がなかった。指先の朱肉の赤が、まだハンカチの中に残っている気がした。


「先生。面談で思ったんですけど」


「何」


「三人とも、私の数学に対してやりたいことがある。門脇先生は直したい。三島先生は調べたい。先生は——」


 芦原が一度、言葉を止めた。西日が窓枠の影を廊下に落としている。影の線が芦原の足元と俺の足元の間を横切っていた。


「先生は、書きたかった」


 過去形だった。


 俺は何も言えなかった。書きたかった。そうだ。芦原の体系を、俺の言葉で、俺の理解で、翻訳して書きたかった。その欲望を、芦原は最初から見ていたのだ。


「でも、誰も私に聞いてないです。私がどうしたいか」


 夕日が芦原の前髪を透かしている。逆光で表情が読めない。


「芦原さん」


 声が掠れた。


「君は、どうしたいんだ」


 聞いた。初めて聞いた。この数ヶ月、俺はこの問いを一度も口にしなかった。何を見ているか。何が見えるか。治るものか。どう思ったか。全部聞いた。だが「どうしたいか」は聞かなかった。芦原を理解する道具にしていた。理解することが善意だと思っていた。


 芦原は数秒黙った。長い数秒だった。廊下のどこかで、誰かの上履きが床を鳴らした。その音が遠ざかって消えた。


「わかりません」


 芦原の声は平坦だった。だがその平坦さの中に、何かが違った。いつもの平坦さは、答えが見えているときの余裕だった。今の平坦さは、答えが見えないことを認めた上での静けさだった。


「でも、誰のものにもならないです。門脇先生のものにも、三島先生のものにも、先生のものにも」


 芦原は鞄のストラップを直した。階段のほうへ歩き出しかけて、止まった。振り返った。


 鞄の留め金に手をかけた。開きかけた。中のノートの角が見えた。B5。何も書いていない表紙。推移律の証明の失敗が詰まったノート。あの夜、俺にだけ見せたノート。


 芦原の手が止まった。留め金を閉じた。ノートは鞄の中に戻った。


「先生。翻訳ノート、まだ持ってますか」


「持ってる」


「捨てないでください」


 一拍、間があった。廊下の蛍光灯がちらついた。


「まだ間違いがたくさんあるので」


 芦原は階段を降りていった。上履きの音が一段ずつ遠くなった。紺と灰色の靴下が、西日の中を沈んでいった。



 廊下に一人残された。


 背中がまだ壁についていた。壁の冷たさが、肩甲骨を通じて伝わっていた。


 芦原が俺に頼みごとをした。初めてだった。


 その意味を考えようとして、考えられなかった。頭の中で何かが詰まっていた。書くなと言われた翌週に、捨てるなと言われた。二つの言葉の間にあるものが、うまく掴めない。


 天井の蛍光灯を見上げたまま、立っていた。



 三島が戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。校長への挨拶を済ませたらしい。廊下を歩いてきて、俺の前で足を止めた。


 俺は目を擦った後だったが、顔が赤かったかもしれない。三島は何も言わなかった。少し間を置いて、名刺を差し出した。S大学理学部数学科。准教授。三島誠一郎。


「あなたが瀬尾さんですか」


「……はい」


「ブログ、読んでいました。削除されたのは残念です。翻訳の不可能性に関する記述が面白かった」


 翻訳の不可能性。俺が書いた記事の中で、三本目にあたるものだ。芦原の体系を完全に翻訳することは原理的に不可能であるという結論。あの記事を面白いと言った人間が、目の前にいる。胸の奥で何かが動いた。認められた、と思った。その直後に、また善意だ、と気づいた。


「芦原さんは、今のところ誰の提案にも乗らないようです。予想はしていました。彼女のチルダは、区別できるかどうかを判定する主体が体系の内側にいる。外から別のルールを持ち込んでも、彼女の体系はそれを吸収しない。面白い」


 面白い。三島はそう言った。門脇なら「問題だ」と言うだろう。俺なら——俺は何と言っていただろう。「書きたい」と思っていただけだ。


 三島は名刺を渡した後、少し間を置いた。


「瀬尾さん。あなたの翻訳の方法論にも興味があります。芦原さんの体系と、あなたの翻訳は、セットで見るべきだと僕は考えています。もしよければ一度、大学でお話しできませんか」


 三島の目は穏やかだったが、観察者の目だった。芦原を見る目と同じ精度で、俺を見ていた。芦原の体系と、瀬尾の翻訳。両方を自分の研究に取り込もうとしている。善意だ。だがこの善意にも方向がある。芦原が言った通りだ。三島は調べたい。


「……考えさせてください」


 三島は頷いた。


「急ぎません。僕の連絡先はその名刺に。芦原さんにも同じことを伝えましたが、門は開けておきます」


 三島は帰っていった。ジャケットの背中が、西日の中で小さくなった。



 職員室の空っぽの机に戻った。


 鞄を膝の上に置いた。鞄の中から翻訳ノートを出した。表紙を見た。


 「非公開」。


 三文字。自分で書いた三文字だ。最初にこのノートを作ったとき、表紙に書いた。芦原の体系は非公開。自分だけの翻訳。誰にも見せない記録。


 そう書いておきながら、ブログに載せた。四本の記事にして、不特定多数に公開した。非公開と書かれたノートの中身を、公開した。その矛盾が、今になって腹の底に沈む。


 ページを開いた。一ページ目。芦原が最初に見せた式。チルダの定義。俺の字で翻訳が書いてある。その隣に赤字で修正が入っている。芦原の字だ。「ここ、違います」。


 ページをめくるごとに、芦原の赤ペンが増えていった。俺が「同値関係」「区別不能性」「相互認識」と三度書き直しても、すべてに「違います」と返されている。四ページ目で修正が半々になり、五ページ目以降は筆記に近い。同じ記号を見ているのに、俺たちは異なるものを読んでいた。


 七ページで止まっていた。金曜の夜の教室で書いた最後のページだ。ページの右下に、チョークの粉が薄く付着していた。


 ノートを閉じた。表紙の「非公開」を、もう一度見た。


 三文字の意味を考えようとした。何かが変わったような気がする。だが何が変わったのか、わからなかった。


 蛍光灯が消灯時刻になって消えた。非常灯の薄い緑色だけが残った。


 鞄の底に、三島の名刺があった。S大学理学部数学科。准教授。三島誠一郎。


 それでも立っていた。「非公開」の三文字を、暗がりの中でまだ見つめていた。

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