第十話「信じてました」
月曜の朝、黒板を消した。
二種類の筆跡が灰色の霞になって消えた。チョークの粉が掌についた。白い粉。金曜の夜の残骸。黒板消しを動かすたびに、あの夜の空気が少しずつ薄まっていく。最後の一画を消したとき、黒板は元の暗緑色に戻った。何も書かれていなかったかのように。
左端の小さな「×」だけが、最後まで残った。芦原が書いた印。推移律の切れる場所。穴の位置を記録した記号。その「×」を消すとき、手が一瞬止まった。止まったことを、誰も見ていなかった。
スマートフォンの写真は消さなかった。
◇
木曜の午後、門脇が来た。
電話で予告された通りだった。一週間の猶予が終わった。
面談室。丸テーブル。椅子が三脚。冷房が効きすぎていて、テーブルの天板に触れた指が冷たかった。
門脇は上着を脱がなかった。テーブルの上に資料の束を置いた。その一番上に、芦原の判定保留の答案のコピーがあった。
「座れ」
門脇は座らなかった。立ったまま、俺を見下ろしていた。いつもの膝を折る姿勢ではなかった。
「瀬尾。聞くぞ。一回だけ聞く」
「ああ」
「芦原さんに、評価基準の資料を見せたか」
三秒。冷房の音。
「見せた」
門脇の表情は変わらなかった。予想していた答えだったのだろう。
「なぜだ」
「芦原が、自分の答案が一になった理由を知りたいと言った。基準を見せてほしいと」
「それは生徒に見せるものじゃない。教員用の資料だ。わかっていたはずだ」
「わかっていた」
「わかっていて見せた」
「そうだ」
門脇は椅子を引いて、ようやく座った。腕を組んだ。革靴がテーブルの脚に当たる小さな音がした。
「瀬尾。お前に聞きたいのは、見せたかどうかじゃない。それはもう確認した。聞きたいのは——もう一つのほうだ」
門脇は資料の束から、別の紙を引き出した。プリントアウト。ウェブページの印刷。
俺のブログだった。
「等号の変種について(1)」「等号の変種について(2)」「等号の変種について(3)」「等号の変種について(4)——文脈保存と推移律の限界」。四本の記事のタイトルが並んでいる。画面をそのまま印刷している。コメント欄も見えた。三島との往復が。
テーブルの上に広げられた四枚の紙を見下ろしている。自分の書いた文章が印刷されている。黒インクの文字が白い紙の上に並んでいる。蛍光灯の下で、マグカップの隣で、翻訳ノートを見ながら書いた文章。それが今、門脇の手元にある。
血の気が引くのがわかった。顔から熱が消える。指先が冷えていく。冷房のせいではなかった。
「芦原さんの答案の特徴で検索すれば、すぐに出てくる。チルダ、区別不能、等号の変種。匿名のブログだが、内容はあの答案と完全に一致する」
「門脇——」
「お前だろう」
否定できなかった。
門脇は四枚目のプリントを指で押さえた。「等号の変種について(4)」。金曜の夜に書いた記事。
「これは基準の話じゃない。評価プログラムの資料にはこんな内容は載っていない」
門脇の指が、記事の一行を押さえた。
「『体系の考案者自身がこの問題を認識しており、証明を試みたが成功していない』。——瀬尾。これはどこから出てきた情報だ」
心臓が止まったように感じた。門脇は正確に読んでいる。この一行が、資料の漏洩とは質の違う問題だということを、見抜いている。
「芦原が……自分で話した」
「芦原さんが、自分の体系の弱点をお前に打ち明けた。それをお前がブログに書いた」
「……そうだ」
門脇が黙った。五秒。十秒。冷房の音だけが面談室を満たしていた。
門脇の表情が変わった。怒りではなかった。もっと静かな、もっと深い場所にある何かだった。
「なぜこんなことをした」
半分は——と口が動きかけた。いつもの癖だ。理由を二つに割って、片方だけ差し出す。だが割れなかった。縫い目が見つからなかった。全部がそうだったからだ。
「芦原の体系を記述して、公開して、誰かに見てもらいたかった。俺の名前で」
言ってから、言葉が面談室の空気に溶けるのを聞いた。自分の声が他人の声のように聞こえた。分割されていない言葉が、そのまま出た。言ったのは俺だ。だが言わせたのは、四年間押し込んでいたものだ。
門脇が俺を見ていた。俺も門脇を見ていた。だが門脇の顔が遠くなっていく気がした。面談室の空気が重くなったのではない。俺が沈んでいるのだ。
「資料を見せただけじゃない。芦原さんの体系を、数ヶ月にわたってブログで公開していた。評価基準の漏洩と、生徒の学習内容の無断公開。——そして四本目は、生徒が教師にだけ打ち明けた弱点の公開だ。三重だ」
「……そうだ」
「芦原さんを呼びたい。この場で直接話す。お前も同席しろ」
◇
芦原が面談室に入ってきた。鞄を持っていた。残りの一脚に座った。鞄を膝の上に置いて、門脇を見た。
三人が三角形になる。
「芦原さん。前回のテストの答案について聞きたい」
「はい」
「あの答案は、評価基準の詳細を知ったうえで書いたものか」
芦原は一呼吸おいた。窓のほうを見て、戻した。
「はい」
「基準は誰に見せてもらった」
「瀬尾先生です」
門脇は俺を見た。俺は目を逸らさなかった。逸らす権利がなかった。
「芦原さん。なぜあの答案を書いた」
「基準を読んで、境界が見えたからです」
「境界」
「基準の文言で判定できる答案と、判定できない答案の境界です。判定できない場所があるなら、そこに立つ答案が書ける。書けるなら、書いてみたかった」
「それは、プログラムへの妨害だとは思わなかったか」
「妨害じゃないです。曖昧なものを曖昧に書いただけです」
門脇は少し黙った。芦原の論理を受け取っている。
「芦原さん。もう一つ、確認したいことがある」
門脇はテーブルの上の四枚のプリントを、芦原のほうに向けて並べた。
芦原の目がプリントに落ちた。
一枚目。「等号の変種について(1)」。タイトルを読んで、本文に目を移した。数秒。二枚目。三枚目。読む速度は変わらなかった。
四枚目。
芦原の目が止まった。
「等号の変種について(4)——文脈保存と推移律の限界」。タイトルから本文に入った。指が紙の端を掴んでいた。二行目で、指が白くなった。
「体系の考案者自身がこの問題を認識しており、証明を試みたが成功していない」。
芦原の目がその一行で止まった。三秒。五秒。紙を持つ手が、微かに震えた。芦原が震えるのを見るのは初めてだった。
紙をテーブルに戻した。顔を上げた。門脇を見た。それから、俺を見た。
その目を、俺は知らなかった。固定された目。いつもと同じだ。だが奥にあるものが違った。いつもは回転する何かがあった。今は何もなかった。回転が止まっていた。
「芦原さん。このブログを知っていたか」
「いいえ」
一語。門脇は芦原の表情を見ていた。嘘ではないことは、あの震えが証明していた。
「このブログを書いたのは瀬尾先生だ。君の答案の内容を、匿名で公開していた。四本目の記事は——」
「読みました」
芦原が遮った。芦原が人の話を遮るのは初めてだった。
面談室が数秒間、沈黙した。
「芦原さん。君の体系について、一つ聞きたい」
門脇の声が少しだけ変わった。数学者としての門脇が前に出ている。
「君の体系では、aとbが区別不能で、bとcが区別不能なら、aとcも区別不能だと言えるか」
推移律。門脇はブログの四本目を読んで、ここを突いてきた。
芦原は数秒、黙った。震えた手は、もう震えていなかった。膝の上の鞄を両手で押さえている。
「文脈が同じなら、言えます」
「文脈が変わったら?」
「変わったら、わからないです」
「わからないのに、体系として使っているのか」
「……してないです。わからないところは、使ってないです」
芦原が言葉を選んでいた。いつもの即答ではなかった。
門脇は続けた。
「君の体系の無矛盾性は、誰かが証明しているのか」
「誰も」
「君自身は」
「できてないです」
「なぜ」
芦原は窓のほうを見た。それから門脇を見た。
「自分で自分が壊れてないって、どうやって確かめるんですか」
面談室が静かになった。冷房の低い唸りだけが残った。
門脇の右手が、テーブルの上で一瞬だけ止まった。数学者としての門脇が、この問いの深さに触れた瞬間だった。
「外から見る」という答えが浮かんだ。体系の外から整合性を検証する。それが数学の方法だ。だが俺がやったことは、外から見ることではなかった。外に持ち出すことだった。口が開かなかった。
門脇は芦原の言葉を受け取って、数秒間黙った。
「芦原さん。君の問いは、数学的には重要だ。だが今の話は、君の体系が無矛盾かどうかではなく、二つの問題だ。一つは、君の答案が評価プログラムの判定を意図的に攪乱したこと。もう一つは、瀬尾が君の体系を無断で公開したこと」
論点を分けた。門脇は正しい。二つの問題は別だ。別にできる門脇の冷静さが、今は壁だった。
「瀬尾」
「何だ」
「ブログは削除しろ。お前の処分については、校長と相談する」
門脇は立ち上がった。資料を束ねた。
立ち上がりかけて、止まった。資料の束から、一枚を引き抜いた。期末テストの答案のコピーだった。首飾りの問題の解答が見えた。「五は素数。束のサイズは五か一。中間はない」。芦原の字。
門脇はそのページを数秒見つめていた。見つめてから、束に戻した。
「芦原さん。一つだけ言っておく」
「はい」
「君の問いは間違っていない。自分で自分を検証できるか、という問いは、数学の根本にある問いだ。——それと、期末テストの首飾りの問題。あの解法は正しい。バーンサイドの補題を知らずにあそこに到達するのは、並じゃない」
門脇の声が一瞬だけ変わった。処分を告げる声ではなかった。数学者の声だった。だがすぐに戻した。
「だがそれと、テストで何をしていいかは、別の話だ」
芦原は頷かなかった。頷かなかったが、門脇を見ていた。
「君の体系を壊したいわけじゃない。だが、この学校で他の生徒と同じテストを受ける以上、共通のルールには従ってもらう。それは君を否定することじゃない。百九十九人を守ることだ。——それに、君が今聞いた問いをちゃんと立てるにも、共通の言葉がいる」
門脇が面談室を出た。
◇
芦原と二人になった。
芦原は椅子に座ったままだった。膝の上の鞄を両手で抱えている。窓の外を見ていた。西日が芦原の横顔の半分を照らしていた。
何秒か経った。十秒か、三十秒か。時間の長さがわからなかった。
「先生」
「……ああ」
「四本目の記事。あれ、金曜の夜に書きましたよね」
金曜の夜。黒板の夜。芦原がノートを見せた夜。「先生にだけ見せます」と言った夜。あの夜の帰り道、小雨の中を芦原が歩いていった背中を見送って、アパートに帰って、パソコンを開いた夜。
「書いた」
「私がノートを見せた、あの夜に」
「あの夜だ」
芦原は俺を見た。長い時間。固定された目。いつもと同じ目だ。だがその奥は、さっきと同じだった。何も回っていなかった。
「先生。私は先生を信じてました」
声は平坦だった。いつもの報告の調子だった。だが「信じてました」が過去形であることが、冷房の音のように部屋に広がった。
「信じるっていうのは、私の言葉では、区別しなくていいと判断したということです。先生の都合と先生の誠意を、区別しなくていいと」
芦原の言葉は正確だった。自分の体系の言葉で、自分の判断を記述している。信頼とは、二つのものを区別しないという判定。チルダ。芦原にとって信じることは、チルダを架けることだった。
「でも区別が必要だった。私が間違ってました」
芦原がそう言うのを聞いたのは初めてだった。芦原は自分の体系を「壊れているかもしれない」とは言った。「証明できない」とも言った。だが「間違っていた」とは言わなかった。間違いは判定だ。正しさの反転。芦原がその言葉を使ったということは、チルダを架けたこと自体が誤りだったと、体系の内部から宣言したということだ。
信頼を撤回している。数学的に。
腹の底に重いものが落ちた。落ちたまま、上がってこなかった。
「……すまない」
「謝らなくていいです。謝っても、読んだ人は読んだままです」
芦原の声は変わらなかった。平坦なままだった。だがその平坦さが、以前のものとは違っていた。以前の平坦さは芦原の気質だった。今の平坦さは、感情を通さないための壁だった。同じ声。違う構造。
「先生のものじゃないです。私の数学も、私の間違いも」
声が耳に届いて、三秒遅れで意味が来た。
金曜の夜の教室が浮かんだ。チョークの粉。二種類の筆跡。「楽しいですか」と聞いた芦原の声。あの夜、芦原は俺を信じてあの場所に来た。誰にも頼らないあの芦原が、俺の翻訳ノートを頼りに、俺と一緒に黒板の前に立った。推移律のノートを「先生にだけ見せます」と言って差し出した。
その手が今、鞄を握っている。俺に渡したものを全部、鞄の中に引き戻そうとしている。
「先生。もう翻訳ノートには何も書かないでください」
芦原は鞄を肩にかけた。立ち上がった。椅子が床を擦る音がした。
面談室を出た。靴音が廊下に遠ざかる。均等な間隔で。いつもと同じだ。同じだからこそ、何かが決定的に終わったことがわかった。
◇
一人で面談室に座っていた。
丸テーブルの上に何も残っていなかった。門脇は資料を持って帰った。芦原は鞄を持って帰った。俺の手元には何もない。翻訳ノートは鞄の中にあるが、「何も書かないでください」という言葉が蓋になっている。
書くな、と芦原は言った。捨てろ、とは言わなかった。——その区別に、俺はそのとき気づかなかった。
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。椅子の座面に手をついた。掌が汗で滑った。
「私が間違ってました」。芦原の声が頭の中で鳴っていた。あの言葉は俺への非難ではなかった。芦原は自分の判断を訂正したのだ。俺を信じたことを、誤判定として処理した。許すでも許さないでもなく、チルダを外した。
チルダを外す。区別しなくていいと判断したものを、区別が必要だったと訂正する。俺の都合と俺の誠意は、別のものだった。最初から別だった。芦原だけがそれを区別しなかった。そして今、区別した。
校長室の方角から、門脇の声がかすかに聞こえた。報告が始まっている。門脇の声は安定していた。正しい声だ。正しさを持つ人間の声だ。
しばらくそうしていた。蛍光灯が白い光を落としている。冷房が低く唸っている。耳の奥で高い音が鳴っていた。芦原の声でも門脇の声でもない、自分の内側から来る音だった。丸テーブルの天板に、自分の顔がぼんやり映っていた。表情が読めなかった。自分の顔なのに、何を感じているのか、映った顔からは判定できなかった。
ようやく立ち上がった。鞄を持って面談室を出た。廊下は夕方の光に染まっていた。昇降口に向かう。靴を履き替える。校門を出る。一つ一つの動作が、他人の体を動かしているように遅かった。
駅までの道を歩いた。七月の夕暮れは長い。アスファルトの照り返しが靴の先を熱くしている。鞄の中の翻訳ノートが重かった。七ページ分の紙の重さではない。それ以上の何かが、鞄の底に沈んでいた。
駅の階段を降りるとき、足がもつれた。手すりを掴んだ。金属の手すりが熱を帯びていた。夏の夕方の熱。その熱だけが、今、確かなものだった。
階段を降りながら、段数を数えようとした。一段、二段、三段。四段目で数を見失った。足を置く先に何段あるのか、見ればわかるはずなのに、数えられなかった。数を数えられないのは初めてだった。何も数えられない。何も分割できない。何も区別できない。
ホームに立った。電車が来るまで、何も考えられなかった。考えようとすると、芦原の「私が間違ってました」が頭の中で鳴った。何度も。同じ平坦な声で。金曜の夜、「楽しいですか」と聞いた声と同じ口から出た言葉だった。同じ声。違う温度。
その二つの声を、俺は区別できた。区別できることが、何より痛かった。
電車が来た。乗った。座席に座った。膝の上に鞄を乗せた。鞄の角が手の甲に当たった。いつもの位置だ。だがその感触すら、今は遠かった。




