第九話 共犯者
門脇から電話が来たのは、判定保留の通知が届いた翌日の昼だった。
「瀬尾。芦原さんの答案について、確認したいことがある」
声は落ち着いていたが、いつもの明るさがなかった。
「芦原さんの答案を見たか」
「見た」
「どう思った」
「……独特の答案だと思った」
「独特ね」
門脇は三秒ほど黙った。電話越しの沈黙が重かった。
「瀬尾。あの答案は、評価基準の詳細を知らなければ書けない。基準の判定条件の、ちょうど境界を突いてる。全四軸で。偶然じゃない」
心臓が打っている。受話器を持つ手が汗で滑った。
「門脇。それは——」
「今は聞かない。だが来週、学校に行く。そのとき話す」
電話が切れた。
「今は聞かない」。聞かないのではない。電話では聞かないということだ。来週、面と向かって聞く。
猶予は一週間。
◇
木曜日の補習のあと、芦原が残った。
俺が何か言う前に、芦原が口を開いた。
「判定保留、になったんですよね」
「どこで知った」
「先生の顔を見ればわかります。先週と違う」
「門脇先生から連絡が来た。来週、話をすると」
「基準を見せたのがバレそうですか」
「バレそうだ」
「先生。逃げますか」
逃げる。門脇に「知らない」と嘘をつく。芦原が自力で書いたと主張する。証拠はない。資料は返してもらっている。逃げられる。たぶん。
「逃げない」
口が先に動いた。考えてから出た言葉ではなかった。言ったあとで、自分の声を聞いた。
「なんでですか」
「逃げたら、お前の答案がただの問題行動として処理される。判定保留の意味が消える。お前が書いたものが何だったのか、誰にも伝わらないまま終わる」
「先生のためじゃないんですか」
「半分は」と言えなかった。前回の放課後に壊れたものは、一週間経っても戻っていなかった。
「わからない。たぶん全部混ざったままだ」
「混ざったままでいいです」
芦原はそう言って、鞄から一枚のプリントを出した。来週の期末テストの出題範囲表だった。
「先生。次も書きたいんです」
「次」
「期末テストでも、同じことをやりたい。もっと精密に。今回は一人で書いたから、粗いところがある。先生の翻訳ノートがあれば、もっと正確に境界を突ける」
先生の翻訳ノート。芦原はそう言った。俺のノートを信じている。俺が芦原の体系を正確に記述していると、信じている。そのノートの内容がすでにブログで公開されていることを、芦原は知らない。知らないまま、俺を頼っている。喉の奥に何かが詰まった。
だがそれは同時に、俺の関与を確定させる。二回目を手伝えば、共犯だ。
「先生。私は間違いだと証明されない限り止まらないです」
「……それを俺には証明できない」
「じゃあ、手伝ってください」
◇
金曜の夜。
学校は閉まっている。だが非常勤にも鍵は渡されている。通用口。補習の教材を取りに来ることがあるから、事務に申請して鍵をもらっていた。夜間に教室を使うことは想定されていないが、禁止もされていない。想定されていないことを、許可と読み替えている。
芦原は通用口の前で待っていた。制服ではなく、私服。紺のパーカーにジーンズ。前髪が少し湿っている。小雨が降っていた。七月の雨は温かかった。
来ている。
自分の体系の中で完結している芦原が、俺を待っている。
「入れますか」
「入れる」
鍵を開けて、暗い廊下を歩いた。非常灯の緑色の光だけが、等間隔に並んでいる。芦原の足音が俺の足音と交互に鳴る。
補習教室に入った。蛍光灯をつけた。白い光が一瞬ちらついて安定した。黒板。机。椅子。昼間と同じ教室が、夜は冷えた空気とチョークの埃の匂いだけで別の場所になっていた。
芦原は左端の席には座らなかった。黒板の前に立った。
俺は翻訳ノートを鞄から出した。資料のコピーも。芦原の過去の答案のコピーも。全部、教卓の上に広げた。
「期末テストの範囲を確認する。二次関数、三角比、場合の数。この中で、場合分けが必要になる問題の型はいくつかある」
「場合の数は、分類そのものが問題になりますよね。何を区別して何を区別しないかで、答えが変わる」
芦原はチョークを手に取った。黒板に書き始めた。場合の数の問題で、区別の要否が問題文に明示されていない場合がある。芦原が黒板に並べたのは、色の区別が曖昧な問題と、順序の区別が曖昧な問題の二つだった。色の問題では、区別すれば六十通り、しなければ十通り。答えが六倍違う。
「問題文にはどちらとも書いてない。だから、両方の場合を答案に書く。問題の定義が不十分であることを答案で指摘する」
芦原は黒板を見た。それから俺を見た。
「先生。今の、先生の考えですよね」
「そうだ」
「翻訳ノートに書いてあった方法です。完全には訳せないけど、『ここに翻訳できないものがある』ことは示せる」
もう一問。教卓の上の出題範囲表を見ながら、俺が問題を出した。
「場合の数でもう一つ。三色のビーズ五個で首飾りを作る。回転して同じになるものは区別しない。何通りか」
これは教科書には載っていない。範囲表の「場合の数」に含まれるかどうか微妙なところだが、芦原の答案に一問混ぜるには使える。標準的には群論のバーンサイドの補題が要る。高校範囲を超える。
芦原はチョークを置いて、五秒ほど黒板を見つめた。それから書き始めた。3⁵ = 243 通り。回転で同じになるものは区別しない。一息で書いて、振り返った。
「五は素数。束のサイズは五か一。中間はない」
「先生。五個のビーズに番号を振って、あとで回転の分を割るやり方がありますよね」
「ある。243 ÷ 5 で——いや、割り切れない。だから補正が要る」
「番号を振るのは嘘です」
芦原の声は平坦だった。
「区別できないものに名前をつけて、あとから名前を割って消す。それは嘘をついてから撤回してるだけです。最初から区別しなければいい」
芦原は黒板に向き直った。全部同色の三通りは回転しても変わらない。残り 243 − 3 = 240。五は素数だから束はきっかり五個ずつ。中間の束サイズは存在しない。
「240 ÷ 5 + 3 = 48 + 3 = 51」
チョークを置いた。
五十一通り。場合分けなし。標準的にはバーンサイドの補題で五つの回転それぞれの不変配色を計算する。芦原はそのすべてを「五は素数」の一言で飛び越えた。
背筋に冷たいものが走った。四月の答案で見た、あの感覚だ。あのときも芦原はフェルマーの小定理を知らなかった。今もバーンサイドの補題を知らない。知らないまま、同じ場所に着いている。
「芦原さん。もし首飾りが裏返せるとしたら」
「裏返しても同じなら、さらに束ねます。でも——」
芦原が一瞬止まった。
「回転の『同じ』と裏返しの『同じ』は、同じ文脈ですか」
「首飾りなら同じだ。物理的に重ねられるかどうかだから」
「文脈が同じなら繋がります」
芦原はそう言って、裏返し分の補正を書き始めた。だが書きながら、チョークを持つ手が一瞬だけ遅くなった。「文脈が同じなら」。その条件を、芦原自身が意識していたのだろう。
「芦原さん。答案で圧縮を連鎖させるとき、順番に効くか。色の文脈で同じ。順序の文脈で同じ。じゃあ色と順序をまたいだら」
芦原のチョークが止まった。
文脈が違う。文脈Aで a ~ b、文脈Bで b ~ c。だがAとBの間にチルダは架からない。
「……繋がらない」
声が小さかった。
俺はチョークを取った。芦原が止まった場所から、続きを書こうとした。翻訳ノートの三ページ目で、同じ構造を形式化しかけたことがある。
「文脈Aにおける a ~ b かつ文脈Bにおける b ~ c のとき——」
止まった。文脈を跨ぐチルダを定義するには、文脈同士が「同じ種類」であることを定義しなければならない。その定義にチルダを使えば循環する。
チョークを黒板に当てたまま、三秒。
「……駄目だ。俺にも書けない」
チョークを置いた。
芦原が俺を見ていた。書きかけて止まった式と、俺の手を見ていた。
「先生も同じところで止まるんですね」
「お前は知ってたのか。この穴を」
「知ってました。でも目の前に出たのは初めてです」
黒板の上に穴が開いていた。圧縮を連鎖させたところで、チルダの鎖は文脈の境目で切れる。設計図の真ん中に亀裂が走っている。
芦原は短くなったチョークを握り直した。亀裂の場所に、小さく「×」と書いた。穴を塞いだのではなかった。穴の位置を記録した。
「ここは繋がない。軸ごとに別の答案にします」
設計を組み直し始めた。手は震えていなかった。だが黒板に向かう背中が、一ミリだけ丸くなったように見えた。
◇
夜の十時まで、二人で黒板に向かった。
芦原が問題の構造を見抜き、俺がそれを既存の言葉で記述する。芦原が境界を見つけ、俺が境界の上に立つ文章を書く。
黒板が文字で埋まった。芦原の字は小さくて均一。俺の字は大きくて崩れている。二種類の筆跡が黒板の上で混ざっている。
途中で、芦原が黒板の右端に書いた式を俺が読み間違えた。「それ、nじゃなくてmです」と芦原が言って、俺の書いた文字の上にチョークを伸ばした。指先が俺の指先のすぐ横を通った。触れてはいない。
「先生」
「何」
「楽しいですか」
芦原が聞いた。楽しいかどうかを、芦原が聞くのは初めてだった。
「……楽しい」
嘘ではなかった。半分でもなかった。全部、楽しかった。半分に分けられない。いつからだろう。分けられないものを持っているのは。
門脇の電話のことを忘れていた。来週この場所が失われるかもしれないことを、黒板の前にいる間は考えなかった。
チョークの粉が指の腹に残っていた。白い粉が、蛍光灯の下で光っている。
——芦原の体系を記述し、公開し、検証の目にさらす。それが正しいことだと、この手が信じている。信じていることと、信じたいこととの区別を、俺はつけられているのか。
◇
芦原は黒板の前を離れて、鞄からノートを取り出した。B5。表紙に何も書いていない。角が丸くなっている。
「先生。見てほしいものがあります」
芦原がノートを開いて、差し出した。推移律の証明を試みた跡だった。受け取る前に、手が一瞬止まった。これを受け取ることの重さが、指先に先に届いていた。受け取った。
芦原の均一な字で、何度も試みては線を引いて消した証明の断片が並んでいた。俺の翻訳ノートの横線だらけのページと似ていた。
一ページ目。文脈Aで a ~ b が成り立つとする。文脈Bで b ~ c が成り立つとする。このとき a ~ c を導けるか。——横線。
二ページ目。文脈の保存条件を定義する。文脈Aと文脈Bが「同じ種類」であるとき——横線。「同じ種類」の定義にチルダを使うと循環する。
三ページ目。推移律を仮定せずに、同一性を定義する。a と b が同一であるとは、すべての文脈で a ~ b が成り立つことである。——横線。「すべての文脈」を列挙できない。
四ページ目以降は白紙だった。
さっき黒板で俺が書きかけて止まった式と、二ページ目の横線は同じだった。同じ場所で止まっている。
「できなかった」
芦原の声は平坦だった。だがチョークを持っていない手が、もう片方の手首を掴んでいた。
「先生にだけ見せます」
「なぜ俺にだけ」
「先生は翻訳に失敗した人だからです」
それだけだった。理由の続きは言わなかった。さっき黒板で同じ場所に止まった人間に、それ以上の説明は要らなかったのかもしれない。
ノートを芦原に返した。
「芦原さん。俺はこれを、誰にも話さない」
芦原は頼んでいなかった。「見せないでください」とは言っていない。俺にだけ見せる、と自分の行為を述べただけだ。俺の行為については何も言わなかった。信じているから言わないのだと、そのとき思った。
「はい」
芦原は鞄にノートをしまった。しまうとき、表紙の角を指先でなぞった。何かを確かめる手つきだった。それからチョークの粉を手で払い、鞄を取った。
「先生。明日から私は先生の生徒じゃないかもしれないです」
「どういう意味だ」
「門脇先生が来たら、先生はたぶん処分されます。そうなったら、先生は私の先生じゃなくなります」
「そうだな」
「でも、黒板の字は二人で書いたものです。先生がいなくなっても、書いたことは消えないです」
芦原は教室を出た。通用口の鍵を俺に返して、小雨の中を歩いていった。紺のパーカーの背中が暗がりに消えた。
◇
一人で教室に残った。
黒板を見た。二種類の筆跡。左端に、芦原が書いた小さな「×」。その横に、俺が書きかけて止まった式。
消すべきだ。
消さなかった。
代わりに、スマートフォンで黒板の写真を撮った。シャッター音が暗い教室に響いた。
蛍光灯を消した。教室が暗くなった。非常灯の緑色の光だけが、黒板の上のチョークの跡をうっすら照らしている。
通用口の鍵を閉めて、小雨の中を歩いた。芦原のノートの横線が、まだ目の裏にある。あの穴を——推移律が切れる場所を、誰かが塞ぐかもしれない。芦原には塞げなかった。俺にも塞げなかった。だが外にはまだ、見ていない目がある。
◇
アパートに戻った。午前零時。蛍光灯がちらつく六畳一間。
ちゃぶ台の前に座った。四ページ目の白紙が消えない。
パソコンを開いた。
ブログの三本目の記事を開く。閲覧数は百三十八回。コメントは三島との往復が四通。最後のコメントで三島は「この体系の考案者と直接お話しすることは可能でしょうか」と書いている。俺は「現時点では困難です」と返している。
新規投稿のページを開いた。
タイトルを打った。
「等号の変種について(4)——文脈保存と推移律の限界」
書き始めた。推移律が文脈を跨がないこと。文脈の保存条件を定式化しようとすると循環に陥ること。「すべての文脈」を列挙する方法がないこと。
「体系の考案者自身がこの問題を認識しており、証明を試みたが成功していない」
その一文を打ったとき、指が一瞬止まった。
芦原の名前は書いていない。学校名も。「ある生徒の体系」としか記述していない。三島はこの情報を待っている。コメント欄で「考案者と直接お話しすることは可能でしょうか」と書いていた。この記事を読めば、三島は体系の弱点を理解する。検証が進む。検証されることは体系にとって正しい。——その言葉が頭の中で何度も回った。回るたびに滑らかになった。公開されない数学は検証されない。検証されない体系は体系ではない。
「考案者と直接お話しすることは可能でしょうか」。三島のあの一行が、画面の向こうで待っている。俺が書かなければ、三島は俺を飛ばす。芦原に直接たどり着く。そうなったら、翻訳ノートは何だったのか。
理由は一つだった。半分ではなく、全体として成り立つ理由。——だがその全体が、一枚の紙のように薄かった。
投稿ボタンに指を置いた。画面の光が爪の先を白く照らしていた。押した。手は震えていなかった。
画面が切り替わった。「投稿が完了しました」。
ブログの記事は四本になった。
蛍光灯がちらつく六畳一間で、画面の光だけが天井に跳ね返っていた。
「先生にだけ見せます」。
芦原の声が聞こえた。あの声の調子。あの手首を掴んだ手。
震えが来た。投稿の前ではなく、あとに来た。画面を閉じようとして、指が動かなかった。「俺はこれを、誰にも話さない」。あの教室で、自分が言った言葉だ。芦原は頼んでいなかった。俺が自分で言ったのだ。
翻訳ノートの表紙の「非公開」の三文字が、暗がりに沈んでいた。
月曜日まで、あと二日。




