第五話 Final answer?
地上数十メートルから宜野湾を眺める。
米軍基地に程近いサムズアンカーインで、いかにもアメリカナイズされたサーロインを食う。
肉は血となる。
生身の人間を忘れかけたBenキタモトは、とにかく血が欲しいのだ。
誰かの誕生日なのか、店内がサプライズの照明に切り替わった。
同僚からジャッキーと呼ばれる青年のもとに、花束と煌びやかな花火で装飾された特大のケーキが運ばれてきた。
彼らは母国で誕生日を迎えられず、家族との特別な時間を過ごせるわけでもない。
中国やロシアがもたらした東アジアの緊張の隙間で、こうして同僚が家族の代替品となる。
いわば、傷を舐め合っているのだ。
もっとも、彼ら自身はそんなことを考えていないのかもしれない。
ただ楽しそうに笑い、肩を組み、写真を撮っている。
Benはビールに飽き、ピスタチオをCinzanoで流し込みながら、その光景を眺めていた。
一時間ほど前から、ある女性の視線に気づいていた。
しかし、気にしていなかった。
横を見ると、いつの間にかキャサリンがBenの隣に腰を下ろしていた。
「日本人とは少し離れた雰囲気があるのね」
「祖父がドミニカの建国に少し噛んだ人でね」
「すごく素敵よ。ずっと見ていたの」
「ありがたいね……」
Benの肯定的な言葉は、否定に近いものだった。
祖父の話がどこまで本当なのか、Ben自身も詳しくは知らない。
ただ、そう言うと相手が少し驚くことは知っていた。
血が悪さをしたこともあってか、その後、キャシーを部屋に招待した。
キャミソールを粗末に扱い、動物的な衝動のもと、すぐに果てた。
嘘の連絡先とタクシー代を手渡し、Benは濡れたシーツを気にせず、眠りについた。
翌朝、キャシーの顔はあまり覚えていなかった。
名前は覚えていた。
キャサリン。
いや、キャシーだったか。
どちらでもよかった。
Benはシャワーを浴びた。
鏡に映る自分を見た。
少し老けた。
しかし、悪くない。
そう思った。
⸻
洞窟の先には、一人の海が広がっていた。
リゾートとして整備されているわけではない。
人影もなく、波の音だけが聞こえる。
Benは海に潜った。
しばらくすると、ウミガメが近づいてきた。
まるで以前から知っているかのように、Benのそばをゆっくりと泳いだ。
心が洗われた気分だった。
キャシーならば、Not experience.
この海の美しさを知らない。
この静けさも知らない。
Benは少しだけ、彼女を気の毒に思った。
もっとも、キャシーが何を美しいと思うのか、Benは知らなかった。
これまで、望んではいなかったが、憎悪を向けられ、通り過ぎていった人々がいた。
彼らは少しずつBenの命を削っていった。
自分を起点に、望まないトラブルに巻き込まれた。
Benの認識としては、そうだった。
他の解釈は知りたくもない。
自分はそれなりに人を愛してきた。
それなりに誠実だった。
それなりに傷ついてきた。
ただ、相手も同じように考えている可能性については、あまり興味がなかった。
ウミガメは何も聞かなかった。
何も要求しなかった。
過去のことを持ち出すこともなかった。
Benは、その距離感が気に入った。
しばらく一緒に泳いだ。
ウミガメはやがて、沖へ向かって泳いでいった。
Benは追わなかった。
別れというものは、本来こうあるべきなのだ。
そう思った。
ウミガメと短い抱擁を交わしたつもりになり、Benは海を上がった。
夕刻の羽田便に乗る。
東京に戻れば、現実が待っていた。
⸻
「それってどういうことなの?」
「いや、だから、そういうわけではないよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「それ以下って何? 以下なんて、私は認めないわよ」
調停の場では、本来、当事者同士の間に仕切りが設けられる。
しかし、元妻はお構いなしに身を乗り出してきた。
「やれやれ……」
声には出さなかった。
離婚してから、すでに何年も経っていた。
元妻からは、にわかには理解し難い金銭的な要求が続いていた。
その金額が何を根拠に算出されたものなのか、Benには見当もつかなかった。
「あなた、ちゃんと考えているの?」
「考えているよ。ただ、その数字がどうして出てくるのか分からないんだ」
「そうやって、いつも分からないふりをするのね」
Benは黙った。
分からないふり。
なるほど。
本当に分からない場合は、どうすればいいのだろう。
「それで、あなたの最終回答は?」
元妻が尋ねた。
最終回答。
Benはその言葉を頭の中で繰り返した。
これに答えれば、すべて終わるのだろうか。
あるいは、次の要求が始まるだけなのだろうか。
「これ以上は応じられない。それが僕の答えだよ」
「それが最終回答なのね?」
Benは少し考えた。
答えを出すことと、物事が終わることは、どうやら別らしい。
⸻
帰り道、Benは沖縄の海を思い出していた。
ウミガメ。
あの生き物は、何も要求しなかった。
ただ、そこにいた。
近づき、寄り添い、そして去っていった。
人間もそうであればいいのに。
Benは思った。
しかし、人間はウミガメではない。
約束をする。
期待をする。
裏切る。
傷つける。
そして、いつまでも覚えている。
Benは、自分が自由な人間だと思っていた。
誰かに縛られることを嫌い、過去に拘ることも好まなかった。
しかし、過去に拘らないというのは、過去に向き合わないことと同じなのだろうか。
彼は少し考えた。
キャシーのことを思い出した。
嘘の連絡先。
タクシー代。
濡れたシーツ。
あれも、彼女にとっては何かの始まりだったのかもしれない。
Benにとっては、終わった出来事だった。
自分の中で終わったことが、相手の中でも終わっているとは限らない。
それは、元妻との関係も同じだった。
Benは携帯電話を取り出した。
元妻からメッセージが届いていた。
金額について、もう一度考えてほしいという内容だった。
Benは画面を眺めた。
返信はしなかった。
今は、まだ。
彼は歩き始めた。
人生には、何度も答えを求められる場面がある。
結婚するのか。
別れるのか。
愛しているのか。
責任を負うのか。
許すのか。
許されるのか。
そのたびに、人は何かを決める。
決めた瞬間には、それが最終回答のように思える。
しかし、翌日には別の問いが現れる。
昨日の答えが、今日も正しいとは限らない。
だからといって、答えを出さなくていいわけでもない。
Benは、その矛盾を少しだけ面白いと思った。
元妻の要求に対する答えは、すでに決めていた。
少なくとも、今日のところは。
では、自分の人生に対する答えはどうなのだろう。
誰かを愛し、誰かに憎まれ、誰かと別れ、また誰かと出会う。
それを繰り返した先に、何が残るのだろう。
Benは立ち止まった。
自分に問いかけてみた。
Final answer?
少し笑った。
そんなものがあるなら、とっくに答えている。
Benは再び歩き始めた。




