第四話 下妻物語 — The Answer Is You
「汝、多賀谷の城を知らぬのか?」
室町時代から戦国時代にかけて、多賀谷氏が繁栄を築いた現在の下妻市。
ほとんど千葉であり、つくばである。人は多分、そう認識している。
つくば85から42年が経ち、僕も同じく42歳になった。
辰年でもないのに竜と名付けたのは、今では疎遠となった、世間では文豪と称された叔父だった。
昇る竜。
「ダツ。オマエは竜のように昇っていくんだよ」
鼻糞を穿りながら、叔父の言葉の意味も知らずに聞き流していた。
それから僕は、それなりに昇ったと思う。
不器用という評価はあるかもしれないが、誠実だった。
少なくとも、僕自身はそう思っていた。
⸻
下妻駅を降りた。
田園風景が広がっている。その先には、有名な沼がある。
砂沼。
かつて、僕が未来を信じた場所だった。
駅前に立っていると、日傘を差した、すらりとした女性が近づいてきた。
三年ぶりの再会だった。
松子。
不倫から始まった愛であったが、当時の僕には、その意識すらなかった。
沼にはまった。
溺れた。
自分はもう若くはないと思っていた。
しかし、火がついた。
当時24歳だった彼女から学ぶことは多かった。
同僚と平凡な話をするよりも、彼女の現実的で、いかにも妥当な意見に引き寄せられた。
年齢など関係なかった。
むしろ、彼女のほうが僕よりもずっと物事を理解しているように思えた。
「お久しぶりです。お元気にされていましたか?」
言葉はとても丁寧だった。
昔からそうだった。
親しくなっても、彼女の言葉にはどこか一定の距離があった。
左の薬指には、数カラットでクラリティも高い指輪が、よそよそしく、でも大胆に主張していた。
「あー、久しぶり。松戸から朝早く出て、早く着きすぎちゃった。こんなタイミングで会えるなんて嬉しいよ」
僕は少し饒舌になった。
彼女は静かに微笑んだ。
来月、松子は結婚する。
相手は、僕の知っている人だった。
それを知った時、僕は驚いた。
そして、少しだけ安心した。
彼女にも、ようやく幸せが訪れるのだと思った。
もっとも、その幸せを僕が判断する資格など、どこにもなかった。
約二年の間、僕は彼女に溺れた。
当時の妻は、休日に家でくつろいでいる僕を見ると、
「どこかに行ってらっしゃいよ」
と言った。
その言葉に僕は消沈していた。
家にいても居場所がない。
仕事をしていても満たされない。
そんな時に松子と出会った。
彼女は僕の話を聞いた。
僕の考えに意見を言った。
間違っていると思えば、間違っていると言った。
それが嬉しかった。
僕は自分を理解してくれる人に出会ったのだと思った。
そして、離婚を持ちかけた。
当時の妻に。
当時の妻……。
結局は今の妻でもあるのだが。
金銭のこと。
住居のこと。
仕事のこと。
生活のこと。
一つひとつを考えると、簡単には進まなかった。
僕は何度も話し合いをした。
何度も悩んだ。
何度も、自分なりに答えを出そうとした。
しかし、何の結果も得られなかった。
ただただ、松子を傷つけた。
僕は彼女に嘘をついたつもりはなかった。
好きだという気持ちも本当だった。
一緒になりたいと思ったことも本当だった。
妻に対して責任を感じていたことも本当だった。
すべて本当だった。
だからこそ、僕は自分が誠実なのだと思っていた。
けれど、すべてを本当にしたままでは、何一つ決められないことがある。
そのことを、当時の僕はよく理解していなかった。
松子はある日、僕の前からいなくなった。
大きな喧嘩があったわけではない。
僕がいつものように事情を説明し、彼女がいつものように聞いていた。
ただ、その日を境に、僕たちは会わなくなった。
僕は仕方がなかったのだと思った。
彼女のためにも、これで良かったのだと。
そう思わなければ、僕自身が前に進めなかった。
そして三年が過ぎた。
なぜ、今になって松子は会おうと言ってきたのだろう。
しかも、この下妻で。
砂沼で。
かつて、スピッツの『ロビンソン』の美しいアルペジオを二人で聴いた場所だった。
あの頃、僕たちはあり得るかもしれない未来を信じていた。
いや、信じていたのは僕だけだったのだろうか。
砂沼の水面は穏やかだった。
風が吹くと、小さな波が立った。
三年前と、何も変わっていないように見えた。
「覚えていますか?」
松子が言った。
「もちろん。忘れるわけないよ」
「そうですか」
彼女は水面を見ていた。
僕も水面を見た。
しばらく沈黙が続いた。
僕は何か話そうとした。
しかし、何から話せばいいのか分からなかった。
「期待もせず過ごしていました」
松子が口を開いた。
「でも、『期待をせず』というのは、私の一方的な解釈で合っていたのか。答え合わせをしたかったんです」
僕は彼女を見た。
その言葉の意味を考えた。
期待もせず。
答え合わせ。
彼女はまだ、僕に何かを期待しているのだろうか。
そう思うと、胸の奥に懐かしい熱が戻ってきた。
僕は話し始めた。
「僕も迷ったよ。あれからずっと考えていた。妻に対してもさまざまなアプローチをした。でも、金銭も住居も仕事も、いろいろ大変なんだよ」
松子は黙って聞いていた。
「それに、嫁にだって完全に冷たくすることはできない。長く一緒に暮らしてきたわけだからさ。僕は誠実でいたいんだよ。でも、君に惹かれている。それも本当なんだ」
僕は言葉を続けた。
「ただ、それではいけないとも思う。自分の正しさも通したいし、周りのことも考えなければいけない。だから、簡単に結論を出すことはできなかったんだ」
僕は、自分の気持ちを正確に伝えようとしていた。
なぜ決断できなかったのか。
どれほど悩んだのか。
何を守ろうとしていたのか。
彼女に理解してほしかった。
せめて、僕がいい加減な気持ちで彼女と向き合っていたのではないことだけは。
「だからさ、僕としては……」
その時だった。
松子が右手をかざした。
僕は言葉を止めた。
彼女は僕を見た。
三年前と同じ、まっすぐな目だった。
「端的に言ってもらって良いですか?」
僕は黙った。
何を端的に言えばいいのだろう。
好きだったことか。
今でも惹かれていることか。
一緒にはなれなかったことか。
それとも、これからも一緒にはなれないということか。
どれも本当だった。
しかし、どれか一つを選ぶことはできなかった。
松子は、もう何も言わなかった。
僕は初めて、彼女が何を聞きたかったのか分かったような気がした。
彼女は僕の苦労を聞きに来たのではない。
僕の事情を理解しに来たのでもない。
三年前、僕が出さなかった答えを聞きに来たのだ。
それなのに、僕はまた同じ話をしていた。
金銭。
住居。
仕事。
責任。
誠実。
どれも間違ってはいない。
ただ、彼女の問いに対する答えではなかった。
松子は立ち上がった。
「ありがとうございました」
相変わらず丁寧な言葉だった。
僕は何か言おうとした。
けれど、言葉が出なかった。
彼女は日傘を差した。
左手の指輪が、陽の光を受けて小さく輝いた。
僕はその指輪を見ていた。
三年前にはなかったものだった。
「お元気で」
松子はそう言って歩き出した。
僕は追いかけなかった。
追いかける理由を、見つけることができなかった。
砂沼には、変わらず小さな波が立っていた。
昇る竜。
叔父はそう言った。
僕はこれまで、自分なりに昇ってきたと思っていた。
不器用ではあったが、誠実だった。
少なくとも、僕自身はそう思っていた。
松子の姿が見えなくなってから、僕はしばらくそこに立っていた。
結局、何も言えなかった。
いや。
たくさん話した。
何一つ、答えなかった。
下妻での恋は、終わりを告げた。




