第三話 答えのない It’s Wonderful World
白井家は男系である。
もっとも、男系であることに何らかの意味があったのかと問われれば、よく分からない。
有三は次男である。
父は毛利元就を敬愛していた。
三本の矢。
一本では折れる矢も、三本束ねれば折れない。
父は幼い有三に、ことあるごとにその話をした。
有三は折れない。
聞かない、言わない、拘らない。
この三本の矢こそが、長い年月をかけて彼が身につけた処世術である。
人の話を聞かなければ、余計な問題を抱え込まずに済む。自分の考えを明確に言わなければ、間違いを指摘されることもない。何事にも拘らなければ、対立を生むこともない。
実に合理的である。
ただし、有三自身は、そのように考えているわけではない。
彼は、自分が誰よりも人の話を聞き、慎重に発言し、物事を多角的に捉える人間だと信じていた。
ここに、有三という人物の奥深さがある。
史実とは懐疑的なものである。
そもそも、毛利元就の三本の矢は、後世に広まった逸話とされる。
しかし、元就が三人の息子に結束を説いたことは事実である。
さらに時代が下り、関ヶ原の戦い。
西軍の総大将となった元就の孫、毛利輝元は大坂城に留まり、関ヶ原の本戦には出陣しなかった。
一族の吉川広家は徳川方と密かに交渉し、毛利軍は本戦に参加しなかった。
結果として、毛利家は領地の大半を失いながらも存続した。
戦わずして生き残る。
それを知略と呼ぶのか、逃げたと呼ぶのか。
歴史家によって評価は異なるだろう。
少なくとも、敗れた側が必ずしも滅びるわけではないことを、毛利家は証明した。
有三にも、類似した側面がある。
彼は長年、製造業に身を置いていた。
会議には必ず出席する。
資料にも目を通す。
意見も述べる。
ただし、その意見によって何かが決まることは、あまりなかった。
「えーーー、このあいだもぉ伝えましたが、12月の特別経費は必ず確実に検収してください。そうでないと、、、」
有三は一度、言葉を切った。
出席者は顔を上げた。
何か重要な話が始まるのだろうか。
「えーーー、まずですねぇ、検収というのは単に物が入ったから良いというものではなくてですねぇ、そもそも費用というものには計上すべき時期というものがありましてぇ……」
その先は、誰もが知っている話だった。
有三は五分をかけて説明した。
会議参加者は携帯電話を意味もなくいじくっている。
中には鼻糞を穿る人もいた。
有三は続けた。
「ですからぁ、そういった意味でもですねぇ、やはり確実に、間違いのないようにお願いしたいということでございます」
誰も反論しなかった。
反論する余地がなかったからである。
有三は満足した。
全員の認識を合わせることができた。
もっとも、最初から全員が認識していたことである。
ある日の会議では、現場から設備更新の提案があった。
設備は老朽化し、停止回数が増えていた。
担当者は故障履歴をまとめ、更新費用と停止損失を比較し、投資の妥当性を説明した。
有三は資料を眺めた。
「えーーー、非常によくまとまっていると思います」
担当者は礼を言った。
「ただですねぇ、やはり投資というものは慎重に考える必要があるわけでしてぇ」
「はい。そのために停止損失と投資回収期間を算出しています」
「そうなんですよ。まさにそこなんです」
有三は少し嬉しそうに頷いた。
「要するにですねぇ、投資をすることによって、どれだけの効果が得られるのか。そこを明確にする必要があると思うんです」
「それがこちらの三ページになります」
「はい。ですから、そういうことなんですよ」
有三は三ページを開いた。
しばらく眺めた。
「非常に重要な観点だと思います」
担当者は待った。
有三も待った。
「それで、進めてよろしいでしょうか?」
「えーーー、進める進めないということも含めまして、まずは十分に検討していく必要があるのではないかと」
担当者は何かを言いかけた。
しかし、やめた。
有三は、その沈黙を理解と受け取った。
彼は人の感情を読むことに、ある種の自信を持っていた。
ただし、その解釈が正しいかどうかを確認する習慣はなかった。
会議が終わると、担当者は別の管理職に相談した。
その管理職は資料を読み、いくつか質問し、翌日には判断を下した。
設備更新は承認された。
有三は後日、その話を聞いた。
「やっぱり、しっかり検討したことが良かったんでしょうねぇ」
彼は満足していた。
実際、有三は何も妨げていなかった。
少なくとも、本人はそう考えていた。
彼には、独特の寛容さがあった。
他人の意見を頭ごなしに否定しない。
失敗した人間を必要以上に責めない。
結論を急がない。
それらは組織において、決して悪い資質ではない。
ただ、結論を出さなければならない場面でも、彼は結論を急がなかった。
その違いを、有三はあまり重要視していなかった。
彼は争いを好まなかった。
誰かが怒鳴っていると、少し離れたところから様子を見た。
誰かが困っていると、声をかけた。
「まあ、いろいろありますからねぇ」
その言葉に救われる人もいた。
腹を立てる人もいた。
救われた人は、有三を温厚な人物だと言った。
腹を立てた人は、有三を無責任な人物だと言った。
同じ人物に対する評価としては、いささか極端である。
しかし、人間とはそういうものなのだろう。
有三は、どちらの評価も聞かなかった。
聞かない。
言わない。
拘らない。
三本の矢である。
彼は自分が優秀であると声高に主張する人間ではなかった。
むしろ謙虚だった。
「いやいや、私なんてまだまだですよ」
そう言いながら、相手が否定してくれるのを待つことはあった。
「そんなことないですよ。有三さんには経験がありますから」
「いやぁ、そう言っていただけるとありがたいですねぇ」
有三は嬉しかった。
経験。
実に便利な言葉である。
成果を数字で示す必要もなく、具体的な能力を説明する必要もない。
長く生きていれば、誰にでも蓄積される。
しかも、その価値を正確に測定することは難しい。
有三は経験豊富な男だった。
その点については、誰も異論を挟めなかった。
ある若い社員は、有三のことを不思議に思っていた。
大きな成果を上げたという話は聞かない。
かといって、決定的な失敗をしたという話も聞かない。
会議では必ず発言する。
しかし、その発言が何を意味していたのか、後になって思い出せない。
それなのに、有三はいつもそこにいる。
変わらず、穏やかに、少し得意そうに。
若い社員は、ある日、先輩に尋ねた。
「あの人って、結局すごい人なんですか?」
先輩は少し考えた。
「どうなんだろうな」
「仕事はできるんですか?」
「うーん」
「できないんですか?」
「いや、そうとも言い切れないんだよ」
若い社員は首を傾げた。
先輩も首を傾げた。
有三は、その少し離れたところでコーヒーを飲んでいた。
彼には、自分の能力を正確に理解している人間が、この工場に三人いると考えていた。
三人である。
三本の矢。
実に美しい符合だった。
その三人が誰なのか、有三は明言しなかった。
聞かれたこともなかった。
もっとも、そのうち一人が有三自身であることは間違いない。
残りの二人については、本人にも多少の心当たりがある程度だった。
しかし、人数は三人だった。
なぜなら、三本の矢だからである。
有三は天才なのだ!
ある日の夕方、工場では予期せぬトラブルが発生した。
現場の担当者たちは対応に追われていた。
原因はすぐには分からなかった。
上司が尋ねた。
「有三さん、どう思います?」
有三は腕を組んだ。
「えーーー、こういう時こそですねぇ、慌てず、冷静に状況を見極めることが重要なのではないかと思います」
「それはそうなんですが、何から確認しましょう?」
「まずは、原因を明確にすることですねぇ」
「ですから、その原因を調べるために何を……」
「いや、だからですねぇ、そこはやはり現場の皆さんと十分に認識を合わせながら……」
その時、別の担当者が原因を突き止めた。
トラブルは解消した。
有三は頷いた。
「やっぱり、現場の力というのは大切ですねぇ」
誰も異論を唱えなかった。
実際、その通りだった。
帰り道、有三は今日一日を振り返った。
会議に出席した。
若い社員の相談にも乗った。
トラブルの際には、冷静さを失わなかった。
なかなか充実した一日だった。
彼は自分が何かを間違えているとは思わなかった。
誰かを傷つけたわけでもない。
誰かの仕事を奪ったわけでもない。
誰かに無理な要求をしたわけでもない。
それなのに、ときどき自分を見る周囲の視線が冷たいことには気づいていた。
有三は不思議に思った。
人はなぜ、そんなに結論を急ぐのだろう。
なぜ、白か黒かを決めたがるのだろう。
世の中には、答えを出さないほうがうまくいくこともあるのではないか。
そう考えると、少し気持ちが軽くなった。
彼は、自分の生き方に確信を深めた。
毛利家は関ヶ原で戦わずして生き残った。
有三もまた、数え切れない会議を経て、今日まで生き残っている。
もちろん、両者を同列に論じることには無理がある。
しかし、歴史というものは、後世の解釈によって意味を持つのである。
有三は帰宅し、テレビをつけた。
画面では、どこかの国の政治家が難しい顔をして議論していた。
互いに相手の発言を遮り、声を荒らげている。
有三は首を振った。
「もっと、お互いの意見を尊重すればいいのにねぇ」
チャンネルを替えた。
音楽番組だった。
オーケストラが演奏していた。
有三はクラシックに詳しくなかった。
それでも、素晴らしい演奏だと思った。
何十人もの人間が、それぞれ異なる楽器を持ち、ひとつの音楽を作り上げている。
誰もが自分の役割を理解しているのだろう。
有三は感心した。
指揮者が腕を振った。
演奏者たちは一斉に音を鳴らした。
有三は思った。
やはり、組織というものは調和が大切なのだ。
そして、その調和を保つためには、誰かが全体を見ていなければならない。
彼はソファに深く腰掛けた。
どこか満足そうだった。
明日も会議がある。
議題はまだ確認していない。
しかし、心配はなかった。
どのような議題であれ、重要なのは十分に検討することだからである。
聞かない。
言わない。
拘らない。
三本の矢と三人の理解者。
まさにこの世は、
「It’s Wonderful Worldだ」




