※第71話 妻を追いかけた先で
俺は通された客室で一人、激しいイライラに駆られていた。
いや、別にこの客室自体に文句があるというわけではない。
妻が「一番いい部屋に案内する」と言っただけのことはあり、心地よさは申し分なかった。
板張りの床は丁寧に磨き上げられており、白い壁紙も美しい。
上品な薄緑色のカーテンのセンスも良く、テーブルにはガラスの花瓶に色鮮やかな花々が飾られている。
ベッドには清潔なベージュのカバーが掛けられ、オイルランプも洗練されたデザインだ。
今まで宿泊してきたミドル町やカントリー町のどの宿屋に比べても、はるかに格上だった。
だが、今の俺にとってそんなことはどうでもいい問題なのだ!
キィ~……。
俺は音を立てぬよう、慎重に扉を開けた。
ギシ……
ギシ……。
床板を踏み鳴らさぬように廊下を歩き、階段付近でピタリと足を止める。
階下からは、楽しげに言葉を交わす妻とあの若造の声が響いていた。
「……それじゃ、ジャック。一緒に行きましょう」
「はい、シーナ様!」
突如、二人の会話が大きく耳に飛び込んでくる。
返事をした若造の声は、なぜか妙に浮かれていた。
(何っ……!? まさか二人きりで、どこかへ出かけるつもりなのか……!?)
若造に対して軽い殺意のようなものが芽生えかけ、慌てて深呼吸をして自分を落ち着かせた。
(駄目だ! これくらいのことで、みみっちく腹を立ててはいけない。落ち着け、落ち着くんだ……! 妻が、あんな若造に微塵も興味なぞ抱くわけがないのだから!)
だが、いくら何でも二人きりでどこかへ出かけるのを見過ごすわけにはいかない。
(こうなったら、こっそり後をつけるしかない……!)
意を決した俺は、物陰に身を隠しながら二人の後をそっと追いかけた――
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宿屋の外で、二人はそれぞれ釣り道具を手に歩いていた。
(何だ? もしかして、これから釣りにでも行くというのか……?)
手頃な建物の陰から様子をうかがっていると、二人は庭の中ほどで足を止めた。
何やら楽しげに会話を交わしているが、あいにくこの距離では何を話しているのかまでは聞き取れない。
「くそっ! 何を話しているんだ……!?」
イライラしながら見ていると、若造だけがどこかへ歩いていってしまった。
(一体、どこへ行ったんだ? まぁいい、直ぐに戻って来るだろう)
若造が戻ってくるのを待つ間、俺は妻の後姿をじっと見つめた。
麦わら帽子の下から零れ落ちるブロンドの長い髪が、降り注ぐ太陽の光に当たってキラキラと美しく輝いている。
……なんて美しい髪なのだろう。
どうして俺は、今まで彼女の魅力に気付けずにいたのだろうか?
今更ながら、彼女がここを出ていくのをすんなり止めなかったことを激しく後悔していると、どこからかガラガラと荷馬車が近づく音が聞こえてきた。
(何っ!? 荷馬車だと……!?)
御者台に座っていたのは、先ほどのあの若造だった。
荷馬車は妻の前でピタリと止まり、若造は手を差し伸べる。
妻はその差し出された手を取ると、軽やかに御者台へと乗り込んだ。
(俺のときは、一人で降りたというのに……っ!)
小さなショックを受けながら呆然と見つめていると、荷馬車はガラガラと音を立てて出発してしまった。
「えっ……!? し、しまった――っ!!」
なんてことだ!
まさか荷馬車を使って出かけてしまうなんて想定外だった!
(とても今から自分の荷馬車を取りに戻っている暇などない! そんなことをしていたら完全に見失ってしまうぞ!)
「くそっ……こうなったら、自分の足で走って追いかけるしかない!」
どうかあまり遠くまで行ってくれないでくれと心の中で必死に祈りながら、俺は荷馬車を追うべくサンドリー村の道を全力で走り出した――
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「――はぁっ、はぁっ……はぁ……っ! よ、良かった……あまり、遠くへ行って……いなかった……」
荷馬車がようやく止まったのは、サンドリー村の外れにある静かな川辺。
息を弾ませながら近くの木の陰に身を隠し、二人の様子をそっと窺った。
二人は何やら言葉を交わしながら、手際よく釣り具にエサらしきものをつけている。
(なるほど、ここで魚を釣るというわけか……。もしかして、『ご馳走を用意する』と言っていたのは、この川で釣った魚を料理するつもりだったのか……?)
俺のためにわざわざ魚を釣りに来てくれたのかと、胸の奥が熱くなる思いで見つめつつ、目の前の川に視線を走らせた。
幸いにも、川の流れはそれほど速くは見えない。
(とにかく、こんな人目につかない場所で二人きりにさせておくわけにはいかない。ここでじっくり様子を窺うとしよう)
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この川はよほど魚が沢山泳いでいるのだろうか?
先ほどから妻は次々と見事な魚を釣り上げていた。
その一方で、若造のほうは一匹も釣れずに悪戦苦闘しているようだ。
「くくっ……! なんとも情けない、無様な姿だな。それに引き換え、我が妻はまさか釣りの才能まで隠し持っていたとは……」
感心しながら惚れ惚れと見つめていたとき。
釣りに夢中になっていた妻が、足元の濡れた石にでも足を滑らせたのだろうか、バランスを崩して勢いよく川へ転落してしまった。
ドブーンッ――!!
激しい水しぶきを立てて川底へと消えていく妻の姿。
瞬間、俺の全身から血の気がサーッと引いていくのが分かった。
「シーナ様――っ!!」
若造が引きつった声を上げ、岸辺でパニックになって狼狽えている。
「くそっ……!」
俺はいてもたってもいられず、隠れていた木の陰から飛び出して一目散に駆け寄った。
「シーナ様っ! どうしよう、どうしよう……シーナ様ぁ――っ!!」
若造は川面に向かって情けなく叫ぶばかりだ。
見れば、川の中ほどで妻の頭が浮き沈みしているのが見える。
「このバカっ……!」
役立たずの若造を怒鳴りつけると、俺は迷うことなく冷たい川へと飛び込んだ。
ドブーンッ――!!
川に飛び込んだ瞬間、想像以上の冷たさと重みが全身を襲い、一気に水底へと身体が沈み込んでいく。
「く、苦しっ……!」
慌てて足で水を懸命に蹴り、何とか水面に顔を突き出した。
「どこだ……っ! どこにいる……っ! ごほっ、ゲホッ……!」
叫んだ拍子に川水を飲み込んでしまい、再び身体が重く沈み込んでいく。
先ほどまで村中を全速力で追いかけて走ってきたせいで、すでに俺の体力の限界はとっくに超えていたのだ。
(くっ……身体が思うように動かない……息が……なんてことだ……彼女を助けに来たはずが、これでは俺まで……っ)
身体が沈んでいく中、幻だろうか……妻がこちらへ向かって泳いでくる姿が見える。
(なんて美しい姿なんだ……まるで人魚のようだ……)
そこで意識は途切れた――




