第6話 名前、聞き忘れちゃった
コンコン!
思っていた以上に大きな音が、しんとした廊下に響く。
直立不動のまま、しばしその場で待機するも反応がない。
「……おかしいなぁ?」
てっきり扉が開かれたり、返事が聞こえるかと思っていたのに。
よし、もう一度叩いてみよう。
ドアノッカーを掴むと今度は強めにノックする。
コンコン!!
すかさず扉に耳を押し当てるも返事がない。
よし、後一回ノックして何も応答がなければ扉を開けよう。
三度目の正直。
コンコンコン!!
しかし案の定返事がない。
「もしかして誰もいないのかな?」
試しにノブを掴んで右に回してみる。
カチャ……
おおっ! 回った!
「失礼しま~……す!?」
遠慮がちに扉を開け、目を見開いた。
大きな窓を背に、机に向かって仕事をしている人物がそこにいたからだ。
(なんだ、居るなら返事をしてくれたっていいのに)
私の存在に気付いていないのか?
栗毛色の髪の青年は、俯き加減で羽ペンを走らせている。
恐らく彼が夫なのだろう。
だって物凄く良い身なりをしているし。
漆黒のジャケットは襟元まできっちりと詰められ、そこから覗く純白のクラヴァットには、小さな紺色の宝石があしらわれたピンが光っていた。
袖口にはさりげなく銀糸の刺繍が施されている。
すごい……まるで物語の中に出てくる王子様みたいだ。
冠はかぶっていないけど。
(こんな格好の人が、私の夫? 嘘でしょう?)
ぽかんとしたまま突ッ立っていると、彼は顔を上げた。
……恐ろしい程美しく整った面立ちをしている。
「目が覚めたのか?」
多分……夫? が尋ねてきた。
あれ? もしかして心配してくれている?
「はい、お陰様で……」
笑顔で言いかけたとき。
「はぁ~……」
夫は盛大なため息をつくと、じろりと睨みつけてきた。
「まったく迷惑な話だ。三日間意識を無くして眠りにつくとは」
「え? 三日間も!?」
そんな話は使用人たちからは一切出てこなかった。
せいぜい丸一日だけかと思っていたのに。
「でも、そんなに眠っていたなら普通心配するものじゃないの?」
小さい声でボソリと呟く。
「うん? 何だ? その態度は。何か不満そうだな?」
私の態度が気に入らないのか、ますます夫の顔が険しくなっていく。
「いえ、別に不満と言うか……」
「大体、以前から言っていただろう? 俺は仕事を邪魔されるのが一番嫌いなんだ。だから人払いをして誰も寄せ付けないようにしているのに、性懲りもなくやってくるとはな」
またしても途中で言葉をさえぎられるだけでなく、ギラリと鋭い眼差しで睨みつけられてしまった。
(う~ん、嫌われているなぁ。私)
黙って話を聞いていると、質問された。
「何か言いたいことがあれば言ってみろ」
「あ、本当ですか? それじゃ、私ってどういう人間だったのでしょう?」
「……は? 本気でそんなこと聞いているのか?」
夫が呆れ顔になる。
「はい、本気です」
本気も本気。
だって自分の名前すら分からないのだから。
「三日間も眠りについて、ついに頭がおかしくなってしまったか……。元々一般常識に欠けているとは思っていたが」
夫は俯くとブツブツと呟いている。
(それにしても随分失礼なことを言ってくれているなぁ……)
そんなことを考えていると、またしても質問された。
「お前……毒を飲んだそうだな?」
「はい、そうです」
多分ね。
でも身に覚えが無いけれど。
「いい加減にしろ!!」
バンッ!
夫らしき人物が勢いよく机を叩いた。
その拍子に書類がふわりと舞って
ハラハラと床に数枚落ちる。
「毎回毎回騒ぎを起こしてどれだけ迷惑を掛ければ気が済む!? もうお前にはうんざりだ!」
静かな書斎に響き渡る怒声。
そう……使用人だけでなく、やっぱりこの男性も私を嫌っているのね?
だったら返事はただ一つ。
「はい、分かりました。なら出ていきますね?」
満面の笑みでうなずいた。
「……は?」
あまりに予想外すぎたのか、夫らしき人物の目が点になる。
「今までお世話になりました。それでは、これで失礼いたします」
背中を向けると、私はためらうことなく書斎を後にした。
――バタン
扉を閉めて肝心なことに気付く。
……あ。どうしよう。
自分の名前も、夫の名前も聞くことが出来なかった。
「……でも、ま。いいか。もうここを出て行くんだしね」
私は鼻歌を歌いながら、軽い足取りで自室を目指した――
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