030 ネットワーク座標
この音楽ファイルのピアノは、こなれた演奏であった。たぶん、奏者はプロか、あるいは、相当にうまいアマチュアだ。
だが、オーケストラ等ではなく、終始、一人で弾いており、恐らくは、個人的にレコーディングされたものであろう。
(うッわー……)
懐かしい。
地味で素朴な演奏ではあったが、紗良葉は圧倒され、聴き入ってしまう。
行進曲を思わせる勇壮な前奏、始まりは静かで繊細、ブリッジ部分で、やや複雑なコード進行と転調を経る。
そのあとに、もう一度陽気に盛り上がって展開、はじけるように終了する。
題名は、「幸、多く、夢、清く、ゼルボクの民よ」。
古くから民衆に愛された国歌であり、紗良葉にとっても、もちろん誇りである。
(これ聴いたの、何年ぶりだろ?)
滅んだ祖国の曲……。
最後に聴いたのは、明らかに、自分が人工冬眠カプセルに入れられた時よりも、前である。
その後、ある日、この「謎の世界」で目覚めて、あちこちを転々と移ってきた。その間には、たしか、一度も耳にしたことはない。
しかし、王女として、ふるさとの国歌を忘れるはずもない。当然、今でも歌える。
このピアノ演奏は歌詞なし、メロディーのみのバージョンであったけれど。
ともあれ。
(一体、誰がこの音源を……?)
紗良葉は首をかしげる。
本格的な演奏や合唱ならば、分からなくはない。世界各国の国歌を集めて録音する企画だって、世の中には、あるだろうから。
しかし、この音源は違う。明らかに、個人が趣味で作成し、投稿したものだと思われる。
長さは二分足らずなので、何回も聴き返したが、冒頭や途中で、実は、少しアレンジがされていた。原曲の雰囲気を壊さない程度に、自己流の短いメロディーやリズムも、うまく挟み込まれているのだ。はっきり、この曲に対する思い入れを感じさせる。
(会ってみたいな、これを弾いてる人に。私のこと、何か知ってるかも!)
もちろん、罠かもしれない。しかし、今いる、不可解な「この世界」の正体が分かるなら、危険でも会いに行くべきではないだろうか。
それに何より、
(こんな素敵な演奏をする人が、悪者であるはずがないよ!)
甘いかもしれない。
でも、理屈抜きで、これは確信に近かった。
タブレットに表示された、この音源の紹介ジャケットには、イラストも写真もなし。題名のみの、シンプルな表紙。
ただ、よく見れば、
(あっ!)
下部に、小さな文字が表示されているではないか。
LSe.21E7/553:.ZPf-jp
(これ、分かる! 多分、ネットワークの区画コードだ!)
別名、「電脳空間アドレス」などとも称され、ネット上の、言わば座標を示す記号である。
恐らく、タブレット端末に読み込ませて解析すれば、行き方や場所を割り出せるはずだ。
そのためにも、まずは、
(外に出なきゃ。この場所を、出なきゃね)
居心地は良かったし、もしかして、この場所が現実世界かもしれないと思ったことさえある。
しかし、冷静に考えてみれば、「脈絡なく、延々と続く学園生活」など、あり得るはずもない。
(やっぱり、ここも作り物で、ヴァーチャルな場所なんだろうな。そろそろ、さよならしよう)
「あれっ」
目が、濡れていた。
知らず、涙ぐんでいたのだ。国歌を聴いて、込み上げてくるものがあったのだろう。
紗良葉は、両手でグーを作り、瞳の周りに付いた涙を、頭を振りながら、ぐりぐりと拭う。
音楽の再生を停止し、イヤホンを外した。
「さて……」
改めて、端末を操作する。
外へ出て行く方法は、場所ごとにさまざまである。
「ファンタジー」のジャンルでは、わざと「致命傷」を負う必要がある場合も多かったけれど、ここは、事務的な作業でよく、比較的簡単だ。タブレットで、「ログアウト」の手続きをすればいいだけ。
紗良葉は、立ち上がる。
学園の屋上、くもり空。景色は変わらない。
タブレット端末と、自分が今いる世界とを同期させ、ゲート画面にアクセスする。IDとパスワードを入力。
画面の指示に従って、ボタンをタップすると、「退出します。よろしいですか?」との確認。「はい」を選択。
空から、電子音が響く。
ブ、ブッ、ブ、ブッ。ピピーッ。
いや、電子音は、空からというより、自身の頭の中から、かもしれない。
「……っ」
紗良葉のこめかみがチクッと痛み、めまいがする。
視界が揺れた直後、目の前に、灰色のドアが出現した。自分と、屋上のフェンスとの間へ、割り込むように。
めまいも痛みも、落ち着いた。
(よし。これが、出口だな)
ドアノブへ、手をかける。
背後から、
「行っちゃうの?」
女子の、寂しそうな声。
「!」
ビクッとして振り返れば。
「――」
いつの間にか、後ろに、春菜が立っていた。




