第1話:『名前を忘れた朝』
この物語はフィクションです。
ただし、もしあなたがふと「自分の名前が正しいか不安になる瞬間」があったなら、
それはこの世界と少しだけ繋がっているのかもしれません。
本作は、記憶・存在・自己認識に関する架空の物語です。
深く考えず、ただ違和感だけを持ったまま読み進めてください。
その日、俺は自分の名前を忘れていた。
目が覚めた瞬間から違和感はあった。
天井は見慣れた白だったし、スマホも枕元にある。
なのに、何かが決定的に欠けている。
「……誰だっけ、俺」
声に出すと、余計に分からなくなった。
スマホを開く。ロックは解除できる。
指紋は一致しているらしい。
だがホーム画面に並ぶアプリの中で、自分の名前だけが“空白”になっていた。
連絡先も同じだ。
母親の名前、友達の名前、会社の人間関係。
すべてあるのに、自分に繋がるラベルだけが存在していない。
「バグか?」
そう呟いた瞬間、スマホが震えた。
着信。
表示:『あなた』
出るべきじゃない気がした。
でも、なぜか指が動いた。
「もしもし」
ノイズ混じりの沈黙のあと、声がした。
──「やっと気づいた?」
女の声だった。
知らない。けど、どこかで聞いた気がする。
「……誰?」
「あなたが消した側の人間」
意味が分からない。
「何の話だよ」
すると女は、少し笑った。
「じゃあ質問を変えるね」
「あなた、自分の名前を“最後に誰に呼ばれたか”覚えてる?」
その瞬間、喉の奥が詰まった。
思い出そうとしたわけじゃない。
なのに、“記憶の穴”みたいなものが見えた。
そこだけ、黒い。
「……知らない」
「うん。そうなるようにしたから」
通話が一瞬だけ途切れる。
次に聞こえた声は、もっと近かった。
「あなたは昨日、“あなた自身”を消したの」
「理由は簡単。生き残るため」
意味が追いつかない。
俺は立ち上がって部屋を見渡す。
机、椅子、洗濯物、コップ。
全部“普通”なのに、自分だけが異物みたいに浮いている。
「ふざけてるのか?」
言いながら笑ってしまった。怖かったからだ。
その瞬間。
ドアがノックされた。
コン、コン。
誰かいる。
「宅配です」
声は普通だった。
だから逆に怖い。
ドアを開けるか迷う。
でも開けないといけない気がした。
ゆっくり開ける。
そこにいたのは、スーツ姿の男だった。
「確認に来ました」
「何の?」
男は俺を見て、少しだけ首を傾げた。
「まだ“残ってる”んですね」
「……何が?」
その瞬間、男の視線が俺の胸元に落ちた。
「名前です」
「普通はもう消えてるはずなんですが」
意味が分からない。
俺は一歩後ずさる。
「ちょっと待て、何の話だ」
男は淡々と言った。
「あなたは“処理対象”です」
「昨日、自分で申請しました」
──その言葉で、頭の奥が揺れた。
何かが繋がりかける。
でも繋がる直前で、必ず途切れる。
「……俺が?」
「ええ」
男は書類を見せた。
そこには確かにサインがあった。
読めない名前で。
でも筆跡だけは、確かに“自分のもの”だった。
「理由は、“あなたという存在を維持できないから”」
「……は?」
その瞬間、スマホが再び鳴った。
同じ番号。
『あなた』
女の声。
「思い出した?」
「……何を」
「あなたはね、“自分を消す実験”をしたの」
「成功したら、生き残れるって信じてた」
「でも失敗したの」
喉が乾く。
「じゃあ今の俺は何だよ」
少しの沈黙。
そして女は言った。
「“残骸”」
その瞬間、男が一歩前に出た。
「処理を開始します」
「待て!!」
叫んだ瞬間、視界が一瞬だけ揺れた。
まるで世界が“読み込み直された”みたいに。
そして──
男がいなかった。
ドアの前には誰もいない。
スマホの通話も切れている。
ただ、画面に一行だけ残っていた。
『あなたの名前は削除されました』
俺はそこで初めて気づいた。
鏡の中の自分が、少しだけ“ぼやけている”。
まるで、存在そのものが薄れていくみたいに。
そして、最後に気づく。
このままだと俺は──
“次の朝には完全にいなくなる”。
そのとき、スマホがもう一度震えた。
新しい通知。
『新しい“あなた”がログインしました』
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この物語では、「名前」というものを一つのテーマとして扱いました。
もし読み終えたあと、自分の名前を一瞬でも思い出し直したなら、
それは物語がまだ終わっていないのかもしれません。
次回も、静かに崩れていく世界をお届けします。




