第9話 待ってろ、猫石!
7月12日、水曜日。
ホームルームが終わると、いつもなら真っ先に椅子ごと振り返る珠美が、今日は蓮に背を向けたまま鞄の口を閉じた。
「では諸君。本日は各自解散! 私は昨日に引き続き、夏祭りへ向けて療養に専念します!」
蓮の机へ集まりかけていた三咲と柑奈、弥太郎の足が止まった。
「……まだ誰も、今日どうするか聞いてないけど」
柑奈の言葉に、珠美はにこりと笑った。
「先手必勝というやつだよ、柑奈くん」
そう言って四人へ手を振ると、そのまま足早に教室を出ていく。
「療養が必要なやつには見えねえけどな。一番元気じゃねえか」
弥太郎が、開いたままの教室の扉を見ながら言った。
「やっぱり、何か変だよね」
三咲が呟くと、柑奈も黙って頷いた。
「あ、そうだ。私も今日は、家のお手伝いを頼まれてて。ごめんね」
三咲が申し訳なさそうに両手を合わせた。
「お祭りの準備で、会社のみんなが忙しいみたいなの」
「三咲もかあ」
柑奈は窓の外へ目を向けた。真昼の日差しが、校庭を白く照らしている。
「じゃあ私も、これ以上焼けたくないし、今日は日焼け療養しようかな」
「なんだよ、日焼け療養って」
「家で大人しくしてるってこと!」
弥太郎に言い返しながら、柑奈は鞄を肩にかけた。
「じゃあ、今日は解散にしようか。猫石のことで何か気づいたら、また明日話そう」
蓮の言葉に、三人が頷く。
三咲と柑奈は連れ立って教室を出ていった。二人の姿を見送り、蓮も鞄を手に取る。
「俺も帰ろうかな」
「なあ、蓮」
弥太郎が呼び止めた。
「ちょっと飯食っていかねえ?」
その言い方で、蓮にはなんとなく分かった。腹が減ったという以外にも、話したいことがあるのだろう。
「いいけど……お前、そんな金あるのか?」
「え?」
弥太郎は目を瞬かせると、慌てて制服のポケットから財布を取り出した。中を開き、入っている硬貨を数える。そして、その表情が固まった。
「……コンビニでなんか買って食おうぜ」
「誘う前に確認しろよ」
弥太郎は硬い笑顔を浮かべた。
* * *
二人はコンビニでパンと飲み物を買い、渡船乗り場近くのベンチへ向かった。
海岸通りから少し外れたところにあるその場所は、昼過ぎには近くの建物の陰に入る。目の前に広がる海から風も吹いてくるため、日向を歩いているよりはずっと涼しく感じられた。
二人は少し間を空けてベンチへ腰を下ろした。
「やっぱり珠、おかしいよな」
弥太郎が、買ってきたパンの袋を開けながら言った。
「まあ……何かあったんだろうな、たぶん」
蓮はペットボトルの蓋を開け、一口だけお茶を飲んだ。
「でもさ」
弥太郎はパンにかじりつき、何度か噛んでから海の方を見た。
「具合悪そうとか、悩んでそうとか、そういう感じじゃねえんだよな」
「ああ」
「なんかむしろ、前より生き生きしてねえか?」
蓮は、昨日の珠美を思い返した。
猫石の調査を切り上げようと言い出したときも、落ち込んだりしているようには見えなかった。今日だって、療養すると言いながら、足取りはやけに軽かった。
「確かに。調査に張り切ってたときより、楽しそうに見えるかもしれない」
「だよな?」
自分の感じ方が間違っていなかったことに安心したように、弥太郎が大きく頷いた。
「ほら、タイムカプセルのときさ」
パンの袋を持つ手が止まる。
「俺、柑奈が一人で何か抱えてるなんて、全然気づかなかっただろ」
弥太郎は、あのときの自分を悔やむように、少し顔を曇らせた。
「それは俺も同じだよ」
「蓮は最後に気づいたじゃねえか。俺は全部終わってから聞いただけだし」
弥太郎は少しだけ気まずそうに笑うと、再びパンにかじりついた。
「だから、珠にも何かあるなら気になるんだけどさ。なーんか、深刻な感じしねえんだよな」
蓮は思わず吹き出した。心配しているのか、していないのか分からない。けれど、弥太郎の言いたいことは伝わってきた。
不意に、昨夜の黒猫の言葉が蘇る。
――人間のことは、人間を見て考えろ。
珠美は、知らないから猫石を調べていた。
それなら、調べなくなったのは――
「珠は、何かもっと楽しいことを見つけたんじゃないかな」
蓮が言うと、弥太郎もパンを口に入れたまま頷いた。
「んぐ……俺も、そんな気がする」
飲み物でパンを流し込み、弥太郎は息を吐いた。
「悩んでるんじゃないなら、別にいいんだけどさ」
「まあ、それはそうだな」
「でも、俺らに隠して楽しいことしてるんだったら……正直、めちゃくちゃ気にならねえ?」
弥太郎が悪戯っぽく笑った。
「そうだな」
蓮もつられて笑う。
弥太郎は残ったパンを一気に口へ押し込むと、ペットボトルの飲み物を勢いよく飲んだ。
「よっしゃ。俺も、自分なりに考えてみるかな!」
そう言って立ち上がり、空になった袋を丸める。
「珠が猫石失踪事件の裏にある答えを一人で見つけたんだとしたら、次は俺が見つけてやる」
「俺の方が先かもな」
蓮が言うと、弥太郎はにかっと笑った。
「じゃあ、どっちが先か競争だな」
「俺が急に猫石のことを調べなくなったら、そのときは察してくれ」
「それ、珠の真似してるだけじゃねえか」
二人の笑い声が、海から吹く風の中へ溶けていった。
* * *
弥太郎と別れたあと、蓮は一度家へ帰った。
制服を脱いで着替え、自分の部屋で珠美のことを考えてみたものの、答えらしいものは何も浮かばなかった。
珠美が猫石の失踪について何かを知ったことは、たぶん間違いない。
けれど、何を知ったのか。
どこで知ったのか。
そして、なぜそれをみんなに共有しないのか。
机に向かって考え続けても、同じ疑問が頭の中を回るばかりだった。
やがて蓮は椅子から立ち上がった。珠美が答えに辿り着いたのなら、そのきっかけは、自分たちと一緒に歩いた町のどこかにあるはずだ。
時計の針は、午後三時を少し回っていた。まだ夕方と呼ぶには早く、外へ出ると高い位置から照りつける日差しが蓮を迎えた。
昨日、珠美と別れた後に四人で歩いた住宅地から、商店街へ続く道を一人で辿っていく。十分も歩かないうちに額へ汗が浮かび、シャツが背中へ張りついた。
道の途中では、何匹もの猫石が目に入った。
庭先で眠るように目を閉じた猫石。
石垣の上から、通りを見下ろしている猫石。
塀の隅で、二匹並んでいる猫石。
どれも、蓮がこれまで何度も目にしてきた町の風景だった。珠美は、この景色の中に何を見つけたのだろう。
住宅地を抜け、商店街へ入る。
昨日までに確認した店や路地を見て回ったが、蓮の覚えている範囲では、新たに姿を消した猫石はいなかった。
商店街を一通り歩き終えると、海岸通りへ出た。そのまま海沿いを歩き、来た方向へ戻ることにする。
しばらく歩いたところで、香車蒲鉾店の脇へ続く石畳の小路が見えた。行きに商店街側を通ったとき、ウインクの猫石がいつもの場所にいることは確認していた。それでも念のためもう一度見ておこうと思い、その路地に足を向けた。
そのとき、二人の人影が目に入った。
薫と、珠美だった。
蓮の足が止まる。反射的に、路地の入口から一歩下がり、建物の陰へ身を寄せた。二人は蓮に気づいていない。香車蒲鉾店の横に置かれた低い木箱を挟んで、何か話をしていた。
木箱の上には、何か大きめの紙が広げられている。薫がその一点を指さす。その隣で、珠美が何かを書き留めていた。
珠美の手にあるものを見て、蓮は目を細めた。見覚えのある、小さなメモ帳だった。日曜日までは、猫石を見つけるたびに開いていた。昨日四人で町を歩いたときには、持ってきていないと言っていた。
それを今日は、薫の隣で再び開いている。珠美は薫の話を聞きながら、何度も木箱の上に広げられた紙とメモ帳を見比べて、時折、目を輝かせて笑っている。
珠美は五人での調査から離れたはずなのに、今も自分たちとは別に、調査を進めているということなのだろうか。
なぜ、それを自分たちには隠しているんだろうか?
何より、なぜそんなに楽しそうなんだ?
次々と浮かぶ疑問に、蓮はその場から動けなくなった。
やがて珠美がメモ帳を閉じた。薫へ片手を上げて別れを告げる。一瞬、こちらへ歩いてくるかと身構えたが、珠美は商店街の方へ向かった。その背中が見えなくなるまで待ってから、蓮はようやく建物の陰を離れた。
知りたい、と蓮は思った。それは、タイムカプセルのときとは違った。
珠美は何かに苦しんでいるようには見えなかった。むしろ、夢中になっているようだった。秘密に押しつぶされているのではない。面白い遊びを、友達より先に見つけた子どものように見えた。
だったら、それを自分も知りたい。できれば、弥太郎より先に。
胸の奥に湧き上がったのは不安ではなく、子どもの頃に宝の地図を広げたときのような高揚だった。知らないうちに口元は緩んでいた。
――珠が先に見つけたかもしれない答えに、自分も辿り着いてみせる。




