第8話 猫石と、黒猫。
その日の夜。
昼間、町を焼いていた熱は、海の上から先に解けていったらしい。梅雨明けからまだ日が浅いせいか、日が落ちれば風にはわずかな涼しさがあった。湿り気を含んだ潮風が、町の熱を少しずつ冷ましていた。
船腹へ波が当たる低い音。時折、係留されたロープが軋む音。蓮は漁港の中を一通り歩いてみたが、目当ての探偵は見当たらなかった。
まあ、そのうち顔を出すだろう。二つ並んだベンチの片方へ腰を下ろした。もう一方のベンチの端には、小魚をくわえた猫石が一匹、海へ顔を向けて座っていた。
しばらくすると、猫石のいるベンチの向こうから黒い影が顔をのぞかせた。黒猫だ。
黒猫は小魚をくわえた猫石をひらりと飛び越え、そのベンチへ降り立った。足音ひとつ立てずに板の上を歩き端まで来ると、今度は蓮の座るベンチへ飛び移った。
「あ、探偵」
「久しぶりだな、レン」
探偵と呼ばれた黒猫は、前脚を揃えて座った。
「期末試験があったからさ。一応、きちんと勉強に励んでたんだ」
「成果はあったのか?」
「うーん。微妙」
「なんとなく机に向かうだけでは勉強とは言わん。まず目標を立て、そこから逆算して――」
「久しぶりに会って、いきなり説教かよ」
相変わらずだった。
この黒猫は、蓮の前では人間の言葉を話す。けれど誰かが通りかかれば、何食わぬ顔で普通の猫のように鳴いてみせる。どうやら、人語を話すところを誰にでも見せるつもりはないらしい。そしてたいていは偉そうで、憎まれ口ばかり叩く。
初めて声を聞いたのは、蓮が小学二年生になったばかりの頃だった。この町へ越してきてまだ数か月。坂道にも、港にも、町の人たちの距離の近さにも馴染めず、ひとりで夜の海を眺めていた蓮に、最初に声をかけてきたのがこの猫だった。
それからしばらく、蓮が町で一番気楽に話せる相手は、人間ではなく黒猫だった。
学校で起きた小さな事件を相談したこともある。答えをそのまま教えてはくれなかったが、蓮が見落としていたものの方へ、面倒くさそうに鼻先を向けてくれた。
事件が解決してから、蓮は黒猫を探偵と呼ぶようになった。
本人――いや、本猫も、「猫には刑事より探偵の方が似合う」と言っていたので、たぶん不満はないのだと思う。たぶん。
「ところで、探偵」
「なんだ」
「来福猫石って知ってるか?」
黒猫は隣のベンチへ顔を向けた。
「今、そこにいるだろう」
小魚をくわえた猫石は、海を向いたまま動かない。
「そいつもそうだけど。町中にいる猫石のこと」
「ああ。それがどうした」
「あの中にさ、勝手に動くやつがいるって話、聞いたことある?」
黒猫は、わずかに目を細めた。
「ある」
「あるんだ」
蓮は思わず身を乗り出した。
てっきり、「またそんな子ども騙しを信じているのか」と笑われるものだと思っていた。
「というより、あいつらは基本的にみんな動く」
「は?」
「この漁港へ集まって、会議をしていることもあるぞ」
「え?」
「俺もたまに、客として招かれる」
「ちょっと待てよ」
「猫石同士で揉めることもあるからな。仲裁に入るのが面倒なんだ。あいつらは頭も身体も固い」
「待てって!」
蓮が思わず声を上げると、黒猫は不満そうに耳を動かした。
「なんだ」
「なんだじゃなくて。何言ってるんだよ。冗談だよな?」
「当たり前だ。石が動くわけがないだろう」
蓮は大きく息を吐いた。
「冗談なら、もう少し冗談っぽく言ってくれ」
「冗談を冗談と見抜く能力がなければ、猫との会話は難しいぞ」
黒猫は喉の奥で小さく笑った。
蓮は、丸目が姿を消したことから始まった、ここ数日の出来事を話した。
違う場所で見つかった翌朝、いつの間にか元の家へ帰っていた丸目。
次々といつもの場所からいなくなる猫石。
図書館で調べた、猫石の歴史。丑寅守神社で聞いた、夜になると猫石が動くという昔話。そして、夏祭りが近づくにつれて、失踪する猫石が増えていること。
黒猫は口を挟まず、尻尾の先だけをゆっくりと動かしながら聞いていた。
「ただの偶然とは思えない。でも、本当に猫石がひとりでに動くなんて、信じられないだろ?」
「そうだな」
「だとしたら、誰かが持っていってるってことになる。けど、誰が、何のために、町中の猫石を攫ってるんだ?」
「攫っているとは限らん」
「じゃあ、何匹もの猫石が、たまたま同じ時期に移動させられただけだっていうのか?」
「そうも言っていない」
「じゃあ、なんだよ」
黒猫は呆れたように息を吐いた。
「自分で歩くか、誰かに盗まれるか。なぜ、お前の頭にはその二つしかないんだ」
「石が動く方法なんて、それ以外にあるのか?」
「いいか。今日は大サービスだ」
黒猫は、少し偉そうに胸を張った。
「何かをしたい者が、自分の力だけでそれを実現するとは限らない。他者の力を借りることもあれば、利用することもある」
「他の誰かの力を……」
「レン。今日の差し入れは?」
唐突に話を変えられ、蓮は一瞬言葉に詰まった。
「あ、そうだった」
ポケットからキャットフードの小袋を取り出す。封を切り、探偵の隣へ中身を少し出してやった。
黒猫はそれを一粒口に入れてから、蓮を見上げた。
「俺は腹が減っていた。だが、餌を用意し、ここまで運び、袋を開けたのはお前だ」
「俺は、お前の意思を実現するために動いた……ってことか?」
「少し大げさだが、そういうことだ」
蓮は、海を向いたままの猫石へ目をやった。
「じゃあ、猫石にもどこかへ行きたい理由があって、それを人間が手伝ってる……?」
「石がどこかへ行きたいなど考えるわけがないだろ。非科学的なことを言うな」
黒猫は次の一粒を噛み砕いた。
蓮は、「しゃべる猫のお前が言うな」という突っ込みを、今回も飲み込んだ。
「だが、猫石がそう望んでいると考えて、代わりに運ぶ人間ならいるかもしれない」
「猫石のために、誰かが動かしてるってことか」
「さあな。俺は石でも人間でもない、猫だ。本当のところはわからん」
黒猫は顔を下げ、残ったキャットフードを食べ始めた。
「あ、もう一つ聞いていいか?」
尻尾の先が、面倒そうに一度だけ揺れる。けれどその場を離れずにキャットフードをカリカリと食べている。どうやら聞いてはくれるらしい。蓮はもう少しキャットフードを足しながら言った。
「珠の様子が、なんかおかしくてさ」
黒猫が食べるのをやめた。
「日曜日までは、誰より張り切って猫石のことを調べてたんだ。でも今日は、メモ帳も持ってこなかったし、途中で調査を切り上げようって言い出した」
「タマ?」
「珠美だよ」
「ああ、これまでも何度かお前の話に出てきた女だな。それで?」
「今日急に、やる気がなくなったみたいだった。あいつ、今回の猫石失踪について、何か知ったんじゃないかな」
黒猫は、また一粒キャットフードをかみ砕く。
「知らん」
「まあ、そうだよな」
「そのタマという、猫のような名前の女は、飽きたから途中で引き下がるような人間なのか?」
「いや。そういうタイプじゃないと思う」
「なら、調査を続ける必要がなくなったんだろう」
蓮は眉を寄せた。
「必要がなくなった?」
「知らないから調べていた。なら、調べなくなった理由がある」
「やっぱり、何か知ったってことか?」
「それを俺に聞くな。人間のことは、人間を見て考えろ」
黒猫は残ったキャットフードを食べ終えると、ベンチから音もなく飛び降りた。
「……石じゃなくて、人を見る、か」
黒猫は何も言わず、蓮を見上げた。
「ありがとう。もう少し考えてみるよ」
黒猫はふん、と鼻を鳴らした。そして、港に積まれた網や木箱の陰へ入り、そのまま夜の暗がりへ溶けるように姿を消した。
あとには、蓮と、もう一匹の猫だけが残された。
小魚をくわえた石の猫は、動く気配もなく、静かな海を眺めていた。




