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その黒猫は、今夜も港で待っている。  作者: 幸円一
本編

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8/17

第8話 猫石と、黒猫。

 その日の夜。

 昼間、町を焼いていた熱は、海の上から先に解けていったらしい。梅雨明けからまだ日が浅いせいか、日が落ちれば風にはわずかな涼しさがあった。湿り気を含んだ潮風が、町の熱を少しずつ冷ましていた。


 船腹へ波が当たる低い音。時折、係留されたロープが軋む音。蓮は漁港の中を一通り歩いてみたが、目当ての探偵は見当たらなかった。

 まあ、そのうち顔を出すだろう。二つ並んだベンチの片方へ腰を下ろした。もう一方のベンチの端には、小魚をくわえた猫石が一匹、海へ顔を向けて座っていた。


 しばらくすると、猫石のいるベンチの向こうから黒い影が顔をのぞかせた。黒猫だ。

 黒猫は小魚をくわえた猫石をひらりと飛び越え、そのベンチへ降り立った。足音ひとつ立てずに板の上を歩き端まで来ると、今度は蓮の座るベンチへ飛び移った。


「あ、探偵」

「久しぶりだな、レン」

 探偵と呼ばれた黒猫は、前脚を揃えて座った。

「期末試験があったからさ。一応、きちんと勉強に励んでたんだ」

「成果はあったのか?」

「うーん。微妙」

「なんとなく机に向かうだけでは勉強とは言わん。まず目標を立て、そこから逆算して――」

「久しぶりに会って、いきなり説教かよ」

 相変わらずだった。


 この黒猫は、蓮の前では人間の言葉を話す。けれど誰かが通りかかれば、何食わぬ顔で普通の猫のように鳴いてみせる。どうやら、人語を話すところを誰にでも見せるつもりはないらしい。そしてたいていは偉そうで、憎まれ口ばかり叩く。

 初めて声を聞いたのは、蓮が小学二年生になったばかりの頃だった。この町へ越してきてまだ数か月。坂道にも、港にも、町の人たちの距離の近さにも馴染めず、ひとりで夜の海を眺めていた蓮に、最初に声をかけてきたのがこの猫だった。


 それからしばらく、蓮が町で一番気楽に話せる相手は、人間ではなく黒猫だった。


 学校で起きた小さな事件を相談したこともある。答えをそのまま教えてはくれなかったが、蓮が見落としていたものの方へ、面倒くさそうに鼻先を向けてくれた。

 事件が解決してから、蓮は黒猫を探偵と呼ぶようになった。

 本人――いや、本猫も、「猫には刑事より探偵の方が似合う」と言っていたので、たぶん不満はないのだと思う。たぶん。


「ところで、探偵」

「なんだ」

「来福猫石って知ってるか?」

 黒猫は隣のベンチへ顔を向けた。

「今、そこにいるだろう」

 小魚をくわえた猫石は、海を向いたまま動かない。

「そいつもそうだけど。町中にいる猫石のこと」

「ああ。それがどうした」

「あの中にさ、勝手に動くやつがいるって話、聞いたことある?」

 黒猫は、わずかに目を細めた。

「ある」

「あるんだ」

 蓮は思わず身を乗り出した。

 てっきり、「またそんな子ども騙しを信じているのか」と笑われるものだと思っていた。


「というより、あいつらは基本的にみんな動く」

「は?」

「この漁港へ集まって、会議をしていることもあるぞ」

「え?」

「俺もたまに、客として招かれる」

「ちょっと待てよ」

「猫石同士で揉めることもあるからな。仲裁に入るのが面倒なんだ。あいつらは頭も身体も固い」

「待てって!」

 蓮が思わず声を上げると、黒猫は不満そうに耳を動かした。


「なんだ」

「なんだじゃなくて。何言ってるんだよ。冗談だよな?」

「当たり前だ。石が動くわけがないだろう」

 蓮は大きく息を吐いた。

「冗談なら、もう少し冗談っぽく言ってくれ」

「冗談を冗談と見抜く能力がなければ、猫との会話は難しいぞ」

 黒猫は喉の奥で小さく笑った。


 蓮は、丸目が姿を消したことから始まった、ここ数日の出来事を話した。

 違う場所で見つかった翌朝、いつの間にか元の家へ帰っていた丸目。

 次々といつもの場所からいなくなる猫石。

 図書館で調べた、猫石の歴史。丑寅守神社で聞いた、夜になると猫石が動くという昔話。そして、夏祭りが近づくにつれて、失踪する猫石が増えていること。

 黒猫は口を挟まず、尻尾の先だけをゆっくりと動かしながら聞いていた。


「ただの偶然とは思えない。でも、本当に猫石がひとりでに動くなんて、信じられないだろ?」

「そうだな」

「だとしたら、誰かが持っていってるってことになる。けど、誰が、何のために、町中の猫石を攫ってるんだ?」

「攫っているとは限らん」

「じゃあ、何匹もの猫石が、たまたま同じ時期に移動させられただけだっていうのか?」

「そうも言っていない」

「じゃあ、なんだよ」

 黒猫は呆れたように息を吐いた。


「自分で歩くか、誰かに盗まれるか。なぜ、お前の頭にはその二つしかないんだ」

「石が動く方法なんて、それ以外にあるのか?」

「いいか。今日は大サービスだ」

 黒猫は、少し偉そうに胸を張った。

「何かをしたい者が、自分の力だけでそれを実現するとは限らない。他者の力を借りることもあれば、利用することもある」

「他の誰かの力を……」

「レン。今日の差し入れは?」

 唐突に話を変えられ、蓮は一瞬言葉に詰まった。

「あ、そうだった」

 ポケットからキャットフードの小袋を取り出す。封を切り、探偵の隣へ中身を少し出してやった。

 黒猫はそれを一粒口に入れてから、蓮を見上げた。


「俺は腹が減っていた。だが、餌を用意し、ここまで運び、袋を開けたのはお前だ」

「俺は、お前の意思を実現するために動いた……ってことか?」

「少し大げさだが、そういうことだ」

 蓮は、海を向いたままの猫石へ目をやった。

「じゃあ、猫石にもどこかへ行きたい理由があって、それを人間が手伝ってる……?」

「石がどこかへ行きたいなど考えるわけがないだろ。非科学的なことを言うな」

 黒猫は次の一粒を噛み砕いた。

 蓮は、「しゃべる猫のお前が言うな」という突っ込みを、今回も飲み込んだ。


「だが、猫石がそう望んでいると考えて、代わりに運ぶ人間ならいるかもしれない」

「猫石のために、誰かが動かしてるってことか」

「さあな。俺は石でも人間でもない、猫だ。本当のところはわからん」

 黒猫は顔を下げ、残ったキャットフードを食べ始めた。


「あ、もう一つ聞いていいか?」

 尻尾の先が、面倒そうに一度だけ揺れる。けれどその場を離れずにキャットフードをカリカリと食べている。どうやら聞いてはくれるらしい。蓮はもう少しキャットフードを足しながら言った。

「珠の様子が、なんかおかしくてさ」

 黒猫が食べるのをやめた。

「日曜日までは、誰より張り切って猫石のことを調べてたんだ。でも今日は、メモ帳も持ってこなかったし、途中で調査を切り上げようって言い出した」

「タマ?」

「珠美だよ」

「ああ、これまでも何度かお前の話に出てきた女だな。それで?」

「今日急に、やる気がなくなったみたいだった。あいつ、今回の猫石失踪について、何か知ったんじゃないかな」


 黒猫は、また一粒キャットフードをかみ砕く。

「知らん」

「まあ、そうだよな」

「そのタマという、猫のような名前の女は、飽きたから途中で引き下がるような人間なのか?」

「いや。そういうタイプじゃないと思う」

「なら、調査を続ける必要がなくなったんだろう」

 蓮は眉を寄せた。

「必要がなくなった?」

「知らないから調べていた。なら、調べなくなった理由がある」

「やっぱり、何か知ったってことか?」

「それを俺に聞くな。人間のことは、人間を見て考えろ」

 黒猫は残ったキャットフードを食べ終えると、ベンチから音もなく飛び降りた。


「……石じゃなくて、人を見る、か」

 黒猫は何も言わず、蓮を見上げた。

「ありがとう。もう少し考えてみるよ」

 黒猫はふん、と鼻を鳴らした。そして、港に積まれた網や木箱の陰へ入り、そのまま夜の暗がりへ溶けるように姿を消した。


 あとには、蓮と、もう一匹の猫だけが残された。

 小魚をくわえた石の猫は、動く気配もなく、静かな海を眺めていた。

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