第8話 潜入作戦。
放課後、蓮は職員室の前に立っていた。
隣には弥太郎。そして、二人が教室を出ようとしているところを見つけ、そのままついてきた柑奈と三咲、珠美も一緒だった。
「職員室にあるのか?」
弥太郎が尋ねる。
「分かんない。あるかもしれないって思ってるだけ」
「でも先生、落とし物は確認してくれたんだよね?」
三咲が首を傾げた。
「うん。それっぽい物は届いてないって言ってたけど……」
柑奈も不思議そうな顔をしている。
「落とし物を見たいんじゃなくて」
蓮は職員室の扉を見る。
「先生が算数で使ってた、大きい三角定規を見せてもらおうと思って」
「三角定規?」
四人が揃って同じような顔をした。
「あの、黒板にくっつけるやつか?」
弥太郎が尋ねる。
「うん」
蓮が頷く。すると弥太郎は、急にぶんぶんと首を横へ振った。
「嫌だよ、俺」
「何が?」
「先生に言うの」
「ちょっと見せてくださいって頼むだけだって」
「無理だって!」
「だから、なんでだよ」
「あの三角定規で俺、何回怒られたと思ってんだよ!」
「それは自分のせいだろ」
「あの日の先生、本気で怒ってたもん!」
「知らないよ!」
普段は優しい先生にしっかり怒られたことが、よほど堪えていたらしい。弥太郎は頑として職員室へ入ろうとしない。
「弥太郎くん、意外と怖がりだね」
三咲が笑う。
「怖がってねえよ!」
「じゃあ行けばいいじゃん」
柑奈が職員室を指さす。
「いや、ちょっと待てって!」
「怖くないんでしょ?」
「だから――」
「お前たち、こんなところで何してるんだ?」
突然、頭の上から声がした。五人が揃って顔を上げる。いつの間にか、先生がすぐそばに立っていた。
笑ってはいる。けれどその笑顔の奥に、何か別のものが隠れているように見えた。ついこの前、三角定規のことで怒られたばかりの弥太郎は、ぴたりと口を閉じた。
「え、あっと、その……」
蓮も言葉に詰まる。事情を話して、三角定規を見せてほしいと頼めばいい。さっきまではそう思っていたのに、弥太郎があれだけ嫌がったせいか、なんとなく自分まで言い出しづらくなっていた。
「先生!」
そのとき、珠美が勢いよく一歩前へ出た。
「ちょっと質問があるんですけど!」
「ん? なんだ?」
「柑奈と三咲、どっちが上手に九九を言えると思いますか?」
「九九?」
「九九?」
先生と蓮と弥太郎の声が重なった。
「この二人、どっちの方が上手に言えるかって、さっきから喧嘩してるんです」
珠美はそう言うと、柑奈と三咲を振り返った。
「ね?」
先生から見えない角度で、思いきり片目をつぶる。
三咲が一瞬だけ目を丸くした。けれど、すぐに珠美の意図を察したらしい。
「そ、そうなんです」
三咲が一歩前へ出る。
「私、柑奈には負けてないと思うんですけど」
「え?」
柑奈だけが、まだ分かっていないようだった。珠美がもう一度、今度はもっと大げさに片目をつぶる。
「あ、ああ!」
柑奈の顔が変わった。
「な、何言ってんの! 私の方が絶対上手いし!」
「私は二の段、間違えないもん」
「私だって間違えないし!」
「おい、落ち着け二人とも」
先生が二人をなだめる。
「じゃ、じゃあ二の段を今から言うから、先生聞いててください!」
蓮と弥太郎は、きょとんとしたまま三人を見ていた。すると珠美が、先生に見えないように手を下げ、その指で廊下の向こう側を示した。
職員室には、もう一つ入口がある。どうやら、今のうちにそちらから入れと言っているらしい。蓮と弥太郎は顔を見合わせた。
「にいちがに、ににんがし……」
三咲が九九を唱え始める。
「ちょっと待って! 一緒に言うの!」
「先生、二人のことちゃんと公平に審判してください!」
「わかった、わかったからちょっと落ち着けって」
背後で始まったよく分からない九九大会と、状況を飲み込めず戸惑う先生の声を聞きながら、蓮と弥太郎はそっとその場を離れた。
二人は廊下を回り込み、反対側の入口から職員室へ入った。幸い、こちらの入口の方が教材が置かれている場所に近い。職員室には何人か先生がいたが、廊下で始まった妙な九九大会に気を取られている者もいて、二人に気づく様子はなかった。
教材置き場になっている衝立の向こうには、大きな1メートル定規や、まだ蓮たちが授業で使ったことのない黒板用の分度器とコンパスが並んでいた。棚には地球儀や巻かれた大きな地図、理科の実験道具らしい箱も置かれている。
「どれだ?」
弥太郎が小声で尋ねる。
「三角定規」
「それは分かってる」
二人で辺りを見回す。
「あった」
壁際のフックに、二枚一組の大きな三角定規が三組ほど掛けられていた。
昼休みに頭の中へ浮かんだ光景を、もう一度思い出した。
弥太郎の胸へぶつかった、大きな三角定規。
舞い上がったチョークの粉。
蓮は一組目の三角定規をフックから外した。
「裏、見るぞ」
「おう」
黒板へ当てる側をひっくり返す。裏には、黒板へ貼りつけるための丸い磁石がいくつかついていた。チョークの粉がうっすら残っている。けれど、それだけだった。
「何もないじゃん」
弥太郎が小声で言う。蓮は答えず、元の場所へ戻した。
二組目。
同じように裏返すが、何もない。胸の奥が少しだけざわついた。もし違っていたら。あれだけ考えて、ここまで来て、それでも見つからなかったら。
蓮は最後の一組へ手を伸ばした。一枚目には、何もない。
もう一枚を外す。そして、裏返した。
丸い磁石の一つに、青い布がぴたりとくっついていた。
小さなお守りだった。表には、糸で縫われた三文字。
――弥太郎。
「あった!」
弥太郎が思わず大きな声を上げた。次の瞬間、自分で声を出したことに気づいたらしく、慌てて口を押さえる。けれど、すぐにまたお守りへ目を戻した。
驚いた顔が、すぐにほっと緩んだ。そして次の瞬間には、大きな笑顔になっていた。
「蓮!」
弥太郎が右手を上げる。蓮は一瞬、その意味が分からなかった。少し遅れて、自分もぎこちなく右手を上げる。
弥太郎の手のひらが、蓮の手を叩いた。ぱん、と乾いた音がした。二人は顔を見合わせる。なんだか可笑しくなって、どちらからともなく笑った。
「ふーん」
すぐ後ろから、声がした。
「そんなにその三角定規が好きか、弥太郎」
二人の笑顔が固まる。恐る恐る振り返ると、にこにこと笑っている先生が立っていた。
「蓮も。二人揃って、こんなところで何してるんだ?」
今度は、その笑顔の裏に隠れているものがなんなのか、蓮にもなんとなく分かる気がした。
蓮はちらりと職員室の入口を見る。そこから珠美が顔だけを覗かせていた。
珠美は両手を顔の前で合わせると、声は出さずに「ごめん」と口だけを動かした。
その後、蓮は弥太郎と並んで、なんだかよく分からないまま数分間、先生の説教を受けることになった。




