第4話 知らなかった。
算数の授業は、黒板に描かれた三角形をノートへ写すところで終わった。
「図形の勉強は、今日でおしまいです」
先生は黒板の横に掛けられた二枚の大きな三角定規を指さした。
「次の算数からは、かけ算を始めます。九九を知っている人はいるか?」
教室のあちこちで、何人かの手が上がった。
「俺、二の段なら言える!」
「私、五の段!」
先生に当てられた男子が、得意そうに二の段を唱え始める。途中で順番を間違えると、周りから笑い声が上がった。
「今はまだ間違えても構いません。これから、みんなで覚えていこう」
先生がそう言ったところで、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「では、今日はここまで」
先生が教室を出ていくと、その日の日直だった蓮と柑奈は、黒板消しを手に取った。二人で手分けして、黒板に残った三角形や数字を消していく。
蓮が黒板の端まで消し終えたとき、教卓の近くへ何人かの男子が集まってきた。その中には弥太郎もいた。
男子の一人が、壁のフックに掛けられていた大きな三角定規へ手を伸ばす。
「ちょっと! また先生に怒られるよ!」
柑奈がすぐに声を上げた。
「まだ何もしてないだろ」
「今からなにかする気でしょ!」
柑奈と言い合う男子の隣で、弥太郎が楽しそうに笑っている。
蓮は手にした黒板消しを止めた。弥太郎がすぐ近くにいた。今なら、話しかけられるかもしれない。
この前は悪かった。たったそれだけ言えばいい。
蓮が口を開こうとしたとき、別の男子がもう一枚の三角定規もフックから外した。
「柑奈、審判な」
「はあ?」
「どっちが強いか見てろよ」
「だから、遊んじゃ駄目だって言ってるでしょ!」
蓮は、また黒板へ向き直った。
残っていたチョークの文字を消し、黒板消しを元の場所へ戻す。そのまま、さっさと自分の席へ戻った。
少しして黒板の方を見ると、注意していたはずの柑奈まで、いつの間にか男子たちの遊びに加わっていた。
「はい、そこまで! 今のは弥太の負け!」
「じゃあもう一回な!」
どうやら審判を引き受けたらしい。
三咲も近くに立ち、「もう、やめなよ」と言いながら、楽しそうに笑っていた。
弥太郎は自分の木の定規を片手に持ち、剣のように構えている。
「いくぞ!」
弥太郎が、向かいに立つ男子へ斬りかかる真似をした。
「バリアー!」
男子は黒板用の三角定規を盾のように構え、そのまま勢いよく前へ突き出した。三角定規の広い面が、弥太郎の胸元へ、ぼすん、とぶつかる。白い粉が、ぱっと舞った。
「うわ! 弥太郎、すっげえ!」
誰かが声を上げた。
黒板に触れていた面には、チョークの粉がたくさん付いていたらしい。弥太郎の薄い水色のポロシャツは、胸ポケットの周りを中心に、白や黄色や桃色の粉でまだらに染まっていた。
「お前、何すんだよ!」
弥太郎は胸元をはたきながら、怒るより先に笑っている。
「弥太郎くん、カラフルだね」
三咲はそう言うと、口元を押さえて笑った。
「全然嬉しくねえよ!」
周りから、また笑い声が上がった。
「こら!」
突然、教室の入口から大きな声が飛んできた。笑い声がぴたりと止まる。先生が、厳しい顔で立っていた。
「それで遊ぶなと、何度言ったら分かるんだ」
誰も答えなかった。
これまでにも、休み時間に三角定規で遊んでいるところを何度も注意されていた。いつもは優しい先生も、さすがに今日は許してくれそうになかった。
「図形の勉強は今日で終わったから、もう教室には置いておきません」
先生は男子たちの手から二枚の三角定規を取り上げた。
「職員室へ持って帰るからな」
そう言い残し、二枚をまとめて抱えて教室を出ていった。
先生の足音が遠ざかる。
「取られた」
弥太郎が呟いた。もう先生に怒られたことなど気にしていないような笑顔だった。
「当たり前でしょ! 何回怒られたと思ってるの!」
柑奈が腰に手を当てる。
「お前も途中からノリノリだったくせに」
「私は止めようとしてたの!」
弥太郎と柑奈が言い合い、周りの男子たちが笑う。三咲もその様子を楽しそうに見ていた。
蓮は、自分の席からその様子を見ていた。弥太郎たちは、すぐ近くにいる。それなのに、そこへ入っていく方法が分からなかった。
蓮は机の上へ教科書を開いた。次の授業までは、まだ時間があった。
それでも、読むふりをした。
* * *
放課後。
その日の日直だった蓮と柑奈は、先生に、集めた算数のノートを職員室まで運ぶよう頼まれた。
二人で半分ずつ持つことになり、柑奈は机の上に積まれたノートを両腕で抱えた。
「俺、もう少し持つよ」
蓮は柑奈の返事を待たず、その上から何冊か取った。自分が抱えているノートの上へ重ねる。
「大丈夫? 重くない?」
「別に。このくらい持てるから」
「そっか。ありがとう」
教室を出ると、廊下では三咲が柑奈を待っていた。
「日直の仕事?」
「うん。職員室まで持ってく」
「私もついて行こうっと。少し持つね」
三咲が柑奈の持つノートを少しだけ受け取り、三人で廊下を歩き始めた。
先頭を歩いていた柑奈が顔だけ振り返って、蓮の抱えたノートをちらりと見る。
「宮坂くん、優しいじゃん」
「……別に、普通だし」
蓮は少し照れくさくなって、目をそらした。
「じゃあ、なんでこの前は弥太にあんなこと言ったの?」
「柑奈」
三咲が、小さく名前を呼んだ。
「だって、ちょっと気になってたから」
柑奈に、蓮を責めるような様子はなかった。
本当に分からないことを、ただ尋ねているだけの言い方だった。
蓮はしばらく黙ったまま、廊下を歩いた。
腕の中のノートが、だんだん重くなってくる。
「……みんな、俺の父さんのこと知ってるんだろ」
前を歩く柑奈と三咲が顔を見合わせた。
「……うん」
柑奈が答える。
「知ってる」
三咲も頷いた。
蓮の母親は、もともと尾之浦で生まれ育った。蓮と母親が東京から戻ってきたことも、その理由も、町の中ではとっくに知られていたのだろう。
「なのにあいつ、いつも家族の話を楽しそうにするから」
蓮は前を向いたまま言った。胸の奥に押し込めていたものを、少しずつ言葉にしていく。
「そんなわけないって、分かってたけど。でも、何度も聞いてるうちに、もしかしてわざとやってるんじゃないかって思ったら……腹が立った」
「違うよ」
三咲が足を止め、静かに、はっきりと言った。蓮も足を止める。
「何が?」
「弥太郎くんは、宮坂くんのお父さんのことを知ってたから、話しかけてたんだよ」
「……どういうことだよ」
三咲は、腕に抱えたノートへ目を落とした。
「俺の父さんが死んだって知ってて、なんで家族の話なんかするんだよ」
三咲が答えに迷うように口を閉じた。
その隣で、柑奈が少し思い切ったように口を開く。
「弥太も、お母さんいないから」
蓮は、柑奈の顔を見た。
「いないって……」
「亡くなったんだよ。弥太が、もっと小さいときに」
蓮は何も言えなかった。
思えば、弥太郎は、父親の話をしていた。
姉の話をしていた。
祖父の話もしていた。
けれど、母親の話だけは、一度もしていなかった。
蓮は弥太郎が家族の話をすることばかりが気になって、その中に母親がいないことに、気づいていなかった。
「弥太、宮坂くんと同じだって思ったのかも」
柑奈が言った。
「同じじゃない」
蓮はすぐに答えた。
母親はいない。だけど弥太郎には父親も、姉も、祖父もいる。この町でずっと暮らし、たくさんの友達に囲まれている。東京で父親を亡くし、住んでいた家も、通っていた学校も、友達も、何もかもなくした蓮とは違う。
同じだとは思えなかった。けれど、弥太郎にももう会えない家族がいる。そのことを、蓮は何も知らなかった。
「うん。同じじゃないと思う」
三咲が答えた。
「でも、弥太郎くんは、自分なら少しくらい宮坂くんの気持ちが分かるかもしれないって、思ったんじゃないかな」
蓮は返事をしなかった。
廊下の向こうから、上級生たちの笑い声と足音が近づいてきた。
三人は再び歩き始めた。
腕の中のノートは、相変わらず重かった。
けれど、胸の中にあった弥太郎への苛立ちは、少しだけ形を変えていた。




