第3話 黒猫はお見通し。
弥太郎が本当に話しかけてこなくなって、一週間が過ぎた。
休み時間になれば、弥太郎は以前と変わらず、何人ものクラスメイトに囲まれていた。
くだらない冗談を言って笑ったり、校庭へ出て鬼ごっこをしたり、その周りには男子も女子も分け隔てなく集まっている。
蓮の机へ来ないこと以外は、何も変わっていなかった。それでいいと思っていた。
毎日のように話しかけられるのは、鬱陶しかった。家族の話を聞かされるたび、嫌な気持ちになった。もう邪魔をされずに、一人で静かに過ごせる。望んでいたとおりになったはずだった。
けれど、本当に話しかけられなくなると、教室は前よりも少しだけ居心地が悪くなった。
弥太郎だけではない。二人が言い合ったことは、近くにいたクラスメイトのほとんどが見ていた。もともと積極的に話しかけてくる子は多くなかったが、あの日からは、みんな少しだけ蓮に話しかけづらそうにしていた。
蓮の方から話しかけることもなかった。何を話せばいいのか分からなかったし、話しかけたところで、また嫌な言い方をしてしまいそうな気もした。
そんな中でも、柑奈は時々声をかけてきた。
「宮坂くん。次、体育だよ」
机に座ったままの蓮へ、それだけ伝えて自分は先に教室を出ていく。
別の日には、
「そのプリント、今日出す日だからね」
と教えてくれた。
「……ありがとう」
蓮が答えると、柑奈は「うん」とだけ言って、自分の席へ戻っていった。
仲良く話そうとするわけではない。弥太郎との仲を取り持とうともしない。ただ、蓮も知っているようなことを、わざわざひと言だけ伝えに来てくれた。
柑奈とよく一緒にいる髪の長い女子も、一度だけ蓮の机へやってきた。
「宮坂くん」
顔を上げると、その女子は少し困ったように笑った。
「私、西浦三咲。良かったら、覚えてね」
「……うん」
「尾之浦の坂道、もう慣れた?」
「全然」
蓮が正直に答えると、三咲は小さく笑った。
「だよね。私も、雨の日はまだ怖いもん」
「ずっと住んでるのに?」
「うん。たまに転ぶよ」
三咲は少し恥ずかしそうに答えた。
「学校から海の方へ下りるなら、裏門の横の道の方が、少しだけ坂が緩いよ。遠回りだけど」
「そうなんだ」
「うん。雨の日は、そっちの方が歩きやすいと思う」
「わかった。……ありがとう」
「どういたしまして」
そこで会話が途切れた。
三咲は少し離れたところで待っている柑奈へ目を向けたが、すぐには動かなかった。
「急にごめんね。柑奈が宮坂くんと話してるのを見て、そういえば私、ちゃんと名前も言ってなかったなって思っただけ」
「別に、いいけど」
「そっか」
三咲は柔らかく笑うと、柑奈の待つ方へ歩いていった。
そんなふうに、誰かとほんのひと言ふた言を交わすだけの日が続いた。
そうしているうちに、九月も終わりに近づいていた。朝と夕方の風には、少しずつ冷たさが混じり始めている。
学校の授業も少しずつ先へ進み、算数では新しく図形の勉強が始まった。先生が持ってきた黒板用の大きな三角定規に、最初だけ教室が少しざわついた。先生はそれを黒板へ当てて長い線を引き、授業が終わると壁のフックへ掛けた。休み時間になると何人かの男子がおもちゃにして遊び、先生に見つかるたびに注意されていた。
蓮はそんな教室の変化を、教科書を開いたまま、ぼんやりと眺めていた。
* * *
その夜。
夕食を終えた蓮は、いつものように港へ向かった。古びたベンチには、先に黒猫が座っていた。
「遅かったな」
「別に約束してないだろ」
「俺を待たせた事実は変わらん」
「待っててくれなんて言ってないし」
蓮が隣へ座ると、黒猫は小さく鼻を鳴らした。
潮の匂いを含んだ風が、蓮の頬を撫でていく。波の音に混じって、係留された船が軋む音が聞こえた。
「学校はどうだ」
黒猫が海を見たまま尋ねた。
「どうって?」
「楽しくやってるのか?」
蓮は答えに詰まった。
「……うん。まあね」
「そうか」
黒猫はそれ以上、何も言わなかった。そのまましばらく海を眺めている。
蓮は少しだけ肩の力を抜いた。
「では、あのうるさい男子とも仲良くやっているんだな」
「……別に。普通」
「喧嘩でもしたか」
「してない」
「そうか。では、向こうが急に話しかけてこなくなっただけか?」
蓮は黒猫へ顔を向けた。
「なんで知ってるんだよ」
「俺に嘘をついても無駄だぞ」
黒猫は得意げに金色の目を細めた。
「猫は人間より鼻も耳も利く。汗の匂いも、鼓動の速さも、声の震えも分かる」
「……本当?」
「さあな」
「なんだよ」
「だが、お前が嘘をついたことは分かる」
「だから、なんで」
「答える前に、ずいぶん長く黙ったからだ」
蓮は口を閉じた。黒猫は満足そうに尻尾を揺らす。
「それで、何を言った」
「何も」
「嘘を重ねるな」
蓮は膝の上で手を握った。黒猫は急かさなかった。ただ隣で、暗い海を眺めている。
「……毎日、家族の話ばっかりしてくるから」
蓮は小さな声で言った。
「興味ないって言った」
「それだけか?」
「俺のことを聞かれても、教える意味ないって言った」
「ずいぶんな言い方だな」
「分かってるよ」
少し強い声が出た。
「言ったあとで、すぐ分かった」
「なら、謝ればいい」
「簡単に言うなよ」
「簡単だろう。悪かった、と言えばいい」
「言えないから困ってるんだ」
黒猫は蓮へ目を向けた。
「困っているのか?」
「……ちょっとだけ」
「そうか」
また海へ向き直る。それきり何も言わないので、蓮の方が落ち着かなくなった。
「それだけ?」
「何がだ」
「もっと、何かないの?」
「謝り方でも教えてほしいのか?」
「……そうじゃないけど」
「お前が悪いと思っているなら、謝った方がいいだろうな」
「だから、それは分かってる」
「ああ。分かっているなら、それでいい」
黒猫は少しだけ考えるように、尻尾の先を揺らした。
「まあ、悪いと思ったときに、すぐ素直に謝れるなら、人間同士の揉め事はもう少し少ないだろうな」
「猫は謝れるの?」
「猫は悪いことをしない」
「するだろ」
「少なくとも俺はしない」
黒猫はそっけなく答えた。
蓮は、自信満々に言う黒猫がおかしくて、少しだけ笑った。
「遅くなればなるほど、謝りにくくなるぞ」
黒猫が付け加える。
「……分かってるよ」
蓮は弥太郎の怒った顔を思い浮かべた。
やっぱり、言える気はしなかった。




