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その黒猫は、今夜も港で待っている。  作者: 幸円一
特別編:喋る黒猫

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20/27

第3話 黒猫はお見通し。

 弥太郎が本当に話しかけてこなくなって、一週間が過ぎた。


 休み時間になれば、弥太郎は以前と変わらず、何人ものクラスメイトに囲まれていた。

 くだらない冗談を言って笑ったり、校庭へ出て鬼ごっこをしたり、その周りには男子も女子も分け隔てなく集まっている。


 蓮の机へ来ないこと以外は、何も変わっていなかった。それでいいと思っていた。

 毎日のように話しかけられるのは、鬱陶しかった。家族の話を聞かされるたび、嫌な気持ちになった。もう邪魔をされずに、一人で静かに過ごせる。望んでいたとおりになったはずだった。

 けれど、本当に話しかけられなくなると、教室は前よりも少しだけ居心地が悪くなった。

 弥太郎だけではない。二人が言い合ったことは、近くにいたクラスメイトのほとんどが見ていた。もともと積極的に話しかけてくる子は多くなかったが、あの日からは、みんな少しだけ蓮に話しかけづらそうにしていた。

 蓮の方から話しかけることもなかった。何を話せばいいのか分からなかったし、話しかけたところで、また嫌な言い方をしてしまいそうな気もした。


 そんな中でも、柑奈は時々声をかけてきた。

「宮坂くん。次、体育だよ」

 机に座ったままの蓮へ、それだけ伝えて自分は先に教室を出ていく。

 別の日には、

「そのプリント、今日出す日だからね」

 と教えてくれた。

「……ありがとう」

 蓮が答えると、柑奈は「うん」とだけ言って、自分の席へ戻っていった。

 仲良く話そうとするわけではない。弥太郎との仲を取り持とうともしない。ただ、蓮も知っているようなことを、わざわざひと言だけ伝えに来てくれた。


 柑奈とよく一緒にいる髪の長い女子も、一度だけ蓮の机へやってきた。

「宮坂くん」

 顔を上げると、その女子は少し困ったように笑った。

「私、西浦にしうら三咲みさき。良かったら、覚えてね」

「……うん」

「尾之浦の坂道、もう慣れた?」

「全然」

 蓮が正直に答えると、三咲は小さく笑った。

「だよね。私も、雨の日はまだ怖いもん」

「ずっと住んでるのに?」

「うん。たまに転ぶよ」

 三咲は少し恥ずかしそうに答えた。

「学校から海の方へ下りるなら、裏門の横の道の方が、少しだけ坂が緩いよ。遠回りだけど」

「そうなんだ」

「うん。雨の日は、そっちの方が歩きやすいと思う」

「わかった。……ありがとう」

「どういたしまして」

 そこで会話が途切れた。

 三咲は少し離れたところで待っている柑奈へ目を向けたが、すぐには動かなかった。

「急にごめんね。柑奈が宮坂くんと話してるのを見て、そういえば私、ちゃんと名前も言ってなかったなって思っただけ」

「別に、いいけど」

「そっか」

 三咲は柔らかく笑うと、柑奈の待つ方へ歩いていった。


 そんなふうに、誰かとほんのひと言ふた言を交わすだけの日が続いた。

 そうしているうちに、九月も終わりに近づいていた。朝と夕方の風には、少しずつ冷たさが混じり始めている。

 学校の授業も少しずつ先へ進み、算数では新しく図形の勉強が始まった。先生が持ってきた黒板用の大きな三角定規に、最初だけ教室が少しざわついた。先生はそれを黒板へ当てて長い線を引き、授業が終わると壁のフックへ掛けた。休み時間になると何人かの男子がおもちゃにして遊び、先生に見つかるたびに注意されていた。


 蓮はそんな教室の変化を、教科書を開いたまま、ぼんやりと眺めていた。


   * * *


 その夜。

 夕食を終えた蓮は、いつものように港へ向かった。古びたベンチには、先に黒猫が座っていた。


「遅かったな」

「別に約束してないだろ」

「俺を待たせた事実は変わらん」

「待っててくれなんて言ってないし」

 蓮が隣へ座ると、黒猫は小さく鼻を鳴らした。

 潮の匂いを含んだ風が、蓮の頬を撫でていく。波の音に混じって、係留された船が軋む音が聞こえた。


「学校はどうだ」

 黒猫が海を見たまま尋ねた。

「どうって?」

「楽しくやってるのか?」

 蓮は答えに詰まった。

「……うん。まあね」

「そうか」

 黒猫はそれ以上、何も言わなかった。そのまましばらく海を眺めている。

 蓮は少しだけ肩の力を抜いた。


「では、あのうるさい男子とも仲良くやっているんだな」

「……別に。普通」

「喧嘩でもしたか」

「してない」

「そうか。では、向こうが急に話しかけてこなくなっただけか?」

 蓮は黒猫へ顔を向けた。

「なんで知ってるんだよ」

「俺に嘘をついても無駄だぞ」

 黒猫は得意げに金色の目を細めた。

「猫は人間より鼻も耳も利く。汗の匂いも、鼓動の速さも、声の震えも分かる」

「……本当?」

「さあな」

「なんだよ」

「だが、お前が嘘をついたことは分かる」

「だから、なんで」

「答える前に、ずいぶん長く黙ったからだ」


 蓮は口を閉じた。黒猫は満足そうに尻尾を揺らす。


「それで、何を言った」

「何も」

「嘘を重ねるな」

 蓮は膝の上で手を握った。黒猫は急かさなかった。ただ隣で、暗い海を眺めている。


「……毎日、家族の話ばっかりしてくるから」

 蓮は小さな声で言った。

「興味ないって言った」

「それだけか?」

「俺のことを聞かれても、教える意味ないって言った」

「ずいぶんな言い方だな」

「分かってるよ」

 少し強い声が出た。

「言ったあとで、すぐ分かった」

「なら、謝ればいい」

「簡単に言うなよ」

「簡単だろう。悪かった、と言えばいい」

「言えないから困ってるんだ」


 黒猫は蓮へ目を向けた。

「困っているのか?」

「……ちょっとだけ」

「そうか」

 また海へ向き直る。それきり何も言わないので、蓮の方が落ち着かなくなった。

「それだけ?」

「何がだ」

「もっと、何かないの?」

「謝り方でも教えてほしいのか?」

「……そうじゃないけど」

「お前が悪いと思っているなら、謝った方がいいだろうな」

「だから、それは分かってる」

「ああ。分かっているなら、それでいい」


 黒猫は少しだけ考えるように、尻尾の先を揺らした。

「まあ、悪いと思ったときに、すぐ素直に謝れるなら、人間同士の揉め事はもう少し少ないだろうな」

「猫は謝れるの?」

「猫は悪いことをしない」

「するだろ」

「少なくとも俺はしない」

 黒猫はそっけなく答えた。

 蓮は、自信満々に言う黒猫がおかしくて、少しだけ笑った。

「遅くなればなるほど、謝りにくくなるぞ」

 黒猫が付け加える。

「……分かってるよ」


 蓮は弥太郎の怒った顔を思い浮かべた。

 やっぱり、言える気はしなかった。

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